第2話 架空の街の洋館

文字数 3,706文字

 メールでのやりとりはトマトをすとんと切るみたいにあっさり進んだ。やたらひらがなが多いという点を除けば、先方からのメールはきちんとした丁寧な日本語で書かれていたし、住所も電話番号も明記されていた。高額な授業料を要求されそうな気配もなかった。先方の名前は「アリス・デュボワ・モリタ」(Alice Dubois Morita)と言った。最後の「モリタ」はもちろん「森田」であろうが、それがすこし僕をがっかりさせた。しかし少なくとも、これで向こうの正体は明らかになったわけだ。日本人の夫を持つアリス・デュボワさん。日曜日の午後には三月ウサギや帽子屋や眠りネズミを招き、夜には空に浮かび上がるチェシャ猫の笑いを忍び見るのだろうか。おそらくそうした童話のイメージのせいで、僕にはアリス・デュボワなる女性をうまく思い浮かべることができなかった。

 メールの最後に、彼女は「がっきを えんそうできますか」と質問していた。
がっき?
僕はメールをもう一度読み返した。そうだ、確かに彼女はそう訊いているのだ。「楽器を演奏できますか」と。フランス語の会話をはじめるにしては、ずいぶん変な質問だと思った。けれどもしかしたらリズム感や音感などが語学を学ぶ上で何か重要なのかもしれない。幸い、僕は子どものころからピアノを習っていて、大学生になってからも週一度は個人レッスンを受けているので腕は衰えていないはずだった。そこで「ピアノが ひけます」と返事をしておいた。
こうして僕は、九月のある日その家に向かうことになったのだった。

***
 
 レッスンの約束は金曜日の午後四時だった。その日はじめて降り立った駅は、不格好な積み木のおもちゃのようにぺとりとそこに佇んでいた。平べったいホームの蛍光灯の光が目を射た。おもちゃの駅は二、三人の乗客を無表情に吐き出すと、何事もなかったようにまた何の変哲もない駅に戻った。駅を出ると生ぬるい風が吹いていた。空は重く翳っていて、雨をふくんだ雲が僕の肩の上に落ちてきそうだった。今朝のニュース番組で台風が来ると告げていたのを僕は思い出した。運の悪いことに僕は傘を持っていなかった。けれどレッスンはおそらく一時間くらいで終わるだろうし、台風の来る前に引き上げればいい。そう思い直して、メールで指示されていた住所を目指して僕は歩き始めた。

 鉛色の雲の下で街は死んだようにじっとしていた。通りには人影がまばらで、人々はみな幽霊のように歩いていた。ある者は本屋の片隅に、またある者は曲がり角のパン屋に吸い込まれるように消えていった。それはなぜだか架空の街を僕に連想させた。ある日ある時だれかの頭の中でプログラミングされた架空の街。登場人物たちはみな決まり切った灰色のスーツと赤いネクタイを着用して、架空の家族の待つ架空の家へと帰る。そしてプラスチックで出来た偽物のカレーライスを食べ、温度のない湯につかり、水玉模様のパジャマを着て眠るのだ。そこでは寝言だってプログラミングされている。うーん、むにゃむにゃ、とかなんとか。

 なぜ突然そのようなイメージをその街に対して抱いたのかはわからない。もしかしたらはじめて訪れる場所なので、思ったより緊張しているのかもしれない。僕は方向音痴ではないつもりだったが、二回も三回も道を間違えた挙句、やっとのことで指定の場所にたどり着いた。

***
 どこから足を踏み入れればいいのかわからなくなるほど、その家は大きかった。家をぐるりと取り囲んでいる石の塀は無限に続くのではないかと思うほど長く、おまけに上り坂のどんづまりに建てられていたので、入口に辿り着くまでに僕はびっしょりと汗をかいていた。その家に来る約束をしたことを僕は後悔しはじめていた。なんだってこんな台風の日に、見知らぬ街の馬鹿みたいに大きな家に来なければならないんだろう。このまま引き返してしまおうかとも思った。後でメールを書いて、天候不良のため来られませんでした、とでも言えばいい。けれど僕はそうしなかった。家の女主人が門の前まで駆けてくるのが見えたからである。

 彼女は淡いグリーンのワンピースを着ていた。肌の色は淡雪のように白く、長い亜麻色の髪は耳の後ろで留められており、貝殻のようなきれいな耳がよく見えた。瞳は春の海のような青色で、長いまつげに縁どられていた。ほほはすべすべしており、唇は鮮やかな桃色をしていた。人妻というより村娘役の少女みたいだった。

