第13話 坂本、オットに会う

文字数 3,220文字

 あたりまえのことだけれど、彼女がフランスに帰国してから二週間ほどの間、部屋の様子はまったく変わっていなかった。コンサートホールのように高い天井や、爽やかなグリーンの壁紙、木漏れ日のように部屋を淡く照らすシャンデリア。そして例のグランドピアノも部屋の奥の定位置に行儀よくおさまっていた。なじみのある夢の中のように、そのひとつひとつが僕に向かって微笑んでいた。なんだかとてつもなく長い時間、この家に足を踏み入れていないような気がした。

 アリスはリビングルームの扉にもたれかかるようにして立っていた。すこしくたびれた様子で、どこか遠いところを見るような目で僕を見ていた。Tシャツとショートパンツというラフな格好で、化粧はしていなかった。Tシャツにはフラミンゴのイラストがプリントされており、それはどこかの南国のバカンスを連想させた。華奢な肩に黒いレースのストラップがかろうじてひっかかっていた。ショートパンツからのぞく脚はまばゆいほど白く、シャンデリアのひかりがまだらに降り注いでいた。彼女はその美しさを無造作に身にまとっていた。

「元気?」と彼女はフランス語で尋ねた。
「あ、元気。君は?」と僕はすこしどもりながら答えた。しかし彼女は僕の答えをまったく無視して台所の方に向かった。そしてそこから、「何か飲む?」とこれまたフランス語で叫んだ。どうやら今日は日本語を話す気がないらしい。僕が答える前に、彼女は琥珀色の液体と氷を入れたグラスをふたつ持ってきて、ひとつを僕に渡した。そして自分のグラスを僕のグラスに軽くぶつけ、「乾杯」と言った。きいん、という音がリビングに響いた。ちょっと舐めてみると、舌にとろりとからみつくような麦芽の味がした。僕はそれほど酒に詳しいわけではないが、おそらくかなり高級なウイスキーであろうと思われた。僕はすこしむせた。その時、アリスが早口で何かを言った。
「今、なんて?」と僕は訊き返した。
すると彼女はやや苛立った様子で、「お酒、大丈夫?」と日本語で答えた。
しかしその日彼女が日本語をしゃべったのはそれきりで、それからは終始フランス語を話していた。ヒヤリングには自信があるつもりだったが、その日彼女が話していたことは30%ほどしか理解できなかった。おそらくフランスでのバカンスのことを話しているのだろうということは想像できたのだが、何せ早口なのとスラングらしきものを交えて話すので、時々何を言っているのかまったくわからなくなった。けれど彼女は話し続けた。僕が理解しているかどうか、特に気にしていないようだった。いや、というより僕が何の目的でここにいるのかもすっかり忘れているようだった。おそらくレッスンが始まる前からすでに飲んでいたのかもしれない。

 でも、これが本来のアリスなのだ、と僕は思い直した。これまでアリスとの会話に違和感を感じてこなかったということは、逆に言うと、彼女が僕に合わせてくれていたからなのだ。レッスン中にフランス語を使う時は、ゆっくり丁寧に発音してくれたし、わからないところは辛抱強く教えてくれた。そしてレッスンが終るとまた日本語に切り替えてくれた。そんな彼女を見て恋をするだなんて、思い上がりもはなはだしいような気がした。僕は彼女がフランス人であるということを、たぶん本当の意味では理解していなかったのだと思う。日本語を話すことは彼女にとって不自然な努力であるということ、この国は彼女にとって遠い異国なのだということ、そしてその異国の文化に自分を合わせようと、日々、身を削るように生きてきたのだろうということも。

 僕は自分を猛烈に恥じた。そして、今、彼女がこうしてフランス語で話してくれていることをむしろ喜ぼうと思った。いくら酔っているとはいえ、彼女がすこしでも僕に心を許してくれた証拠なのではないだろうか。それに彼女の話すフランス語は耳に心地よかった。彼女の声はすこしハスキーで、かと思うと少女の声のように軽快で、毬のようにリズミカルだった。言葉はとめどなく流れ出て、止まることがなかった。それはアリスの奏でる音楽だった。彼女の魂が語る物語だった。僕はそのすべてを吸収したいと思った。

