第10話 若紫

文字数 1,888文字

源氏は瘧病(わらわやみ:マラリアに似た熱病)にかかっていた。まじないも僧の加持も効き目がなかった。ある人が「北山の寺に、上手な修験僧がおります」と勧めたので行ってみることにした。家司四五人を伴い三月三十日に桜の散った時期、経験のない山歩きで微行した。
 源氏は誰であるかをいわず、服装を簡単にしてきた。迎えた僧は「わざわざお出で下すったのでしょう」驚き笑みを含み源氏を見た。ひじょうに偉い僧なのである。高い峰を負った岩窟の中に聖人は入って行った。源氏を形どったものを作り、瘧病をそれに移す祈祷をした。加持を終え、源氏は寺を出て散歩を試みた。下の方に多くの僧房が見渡せる。螺旋状に路のついた峰のすぐ下に、凝った一構えの建物と廊と庭があった。「あれは誰が住んでいるのか」と源氏は問うた。「某僧都が二年引き籠っておられる坊でございます」「あの僧都に知れて、この体裁で来て極まりが悪いね」と源氏はいった。美しい待童たちが庭にでて、仏の閼伽棚に水や花を供えるのが見えた。「あすこの家に女がいますよ」従者がいった。
 源氏は寺に帰って仏前の勤めをしながら、昼になると発作が起こる頃と不安だった。「気をおまぎらわしになさったら」と人がいうので、後ろの山にでて今度は京の方を眺めた。遠く霞み、山の木立が淡く煙って見える。「絵によく似ている。ここに住めば、人間のきたない感情などは起こしようがないだろう」と源氏がいうと、「地方の海岸や山の風景をお目にかけましたら、絵が上達なさいますでしょう。富士、それから何々山」こんな話をする者があった。病への関心から源氏を放そうとつとめているのであった。
「近くの播磨の明石の浦がよいでしょう。前播磨守入道が、大事な娘を住ませている家は贅沢な造りです」「その娘はどんな娘」「代々の長官が求婚しますが、入道は承知しません」源氏は海辺の変わり者の入道の娘が面白く思えた。「もう暮れに近いですから、京にお帰りになりましたら」と従者は言ったが、聖人が、「もう一晩私に加持をおさせになって、お帰りになのがよろしうございます」と言った。明日に伸ばすことになった。小柴垣の所まで源氏はいってみた。
 惟光を連れ山荘をのぞくと、座敷に持仏をおいてお勤めをする尼がいた。ただの尼とは見えない。四十ぐらいで、色は非常に白くて、上品に痩せているが頬のあたりはふっくりとして、目つきは美しい。短く切り捨ててある髪の裾のそろったのが、かえって長い髪よりも艶なものである。座敷に女こどもが幾人かいた。その中に十歳くらいの子が白の上に淡黄の柔らかい着物を重ねて向こうから走ってきた。尼に似たところがある。顔つきがかわいく美しい子で、大人になったときは、すばらしい佳人の姿になるだろうと、源氏は想像した。恋しい藤壺の宮によく似ているから、この子に気を引かれたのだと思った。
その女の子は藤壺の宮の兄君の子であった。尼は藤壺の母君ということになる。源氏は僧都に「私にその小さいお嬢さんを、託していただけませんかと、尼さんにお話ししてくださいませんか。私は妻について一つの理想がありまして、ただいま結婚はしていますが、普通の夫婦生活なるものは私には重荷に思えまして、ま独身もののような暮らしかたばかりをしているのです。まだ年が釣り合わぬなどと常識的に判断をなすって、失礼な申し出だと思召すのでしょうか」と源氏は言った。
「それは非常に結構なことでございますが、幼稚なものものでございます。まあ女は良人の良い指導を得て一人前になるものですから、子供の祖母と相談いたし返事をしましょう」と僧都はいう。
僧が去った後、源氏は人を呼ぶため扇子をならした。女房が来たので、奥の部屋の尼への言伝を頼んだ。 初草の若葉の上を見つるより 旅寝の袖も露ぞ乾かぬ  と申し上げてください。女房は奥の部屋に行きそれを伝えた。尼君は返歌をその場で書かれ 「枕結う今宵ばかりの露けさを 深山の苔にくらべざらなん」と返辞させた。
尼君は源氏にあった。源氏は「お母さまをお亡くしになりました気の毒な女王さんを、お母さまの代わりとして私へお預けくださいませんでしょうか」と尼君に頼むが「まだ幼稚ですから、将来の奥さまにお擬しになることは無理でございます」と尼君は言う。源氏の希望を問題にしようとはしない。
 京から源氏のお迎えの一行がきた。源氏は岩窟の聖人をはじめ、上の寺で経を読んだ僧たちへの布施の品々、料理の詰め合わせなどを京に取りにやってあったので、それらが届いたとき、山の仕事をする下級労働者までがみな相当な贈り物を受けたのである。

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