第15話 虚構の家の幽霊

文字数 4,680文字

さかもとさん、


こんにちは。お元気ですか?
このあいだ、ごめんなさい!!!
じつは、ほんとうに、なにもおぼえていません。
びっくりしたでしょ?
あなたは わたしを きらいになちゃった?


おっとは「さかもとさんに あやまって」とわたしに言いました。
ごめんなさい、ほんとうに、ごめんなさい。
あやまりたいですから、つぎの金ようび、わたしの家で夕ごはんを 食べませんか?
レスンのあと、時間ありますか?
じゃ、へんじをまってます。


アリス


 アリスからのメールが届いたのは、例の事件の翌日のことだった。その晩、通常よりも三時間ほど遅く帰ってきて(しかも何の連絡もせず)、酒の匂いをぷんぷんさせていた僕は、当然祖母にこっぴどく怒られた。
「あんたねえ、どれだけ心配したと思ってんの。連絡くらいよこしなさい」と祖母は言った。
「ごめんなさい」僕は素直に謝った。
「そりゃね、あんたももう21だし大人なんだ。ちっとは羽目を外したい日もあるだろうよ。でもね、一緒に住んでる人間のことをないがしろにするってのはよくないねえ」
「すみません。二度としません」
「あたしはあんたの生活を根ほり葉ほり探ろうってんじゃないよ。ただねぇ」とそこで祖母は言葉を切り、僕の目を覗き込んだ。彼女の生真面目な黒い瞳の中に頼りなげな僕の姿が映っていた。
「まさか悪い女に騙されてんじゃないだろうね」
僕は思わず噴き出した。祖母は時々ものすごく通俗的な発想をするのだ。アリスが悪い女だって?僕はあんなに心の綺麗なひとを他に知らない。そりゃ、確かに気まぐれなところはあるかもしれない。でも、それだって小さな女の子のいたずらみたいで可愛いものじゃないか。きっと祖母だってアリスに会えばわかってくれるはずなのに。

 けれど僕は事態がややこしくならないように、簡単な説明をするにとどめておいた。毎週金曜日の夕方4時にフランス語レッスンを受講していること。先生は在日歴5年目のフランス人女性で、日本人のご主人がいるということ。先日はレッスンの後ひとりで(・・・・)飲みすぎてしまったことなど。もちろん、アリスに酒を勧められたことは伏せておいた。祖母は僕の説明を一通り黙って聞いていた。けれど吊り上がったままの右眉は、彼女が心の底から納得していないことを表していた。
「あ、そうそう、今度の金曜日はその先生の家に招待されてるんだ」と僕はさりげなく言ってみた。
「夕飯をごちそうになると思うから、僕の分は作らなくていいよ」
「そうかい」と祖母は簡潔に言った。それから、
「あまり遅くなるんじゃないよ。あちらさんにご迷惑おかけしないようにね」と付け足した。
そしてやれやれというように腰をさすり、「もう寝るよ」と言った。流し台の掃除やガスの元栓閉めなどの作業はずっと前に済んでいたようだった。おそらく僕のためだけに灯されていたのだろう蛍光灯を消し、彼女は寝室の方に引き上げていった。


 金曜日になった。僕はその日、朝からそわそわしていた。大学に行く前にシャワーを浴び、入念に髪の毛をセットし、新しいシャツを着た。香水はシトラス系のものをチョイスした。祖母はカルチャーセンターに出向いていたので茶々を入れるひとはいなかった。飛ぶように駅に向かい、電車に乗った。

 気温が上がる前の秋の朝はきりりと冷えていて、頭のてっぺんから爪先まで透明になる。僕は電車の窓に額をくっつけて車窓からの景色を眺めていた。飛行機雲が何かの約束のように輝きながら青い空を横切っていった。僕は電車に乗っている間も、大学で授業を受けている間も、アリスのことを考えていた。彼女のメールの文面が頭をよぎった。


 あなたは わたしを きらいになちゃった?


