第4話 契約

文字数 4,398文字

 井上が持ち込んだ銀の鉱石を目の当たりにして、鉱山開発にすっかり前のめりとなった城山静一、藤村紫朗、三浦梧楼、高橋長秋、高橋義恭、佐竹作太郎そして小野金六らによって、すぐに事業組合が結成された。そして組合から託されて、晴雄は秘露(ペルー)の銀山の実地調査をすることになった。
「銀山の全容を詳しく調べて報告書を作成してほしい。」
 組合を代表して三浦が出したこの依頼に対して、晴雄は質問した。
「現時点で銀山の規模が判らないので、相当時間がかかる可能性があります。しかも、実地の検分と専門書など既存の調査を突き合わせてみる必要もあるので、報告書が完成するのは日本に帰ってからとなります。時間的にはそれで間に合うでしょうか。」
 藤村は、三浦や是清等と顔を見合わせて答えた。
「調べて判ったところから、手紙や電報で知らせてもらう以外あるまい。」
 藤村は是清に頼み込むような顔をして加えた。
「電報だと、和文ローマ字では面倒だろうから、英文で送ってもらおう。そうすると、高橋君に連絡してもらうのが一番良いのではないか。」
 是清は少しだけ眉を吊り上げて見せたが、すぐに欧米人のするウィンクのような笑顔を作って承諾した。
「それで良い。善は急げということもある。電報でやり取りをしようじゃないか。」
  こうして晴雄は、明治二十一年(1888年)十一月二十八日に井上とともに日本を発ち、翌年一月二十三日に秘露(ペルー)に到着した。
 晴雄は秘露(ペルー)のカジャオに着いてから、井上に案内されるがままに鉄道に乗り、リマ市内のへーレン邸を目指した。港は殺風景で横浜と変わる所は無かったが、リマの市内が近づくにつれ、スペイン風の建物が増え、あらためてここはかつて植民地だったのだと思い出させられた。
 へーレン邸に着き、晴雄はそこで初めてへーレンに会った。建物はかなり立派なスペイン風のものであり、建物に沿って椰子の木が植えられており、かなりの羽振りの良さがすぐに伝わった。
 へーレン邸の建物の中では、井上の他に伴竜、大関、岡山という日本人が居て働いていた。日本からかなり遠い南米の地にこんなにも日本人がへーレンのために働いていることを不思議に思ったが、さらに松本辰五郎(たつごろう)という庭師がヘーレン邸の庭園の仕事までしていて大変驚いた。
「なぜ、日本人の庭師まで居るのだ?」晴雄が井上に尋ねると、井上は無表情で答えた。
「造っているのは日本庭園です。へーレン氏は、築地に居た頃のことが忘れられないらしいのです。」
 このような状況を添えて、へーレン氏が信頼できそうな人物であることも是清に電報で伝えたが、是清からはすぐに、極めて簡潔な返事が返ってきた。You cannot be too careful.(油断を怠るなかれ)
 交渉事に疎い晴雄は、是清が何を警戒しろと言っているのか良く分からなかった。日本が好きで日本人を雇い、日本庭園を造るくらいの日本通で、日本と商売をすることに期待している人物に警戒するようなところがあるのだろうか。
 是清はもちろん、笑顔を持って近づいている人間、特に自分たちのことを良く知っているという者は、自分たちの弱点をも周知しているから、手玉に取られる恐れがあることを警戒せよと伝えたかったのだ。是清自身がアメリカ時代に痛い目にあっているのだから。
 是清の忠告にもかかわらず、晴雄はへーレンには歓迎されていると思い込んでいた。へーレンは大変協力的で、銀山の調査にすぐにでも行きたいと伝えると、すぐに汽車などの手配をしてくれた。 
 二月二日、晴雄は、伴竜とヘンリー・ガイヤーというアメリカの鉱山機械の会社の代理店を経営していた男を伴って、カラワクラ銀山を目指して出発することとなった。ガイヤーは、何度かカラワクラに来たことがあるという。案内役にも適していると思われた。
 汽車は乾燥した大地を丸二日走り続けた。時折、車窓から民族衣装を着てリャマを引く現地人が見え、遠く異国の地に居ることを思い起こされるのだった。車中でガイヤーは常に陽気で、晴雄に盛んに話しかけ、夜も眠れないほどであった。晴雄は、アメリカ人のこともビジネスマンのこともあまり知らなかったので、ガイヤーの、やや話が大げさなところを最初胡散臭く思ったが、仕事のことを熱心に語るのが好きなのだと合点がいった。ガイヤーが寝ている間に、伴竜とも話をした。伴竜の家は四国の士族だという。伴竜自身、ドイツ語にも堪能で、野性味ある風貌に似合わず知性を感じさせる男だった。
 汽車がアンデスの麓の町、ヤウリに到着したので、一行は汽車を降りてヤウリの町に出た。来る途中の乾燥した大地と違い、ヤウリは雨が降っていた。ショールを纏ったチョリータと呼ばれている原住民の女性やチョラと呼ばれている男性が行き交い、また建物の陰で雨宿りをしていた。
 晴雄と一行は、この町からさらにアンデスの山高く登って行かなくてはならない。しかし、鉱山は大きすぎた。カラワクラの鉱床は標高で四千メートルから四千八百メートルのところにあったので、晴雄を含めた日本人がみな、カラワクラが近づくにつれ、次々と高山病になってしまったのだ。
「このような調子で、歩き回って四千メートルを超える山全体を調べることは不可能だ。実測もしてみたいんだが...」晴雄のつぶやきに対して、ガイヤーが助言した。
「ドイツの鉱山雑誌に、カラワクラのことは載っている。権威ある雑誌なのだからそれを参照すれば良いのではないですか。」
