第30話 闇路

文字数 10,677文字

「この前話したように、光山とあの城川は、満州に古見という男を送り込んで阿片のシンジケートを作っている。」
 防音設備がそれほどしっかりしていない旅館の大広間の廊下に、長唄の合いの手や掛け声が響いてくる。その和の雰囲気の中で、二人の異人が深刻な顔で話を続けている。
「阿片、その精製物たるモルヒネ、これを密貿易で中国に流している。そしてそれで儲けた金は陸軍に流れ込み、一部は日本に還流している。それをやっているのが城川と光山だ。僕はそこまではっきりと掴んだ。そこから先がまだわからない。政府が絡んでいると見ている。床次か、三浦の仲間か、日本側の黒幕には、そういう連中がいると睨んでいるが証拠が無い...だが、満州にいる古見という男は玄洋社系だ。僕は必ず、これを記事にする。」
 凍り付く話の後で、ヘンリーの一番好きな小唄が三味線の音に乗り流れてくる。一番見たかった踊りが始まっていた。ヘンリーにはこの愛する、美しい国が音を立てて崩れているような気がしてならないのだった。

 ジョージがベンゾイリン事件を記事にするのと同時に日本の新聞でもベンゾイリン事件は大きく報道された。ジョージはその先の話もかなりのところまで掴んでいたが、また裏付けとなるようなものを掴むところまでは至っていなかった。
そんな中、昭和五年(1930年)十一月十四日に総理大臣濱口雄幸が玄洋社系で大日本国粋会にも所属していた佐郷屋(さごうや)嘉昭によって東京駅で狙撃され、四か月後死んだ。
 昭和七年(1932年)二月九日、高橋とともに、自由経済、自由主義を支えた井上準之助は、小沼正の放った3発の銃弾に倒れた。
 同じ年の二月二十六日には、菱沼(ひしぬま)五郎によって三井合名理事長の団琢磨が殺された。
 そして、五月十五日、海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅が殺害された。

 相次ぐ事件後、新橋、烏森の芸妓達も、段々地味な色合いの着物が多くなり、街から色が消えつつあった。重苦しい雰囲気の中、半ば定例化していた是清と外国人記者との情報交換の場でもお互いの情報を確認しつつ、打つ手がない事にみな打ち拉がれていた。
「とにかく、自由の大切さ、言論の自由の大切さを淡々と訴えていくしかあるまい。この国は、まだ国として近代的な法体系も無い頃から、自由闊達に物が言えたのだ。それこそが我が国の自然な姿なのであって、今が異常なのだ。」
 ヘンリーは頷きながらも、どうしても懐疑的に感じてしまうのだった。まさにその気持ちを代弁するようにジョージが口火を切った。
「それは疑わしいです。だって、大阪の弁護士会は、法的な観点からすれば、正当防衛と見做すことができるなんていう意見を表明しているんですよ。曲がりなりにも自分たちが選挙で選び、陛下が任命した、その首相を殺した男をですよ。情状酌量の余地ではなく、正当防衛だなんて...」
 この反論に是清は完全に言葉を失っていた。

 震災から再建した吾妻屋では、マサは国粋会の連中を出入り禁止にした。もう二度と彼らを関わらせないと決めたのだ。そんな吾妻屋をヘンリーが訪ね、マサに頼み込んだ。
「どうしても吾妻屋人脈の情報が欲しいのです。」
 しかし、マサはいつにも増して厳しい表情で答えた。
「主人と築き上げたこの吾妻屋を私は守り切りたいのです。お客の情報は宿を営む者としては何があっても守らなくてはならないものです。」
「それはわかります。しかし、日本の政治状況は日に日に悪くなっています。僕はこうした日本の実情を報道することで何とか外交圧力でこれを食い止めたいと思っています。」
「それはたぶん、逆効果じゃないのかしら。私には外交の事はわかりませんが、国粋会の人たち、特に頭山さんの外国嫌いは徹底しています。外国から何か言われれば余計に態度を固くするような気がします。それに私はもう、吾妻屋が政治に巻き込まれるのだけは御免です。申し訳ありませんが...」
「それはわかるのでですが...」
「諦めてください。」
 ヘンリーはジョージとも顔を見合わせたが、ジョージも顔を横に振るだけで、もはやこれまでという感じだった。しかし、マサが意外なことを口にした。
「是清さんのところをお訪ねになってはいかが?」
「高橋是清が何を知っているのでしょうか?」
「私が知っているようなことは是清さんならご存じのはずです。」
「それはどういう意味ですか?」
「今日のところはここまでで、どうかお引き取りください。」