こんにちはと彼女は簡潔に言い、手を差し出した。僕もこんにちはと言ってその手を握った。ひやりとしたちいさな手だった。まるで雨の中に溶けてゆく砂糖菓子のように。
「今、ちょうどメールをしようと思ってたの。台風が来るから中止にしようって。でも、来ちゃったのね」
と彼女は言った。思いのほか彼女の日本語は流暢だった。少なくとも、僕のフランス語よりは確実に上手だった。そして彼女は笑顔を見せた。すみれの花が野原いっぱいに咲いているような、素敵な笑顔だった。
「雨が降る前に、さあ、早く」と彼女は言い、僕の背中を押した。こうして僕はその家に最初の一歩を踏み入れた。

 迷路になりそうなほど長い廊下を抜けると客間に出た。その外観からは想像できないほど家の中は明るく広々としており、何よりモダンだった。天井は高く、内装は爽やかなグリーンで統一されていた。家具や調度品は温かみのあるマホガニー材で出来ており、どれも一流品ばかりのようだった。天井からはシャンデリアがぶら下がっており、森の中に射す木洩れ日のように部屋をやさしく照らしていた。部屋の奥にはグランドピアノが置かれていた。よく磨きこまれた木目調の美しいピアノで、おそらく丁寧に手入れされているのだろうと思われた。ピアノは忠実なゴールデンレトリバーのように、部屋の隅でおとなしく出番を待っていた。

 「お茶はいかが?」と彼女が言った。僕はテーブル席へと向かった。テーブルの上の花瓶には白いリンドウが活けてあり、ティーカップが二組並んで用意されていた。彼女は僕を座らせると、珈琲がいいか、紅茶がいいかと尋ねた。僕は紅茶を頼んだ。彼女は台所に行き、ティーポットを手にして戻ってくると僕のカップにお湯を注いだ。シナモンの香りがふわりと舞った。ティーソーサーにはバタークッキーを二枚添えてくれた。

「お客さんが来るのは久しぶり」と言って彼女は嬉しそうに笑った。それから少し声をひそめて「オットは今家にいないの」と言った。「オット」という言葉を口にする時、彼女は「オ」の音にアクセントをつけたので、それが「夫」を意味すると理解するのに少し時間がかかった。外国人の名前か何かだと思ったのだ。僕は曖昧に頷いた。彼女はにっこり笑った。光の下で見ると、彼女の白い肌の色がいっそう胸に染み入るように思われた。

 僕は着替えのシャツもデオドラントスプレーも持ってこなかったことを呪った。汗はすっかりひいていたが、どうか変な匂いがしていませんようにとひそかに願った。けれど僕の躰はどうしたわけか、毛穴なんてございませんとばかりにつるりとそこにおさまっていて、薔薇色のため息でもつきかねない様子だった。カップに添えられた手までもが彫刻作品のように澄ましていて、ふだんの僕の手よりうんと上品に見えた。 

 鬱陶しく胸を押しつぶすような外の空気も、この部屋の中には入ってこられないようだった。まるで誰かが魔法を使ってすべての悪なるものからこの家を守っているみたいだった。部屋の空気はやわらかく、シャンデリアは蜂蜜色に輝いていて、調度品はよく躾けられたシャム猫のように部屋の片隅でじっとしていた。

 その部屋にいると僕の躰はすこしずつ輪郭を失い、その上品な調度品たちの一部になってしまうような気がした。躰という重力から解放され、やわらかなシャンデリアの光をたっぷりと全身に浴び、白い陶器の花瓶にでもなってしまったように思った。彼女の美しさを引き立てるためだけに存在している装飾品の一部。

 僕はそっと咳払いをしてみた。乾いた咳払いの音は部屋の空気をほんの少し揺すぶって、それからテーブルの上にぽとんと落ちた。僕は窓の外を見た。空は相変わらず鉛色で、空気にはかすかに雨の匂いがした。ぶ厚いカーテンの向こうで、鳥たちが群れをなして何かのモチーフのように空を横切っていった。僕はいつここを去ろうかと頭の片隅で考えた。けれどその考えはこちりとした具体的なかたちを持たず、やわらかな空気の中で溶けてしまった。焼きたてのホットケーキの上でバターが溶けてゆくように。
「はじめましょう」と彼女が言った。僕は頷いた。こうして僕たちのフランス語レッスンが始まったのだった。
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