第27話 波蝕

文字数 4,053文字

「あれは銀座での騒ぎがあってから一週間経ってない時だった。僕が朝早く、吾妻屋の周りを散歩していたら、どこかの屋敷の竹矢来のところに人溜まりが出来ていたんだ。その人溜まりを作っていた人達は僕と同じように近所から出てきて、朝の散歩をしていた人達だ。その人達にとっては日課みたいなもんだろう。そこにあんなものがあったら...あんなものって言うのは、凄惨な死体だよ。僕は戦争を経験したし、記者をやってりゃあ、嫌でも死体くらいみるからね。その死体を見慣れている僕ですら顔をそむけたくなるような、本当に凄惨な死体だったんだ。顔なんか、もう判別がつかないくらい殴られて、脳みそがあたりに散らばっていたんだ。腕や足は不自然に折り曲げられて、それに体中、血だらけだった。どこか他のところでさんざん殴られ血まみれになったのを、烏森で捨てて行ったんだ。それもこれ見よがしにね。誰にあてつけたんだろうか。それはわからない。烏森には、社会活動家などが救民活動していて労働組合やら左翼活動家が出入りしているだろ?たぶん、そいつらにあてつけたんだ。あれは、左翼、労働組合の出過ぎた真似に対するリンチなんだ。犯人はわからないんだ。普通に烏森に巣食っていた、黒龍会系の噂もあったけど、そもそも企業相手の左翼対策を商売(しのぎ)としていたのは、黒龍会のような純粋右翼だけではなく、任侠系も多かったからね。まあ、僕に言わせりゃあ、どちらも同じだけど、でも、まあ洲崎に根を張っていたヤクザがやったという噂も根強かった。」

「その頃からだね。文化の香りを新橋に漂わせようという中、何やら似つかわしくない連中が街を闊歩するようになったのは。もちろん、頭山みたいな奴が新橋、烏森を根城にしていたのは昔からだし、吾妻屋に出入りしている政治家もほとんどヤクザと見分けがつかなかったくらいだが、明らかに増えたんだ、その頃から。そして、硝煙の匂いが取れない男、三浦が烏森に姿を現すようになって、吾妻屋に顔を出しはじめた。朝鮮の事件の後は、しばらく蟄居(ちっきょ)していたはず。え、蟄居だよ、昨日この言葉覚えたんだけどさ。ともかく、明治の終わりには三浦は政界にも復帰したし、その頃は。明らかに何かを工作していたね。頭山と密接に連絡を取り合っていたのは間違いないと僕は睨んでいる。烏森は特に酷かったわけだが、でもあの頃の日本は全体が殺伐としていたね。シベリア出兵でまたぞろ国威が発揚されていたところに、例の米投機により、暴動騒ぎにもなってしまった。まあ、欧州から来た身としては、この種のことは日常茶飯事なんだけどね。その米騒動では吾妻屋は本当に酷い目に会った。それが単なる群集心理じゃ無いんだ。僕も目撃した。」

 大正七年(1918年)の夏、富山で始まった米騒動は全国に広がりを見せていた。すでに新聞報道で大阪などの状況が伝わっており、東京でも警戒はされていたのだ。しかし、八月の十三日、ポーツマスの時と同じように、日比谷に人々は集まり、集会を開いた。群衆の数はどんどん膨れ上がり、一部の群衆が帝国ホテル前から気勢を上げて行進を始めた。その集会やがて数千人にまで膨れ上がり、街に出て暴れまわった。翌日の夜も群衆は膨れ上がり、群衆たちは富の象徴である花街である新橋方面を目指した。
 既に民衆の暴動について既に烏森にも噂が広がっていた。
「マサさん、気を付けて。旅館も数日、畳んでいた方が良いんじゃないかしら」烏森の知り合いからそう言われても、旅館を営む者が簡単にその営業を中止できるわけでは無い。旅館から追い出されて行き場を失った者が暴動に巻き込まれる事だって心配になる。
 晴雄とマサはお客達と子供たちを奥の部屋に避難させ、手に木刀を持ち身構えていた。遠くの方での気勢を上げている声が聞こえる。何度かの改築で旅館自体はしっかりした建付けになっている。それでも、遠くの気勢を上げた声だけが届くのもまた、恐怖が増幅されていくようだ。
「客と子供たちを裏から逃がそう。中庭の垣根伝いに行けば枡田屋の勝手口に行ける...いや、待合や置屋はポーツマスの時に狙われたから危ない。烏森神社だ。神社ならまさか火を付けられることはあるまい。」
 マサが案内して客を烏森神社の境内まで避難させた。しかし、境内にはすでに避難の人たちで溢れていたし、近くの枡田屋などに火を放たれれば、ここも安全ではないと思えた。マサが客と一緒に困惑していると褞袍姿の頭山がふらっと現れた。
「吾妻屋さんじゃないか、お客を避難させようという事か。しかし、ここじゃ危なかろう。よか、こっちについてきんしゃい。」
 頭山の意図が分かりかねていたが、マサはお客達の事を思い、頭山の後を付けて行った。烏森駅近くのビルの地下へと連れていかれたが、そこは平民食堂であった。むしろ、今回の騒動で暴れている者達かと思っていたが、頭山が平民食堂の男に何やら声を掛けると、男は頷いた。
「ほれ、三十人くらいまだ余裕があるそうじゃ。地下だし、連中もここまでは来んじゃろう。何しろ、攻撃対象は裕福そうな料亭や待合じゃろうからの。貧乏人の集まる平民食堂は安全じゃて。」頭山はそう言うと高笑いをした。
 この平民食堂には労働運動で会社側と文字通り戦っている屈強な男たちもいるからまずは安心だ。それでも晴雄の事も心配だったので、もう20歳近い長男に下の子達を任せて、晴雄の所に戻る事を決めようとして客達の方をふと見ると客の中にいたはずのヘンリーが居ない。
「頭山さん、ファーガソンさんがいないのですが...」マサが頭山に尋ねると、冷笑したかのような顔で答えた。
「あの外人記者かいの。あ奴は吾妻屋へ戻っていったぞよ。」
 そう聞いてマサは、地下からは見えるはずも無い吾妻屋の方を向いた。気のせいか、外の喧騒が大きくなっているような気がした。下の子たちもそれを感じ取っているようだった。
「怖い」
「ここにいれば大丈夫よ。」
 まだ幼い子供たちを落ち着かせようと言ったものの、外から聞こえる暴徒の無秩序な行進の音が不思議な規則性を備えて実態以上に建物を揺らしているように感じた。ガラスが割れるような音がした気もした。
「晴雄さん…」
 不安な顔のマサの横を頭山が通り過ぎ、食堂からどこへともなく消えていった。