 昭和八年(1933年)十一月のある日、午後3時頃に、いきなり警察が震災後、復活した烏森の吾妻屋の真新しい建物の中に踏み込んできた。よれたグレーのコートを着込んだ刑事が仲居に聞くと、返事もろくに聞かずに数人の制服警官と一緒に宴会室になだれ込んでいった。そこでは、呆気にとられた顔の里見弴や久米正雄らが麻雀に耽っていた。
「里見、久米...賭博で現行犯逮捕する。」
 特に抵抗もしていない里見らを警察官が乱暴し取り押さえ、縄で縛った。
 その日、烏森の吾妻屋に泊っていたヘンリーの部屋をたまたまジョージが尋ねていて、二人は一部始終を目撃した。廊下ですれ違った時、刑事は二人を睨みつけたが、特に何も言わずに逮捕した数人を他の警察官と追い立てるように、宿を後にして行った。取り締まりを立ち会っていたマサが唇を噛み締めていたようだ。
「嫌がらせだろう。任侠を追い出し、文士を囲っていた吾妻屋を良く思わない者がタレこんだに違いない。」
 ジョージの推理にヘンリーは目を丸くした。
 翌日、横浜の自宅に戻ったジョージは、書斎でタバコを吸いながら、表面的には落ち着いた表情で、ヘンリーに話しかけた。
「もし、あの連中と同じように僕の身に何かあったら...」
 その言葉でヘンリーは自分の鼓動が早くなったのに気付いた。
「もし、僕に万が一の事があったら、これを君の手で活字にして欲しい。君の日本研究にも沿うものだ。」
 ヘンリーは、ジョージにタイプ書きされた記事原稿を渡された。それは、明治興業社の満州での麻薬ビジネスの詳細とそれにつながる、日本の政財界の人名と組織名が詳細に記載されていた。
「いや、まさか...」
「ヘンリー、僕はこの国の権力に睨まれている。なぜなら、僕はこの国が最も知られたくない事実を掴んだんだ。」
 その言葉でヘンリーの緊張は極度に高まった。
「日本は単に僕達の国に代わって中国を阿片漬けにしているに過ぎない。政府も、国士も、軍も全てルビーシルバースクールだ。塩酸ベンゾイール・モルヒネをドイツから大連に持ち込み、そこから満州を拠点に中国へ輸出している。吾妻屋にいる城川がハブになっているが、その背後で政府や国粋会がどのように関わったかについてはついに解明することはできなかった。吾妻屋資料が入手できなくなってしまった以上、城川陽一に繋がる政治家や政府のルートについては確かな確証を得られなかった。しかし、わかっている部分だけでも報道の価値はある。」
 頷いているヘンリーにジョージはさらに自分の疑問をぶつけた。
「最近、ドクター・アンダートンがおかしい。日本の政府や軍に取り込まれてしまったかのように、日本を擁護する発言ばかりしている。」
 しかしヘンリーは反論した。
「ドクター・アンダートンは日本政府のカウンセル(顧問)なのだから、日本を擁護するのは当然なのではないか?確かにドクター・アンダートンは国際法の見地から日本の行動を擁護しているが、そのロジックは別に破綻しているわけではなく、国際法の常識に沿ったものだろう。」
 しかし、ジョージはヘンリーには思いもつかなかった言葉を発した。
「それでは何のためにドクターを送り込んだのだ?日本がアジアで好き勝手やるためなのか?」
 この言葉でヘンリーはジョージが英国政府のエージェントなのだと確信した。しかし、その事については触れなかった。
「とにかく、来週、高橋是清氏に会うよ。僕等の持っている情報と是清氏の持っている情報を突き合わせ、できるだけ真実に近づくよう、トライだけはしてみるさ。」
ヘンリーがジョージにそのように言ったが、その日は来なかったのだ。
昭和十一年(1936年)二月二十六日、赤坂の高橋邸で、高橋是清は銃弾に倒れ、その波乱の生涯の幕を閉じた。ヘンリーがアポのあった日の前々日だった。是清の盟友、斎藤実も同様に凶弾に倒れた。