 足りない「っ」を頭の中で補いながら僕はその文面を思い出していた。そんなちょっとしたミスでさえ愛おしかった。そんなことで君を嫌いになったりしないと、早く会って彼女に伝えたかった。今日の午後、彼女に会ったら何と言えばいいんだろう。どんな顔をすればいいんだろう。僕はそればかり考えていたのでほとんど授業に集中できなかった。

 ところが、約束の時間が近づき、アリスの家に向かうにつれ、心臓がしめつけられるようにキリキリ痛み始めた。額には冷たい汗が滲んでいた。まるで躰が先週の金曜日の記憶をそっくりそのまま再現しているかのようだった。心はアリスを求めているのに、躰は正反対のメッセージを伝えている。それは不思議な感覚だった。僕は坂の途中で何度も立ち止まり、荒くなってくる息を整えた。もしかしたら単に体調が悪いのかもしれないとも思ったが、それにしては原因が思い当たらない。ともかく僕は重い躰を引きずり、秋の残り日を全身に浴びながら、受刑者のように坂を上っていった。

***

 玄関前の戸口で彼女は僕を待っていた。淡いグリーンのサマーセーターに白いチュールスカートという格好で、その色合いは彼女の亜麻色の髪の毛によく似合っていた。彼女はにっこり微笑むと、家の中に入るように促した。
 リビングルームに足を踏み入れると、アリスが冷たいお茶を出してくれた。そして「この間はごめんなさいね」と言った。テーブルの汚れをさっと拭くみたいにそう言うと彼女は立ち上がって別の部屋に行ってしまった。残された僕は馬鹿みたいに口を開けてそこにいた。

 メールの文面と彼女の態度には少なからず落差があった。もしかしたら彼女はオットに叱られて、仕方なくあのメールを書いたのかもしれない。特に悪いとは思っていないけれど、とりあえず謝っておこうというように。文章のうまい優等生が書くと反省文にもそれなりの真実味が出るように、彼女のメールもそういう類のテンプレート的なものだったのだろうか。少なくとも先日の出来事は彼女の心に何の痕跡も残さなかったのだろうことは見て取れた。

 彼女は白い紙とペンと携帯電話を持ってリビングに戻ってくると、机の上にそれらをきちんと並べた。そしていつものようにフランス語で質問を始めた。元気?から始まって、秋は好き?とかフランス語の勉強は楽しい?とか。彼女の態度は普段と何ら変わらなかった。そこで僕もそれらの質問に答えていくうち、先ほど感じた違和感はだんだん薄れていった。
 
 レッスンが終ると、彼女はそのままリビングに残るようにと僕に言い、台所に向かった。
「今日はおいしいごはんを作るから、楽しみにしててね」と彼女は僕に言った。そして「好き嫌いはない?」と付け加えた。
「特にないよ。ありがとう」と僕は答えた。それから、少し迷ったが「何か手伝おうか」と声をかけてみた。
「あら、いやだ。お客さんなんだから座ってて」彼女はほんのりと嬉しそうに答えた。
そして冷蔵庫からレタスとトマトときゅうりを取り出し、冷水で洗い、まな板に乗せて切り始めた。動作のひとつひとつが手馴れていて、無駄な動きがなかった。野菜を刻むリズミカルな音は耳に心地よかった。それから彼女は大きな鍋に水をたっぷり入れ、火にかけた。
「パスタは好き?」と彼女は僕の方を振り向いて言った。
「パスタ、いいね」と僕は答えた。
アリスはにこにこして僕を見ていた。なんだか新婚夫婦みたいだな、と思った。彼女が僕の奥さんだったら、毎晩こんな風に料理を作ってくれるのだろうか。すると彼女は言った。
「今日はオットに早く帰るように言ってあるの。そうね、7時くらいには帰ってくるはずよ」
迂闊だった。僕はなぜ二人きりで夕飯を食べることを想像していたのだろう。ここはアリスの家で、当然彼女のオットの家でもある。しかしオットの帰りが遅いと彼女がこぼすのを常々聞いていたので、彼は夜遅く、そう11時頃にでも帰宅するものだと思っていたのだ。そのころには食事も終わって、彼に鉢合わせせずに帰れるだろうと。よく確かめもせず、勝手に都合のいい想像をしていた自分が恥ずかしかった。来る途中で感じた鳩尾の痛みが蘇ってきた。喉がしめつけられたように息苦しくなり、手のひらがじわりと湿ってきた。アリスは僕の沈黙に気づき、
「みんなでごはんを食べた方が楽しいでしょう?」と言った。聞き分けのない子どもを諭すように。僕は曖昧にうなずいた。