 けれど一時間、二時間と時間が過ぎていくにつれ、さすがに集中力が限界を迎えてきた。僕はだんだん眠くなってきて、別のことを考え始めた。昔、テレビで観たシュワルツェネッガー主演のアクション映画のことだ。オフィスで仕事中の主人公の元に奥さんから電話がかかってくる。内容は忘れてしまったが、「水道管がまだ故障してる」だの「お隣のルーシーときたら…」だのといった類の長話だ。奥さんは一方的にしゃべりまくっている。主人公はあらかじめ自分の声を録音しておいたカセットテープを電話につなぐ。テープからは、「なるほど、ふんふん」という声がくりかえし流れている。奥さんは自分が機械に向かってしゃべっているとは知らず、話し続ける…。たしかそんな場面があったと思う。

 でも、アリスはそんな俗っぽい奥さんじゃないはずだ、と僕の心の中で声がした。そうだ、そんなことを考えるなんて失礼だぞ、とその声は僕に言った。でも、そういえばアリスだって結婚しているんだよな、と別の声が言った。彼女はどんな奥さんなんだろうとふと気になった。不思議なことだが、これまで僕はそのことに想いを馳せたことがなかった。彼女が既婚女性だということを考えたくなかったのかもしれない。彼女がオットとふたりきりでいる時、何を話すのだろう。どんな風に彼を見つめ、どんな風に唇を重ねるのだろう。

 そこまで考えると僕の心臓は狂ったように暴れはじめた。胃が灼けるように痛んだ。指の先が冷たくなり、額に汗が滲んできた。喉の奥に蛇でもいるみたいに、ひくひくと痙攣しはじめた。僕はこらえきれなくなり、「トイレを借りていいか」とアリスに頼んだ。フランス語で尋ねたつもりだったが、彼女は僕の言葉が聞こえなかったみたいに相変わらずひとりで話し続けていた。僕の様子がおかしいことにも気づかないようだった。仕方なく無断でトイレに行き、吐いた。ウィスキー一杯だけで人間の躰はこんなにおかしくなるものなのだろうか。それともまだ暑さの残る気候に知らぬ間に体力を奪われていたのだろうか。僕は内臓がぜんぶひっくり返るんじゃないかと思うくらいに吐いて、吐いて、吐き続けた。

 どのくらいの時間が過ぎたかわからない。洗面所で口をゆすぎ、顔を洗った。鏡に映った僕の顔は黄色く濁ってゆがんでいた。けれど気分はいくらか良くなっていた。リビングに戻ると、アリスは机に突っ伏して眠っていた。長いまつげが陶器のような肌に影を落としていた。腕はだらりとテーブルに投げ出され、糸の切れた操り人形みたいだった。あれほど酒を飲んだのに、不思議なことに彼女の肌は以前と同じようにつるんと白いままだった。彼女の肌の下に血管が通っているのかどうかさえ、わからなかった。かすかにウィスキーの匂いのする寝息と規則的に上下している肩の動きが、かろうじて彼女が人間であることを証明していた。僕はソファにかけてあったカーディガンを彼女の肩にかけると、なるべく音を立てないように帰り支度をし、そっと玄関に向かった。

 その時、玄関のチャイムが鳴った。僕はぎくりとし、とっさにアリスの方を見た。彼女はあいかわらずすやすやと眠っている。無視してしまおうかとも思ったが、チャイムは執拗に鳴り続けた。その電子音は運命の宣告のように高らかに響いていた。インターフォンの画面を覗くと、そこには身なりのいいサラリーマン風の男が立っていた。心臓がごとりと音を立てた。僕は吸い寄せられるようにインターフォンの通話ボタンを押し、相手が話すのを待った。
「アリス、いないの?鍵わすれちゃってさ。開けてくれない?」とその男は言った。
それはその時、僕が一番会いたくない人物だった。 
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