 吾妻屋を根城とする城川の人脈は、ついに入手が不可能になってしまった。しかしジョージは、ヘンリーからもたらされたこれまでの情報を頼りに、ルビーシルバースクールを追いかけていた。これまでの資料を前に、何とか記事を起こせないかと横浜の自宅でタイプに向かっていたところ、「ファイアー」の声で仰天し、何も持たずに外に出た。何者かによって火を放たれたのだ。焼きだされた妻は半狂乱になっていた。家族と使用人は無事だったが、手元にあった事件の資料は全て灰になってしまった。
「やられた...」

 その後、ジョージに対しての尾行はいよいよ激しくなった。すべての行動が確認されている。ジョージは吾妻屋にいるヘンリーに電話を掛けた。
「頼みがある。君の自宅宛てに小包を出した。焼けた資料の中身を思い出しながらメモにして纏めたものだ。それを通信社のロンドン本部の、ジェームス・マクワイヤーにそのまま渡して欲しい。あるいは...大使館のタトルでも良い。」
「記事を君が書いてロンドンに送れば良いじゃないか。」
「ダメだ。もう時間が無い。僕はもう英国には帰れない。船の予約も間に合わない。おそらく、ここ数日内に逮捕されるか殺されるだろう。連中は僕が色々掴んだことを感づいている。だから僕の資料は君に全て渡す。中身は君も興味があるだろうが、記事にはしない方が良い。というか、おそらく普通の新聞には出せないだろう。」
「ジョージ...」
 ジョージは急いで電話を切った。そして翌日、ジョージの予想していた通り、警察がブラウン宅に踏み込んだ。
「令状を示せ。」
 すると刑事の一人がジョージを殴りつけた。
「ここはロンドンじゃねえよ。」
 ジョージの夫人は半狂乱になって刑事にしがみついたが、刑事は振りほどいた。結局、ジョージを含む、何人かの英国人ジャーナリストが逮捕、監禁された。
「いい加減に吐け。お前らが諜報活動をしていたことはわかってるんだ。英国のどこの機関の何という奴からの命令なんだ?それから、これまで本国に送った情報を全て教えろ。」
「俺はスパイじゃない。与太記事なんかいくらでも書いたさ。でも、そんなもの本国で取り上げられた試しはないんだよ。」
「いい加減なことを言うな。お前はスパイだ。」
 ジョージは、机を蹴り、逃げた。署内を追手の来ない方目掛けて走りまくった。しかし、所詮、狭い警察署内である。前方を塞がれた。咄嗟にジョージは、一番近い、トイレに逃げ込んだ。刑事たちは追って来た。ジョージはトイレの奥に人が十分通れそうな窓を見つけ、薄い窓ガラスを肘で割った。枠を外して刑事たちに投げつけ、ひるんだところを窓がから逃げ出そうとした、その時、銃声が鳴った。弾丸はジョージの後頭部に命中し、ジョージはそのまま倒れた。即死だった。
「まずく無いですかね。」
「スパイを撃ち殺して何がまずいものか。」
「でも銃痕が残っていれば英国大使館から猛烈な抗議が来ますよ。」
「こうすればよかろう」
 刑事はジョージの頭を掴み、銃が命中したあたりの後頭部を思いっきり壁に打ち付けた。
「上の階から落ちたことにすればよかろう。取り調べは四階で行われていた。ジョージは逃走を図り、自ら四階の便所の窓から飛び降りた。良いな。ここは掃除しておけよ。」

