第7話 生まれたてのゴマアザラシ、あるいは中山伊織という女

文字数 3,318文字

 大学の校舎を覆う蔦の葉が紅く染まり、学生たちは薄手のジャケットを羽織って登校するようになった。日中はまだ陽射しが強かったけれど、暑さで疲弊した躰を夕方の風が清めてくれた。僕はアリスと出逢ってから、彼女が勧めてくれたフランス語の本や映画を貪るように味わった。イヤホンからは四六時中フランス語のニュースが流れていた。当然のことながら僕のフランス語の成績は飛躍的に伸びた。大学の授業で担当教師は僕をよく指名するようになった。教師の質問に僕はすらすらと答えることが出来た。友人たちは、僕にフランス人の彼女でも出来たのではないかとからかった。まさか、そんなわけないだろ、と僕は答えた。そりゃそうだよな、と彼らは言った。

 ある日、フランス語の授業が終わった後で教室を出ようとしたところで、女の子に呼び止められた。走ってきたのだろうか、頬が上気しており、息を切らせている。
「ねえ、ちょっと」と彼女は言った。
僕は立ち止まった。
「あの、えーっと、坂本くんだよね?」
僕は頷いた。フランス語のクラスに坂本というのは僕しかいないはずだった。
「あの、突然、ごめんなさい。あの、私、同じクラスの中山伊織(いおり)です」と彼女はどもりながら言った。
さきほどから「あの」という言葉を少なくとも三回は口にしている。口癖なのだろう。彼女は息を切らしていて、言葉が出てこないようだった。頬はますます赤くなり、彼女自身も声をかけてみたもののどうすればいいかわからないといった様子で佇んでいた。僕はその間に彼女の様子をじっくりと観察した。

 少し長めのショートボブの髪の毛を栗色に染め、ベージュのハーフコートにTシャツと擦り切れたジーンズ、オリーブ色のスニーカーという恰好だ。Tシャツにはアンディーウォーホールのバナナのイラストがプリントされている。背はさほど高くなく、小柄といっていいほどで、破れたジーンズから覗く華奢な膝小僧が印象的だった。僕の周りの女子学生と来たら、みんなフランス人形みたいに長い髪の毛をくるくる巻いて、ごてごてとネイルアートをし、判で押したようにハイブランドのワンピースを着ている女の子ばかりだったので、中山伊織のファッションは新鮮だった。しかし人に声をかけるのにこんなにうろたえている女の子には少し不似合いな恰好のようにも思われた。

 僕は黙って待った。なるべく威圧感を与えないように、口の端に微笑みを浮かべながら。三十秒ほどの沈黙の後、中山伊織は息を整えてから言った。
「あの、私、フランス語でわからないところがあって。よかったら、教えてもらえないかな?」
僕は少し拍子抜けした。ミサイルが発射されるから今すぐ逃げて、とでも言いだしそうな顔を彼女がしていたからだ。彼女は泣きたいのか笑いたいのかよくわからないような顔で、じっと僕を見ていた。生まれたてのゴマアザラシというのはこんな形相をしているのかもしれないとふと思った。あまりにも彼女が必死そうな様子だったので、「先生に聞いてみたら?」と言いそびれてしまった。
すると彼女は僕の考えを読んだように、ものすごい早口で付け足した。
「先生に質問しようと思ったんだけど、友だちとしゃべってたら、もう教室からいなくなっちゃってて。それで、どうしようと思ってたら坂本くんがいたの。ほら、坂本くんってフランス語の成績がすごくいいでしょう。それで、あの、教えてもらえないかと思って」
それから、蚊の鳴くような声で「もちろん、迷惑なら遠慮するけど」と言った。
僕は言った。
「迷惑なんかじゃない。僕でよかったら教えるよ」
中山伊織は明らかに安堵したようだった。これで世界が救われる、とでも言うように。
「でも、あんまり期待しないでね。間違えることもあると思うから」と僕は念のため付け加えた。
「それは、全然、大丈夫」と彼女は言った。
そして解放された元捕虜のような陽気さで続けた。
「あの、じゃあ、よかったらカフェテリアの方にいかない?コーヒーは私がおごるから」
「そんな、女の子におごってもらうわけにはいかないよ」
「坂本くんでも、そんなこと言うの?」と彼女は言った。本当に心底驚いたような様子だった。
「何それ」
「だって、坂本くんって、なんかクールだから。女の人におごられるのなんて慣れてそう」
「まさか。第一、そんなことしたらおばあちゃんに怒られちゃう。女に恥をかかせるもんじゃない、とか言ってさ」
「あはは。坂本くんっておばあちゃんっ子なんだ」と言って中山伊織は笑った。笑うと口の端から八重歯が覗いた。ひとなつこいウサギのようだと僕は思った。さきほどのゴマアザラシよりはうんといい。


 僕たちは一時間ほどカフェテリアにいた。彼女は吞み込みが早かったので、質問の件は五分ほどで終ってしまった。しかしふとしたことからお互いに音楽の趣味が似ているということがわかり、思ったよりも話が長くなってしまったのだ。カフェテリアのカーテン越しに西陽が差し込み、僕らの肌をまだらに照らしていた。そこに残っていた学生たちは一人、二人と帰っていき、最後には僕たちだけが残った。バイト先に向かう時間になったので、解散することになった。
「今日は本当にありがとう」と帰り際に彼女は言った。そして小さな声で付け足した。
「よかったら、また質問してもいいかな。音楽の話もしたいし」
「もちろん。僕も楽しかった」
そして僕たちは連絡先を交換して別れた。バイトが終って家に帰ると、彼女からメッセージが来ていた。

『坂本くん、こんばんは。中山です。バイトお疲れ様。今日はどうもありがとう。
 PS よかったらこれ聴いてみて。坂本くんが好きそうかもと思って。じゃあ、また来週、授業で!』

メッセージの最後に貼られていたリンクに飛ぶと、カヴィンスキーの『ナイトコール』という音楽に辿り着いた。ロボットのような金属音に続いて女性ボーカルの声が聞こえてきた。彼らは次のように歌っていた。

『私がどう感じているか伝えたくてナイトコールをしているの
 夜通し 丘の上にあなたを連れていきたい
 あなたが聴きたくないことを 私は言い
 闇を見せるわ でも恐れないで 

 あなたの中には何かがある
 説明できない何かが
 ねえ、彼らはあなたのことを話してるのよ
 でもあなたはいつもと変わらぬまま
 あなたの中には何かがある
 説明できない何かが
 ねえ、彼らはあなたのことを話してるのよ
 でもあなたはいつもと変わらぬまま』

 

I'm giving you a night call to tell you how I feel
(We'll go all, all, all night long)
I want to drive you through the night, down the hills
(We'll go all, all, all night long)
I'm gonna tell you something you don't want to hear
(We'll go all, all, all night long)
I'm gonna show you where it's dark, but have no fear
(We'll go all, all, all night long)

There's something inside you
It's hard to explain
They're talking about you, boy
But you're still the same
There's something inside you
It's hard to explain
They're talking about you, boy
But you're still the same

悪くない、と思った。僕はその音楽をアプリケーションのプレイリストに入れておいた。それから泥の中に潜り込むもぐらのように、すぐに眠ってしまった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み