第19話 是清の思惑

文字数 5,503文字

「ほお、取材とね。日本語がうまいの。英国人の記者じゃと聞いとったから、英語で答える準備をしておったんだがの。イングランド人か...母方がスコットランド?ほおほお、君自身がグレート・ブリテンじゃな、ふおっほっほ...それで日本に興味を持ったとな?それはなかなか...いやこの国はまだまだじゃが、一等国になろうという気概だけはあるのでな。でも日本滞在数年じゃあ、君の日本語よりもわしの英語の方がうまかろうと思っとったが、いやなかなかどうして、大したもんじゃの。で、今日は何を聞きに来たのじゃ?何、秘露の事件じゃと?古い傷をえぐってくるのお。でもどこでそんな古い事件の事を知ったんだ?吾妻屋に泊まっている?まいったな、お吟か。奴は亭主にベタ惚れじゃからの。お吟は、まるで初心な娘だった。いまじゃあ、肝の座った旅館の女将になっとるだろうがの。いや、あの事件は田島君のミステイクなんだ。それで終わってるんだ。そこのところはお吟にもよく言っておいてくれ。実際、二人でやっとる吾妻屋たいそう繁盛しているそうじゃないか。それでもう良いではないか。詐欺で有罪?それは知らん。詐欺で田島君を訴えたのは三浦だ。奴に聞いてくれ。お吟の奴にもくれぐれも言っておいてくれよ。そんなことより、わしはもうじきロンドンに行く。そうじゃよ、日露戦争の資金調達じゃよ。この国の連中は後先考えずに戦争を始める。金は後から何とでもなると思っておる。しかし、金融は、マーケットはそうは行くまい。簡単じゃあ無いだろう。わかっとるよ。君も少しは日本の事をよく書いてくれんか?日本に関心を持って、日本に金を出しても大丈夫だという雰囲気を作ってくれんかのお。」

 ヘンリーの訪問を受けた数日後、是清は手に取った手紙を読むと、天井を見つめた。体を大きく後ろにそらし、考え事を始めた。そして内線電話で秘書を呼び出した。
「グラバーが日本にもたらしたものは便利じゃの。」
 どうやら内線電話の事を言っているらしいということはわかったが、秘書は怪訝な顔をして突っ立っていた。
「この手紙の差出人のところに、来週の火曜日の午前十時に、この執務室へ来るように手紙を出しておいてくれ。差出人は日本銀行秘書室長とでもしておいてくれ。」