 事件を聞いてヘンリーは怒りに震え、今にもあたりかまわず日本人を捕まえて問い詰めたい気分だった。
「君らがやったのだ、君らが...」と。
 実際、ヘンリーは震災後に鉄筋コンクリートで近代的なホテルのようになった吾妻屋の壁を拳で殴りつけ、危うく指を骨折するところだった。頭を壁に打ち付け、友のために涙を流していたところ、仲居から、恒雄が訪問してきたと聞いて、慌てて髪を整え上着を着た。
「何と言っていいか...日本人として恥ずかしい気持ちでいっぱいだ。」
 恒雄はそう言ったが、ヘンリーは、何の慰めにもならないと恒雄に八つ当たりしそうになった。それでも、寸でのところで気持ちを抑え、英国紳士としての体面だけは保った。
「荒木さん、今度の事で僕は決心しました。日本を出ます。」
 ヘンリーが決意を表明したことで、部屋は長い沈黙に包まれ、アンティークの振り子時計の時を刻む音だけが静寂に彩を添えていたが、突然四時を告げる金が鳴り響き、二人とも我に返った。
「残念ですが、その方が良いかも知れません。英国に帰るのですか?」
「いや、僕が配信していた記事を比較的に取り上げてくれていたニューヨークの新聞社から打診を受けているのです。僕はアメリカに行きます。日本は...結局のところ、僕らの理解を拒んでいたんです。」

 二・二六事件の年から五年、マサは息を引き取った。
義理の息子となっていた恒雄は、葬儀を取り仕切り、晴恵を支えた。晴雄とマサが残した吾妻屋は、これから長男が取り仕切っていくことになる。あるいは、どこかの時点で見切りをつけて、資産を売却するのかも知れない。都心で和風旅館をやる時代でもなくなっていたのだ。

 マサの葬式の後、恒雄は吾妻屋の取引銀行の支店長から声を掛けられた。
「貸金庫に若干の手形、小切手類とその他の書類一式が入っています。印鑑をお持ちになって引き出してくださいますようお願いします。」
 吾妻屋の会社関係の直近の書類は手元にあるが、会社設立時の書類一式が銀行の貸金庫にあるらしい。
 恒雄が銀行に出向くと、応接室に通された。吾妻屋の応接間に比べればだいぶ質素というか殺風景ですらある部屋には、誰のかはわからないが、安っぽい洋風の絵画がかけられていた。
ちょび髭とロイド眼鏡の銀行の渉外課長が、筒のような金属の平べったい器を二つ持ち、部屋に入ってきた。
「お待たせしました。確認してもらえますか。何を入れたかは、顧客側でこの帳簿に記載してもらっています。それと合っているか確認していただき、問題なければ、こちらに捺印をお願いします。」
 そこには、吾妻屋の会社定款、株主名簿、土地登記簿の写しなどの記載があった。ふと見ると、もう一つリストがあって、そちらにも、吾妻屋の古い会社定款、古い株主名簿などの記載があり、それとともに、書類、ノートなどの項目が記されていた。
「なぜ、リストが二枚あるのですか?」
 恒雄が尋ねると、銀行員は、意外なことを教えてくれた。
「貸金庫は二つ、ご利用になっていまして、一つは株式会社吾妻屋のもの、もう一つがマサ様個人のものとなっております。」
 恒雄は、とりあえず、その場では全てを開けてみることはせず、帳簿の各項目のものがあるかどうかだけを確認して捺印した。
 家に持ち帰り、中身を見て、目を疑った。会社設立時の株主の名前に高橋是清とあったのだ。そして、明治三十年(1897年)くらいまでに、何度かに分けて吾妻屋が是清の株式を買い戻し償却していた記録があった。
 不思議なのは、是清が株主でなくなった後も、マサと是清の間で何かしらの取り決めがなされていた事だ。是清からの手紙があったのだ。日付は不明だが、是清が情報の提供に対して礼を言っているものだ。何の情報だかわからない。
 他にはマサの手帳のようなものがあったが、日記のような、晴雄との事を中心とした日々の生活が書き込んであった。

