第6話 脱走

文字数 2,783文字

 お弁当箱にタコさんウィンナーが残っている。それを眺めて、どうしたらいいのか分からなくなった。莉里が学校から帰ってくる前に何とかしなければ、と思っていたら、すぐに帰ってきた。
「ただいまー」と言うから、慌てて、玄関に向かう。
「おかえり。莉里ちゃん。お弁当ありがとう」
「美味しかった? 美味しかったよね。コンビニのおかず」と笑いながら言う。
「…うん。あの」
「どうかした?」
「タコのやつ…」
「あ、ごめんね。なんか思ったより上手くいかなくて」と莉里が済まなさそうな顔をする。
「ううん。あ…、ごめん。食べれなくて」
「え?」
「なんか…。可愛いから、食べるの…もったいなくて」
 莉里の動きが止まった。
「あ、今から、食べようかな…って思ったり…」と慌てて言うと、莉里が両手をぎゅっと握る。
 怒っているのだろうか、と思った。せっかく作ってくれたのを残したのだから。
「ごめん。なんか…莉里ちゃんが作ってくれた…」と言い訳を続けると「もう…」と莉里が鞄を床に置く。
「ほんとに、ごめん」
「我慢できない」と莉里が言うから思わず頭を下げた。
 その頭を両手でぐしゃぐしゃにされる。怒っているのだろう、とそっと頭を上げると莉里は手を広げたまま「可愛すぎる」と言った。
「…え?」
「ぎゅっとさせなさい」
 拒否する前に抱きしめられる。あぁ、また柔らかいものに顔が埋められる。ウィンナーをさっさと食べてしまえば良かったと反省した。
「りっちゃん。本当に可愛い。可愛い、可愛い」
「莉里ちゃん、もういいから」と何とか身を捩る。
 体を解放してもらって、肩で息をする。
「りっちゃん、お弁当の残り、今から食べるの? おにぎり作ってあげようか。レッスン行くんでしょ?」とそのままキッチンに向かう。
 その後をついて行って、そしてものすごく気持ちを押さえて、タコさんウィンナーを食べることになった。                                                                              
「りっちゃん、ごめんね。料理できなくて」とおにぎりを作りながら言う。
「ううん。本当にありがとう」
「レッスン、頑張ってね」となぜか淋しそうに言う。
「莉里ちゃんも塾…頑張って」
「うん。受験がおわったら、たくさん遊ぼうね」
 莉里はそう言ったけれど、なんとなくそうならない予感がした。漠然とした予感が。あるいは莉里と楽しく遊んでいるなんて未来が少しも考えられなかった。
「莉里ちゃん…」と言うと、良い事を思いついたように「そうだ。りっちゃん、レッスン終わったら、コンビニで待ち合わせて、一緒に帰らない。塾が終わるのが十時だから、十時十五分くらいに駅のコンビニに行けるから」と言った。
「え? …あ、うん」
 レッスンの後もピアノの練習して帰ったし、莉里の時間に合わせて帰ることは可能だった。
「そしたら、私、塾も頑張れそう」
「…分かった」
 莉里はおにぎりを三個作って、お皿に乗せた。そして一つ、取って食べ始める。不思議だった。淡いピンクの唇がご飯を食べるために動いている。おしゃべりしたり、歌ったり…するために動く唇が。いつかは誰かとキスをするのだろうか。
「りっちゃん? 食べないの?」
 慌てて、おにぎりに手を伸ばす。
「おいしい?」と聞かれて、黙って頷いた。
「本当にりっちゃんは可愛いなぁ」とピンクの唇が動く。
 ――弟。ただそれだけ。
 その想いを飲み込むようにおにぎりを頬張った。

 夜、レッスンの後、ピアノの練習をして、良い時間になったので、先生の家を出る。三十分くらい電車に乗る。ちょうど、十時に駅に着いた。コンビニに向かおうとすると、
「今、帰りか」とあの人の声がした。
 同じ電車に乗っていたようだった。
「はい…。コンビニに寄って帰ります」
「何か買うのか?」
 どうせ嘘をついても仕方がない。
「お姉さんと待ち合わせしてます」
「莉里と?」と右の眉だけ上がった。
「塾の帰りだそうです」と知っているだろうけれど、言う。
「…律」
「何ですか?」
 まっすぐ視線を返すと何か言おうとしていたことを収めた。
「一緒に行くよ」と言うから、肩を竦めた。
 断るのも変だったし、なにせ居候には何の権利もない。気まずい二人組でコンビニに向かう。無言で、コンビニの前で待って、しばらくすると、莉里が来た。
「お父さん、どうしたの?」
「駅で偶然会って。莉里を待つって言うから」
 莉里は目を大きくして、あの人を見ていた。
「そう。私、りっちゃんと約束してたの。じゃあ、お父さん、お菓子買って」と言って、莉里はコンビニに入っていく。
 そして棚のお菓子をどんどん入れていく。大分いっぱいになったところで、あの人にカゴを渡す。
「はい。買ってください」
「…莉里。何、怒ってるんだ」
「怒ってないです。偶然、折角会えたんだから、甘えてるんです」とつれなく言う。
 そしてあの人がそのカゴを持ってレジに向かうと、莉里は俺に駆け寄って「逃げちゃお」と言って、コンビニを出て、駆け足で走る。慌てて付いていく。
「莉里ちゃん」
「ほら、早く逃げないと、追いかけてくるよ」
「あんなにたくさん、お菓子…」
「レジに時間かかるでしょ? チロルチョコとかたくさん種類混ぜておいたから」と笑いながら走る。
 それであんなに買い物したのか、と感心しつつもおかしくなった。笑いながら二人で走る。しばらく走ると息切れしたのか、莉里は歩き始めた。
 息が上がりながら、笑いかける。
「でも…」と莉里のことが心配になる。
「あれぐらいしたって、なんてことない。私、りっちゃんが嫌なことして欲しくない。本当は…一緒にいたくなかったでしょ?」
「…別に」とは言ったものの、一緒にいるのはいつも気まずい。
「私は…せっかく楽しみにして帰って来たのに。お父さんいたら、全然楽しくないもん」
 莉里はそう言って、唯一の味方になってくれようとしていた。いつもいつも気にかけてくれて、大切に考えてくれていた。
「莉里ちゃん…」
「ほんとよ? りっちゃんとコンビニでアイスくらい買おうかなとか思って、頑張って授業受けてたのに」
「それって…集中できたの?」
「あ、確かに。ちょっと心ここにあらずだったかも」と微笑みかけてくれる。
 優しくて、綺麗なお姉さん。
 月が光っているけれど、それよりも眩しく見える。
「じゃあ…待ってる。これからも」
 莉里が嬉しそうに見えたのは、思い込みかも知れない。
 でも俺以上に莉里はずっと淋しさを抱えている。その淋しさが愛情に変わっているだけだ。それでもそれが支えになっているのなら、俺の存在価値がある。
「本当?」
「うん。莉里ちゃんの塾のある日は待ってる」
「お父さんが来たら、今日みたいにお菓子を買ってもらおう」と明るい顔で笑う。
 その笑顔をまるで自分が作ったような気分になった。
 
 
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