第30話  仮面のない男

文字数 2,872文字

 僕は夢の中で聞く言葉のように、森田のセリフを頭の中で反復した。


―彼女の相手は君が初めてじゃない。


僕の耳はもちろんその音をキャッチしていた。けれどその意味するところが脳に伝わってこない。グラスの触れる音や、人々の話し声や、店内に流れている音楽が、やわらかな雲に包まれているみたいに遠くからくぐもって聞こえてきた。森田の煙草の煙が架空の生き物みたいに僕の鼻先を掠め、またどこかに消えていった。
「どういうことですか」
僕の唇から勝手に音がこぼれおちた。まるで言葉そのものが命を持っているみたいに。僕は自分が何を言っているのかよくわからなかった。指が震えて、飲み物のグラスをうまく掴むことができなかった。その震えは指から肘へ、それから腹の底へと不吉な伝染病みたいに伝わっていった。
 森田ははっとしたように口元に手を当てた。それから虫歯を我慢しているみたいに、無理に微笑んだ。
「君にもいずれわかる日が来るよ」
彼はまた煙草を一本取り出して、ゆっくりと吸った。それから深く息を吐き出して言った。
「今はアリスのことについて考えよう。さっきも言った通り、君はこんなことができる人間じゃないと俺は思ってる。第一、仮に君が暴行犯だとしたら俺にこんなビデオを見せるはずがない。むしろ証拠を隠そうとするだろう。じゃあ、このビデオは一体どこから現れたんだろう。アリスが夢遊病にかかってうわごとを呟いているとか?まさかね」
彼は肩をすくめてみせた。それから煙草をもみ消し、足を組んで座り直した。
「このビデオの証言が本当だとして、なおかつ犯人が君じゃないとしたら、誰がやったのか。大いなる謎だ。そこで君はこう考えた。アリスに乱暴したのは森田ではないかと。そして意地悪な森田がかわいそうな坂本くんに罪をなすりつけるためにアリスと共謀してこのビデオを撮影した。君はそのように結論を出した。だから俺にこのビデオを見せたんだろう。違う?」
僕は黙り込んだ。僕の考えと多少食い違う点はあったが、おおよそ彼の言う通りだった。
「残念ながら、君の推理は外れだよ。それにしても、君にそんなに嫌われてるとは思わなかったなあ」
どこか他人事のような調子で彼は言った。それから思い出したみたいに自分のグラスを僕のそれに当て、グラスの中の深紅の液体を煽った。

 僕は罠にかけられた兎のように混乱していた。嗅覚を失い、左と右の区別がつかなくなり、深い闇の中に落ちてゆく。思考が泥のように渦巻き、耳鳴りがする。僕は例の「あいうえお」を唱えて心を落ち着けようとした。そうだ、落ち着け、と僕は自分に言い聞かせた。あ、い、う、え、お、か、き、く、け、こ…。そこで僕は突然、まだ暗号の件を森田に話していないことに気が付いた。例の白い紙を手に取り、浮かび上がってきたメッセージについて森田に語った。
「なるほどね」
僕の解説を聞き終わると彼は言った。口の端に微妙な笑みを浮かべて。
「何がおかしいんですか?」
「ずいぶん幼稚な手口だなと思ってさ。その気になれば小学生だって解けるレベルの暗号だ。それに『M』なんて思わせぶりな署名、俺が犯人なら残さないと思う。それから坂本くんのおばあさんが見かけたという男にしたって、ずいぶん不用心だと思わない?その男と封筒を送ったのが同一人物だとしたら、なぜ封筒を送った後で家の辺りをうろうろする必要があったんだろう。サングラスをしているくらいだから変装の意図はあったんだろうけど、結局はそれを外して、君のおばあさんと話したりしてさ。まるで自分のことを印象付けたいみたいだ」
そう言われて見ると確かにそうだ。考えれば考えるほど、その人物のことがわからなくなった。なんだか気まぐれな子どもみたいに、手あたりばったり行動しているように見える。少なくともあまり頭がいい人物とは言えないようだった。

 森田が犯人ではないとすると、すべてが振り出しに戻ってしまったことになる。でも、僕は森田がいつもの森田であることに心のどこかで安堵を感じてもいた。あやあふやにゆがんでいた地平線がまたまっすぐになったみたいに。僕は改めて森田の横顔を見つめた。端正な横顔だった。ギリシャ彫刻のようになめらかな輪郭が、淡い闇の中に浮かび上がっていた。彼はクリーム色の壁の一点をじっと見つめ、何事かを思案しているように見えた。
「実はアリスが行方不明なんだ」
森田がぽつりと言った。彼の声があまりにも静かだったので、明日は雨が降るみたいだね、とでも言われたような気がした。けれどもちろん、森田は天気のことを話していたわけではなかった。僕は穴の開くくらい彼の顔を見つめた。彼は淡々と続けた。

「もうかれこれ一週間になる。ある日俺が出張から帰ったら、アリスがいなかった。始めは買い物にでも行っているのかと思った。でも夜の10時になっても帰ってこない。こんな時間に何の連絡もなく外出したままだなんて、これまでに一度もなかった。彼女は日本に友だちがいないし、夜遅くまで時間を潰すような場所も知らないはずだ」
森田は親指と人差し指で目頭のあたりを抑えた。絶望が暗い靄のように彼の全身を覆っていた。彼はとても疲れているみたいに見えた。
「俺が真っ先にしたのは、警察に捜索願を出すことだった。だけど、日本の警察はよほどのことがない限り動いてくれない。『何かあったらお知らせします』の一点張りだ。何かあってからじゃ遅いのに。彼女の携帯は電源が入っていないのか、何度かけても繋がらない。SNSをチェックしても、一か月以上更新がないようだった。翌日になっても、やはり彼女は帰ってこなかった。俺は半狂乱みたいになって、思いつく限りの人間に連絡を取った。ご両親の家にも国際電話をかけた。でも、何の情報も得られなかった。俺は途方に暮れた。君から連絡を受けたのは、そんな時だった」
森田は顔を上げて僕の方を見た。それから微笑もうとしたが、彼の唇は奇妙なかたちにゆがんでいた。
「俺は一瞬、君がアリスと駆け落ちでもしたのかと思ったよ。でももしそうだとしたら、わざわざ連絡をくれるはずがないよね。『もしもし、森田さん?アリスと僕はうまくやっていますから心配しないでください』なんてさ」
森田はくつくつと笑った。深夜のテレビ番組の売れないコメディアンみたいに。
「でも、今となってはその方が100倍よかったんじゃないかと思うよ。かわいそうなアリス。
俺が家を空けなければ…。俺があいつを呼ばなければ、こんなことにはならなかったのに」
森田は手のひらで顔を覆った。彼の肩は細かく震えていて、指の間からきれぎれに嗚咽が漏れ始めた。いつものクールな森田は、もうどこにもいなかった。洒落た服や軽妙なジョークなどはみんなどこかに飛んで行ってしまって、ただ仮面のない、無防備な男の姿がそこにあった。男は兎穴の底で声を殺して泣いていた。
 僕は森田の肩にそっと手を置き、言った。
「森田さん、何があったか話してください」
彼はゆっくりと顔を上げ、僕を見た。彼の顔には恐れと希望と絶望がまだらに入り混じっていた。
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