『晴雄さんたちの秘露(ペルー)が失敗に終わって、晴雄さんが獄に入れられてしまってから、三年くらい経った頃、あたしはもう烏森(からすもり)で、島田結も板についた芸妓になっていたけど、あたしはお座敷に出ても、どこか上の空だった。
 その頃、ちょうど芸者屋吾妻屋のお母さんが、もう隠居して湯河原にでも引っ込むということで、あたしが吾妻屋を引き継ぎ、それを改築して、料亭か何かをしようと話しをしていた。
その日、いつものように夜の支度を始め、髪結いのところに行って島田を結って帰って来たところ、そこへ、突然、是清さんが尋ねてきた。
「お吟はおるか。」
 お座敷のお客が芸者屋に来るなんてことはないはずなのに、大声であたしを呼び出すものだから、まだ何人か残っていた芸妓がみんな驚いていた。
 そんな中で、是清さんはあたしの肩に手を掛け、揺さぶるように訪ねてきた。
「今でも田島が好きか?」
 そう聞いてきたけど、あまりに突然のことで何がなんだかわからなかった。けれども、考える間も無い場合は、正直になるもの。
「ええ」
 そう返事をした。そうしたら、是清さんは、今度は、
「お吟、お前さんは、晴雄と一緒になる気はないか?」と聞いてきた。
 あたしは晴雄さんを忘れてはいなかった。でも、是清さんはどうして、あたしが晴雄さんに惚れているって知っていたのかしら?
 一体全体どういう話なのかわからない、そんな顔をしていたら、早口でまくし立ててきた。
「いや、心配しなくて良い。二人で所帯を持てるようにしてやるということだ。すまん、奴を追い詰め過ぎた。晴雄君だけの責任ではない。だから、俺に残された最後の財産で、お主に出資して、二人に所帯を持たせてやりたい。お主は、芸者屋にいくら借財があるのだ?」
「あたしは、もう『分け』の身だし、借財は形ばかりだけど...」
「そうか、そこは問題ないな。しかし、二人でこれから一緒に暮らそうというのであれば、それなりに金が必要じゃろう。お主は、芸妓をやめて何をしていくつもりか?」
 あたしは、この屋敷を改築して料亭でもしようかと考えていることを説明した。すると、是清さんはせっかちにも、吾妻屋のお母さんとすぐに話を纏めようと、改築中の屋敷に上がって行った。
「はいはい、あたしは、もともとお吟にこの芸者屋を継がせようと思ってたんですが、今は料亭にしようかとしていたところです。お吟も、芸妓として一本立ちしましたが、これからのことを考えようとしているところで、あの娘が所帯を持って、好きなことをやるなら構わないし、私は賛成ですよ。」
 お母さんが、是清さんにそう話すと、是清さんは大変満足した様子で、やっと落ち着いて話をした。
「旅館が良い。旅館が不足している。内幸町に帝国議会が開設されただろう。全国から貴族院、衆議院の議員が通うようになる。また地方紙の記者連中も議員の状況に合わせて東京に来るはずじゃ。(しか)るに、東京の内幸町の近くには、有楽町に帝国ホテルと日比谷見附に東京ホテルがあるだけじゃ。洋風のホテルよりも和風の旅館の方が寛ぐと言う者も多い。この辺でどこか適当な土地を見つけて旅館を始めるが良い。旅館となるとそれなりには金はかかるな。それに、この芸者屋の吾妻屋の大きさだと旅館としては少し足りないだろう。俺は、秘露(ペルー)の株主や関係者に家を売って賠償する心算なのだ。そのうちのいくらかをお主のために提供しよう。出生払いで良い。新しく経営する旅館の株式の形で俺が肩代わりしよう。その金で、隣の空き地を買い取り、もう少し大きな旅館とするが良い。準備が整えば、田島の事は、俺が全部話をしておく。」
 吾妻屋のお母さんの承諾を取り付けると、是清は、すぐにまた玄関に出て靴を履いた。
「俺は、これから奴の弁護士のところに行く。それから、奴の両親、確か芝の新門前町だったかな、三田小山の鎮守の森が近いと言っておった。そこへ行く。」
 是清さんがこう言い残して、すぐにも去って行こうとした玄関先で、お母さんが付け加えた。
「旅館を始めるなら、ちゃんと落籍してください。花柳界のしきたりなんで。」
 是清は、少し考えてから、あたしの方を見て話した。
「何にも心配せんでええ。旅館の準備が出来たら、仙臺まで田島に会いに行くと良い。俺が田島の弁護士先生にも話を付けておく。」
 そのように言うので、あたしも覚悟を決めた。
 是清さんは、実は気遣いの人。せっかちだけど、たぶん、あたしが座敷に出て、晴雄さんのことばかり気にしていたのを覚えていたのでしょう。
 是清さんは、本当に綺麗さっぱりした人。家を売って、秘露の関係者に弁償して回って、もちろん、損金全部を弁償できたわけではない。金を作ろうとして、また鉱山事業に出資して、また失敗したりしていた。
 でも、あたしに残ったお金を都合してくれて、後で聞いたんだけど、ご家族は苦労されたらしい。でも、そういう人だから、周りも放っておかない。何かあってもすぐに仕事で声をかけられるのはそういう性格だからだし、後始末をきちんとしたから。

