[1]美女と同級生 〈C〉
文字数 4,212文字
上質な革のシートに沈めた背中が、時折襲ってくる小刻みな振動に震えた。
僅かに開いた瞼の先に、チカチカとした電光が跳ねる。流れゆくそれを夢心地で見つめていた彼は、やがて自分の理解出来ない現状にハッと目を見開いた。
「おっ、俺……んんっ!」
声を発した途端、喉元から鎖骨の真下にかけ鋭い痛みが走った。慌てて口をつぐみ、苦しみの素を探るため右腕を上げようとするが、
──あ、れ? 身体が……動かない?
歯を食い縛って四肢に力を入れるも、金属の不協和音が眼下から聞こえてくるだけだ。両手首・両足首がその音を発する何かで拘束されていた。監視用のミニチュア
──さっき見えた光はこいつか……これだけでも十分俺を束縛出来ているだろうに、まったく何で縛りつけられてるんだよっ!
冷静さを取り戻そうと、彼は小さく息を吐き出した。首の付け根も抑えつけられている様子だが、かろうじて
「赤」と「黒」。
自分と同じ二十代前半といったところの西欧風美女が、一メートルほど離れて並んだシートに腰掛けていた。長い
──俺、いつこんな綺麗なねえちゃんとお近付きになった? いや……イイ想いした記憶も感覚も……それとも、もしかしてこれからなのか? まだ今のところ服は身に着けているみたいだし……これって、アレだよな? その……『SMプ──
「まもなく痛みも引くことと思います。もう少々大人しくされていてください」
隣のシートから優しく
「あ……んた……誰、だ……ど、して……ぐっ!」
今一度言葉にした疑問は、痛みにただちに止められた。それでも彼女を振り向かせ、多少の事情を説明させる効力はあった模様で、
「どうぞ今しばらく、お声は発せずにいらしてくださいませ。これまでの経緯は後ほどしっかりご説明致します……キサラギ──クウヤ様」
──何故、俺の名前を? いや、そんなことより──
近くに寄った見下ろす
失神前に起きた由々しき事態を、刹那に脳裏から
◆ ◆ ◆
捕らえた『獲物』の承諾を確認した女性は、満足したように再びシートへ身を委ねた。ベルベットのドレスは質感の差はあれど、座席の黒革と不思議なほど一体化している。そうして生まれた暗い背景は、しなやかな腕と脚の白さを一層際立たせ、つい釘付けとなる彼の横目を占領した。
確かに「この眩しい脚線を自分の頬で堪能した」という記憶にクウヤはぶち当たった。おそらく数時間程の近い過去、けれどきっとそうしていた時間はたった数秒のことだ。それから意識がプツリと途切れ、目覚めたらこんなことになっていた。
ではどうしてこんな事態に陥ったのか、その前に一体何が遭ったのか──かなり倒されたシートから、手を伸ばせば届きそうな低い天井を見据え、過去を巡らせてみる。──ああ、そうだ……この『事件』の始まりにも、確かこうして見上げていた。つまらない地球の天井を。当てもなく歩いた夜の街角で、自分とは無縁の高級クラブの入口で。
この時代、もはや自分の脚で外を歩く人間など、日本では天然記念物並みと言って良かった。飛行機はもちろん、地上十メートルを走るスケートボードから、タクシーでさえ空を飛ぶ。が、クウヤは足裏を大地に着けて歩くことが、人間の本来あるべき姿だと思っていた。その主張が例え「自分で買える代物ではないから」というお粗末な理由によるものだとしても、だ。
休日前夜の空は賑やかで明るくて、飛び交う車や人の波は、まるで花の蜜を目指す蜂の群集のようだった。クウヤは
「あれ? あ、ちょっと……えー、そこの色男!」
やけに古臭い呼び掛けで見知らぬ声に引き止められたのは、この用のない街からおさらばとばかりに
「無視しないでよー、キミ、
──カッチン!
