第7話 夕顔2

文字数 1,988文字

「出かけましょう。この近くのある家に行って、気楽に明日まで話しましょう。いつも暗いあいだに分かれて行かなければならないのは苦しいから」というと「どうして急に、そんなことをおいいになりますの」おうように夕顔は言った。源氏はもう誰の思惑もはばかる気がなくなって、右近に随身を呼ばせて、車を庭に入れることを命じた。夕顔の女房達も、この通う男が女主人を深く愛していることを知っていたから、誰とも分らずにいながらも相当信頼していた。
 ずっと明け方近くなって、この家に鶏の声は聞こえないで、現世利益の御嶽教の信心なのか、老人の声で、祈る声が聞こえた。「南無到来の導師」と阿弥陀如来を呼びかけ「そら聞いてごらん。現世利益だけが目的じゃなかった」とほめて 優婆塞が行うみちしるべにて 来ん世も深き契りたがふな ともいった。弥勒菩薩出現の世までも河原に誓いを源氏はしたのである。 前の世の契り知らるる身のうさに 行末かけて頼みがたさよ と女は言った。
 人目をひかぬ間よ源氏は思って出かけるのを急いだ。女のからだを源氏が軽々と抱いて車に乗せ右近が同乗したのである。五条に近い帝室の後院である某院へ着いた。「私には初めての経験だが妙に不安なものだ、 いにしへもかくやは人の惑いけん わがまだしらぬしののめの道 前にこんなことがありましたか」と聞かれ女は恥ずかしそうだった。「山の端の心も知らず行く月は 上の空にて影や消えなん 心細うございます、私は」凄まじさ女がおびえてもいるように見えるのを、源氏は、あの小さな家に大勢で住んでいたひとなのだから道理であると思っておかしかった。
 門内へ車を入れさせ、西の対に支度をさせた。右近は預かり役が自ら出て客人の扱いきわめて丁寧なので、右近はこの風流男の何者であるかが分かった。「わざわざ、誰にも分からない場所にここを選んだのだから、お前以外の者にすべて秘密にしておいてくれ」と源氏は口留めをした。恋人とはばからず語りあう愉悦に酔おうとした。
源氏は昼頃起きて格子を自身で開けた。荒れていて人影も見えず。遠くまでみわたされるが、木立は大木となり、草は茫々と荒れ野になっている。「気味悪い家になっている」と源氏は言った。この時まで顔を隠していたが、この態度を女が恨めしがっているのを知って、不都合なのは自分である。こんなに愛していながら。「夕顔にひもとく花は玉鉾の たよりに見えし縁こそありけれ 人の顔を見て幻滅が起こりませんか」という源氏の君を後目に女は見上げて、光ありと見し夕顔のうは露は 黄昏時のそら目なりけり と言った。冗談までいう気になったのが源氏には嬉しかった。打ち解けた瞬間から源氏の美はあたりに放散した。「私が誰であるか隠し通したのだが、もう負けた。名を言ってください。人間離れがあまりしすぎます」と源氏が言っても「家も何もない女ですもの」といい、うちとけないようすも美しく感じられた。「しかたがない。私が悪いんだから」と恨んだり、永久の恋の誓いをし合ったたりして時を送った。
惟光が源氏の居所を突きとめて来て、用意した菓子などを座敷に持たせた。源氏が一日を犠牲に熱心になる相手の女は、それに値する者であろう、主君に譲った自分は広量だと思い、嫉妬、自嘲、羨望もしていた。
 静かな夕方で、奥は暗く気味が悪いと夕顔は思う。二人で暮らした一日が、まだ落ち着かない境地とはいえ、少しうちとけた様子は可憐であった。じっと源氏の傍に寄って、この場所が怖くてならぬふうであるが、いかにも若々しい。格子を降ろし灯をつけさせる。これほどこの女を溺愛する自分を、源氏は不思議に思った。六条の貴女もどんな煩悶をしていることだろう。高い自尊心に煩わされている点をとり捨てたらと思うのである。
十時過ぎに寝入った源氏は、枕元に美しい女が座っているのを見た。「私がどんなにあなたを愛しているかしれないのに、こんな平凡な人をつれていらっしゃって愛撫なさるのは余りにひどい。恨めしい方」といって横にいる女に手をかけ起こそうとする。苦しいと思ってすぐ起きると灯が消えた。太刀を引きに抜き枕元に置いて、右近を起こした。右近もおそろしげである。「宿直を起こし蝋燭ももってこさせてくれ」「暗くていけませぬ」笑って源氏が手を叩く、反響になった。来る者はいない。夕顔は恐ろしがり震えていた。「恐ろしがりやの性格です」と右近は言う。「私が行って人を起こそう」といい妻戸の口ヘ出て、戸を押し開けた同時に渡殿の灯も消えた。待童が一人、随身だけが宿直していた。「蝋燭をつけて参れ。随身に弓の弦打ちし絶えず声を出し魔性に備えるよう命じてくれ。惟光はどうしたか」「夜明けにお迎えに参るといって帰りました」御所の滝口務める男だったので、弓弦を鳴らし「火危うし、火危うし」といい、預かり役の住居の方に行った。
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