第8話 夕顔3

文字数 2,640文字

 御所では、殿上の宿直役人が姓名を奏上する名対面はもう終っているだろう。滝口の武士の宿直の奏上があるころであると源氏は思った。寝室へ帰って、暗がりの中を手で探ると夕顔が元のままの姿で寝ていて、右近がそばにうつ伏せになっていた。「どうした。気違じみた恐がりようだ。狐など人を恐がらせる。私がいれば大丈夫だよ」と源氏は右近を引き起こした。手で探ると夕顔は息もしていない。動かしても気をうしなっているふうである。蝋燭の明かりが来た。明かりを取って見ると、閨の枕近くに源氏が夢で見たとおりの容貌をした女が見えて、そして、すっと消えてしまった。横へ寝て「ちょいと」と言って眠りから覚まさせようとするが、夕顔の身体は冷えはてていて、息は絶えているのである。じっと抱いて「あなたは生きて下さい。悲しい目を私に見せないで」というが、遺骸である感じになっている。恋人との歓会がたちまちこうなることを呆然とする。滝口を呼び「すぐに惟光朝臣の家に行き来るように言え」恋人を死なせる悲しさ、不気味さがひしひしと感じられる。惟光が早く来てくれればと源氏は思った。彼は泊まり歩く家を幾軒も持った男だから、使いが彼方此方訊ね回っているうちに夜が明けてきた。こんな危険な目にどうして自分は会うのだろう。陛下の思し召しを始め人がなんと批評するだろうなど思う。孤独の悲しみを救う手は惟光だけにあることを源氏は知った。惟光が来てほっとすると同時に、心の底から大きな悲しみがわき上がってきた。「奇怪なことが起こった。人の身体にこんな急変会った時は、僧に読経して貰うそうだが、阿闍梨はどうした」「昨日叡山へ帰りました。奇怪なことですが、前から少し体が悪かったのございますか」「そんなこともなかった」と泣く源氏の様子に惟光も感動させられ、この人までが泣き出した。「この院の留守役に真相を知らせることが良くございませんか」と惟光はいった。年を取って世の中を経験した人が頼もしいのである。「山寺は死人などの扱いに慣れていましょうから、人目を紛らすのに良いように思われます」
 惟光は「昔知っております女房が尼になり東山に家があります。そこへお移ししましょう。閑静です」といって、車を縁側へ寄せさせた。遺骸を茣蓙に巻いて、惟光が車へ載せた。「あなた様は早速二条の院へお帰りなさいませ。世間の人が起きませんうちに」と惟光はいって、遺骸に右近を添え乗せた。自身の馬を源氏に提供した。自身は歩行で袴をくくり上げ出かけたのである。
 源氏は二条の院に帰った。女房たちは「どちらからお帰りでしょう。ご気分が悪いようです」と言ったが、そのまま寝室へ入っていった。考えてみると何故自分はあの車に乗っていかなかったのだろう、もし蘇生することがあったらあの人はどう思うだろう。こんなことを考えると頭も痛く、発熱も感じ苦しい。宮中のお使いが来た。帝は、昨日もお召しになった源氏をご覧になれなかったことでご心配を遊ばされるのであった。頭中将がきたので、「私の乳母が大病をし、生前にもう一度だけ訪問をしたところ、家の召使が私のいるうちに亡くなったのです。それに今朝がたから風邪にかかったのか頭痛がして苦しいものでこんなふうに失礼しています」などと源氏はいい、中将は「ではそのように奏上しておきましょう」といって帰ろうとしたが、また帰ってきて「どんな穢れにお会いになったのですか。先刻からうかがったのはどうもほんとうとは思われない」といわれ源氏ははっとした「ただ思いがけぬ穢れに会いましたとお伝え下さい」素知らぬ顔はしても、心にまた愛人の死が浮かんできて源氏は気分が悪くなってきた。
 日が暮れて、惟光が来た。源氏は「どうだった、だめだったか」というと同時に泣いた。惟光も泣く泣くいう。「お亡くなりになりました。明日は葬式に良い日ですから、式を私の尊敬する老僧に頼んできました」源氏は悲しくなり「私も病気になりそうで、死ぬのじゃないかと思う」といった。「みんな運命でございます。どうか秘密のうちに処置をしたいと思ってます」「わたしもそう思うが、軽率な恋愛漁りから人を死なせてしまった責任を感じる。君の妹の少将の命婦などにも言うなよ。恥ずかしくてならない」「山の坊さんたちにも、まるで話を変えてしてございます」と惟光がいうので源氏は安心したようである。主従がひそひそ話をするのを見て女房などは「行触れだとおおいになって参内もなさらないし、悲しいことがあるように話されてる」腑に落ちぬらしくいっていた。
 「葬儀は立派なものにした方がよい」源氏は惟光にいうが「そうではございません」否定し惟光は立っていこうとする。「よくないことだとおまえは思うだろうが、私はもう一度遺骸がみたい。いつまでも憂鬱が続く馬で行きたい」主人の望みは軽率であるが、惟光は止められなかった。「では早く行ってらっしゃいまして、、夜の更けぬうちお帰りなさいませ」と惟光は言った。五条通いの変装の狩衣に着替え源氏はでかけた。惟光と随身を従えて出た。
 十七の月が出、賀茂川の河原を通る頃、前駆の者の持つ松明の淡い光に鳥辺野の方が見える不気味な景色に、源氏の恐怖心は麻痺していた。悲しみに胸かき乱されたふうで目的地に着いた。僧が経を読む声が聞こえてきたとき、源氏は体中の涙がすべて流れる気がした。中に入ると、遺骸との間に屏風が置かれ右近が横になっていた。遺骸は美しい顔をし可憐さが変わってなかった。「私との前世の縁でわずかな期間の関係だったが、私はあなたに傾倒した。私をこの世に捨て、悲しいめを見せる」泣き声も憚らぬ源氏だった。源氏は右近に、「あなたは二条の院へ来なければならない」いったが「長い間小さい時からお世話になりましたご主人に、にわかにお別れし、私は生きて帰ろうとはおもいません。奥様をお亡くししたことを他の人にどう話ができましょう、私はみなにどういわれるかと思うと悲しく、奥様の煙と一緒にあの世へ参りとうございます」「もっともだが、人世とはこんなものだ。別れは悲しいが、寿命のある間は死ねないのだ、気を静めて私を信頼してくれ」と源氏がいう。
 「もう明け方近いころです。帰らければいけません」惟光に促され、帰途についた。馬を御せるふうでもなく、賀茂川堤で源氏は落馬した。惟光たちの助けをかりて二条の院へ行きついた。源氏はそれっきり床についてわずらったのである。重い容体が二三日続き衰弱が見えた。
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