 ガイヤーが鉱山の機械商人であることに晴雄は無頓着だったかもしれない。晴雄が何の気なしに「ありがとう。それは見てみよう。」と言うと、ガイヤーは事務所にあるはずだから、持って来てくれると言った。
  晴雄等の一行は、現地ではやたらと饗宴でもてなされた。へーレンが現地の者たちに連絡していたようで、晴雄はこの事も特段不思議には思わなかった。地元の人たちとしては、鉱山事業で沢山人が来ればそれだけ潤うのであるから、むしろ当然の事のように感じていたのだ。しかし、この饗宴で時間を取られた。日中も含めて、あちこちの家からお呼びがかかり、無碍にもできないので、誘われるまま応じていたのだ。
 とりあえず晴雄は、何とか空いている時間で、現地の山の地層を調べた。これは基本であり、実際、大層な機械も無く人足も足りなかったので、限界がある中では最善の方法に思われた。晴雄にとっては、このような調査方法は当然の事と思っていたので、状況を細かくは是清達に報告はしなかった。晴雄は現地の地層を調べたが、石灰石と玢岩(ひんがん)(筆者注:マグマが地下深くでゆっくり冷えて固まって出来た深成岩と火口近くで急激にマグマが冷えて固まって出来た火山岩の中間的なもののうち、斑状組織をしたもので、斑晶が斜長石で、カリ長石を含まないものを指す。)の接したところに厚さ三十メートルもの鉱脈を発見し、またこれが長く続いているのを見て数十英里(マイル)は続いていると判断した。
 リマに戻り、改めてガイヤーから渡された鉱床サンプルを分析し、渡された鉱山雑誌で確認した。その結果、晴雄はカラワクラ鉱山はその隣接鉱区を含めて千七百六十四万トンの埋蔵鉱量であるという推測を行った。日本には、鉱山は有望だと打電した。
 へーレンは、ドイツや他の欧州の国もこの鉱山に目を付けており、今すぐにでも鉱山の獲得をするべきだと主張した。あるいは今、仮契約でも良いから手付を払うための契約を行うべきだと主張した。この点についても、晴雄は是清に電報を打った。
『I have not executed a trial boring due to limited circumstances, but the Mountain looks good and promising. We should sign the provisional agreement immediately, otherwise we will lose this opportunity.(限られた状況のため、試掘をしていないが、鉱山は有望のようである。手付の契約を締結しなければ、この機会を逃してしまうこととなろう。)』
是清からは再び、簡潔な返事が返ってきた。
『Take it! (獲得しろ!)』
  晴雄と井上は相談し、アルパミナ、サン・イグナシオ、カラワクラの三銀山のうち、カラワクラだけ、一万六千五百英ポンドで購入し、半額をへーレンが負担するという提案を日本の組合に電報で送った。その際、その銀山から取れる石の銀品位が粗鉱千分の一(千g/t)、精鉱三百分の一(三千三百三十g/t)と報告した。かなりの純度の銀鉱石が採れる鉱山であると推測し、これも報告に付け加えた。
 晴雄からの連絡を受けて日本組合のメンバーが胡月に集まったが、完全に浮足立っていた。「チャンスだ、是非獲得するべきだ。」
「いや、もう少し見極めが必要だ。」
 難しい話になり、他の芸妓と一緒に席を外そうとしたときにも、胡月に集まったメンバーが興奮気味で口角泡を飛ばしていたのをお吟も見ていた。話から晴雄が秘露(ペルー)に着いて活動しているのだとわかった。お吟は晴雄が頼もしく、そしてその回りの紳士もみな、大きな夢のために、必死になって議論しているのが羨ましくもあった。その一方で、水も食べ物も異なる異国の地で奮闘する晴雄のことを想い、心配にもなった。是非、無事に帰ってきて欲しい、そしてもう一度会いたい、そういう想いが不思議と高まった。
  是清が承諾したとして、晴雄と井上は全鉱区の獲得のために、へーレンと独自の契約を締結した。この報を受けて、日本側組合は、慌てて八千英ポンドを払い込むこととなった。五月八日、晴雄は、有限責任日本興業会社(sociedad industrial japonesa limitada)の契約をへーレンと締結した。この契約には有限責任日本鉱業会社を設立することが定められており、その出資比率や対象資産なども定められていた。 内容は、日本組合とへーレンが五十万円を出資して資本金百万円の有限責任日本興業会社を設立し、会社がへーレンの保有するサン・カルロス農場、アルパミナ、サン・イグナシオ、カラワクラからなる三銀山資産、サン・ペドロ炭山、カンデラカンチャの地上権と水利権をへーレンから購入し、さらにドローレス、サン・ホセ、サン・アントニオ・デ・カジャバからなるカラワクラ銀山三鉱区を二十五万円で買収するというもので、日本組合は十一月までにへーレンに十二万五千円を支払うこととなっていた。この上さらに、晴雄はサン・フランシスコ・デ・カラワクラ、リマック、リマの三鉱区を購入することをへーレンに打診した。これらの三鉱区は、カラワクラでの採掘のために必要な隣接地区であった。 


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