第15話 乙未の秋

文字数 2,568文字

 十月の八日、その日は、マサと晴雄は照葉に誘われて、昼過ぎから吾妻屋のすぐ近くの踊りの師匠のところに出向いていた。上京したばかりで、お酌になるという桃割れ頭の若い娘が数人、師匠から手ほどきを受けていた。マサはそれを眺めながら、晴雄に出会ったのもまだ自分が髪を桃割れにしていた時だったなあ、と懐かしく思い出し、娘たちを目を細めて眺めていた。
 照葉が耳打ちしてきた。
「お吟姐さん、あそこの一番、右の娘、八重って娘何だけど、すごく筋が良いと思わない?今後、新橋で一番の芸妓になるわよ、きっと。」
 確かにその娘の踊りは群を抜いていた。器量も良く、ちゃんと育てて行けば、相当な人気者になるだろう。そんな事を考えていた時、光山の使いという、あまり風体の良くない男が入ってきて、照葉に耳打ちした。照葉の顔がみるみる青ざめて行った。
 こっちを向いた照葉の向こうでは、三味線の音に合わせて八重達が踊っている。冬が近づき、三時ころには既に日差しが弱くなっていたせいか、部屋の中はいつにも増して暗かったが、紅色の着物で着飾った娘達の踊りは、とにかく眩しかった。そんな娘達の踊る側で、まるで仁王立ちのように恐ろしい形相の照葉が立っている。
「どうしたって言うの?」マサが尋ねると、照葉は使いの男の方を確認を求めるかの様に向いた。男が構わないさ、というような仕草をしたので、マサに小声で話しかけた。
「三浦さんが...朝鮮のお姫様を殺しちゃったらしい...」

「朝鮮の明成皇后、閔妃(びんひ)が行方不明になったらしい。」
その年の九月に三浦梧楼(ごろう)が在朝鮮国特命全権公使に就任したと新聞で報じられてから間もない、十月の初旬、我が家のように泊まり続けていた杉村が、誰に教えるというわけでは無いが、一大ニュースを得意げに触れ回っていた。朝鮮の明成皇后、閔妃(びんひ)は十月八日、三浦梧楼(ごろう)の意を受けた国友らによって殺害されたらしい。閔妃(びんひ)は殺害されたあと死体を焼かれた。事件の後、三浦は無関係を主張していたが、朝鮮政府が三浦達を形ばかりの軟禁状態に置き、その後、日本政府が三浦等関係者を拘束し、広島に送還した。
 照葉は半ば逃げるようにして、震えながらマサのところに身を寄せていた。政治の事など何もわからない。いくら照葉が三浦の背中を押して朝鮮に行く事を促したとしたって、まさかこんなことになるだなんて思ってもいなかったのだ。照葉に責任があるわけじゃ無い。ただ照葉は、自分も良く知っている三浦が大変な事をしでかしたという気持ちで頭が混乱するとともに、とにかく怖さを感じたのだった。
「三浦の奴、なんてことをするんだ。これじゃあまた戦争だ...」
 玄関先で杉村と談笑していた時、晴雄はそのように言葉を漏らしたが、杉村を訪ねて来た頭山が大声で恫喝するように吠えた。
「なんの、狐狩りくらいで、我が国の政府も動揺したりはせん。」
 杉村は頭山を見つけると、まるでゴマをするようにすり寄り、愛想めかして頭山に同意の態度を示した。
「そうですね。頭山さん、とりあえず...少なくとも、結果は頭山さんたちが望んだものとなったはずですね。」
「三浦はいずれ、無罪放免となる。何の心配もないわ。」依然として頭山は泰然自若を演じながら、腹の底から出てくるような太く大きな声で、咆哮した。「とにかく、今回の朝鮮の件は、失敗などではない。多少の混乱など、アジアの大義の前では瑕瑾じゃよ。」
 頭山の言に晴雄も悟った。
(こういう事だったのか...)
 頭山の予想通り、まるで茶番のように証拠不十分で免訴として広島予審は終結し、世の中はまるで何も無かったかのように元に戻った。その後、三浦はしばらく姿を消して、新橋界隈でも姿を見なくなった。
 
 それから二年、烏森は以前と変わらず、小径に入れば三味線の音が聞こえたが、表通りはあ人力車の往来が増え、街に人が溢れる様になり、建物も増えたためか、潮風が遮られるようになり、以前のように潮の香漂う花街では無くなっていた。待合の数も増えるとともに、以前よりも派手な着物を着込んだ芸者が増え、昔のどこと無い静けさが失われつつあったのだ。それでも、三浦の起こした乙未事変から二年が経ち、世の中は落ち着きを取り戻していた。
 そんな頃、是清の仕事ぶりが報道された。是清は、この年、横浜正金銀行で早速の大仕事をやってのけたのだ。戦後の好景気で、景気が過熱して、民間の資金需要が増大しすぎたために金融市場でさばけなくなっていた日清戦争中発行された戦時公債の日銀が引き受け分について、横浜正金銀行の副頭取に就任してすぐに横浜正金銀行のロンドン支店と連絡を取り、ロンドン市場で横浜正金銀行と英国の銀行団からなるシンジケートを組ませ、これらの銀行に戦時公債を売却することに成功した。
 どんなに良い仕事をしていても、ケチを付ける者はいるものだ。特に戦争屋達はいつの時代も資金が無尽蔵にあると思っている節がある。
「なあ、晴雄君、日本国の資金は全て国内で賄うべきだ、そうは思わんかね?」杉村が居間に訪ねて来た頭山を前にしていたが、通りかかった晴雄を捕まえて同意を求めた。
「私は国際金融の事はどうも...」
 晴雄がそう答えると杉村は口元だけで笑った。褞袍を羽織っていた頭山は、目を閉じて只管沈思黙考していた。晴雄もこの男のそんな姿を幾度となく見たことがある。決して自らは語らない。しかし、不思議な威圧感があり、ただでさえ政治に疎い晴雄は、何も言うまいと身を固くするのだった。
「まあ、晴雄君は、是清のすることなんか興味はないわな。」杉村が揶揄い気味に言ったが、頭山が目を開いて、口を開いた。
「高橋是清という男は、良く言えば決断が早いが、悪く言えば詰めが甘い。また、何でも淡泊で薄志弱行な男なのだ...三浦はそう言ってたの...」頭山が一言そう言っただけで、何かが動きそうで不気味だった。杉村は腰巾着ばりにただ只管頷いていた。
「そんな奴が国の重大な資金の調達に関わると言うこと自体が言語道断ですな。」

 戦争のための国債をロンドンで売却するという、是清は言わば戦争屋の尻ぬぐいをしたわけなのだが、排外主義者たちは、とにかく是清に罵声の雨を降らせた。しかしこうした声に是清はどこ吹く風でいつもこう返していた。
「そんな金がどこにあるのだ?」


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