***

 結局、その晩7時半ころになって彼女のオットが帰ってきた。ネイビーブルーのスーツに白のカットソーという恰好で、相変わらずネクタイはしていなかった。彼はIT企業の社長というより、ドラマの中から抜け出た俳優のように見えた。疲れが彼の顔にほんの少し翳りを与えていたが、それは魅力を削ぐどころかかえって妙な色気を与えていた。
「坂本くん、こんばんは。今日はゆっくりしていってね」と彼は言った。
「お邪魔してます」と僕は答えた。
「ちょうどよかった。今、料理ができたの。食べましょう」とアリスが明るく言った。
テーブルにはトマトのファルシーやシーザーサラダが前菜に並び、一気に華やかになった。森田がワインの瓶を開け、僕たちは乾杯した。
「坂本くん、この間はうちの家内がごめんね。あの晩、大丈夫だったかな」と森田が切り出した。
「いえ、そんな、とんでもない。今日だってこうして夕飯までごちそうになっちゃって」と僕は答えた。
その時、森田がアリスに目くばせし、フランス語で何か言った。アリスもフランス語で答えた。早口だったので何を言っているのかはわからなかったが、彼の発音はとても綺麗だった。アリスが僕にもう一杯ワインを勧めてくれたが、僕は水で大丈夫だと答えた。彼女はオットと自分のグラスをワインで満たした。森田は渋い顔でワインを飲んでいた。
「わたしの街では、夏の暑いとき、お客さんにお酒を勧めるの」とアリスが言った。
「仕事中の配達人でも、おまわりさんでも、みんなどこかの家に立ち寄ってお酒を飲むのよ。そうでもしなくちゃ、暑くてやってられないでしょう。だから、つい。でも、日本人はお酒に弱いんだってこと忘れてたわ」彼女はきゃらきゃら笑った。
「こら、アリス。ここはフランスじゃないんだぞ。それに『日本人』じゃなくて『日本の(かた)』。何度も言ってるだろ?」と森田がたしなめた。
「はあい」
「坂本くん、こんなのが先生じゃ、あきれちゃうよね」
「いえ、そんな。アリスさんはいい先生だと思います」僕はあまりわざとらしくならないよう、でもできる限りの誠意をこめて答えた。アリスは森田にフランス語で何かを言い、ふたりは笑った。それから彼女は僕の方に向き直り、
「坂本さんは、もっとお酒に強くなってね。これからレッスンの後はいつも飲むわよ」といたずらっぽく言った。それで僕らはどっと笑った。


 ペペロンチーノを食べ終わるころには、僕はすっかり快い満腹感に包まれていた。デザートには自家製のシャーベットと珈琲を振る舞ってくれた。どれも洒落た盛り付けで、味付けも上品で美味しかった。アリスも森田も、僕がいやな思いをしないように気を配ってくれるのが痛いほど伝わってきた。それはとても幸福な時間だった。僕は先日の出来事にほとんど感謝するくらいの気持ちになっていた。

 何年も後でこの日のことを振り返ってみると、僕は意味もなく泣きたくなる。それはルノワールの絵画みたいにひかりにあふれていて、心のどこか遠くの方にしまいこまれている。僕はそれを時々そっと取り出す。ちいさなころにもらったクリスマスプレゼントのように。今でも彼らは僕の記憶の中にいる。虚構の街の虚構の家で過ごしている幽霊みたいに。
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