 晴雄は吾妻屋の通りに近い厨房で身構えていた。火を放たれた場合の水もいくつかのバケツに汲んで用意してあった。そこヘンリーがやって来た。
「僕も加勢しますよ、どれだけ何ができるかわかりませんが。」
 ヘンリーには記者として事件を見極めたいという意図もあったが、親しくなった旅館の主人に加勢したい気持ちがあったのは本当だった。
「あなたも変な外国人ですね。近頃、そういう外国人が増えてきた気がしますが。」
 晴雄がそう言って少しだけ笑うと、ヘンリーも笑顔で頷いた、その瞬間、厨房の窓硝子が割れる音がした。割れた窓から群衆の叫び声が聞こえた。その声が聞こえたと思ったら、次の石が飛んできて、次々の窓硝子が割れた。覚悟はしていたが、予想以上に激しい投石の嵐で、この部屋に居ては耐えられそうも無かった。
「ここでは無理ですね。逃げますか?」
 ヘンリーが聞いても晴雄は頷かなかった。
「僕はここの主です。マサと築いてきたこの城をやすやすと明け渡すわけには行かない。」
 そう言うと晴雄は腰を上げて今にも外に飛び出しそうになっていた。ヘンリーは晴雄に縋るようにして行く手を阻んだ。
「田島さん、命あっての物種ですよ。」
 ヘンリーがまだ取れない外国人訛りで、日本の諺を言うものだから、緊張し怒っているにも拘わらず、声を上げて笑ってしまった。
「もう、本当に可笑しなことを言う外人さんだね、君は。」
「While there's life, there's hope.」ヘンリーは微かな希を持って、泣きそうな笑顔で改めて英語で晴雄を説得した。晴雄は頷きながら、英語で返した。
「Where there is a will, there is a way.」
 晴雄は木刀を手にして外に飛び出していった。ヘンリーは慌てて後を追った。気が付くと、とても戦闘する服ではなく、旅館で寛いでいた時の褞袍のままだった。
 殺気立つ暴徒を前に、晴雄は木刀を構えて言い放った。
「俺の宿に手を出す奴は俺が相手する。」
 気が付くとヘンリーまでが木刀を持っていて、見事な上段の構えを見せていた。暴徒の中のリーダー的な男が一人前に進み出た。髪の毛はぼさぼさでまるで野武士のような風貌であった男の後ろにはいかにも組合運動の闘士と言った風情の男たちが群れを成していた。晴雄が、その男の正面に対峙して、吾妻屋への攻撃を止めさせるための話をしようとしていた時に、再び後ろから「遣れ遣れ、遣ってしまえ。」の掛け声が掛けられ、投石が始まった。
「やめろ!」晴雄が投石の男たちを見た時に、烏森の頭山達のところに出入りしている男がいるのを見つけた。「貴様...」晴雄がそう言って男を睨みつけた時、後ろから低い、聞いた事の無いほどのドスの効いた女性の声がした。
「貴方達、おやめなさい!」
 マサはどこから持ってきたのか、物干し竿のような長い棒を持ってきて薙刀の名手の様に身構えた。晴雄は心底驚いた。マサが薙刀ができるなどという話は聞いた事が無い。
 マサの気迫に押されたのか、男たちが後退りし始めた。ここだとばかりに、晴雄は木刀を振り回し、男達の間に割って入った。男たちはたじろいで、後退りを続けながらこそこそと後ろの方へと行き、その後脱兎のごとく逃げて行った。
「子供達は?」
 ヘンリーが尋ねると、マサは笑って「長男と頭山さんが面倒見てくれています。」と答えた。
 ヘンリーがマサと平民食堂に戻ると、そこには長男と頭山がまだ幼い下の子達とカード遊びをしているのが見えた。ヘンリーはその姿が非常に奇異に感じたので、頭山と話をしてみたいという思いに駆られたのだった。
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