 マサは是清から日本橋にある日本銀行まで出向いてきてくれという手紙を受け取って、支度を始めた。マサはヘンリーから勧められて自分から手紙を書いたものの、何から切り出すべきか、今更ながら躊躇していた。ともかく、晴雄には内緒にしておかなくてはと細心の注意を払い、仲居には日本橋のデパートメントに出かけると伝えた。
 日本橋の日本銀行に出向くと出迎えの職員から副総裁室に通された。そこは豪華ではないものの、黒檀(エボニー)を使用した壁板が格を感じさせるものだった。
「よく来てくれた。久しぶりだな。あれ以来か...」
 是清の挨拶で、マサも少し表情を和らげた。
「旅館の一介の女主人に、今や日銀副総裁であられる天下の是清さんが会ってくださると言うんですから、今日は少し緊張して参りましたの。」
「まあ、そんな水臭い言い方をするな。同じ夢を見た仲じゃないか。同じ男に夢を託した仲というべきだったかな?」
 マサは、少しだけ気持ちが(ほぐ)れて、一機に話をするべきだと感じた。
「二年前でしたっけ...是清さんが日銀副総裁に就任した時の会見で、うちの人に対して追い打ちになるような事を仰ったじゃないですか。いくら何でもあんまりです。」
 マサがそう言うと是清はニヤリとして返事をした。
「今日は、その事の文句を言いに来たのか?」
「実は、うちの人が汚名を晴らそうと商売に打ち込んでいるところに、名誉回復を持ち掛けて利用しようとする人たちがいるんです。すごく危険な人たちです。ご存じのようにうちの宿には、多くの政治家や大商人がお泊りになります。それらの人々の動向を密偵している者がいるんです。その後ろにいる人間もだいたい察しはついています。」
 是清は黙って聞いていたが、不意に遮るようにマサに質問した。
「で、俺にどうしろと?」
「単刀直入に言います。まず、秘露の件について、あの件はうちの人のせいだけでは無かったって言って欲しいのです。」
「その事は、この前来たヘンリーとかいう外人記者にもお前さんに伝言してくれ、と言ったはずだ。それはできない相談だな。あれは晴雄君による詐欺事件だということで済んだ話だ。今さら、それを蒸し返すわけにはいかんよ。」
「酷いですわ。一人うちの人だけが犠牲になれば良いと仰るのですか?」
「その通りだ。あれだけの事件で莫大な金が動いた。あれは国の威信をかけた鉱山開発だ。出資したのは我々だが、間違いなく国による試みなのだ。そんな国の威信のかかる計画がちょっとした手違いで失敗しましたでは世間が収まらん。それに...」
 憤懣やるかたないマサの口を封じるかのように、是清は話を続けようとしたが、今度はマサが遮った。
「だからと言って、なぜうちの人一人で責任を全部かぶらなくてはならなかったのですか。しかも詐欺だなんて、あんまりです。せめて、名誉を回復して欲しいと...」
 マサの口調がやや強くなったので、是清も大声になった。
「巖谷先生を守らなくてはならんかった。」
 マサは思いもよらない言い訳に目を丸くした。
「あのまま誰も悪くないですでは、最初に鉱石を鑑定して晴雄君を派遣した巖谷先生と、日本の鉱物学の権威は地に落ちたろう。日本の鉱山は終わりになってしまっていたところだ。日本の鉱物学を守ったと言えば、晴雄君の気も晴れるのではないか。」
 マサはさっきまで中腰のような恰好で是清に食い下がっていたが、力が抜けて尻もちをつくように腰を椅子に深く下ろした。
「それでも...あの連中に名誉回復をチラつかされて、晴雄さんが連中に巻き込まれないかと心配なのです。」
「そういう話か。今頃になって晴雄君の事を持ち出すから何かあると思ったが...三浦も烏森にちょくちょく出没しているようじゃな。」
 マサは是清が全てを知っているかのような口ぶりに少し驚いた。
「ご存じなのですか?」
「近頃の烏森の噂なら聞こえてきている。三浦は頻繁に頭山と会ってるらしいな。その二人を任侠みたいなのが取り巻いて、連中はいい気になって闊歩しているそうじゃないか。」
「最近も、朝、宿の周りを掃除していたら、うちの脇の塀のところで血だらけでうずくまっている人がいました。身なりから、労働組合か何かの人だと思いましたけど。」
「最近、どこの会社も組合運動で手を焼いているからの。おそらく頭山のところにいる内田あたりの仕業だろう。」
 ここまで聞いていて、是清の秘書がお茶を運んできたので、一旦、一呼吸置いた。落ち着くと日銀の窓からも日本橋の木々の間からの木漏れ日が入り込んできているのに気付いた。マサは、最近、こうして景色を楽しむ余裕が無かったことに気付いた。落ち着いたところで話の続きを始めた。
「相談したかったのは、まさにその事なんです。うちに出入りしている杉村さんという人や光山さんが...」
「杉村は議員の杉村楠雄か?」
「そうです。それと光山さんが...」
「まて...光山は覚えのない名前なんだが。」
「広告屋さんですわ。杉村さんなど政治家とも付き合いがあるようだし、各方面顔の広い人だから、奠都の時も大活躍でしたわ。」
「ああ、広告屋の光山か。奴も杉村と一緒に烏森をうろついているのか?それは知らなかった。奴は広告屋というより情報屋だ。俺のところにもいろんな情報を持ってくる。奴は元々陸軍と関係が深い。陸軍に食い込んで、三浦も軍にいた頃から仲が良いはずだ。政治家達も影に日向に自分達の宣伝を頼んでるんだろ。あちこちから頼りにされてる。その一方で、いろんな情報を掴んでは会社に揺さぶりをかけたり、恐喝まがいの事をしている噂がある。商売人にしてみたら、無碍にもできんのじゃろ。」
「とにかく、口が旨いんです。光山さんと杉村さんは晴雄さんをしょっちゅう連れ回して、名誉を回復するとかなんとか言って良い様に使っているような気がするんです。何とか晴雄さんをあの連中から引き離すことはできないかと思って...」
「連中を遠ざけようとすると、今度は商売の邪魔をされる恐れがあるぞ。」
 マサがそれは困るという顔をして黙り込んでしまったので、是清が続けた。
「連中は厄介だ。奴らは国権の拡張しか頭に無い。鉱山の開発だってそうだ。秘露の銀山、あれは国権拡張運動だったのだ。」
「でもそれは是清さんだって同じではないのですか?あの件に関わったというのは、同じ夢を見ていたという事ではないのかしら?」
「ああ、そうじゃ。俺も同じことを考えていたし、田島君だって同じだろうさ。日本国の国民として、この国の力を何とかして高めなくちゃならないと思っておるよ。今回の戦争だって、それは同じだ。この戦争が早く終わることを望んではいるが、国民の一人として協力せにゃならん。そのため、おれももうじきロンドンに行く。それでも、今の俺は連中とは違うよ。連中は、現実と言うものが分かっておらん。いつも威勢の良いことばかりを言って、国のためだともっともらしい事を唱えてはいるが、自分たちの思い通りにならないと、民衆を恐怖に陥れて意のままに操ろうとしている。俺はそんな連中と一緒にされるのはかなわん。連中は田島君を唆しているのか?」
「晴雄さんが言いなりになっているわけではないと思います。それでも、さっき言いましたように、誘惑があるのです。名誉回復という誘惑が。だからこそ、是清さんに何とかしてもらいたいと思ったのですが...」
 是清は少しの沈黙の後、何か言いたそうにしていた。
「是清さんらしくない。」
 マサは用件を急かした。
「うむ。実はお主の話を聞いて思ったのだが、あのヘンリーのような外人が集まるサロンを作ったらどうだ?」
 マサは困惑した。同時に、是清が何か危なっかしい事を考えている事を直観的に感じ取った。
「それと晴雄さんがどう関係するんですか?」
「うん、まあまだうまくは話せないが、外人記者などを集めて、そこで情報交換ができる場所を作る。連中が入り込めない繭のような中で、自由を目指す政治家連中などと懇親の場を設ける事で自由の芽を育てていきたい。そういう場には、英語も話せて外国事情にも詳しい人間が主人としていた方が良い。」マサがうまく話を呑み込めないでいると、是清がとんでもない話を始めた。「当然、あの連中はそんな場には入り込めない。新橋に巣食って政治家の情報を集めている連中からしたらとんでもないサロンとなる。当然、何とか斥候を送ってこようとするだろう。晴雄君を密偵に仕立てたいと思うはずじゃ。その場合、連中を混乱させるような情報を流して、煙に巻くことが肝心じゃな。」
「何ですって?それは彼らに協力するふりを見せて、逆に連中を意のままに操ろうっていうんですか?そんな危ない橋をうちの人に渡らせるわけには行きません。」
 是清は顎鬚(あごひげ)に手を当て考え込んだ。
「まあ、そうじゃのお。例え話じゃよ。無理にとは言わん。考えておいてくれ。だが、これからどんどん情勢は厳しくなるかもしれんからのお。」
 