 何日かして、あたしは古川沿いにあった、晴雄さんのご両親を尋ねた。
「私どもも、よくはわからないのですけど、宮城弁護士が来られて、所帯を持ってきちんとした仕事に就くことが情状として考慮されるとのことでした。もちろん、お吟さんのお気持ちがあっての事ですから、無理にとは申しません。」
 お義母さんから、そのように申し出られて、あたしはきちんと三つ指をついた。
「あたしのような不束者を、もったいなく思いますが、あたしは誰よりも晴雄さんのことをお慕い申し上げていました。田島の家に迎えていただけるのであれば幸せでございます。」
 田島のお義父さんは喜んでくれた。
「あなたのようなお美しい方を嫁とすることができるなんて、うちの息子にもようやく運が巡って来たのかも知れません。」

 仙臺(せんだい)の晴雄さんを訪ねて、監獄から出してもらった。二人で、汽車に乗って東京に戻る時に、ああ本当に、この人と二人でやっていくんだわ、と思うと、これからの人生、何でも乗り越えられる気がした。あたしは、本当にこの人に憧れていた...

 吾妻屋を始めてから、晴雄さんはほんと働いてくれた。
あたしは働かない、道楽者の亭主に苦労する元芸妓のお姐さんたちを何人も見てきた。亭主が働き者というだけであたしは果報者。
 でも、晴雄さんは時々、苦しそうな顔をする。心が安らいでいない。なぜかはわかっているのに、そのことはあたしではどうすることもできない。男の人にとっては名誉が何より。士族の家の出ならなおさら。できるのは、この吾妻屋を二人で盛り上げていくこと...