夜の繁華街で呼び止める男など、どうせロクな奴ではないと思っていたが、さっさと逃げ出す算段で繰り出した足先は、その呼称で突如フリーズした。
「だぁれが『博士』だって~!?」
勢い良く振り返り、真後ろのあっけらかんとした顔に向けクウヤは吠えた。ツカツカと近寄り首元をひっつかみ、その拳を自分の高身長に合わせて引き上げた。
「おっとっと……何だ、名付け親を忘れたの~? ボクだよ、ボク! 浅岡っ、浅岡 啓太!」
「浅岡……?」
胸ぐらを締めつけられた中肉中背の青年は、白旗を上げるように困り顔で両手を掲げた。少しうねりのある茶色の髪に、弓なりのつぶらな瞳。余り貫禄があるとは言えないが、服装は上流階級の遊ぶこの街に釣り合うようなグレーのフォーマル・ウェアを
「もうあれから十年以上は経ってるもんね。忘れられても仕方がないか……小学四年の時にクラスメイトだった啓太だよ。クウちゃんに『ハカセ』ってニックネーム付けたのボクだったの、もう忘れちゃった?」
クウヤは息苦しそうに弁明する「浅岡 啓太」を解放し、ホッと胸を撫で下ろすその姿をまじまじと眺めた。そんな名のクセッ毛頭の同級生と、すっかり記憶から消し去っていた昔のあだ名を、微かに思い出し苦々しく笑う──ああ……
「わりぃ……啓太。懐かしいな……でも良く俺だって分かったな?」
「まぁね。クウちゃんの後ろ姿は分かりやすいからさ。脳天のつむじの真下にもう一つ小さなつむじがあるでしょ? ボクはそれを忘れなかった!」
珍しい特徴とはいえ、自分の記憶力を誇らしげに語った啓太を前にして、クウヤはつむじの並ぶ焦げ茶の短髪を、恥ずかしそうに掻き乱した。
「ね、これから時間ある? ちょっと臨時収入があってさ。ココでパァっと使いきるつもりだったんだけど、相方にすっぽかされちゃって~」
同じくはにかんで後頭部をこすり出す啓太。同時にクウヤは明らかに信じられない申し出に、思わずあっけに取られていた。
「おまっ、アホか? この店メッチャ高いんだろ!? んな多額の臨時収入使いきるって……何てもったいない!」
だったら俺によこせ! と言いたい気持ちを押し殺して、正気の沙汰とは思えない! という目つきで凝視した。
「まぁまぁ……宵越しの金は持たぬ~って、昔は言ったものでしょ?」
「お前……一体、何百年前の人間だ」
クウヤの呆れた口調は変わらなかったが、それを断る理由もなかった。結局啓太の強引な誘いで店先へ足を向けたが、
「いや、ちょっと待てよ。こんな格好じゃ入れてもらえないだろ?」
掴まれた腕をほどき、バツの悪そうな顔をそむける。幾ら懐は温かくても、このままでは門前払いに決まっている。
「ああ~これは失敬。ちょっと待ってて、イイモノがあるんだ」
啓太は店の路地裏にクウヤを引っ張って、おもむろに上着の内ポケットを探り、シルバーのペンライトを取り出した。
「実はボクもコレで映し出してるだけの一張羅さ。クウちゃんは……そうだ、シックに黒なんてどう?」
とニコリと笑いながら何度かペンの頭をノックし、啓太は『黒』を選んだようだった。照準をクウヤへ合わせたペン先から、刹那黒々とした光の波が現れる。それは彼の身体にまとわりつき、じわじわとスーツの形を成した。
「……3D……いや、4Dホログラムか?」
自身で見下ろしてみても、景色はれっきとした男の礼装に変わっていた。中に着た白いワイシャツも、光沢のある藍のネクタイも、身体の動きに合わせて自然な皺を寄せてみせる。上着のポケットに手を突っ込んでみたが、どういう仕組みなのか、中に収めた手が飛び出ることはなかった。
「まぁ、そんなところだね。これから売り出される新商品の試作版だよ」
便利な世の中になったもんだな、とクウヤは微かに自嘲気味な息を吐いた。こんな高度な技術を持つ製品ならばきっと──胸に湧いた疑問は彼の視線を空へ上げさせていた。先程と変わらない騒がしい交通の向こうに、白けた地球の天井が広がっている。店を目指した啓太に振り向き、クウヤはふと問いかけた。
「啓太って……もしかして『上』の人間なのか?」
「上?」
キョトンとした表情と
「ああ……『ムーン・シールド』の上か。さすがにそこまでお金持ちじゃないさ」
「そうか……」
啓太の朗らかな笑顔に吊られ、クウヤも気を取り直して後に続いた。
二人のご立派な紳士が向かう華やかな入口は、