 その後、是清は4月に日露戦争の資金調達のためにロンドンに渡り、銀行家達の日本国債引受についての反応を探った。しかし、ロンドンのバンカー倶楽部の間では、日本国債の人気は思わしくなかった。
「あの英語らしき汚らしいアメリカの言葉を話す東洋人は信用できるのか?」
 ロンドンの銀行家達は高橋是清を馬鹿にしていた。実際、彼らは戦争の初戦で日本が勝利してもロシアが最後の勝利者になるに違いないと考えていた。ある英国の銀行家は是清のところにやってきて、厳しい条件を提示してきた。英ポンド建てで期間は五年、日本政府の関税収入を担保とすること、利息は年六パーセント、発行限度額は三百万ポンドで、引受け価格は九十二ポンドとする、と。
 是清は苦虫噛み潰しながら、本国の政府と連絡を取り、交渉を続けた。さらに日本の立場について銀行家たちの集まりの場で見事なキングス・イングリッシュを使って大演説をした。
「あなた方英国の銀行家は日本の債務返済能力に疑問を持っているようだが、日本は未まだかつて利払いを怠るようなことも元本の返済不能の状態に陥いったことも、一度もなかったのである。」
 奇妙な東洋人の見事な英語に面食らっていた英国のバンカーたちに是清は畳み掛けるように対抗オファーを出した。無担保、期間は七年、年利は英国提案通り、発行限度額は五百万ポンドで、引受け価格は九十三ポンドとすると。そして是清はパース銀行と香港上海銀行と交渉し、政府希望額の半分の五百万ポンドの債券を引き受けさせる案を纏めた。しかし、やっと半分だ。これが限界かとさすがの是清も弱気になっていたところ、是清がかつて横浜で仕えていたアレキサンダー・アラン・シャンドのアレンジした晩餐会で奇跡が起きた。クーン・ローブ商会の主席代表ジェイコブ・ヘンリー・シフとの出会いだ。シフが是清に日本兵の士気を尋ねると、是清は大見えを切った。
「日本人は万世一系の天皇陛下の下、最後の一人となるまで戦い抜くつもりであり、その士気はどこまでも高いのであります。」
 そして、新聞には日本政府が無事、一千万ポンドの外債発行に成功したことが載っていた。クーン・ローブが五百万ポンド分を引き受けたのだ。こうした外債調達の勲功により、高橋是清は、貴族院議員にまで上り詰める事となった。
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