 お妻さんが突然来て、相談があると言う。あの人たちが晴雄さんを巻き込み、吾妻屋に泊る政治家や他の名士達の弱みを聞き出せと言われたのだそう。
「あたしはお二人をこんなことに巻き込みたくないの。でも、やらないと何をされるかわからない...」
 あたしは言った。
「お妻さん、心配しないで。晴雄さんはあたしが何としても守るから。お妻さんは自分の身を守るために、連中に協力しているフリをしていて頂戴。うちは大丈夫だから...」
 そうは言っても、あたしにもあてがあったわけでは無い。だから、その事を是清さんに相談すると、逆に頭山さんたちの動向を度々知らせる様に言われた。それじゃあ、あたしもお妻さんとやることは一緒じゃないのって言ったら、それはあたしと晴雄さんの生活を守るためだって諭された。
 是清さんは、そのための報酬として、借入れの利息を無利子にしようと申し出てくれた。
「烏森という恐ろしい魑魅魍魎が蠢いているところに住んで旅館をやっているのだから、したたかにやっていく他はあるまい。危険な連中のことを良く知っておかなければ。」
 是清さんにはそう諭された。

 恒雄はマサの日記を読んできて、ここで目を上げた。時代を生きてきた、二人に自分はなんの力にも成れなかった。
 それでも、マサの背の後ろで、時代はさらに動いていたのだ。恒雄は、マサの儚げな姿の後ろで音を立てて崩れて行くこの国を確かに見た。日記は、この先、晴雄に宛てた手紙のようになっていた。

 初めて待合であなたにあった時、あたしはまだ半玉の雛妓(おしゃく)だったよね。それなりに着飾ってはいたけど、裾はおはしょりだったし、髪は桃割れ。少し年上のあなたには子供にしか見えなかったことでしょう。ちっともあたしを見てはくれてなかった。
だから、どうしても気を引きたくって、読めもしない、あのスペイン語だっけ? あの書類を読んでみた。
 二度目の秘露に行く前の日を覚えているかしら?
 あなたは珍しくすこし酔ってましたよね。顔がこわばっていて、あたしは凄く心配だった。しばらく会えないから、ってこともだけど、心配で汐留まで見送りに行っちゃった。
 ほんとは見送りになんか行きたくなかった。だって寂しいもの。あなたが帰って来てくれないんじゃないか、って本気で心配してた。

 あたしが、仙臺を訪ねた時、あたしがまるであなたを落籍したみたいに、あなたの仮出所が許されて、すごく驚いていたわよね。もちろん、無理はないんだけど、あたしはずっと平気な顔をしてた。
 本当は、少し吹き出しそうだったの。好きな人と一緒になれるから、うれしくて。でもあなたは何が起きたかさっぱりわからない、って顔をするのだもの。
 凌雲閣へ行った時のことは覚えているかしら?
 新橋で育ててもらって、綺麗になったあたしを見せたかった。あなたはまだ迷ってましたよね。無理もない...出てきたばかりで、人生をどうやってやり直すか、どうやって誇りを取り戻すか、まだそれどころじゃなかったのよね。
 あたしが無理やり、そう押しかけ女房みたいにあなたを引きずり込んで、でも、誇りを取り戻してほしかった。あたしはルビー・シルバーの代わりになりたかった。

 この国は、変わってしまったけど、ルビー・シルバーそのものだった。美しく、艶やかに輝いていたが、脆く、傷つきやすい。そして、その結晶も破壊されてしまった...
 その人たちは、文士の人達も、あたしの大切な晴雄さんも、みんな連れ去ってしまった...
烏森は、もうすっかり変わってしまった。

 小山内さんから教えてもらった、スウェーデンの詩がある。森の精が大切な人を連れ去ってしまうという話。西洋では森の精というのは、良い精霊の場合もあれば悪霊の場合もあるらしい。リュードベリっていう人が書いたものらしいんだけど。

『彼らは破滅と栄光をもたらす
彼らは眠りと夢をもたらす
沈黙し、眠る森の深い安らぎの中で
しかし、森の精が盗んだ彼の心は、帰ってくる望みはないのだ』
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