第27話 初恋

文字数 1,926文字

 イタリアの演奏会が終わった時だった。親戚が来ているというので、ロビーに出ていったら、莉里の母親がいた。驚いて、でも挨拶するために近寄った。
「お久しぶりです」
「…お久しぶり。元気そうね。莉里にイタリアで演奏してるって聞いたから…。友達とパリ旅行のついでに寄ったの」
 寄るという距離ではない…と思ったけれど、何も言わずに頷いた。莉里の母親は少し視線をずらして、俺に言った。
「私…後悔してるの」
「え?」
「あなたに冷たくしたことも、あなたのお母さんを恨んだことも。でも今さら後悔したところで、許されることではないと思うけど…。あなたのお母さんは本当に綺麗で…」
「いいんです。それは…」と俺は遮った。
 莉里の母親だって、相当傷ついたはずだったから。別に優しくして欲しかったとも思っていない。
「莉里…のこと…」と言って、ため息を吐いた。
「どうかしたんですか?」
「あの子…あなたがいなくなってから…ずっと私たちのこと怒ってて。大学行ってもふさぎ込むことが多くて。知ってると思うけど、あの子、昔は明るくて、天真爛漫だったから…」
 確かに莉里は素直で明るい人柄だった。今だってそうだとは思うけれど、たしかに天真爛漫でと言えるほどではない。それは年を重ねて得た落ち着きだと思っていた。でももしかしたら、莉里は無理をしていたのかもしれない。突然来た幼い俺を思って、明るく振舞っていたのかもしれない。
「…それは分りませんが」
「ごめんなさいね。莉里がフランスへ行くって聞いて、私…やっぱりあなたに会いに行ったんだって思ったの」
「え?」
「ううん。それ以前に、フランス語を選択した時から…あなたに会いたいんだって。いつかきっと会いに行くって分かってた」
(莉里が俺に会いたくて会いに来た?)
「分かってて…止められなかった」
(この人は…何を言っているんだろう)
「そんなことは…」
「あなたのこと…可愛がってたし…」
 俺は何も言えずに莉里の母親を見た。彼女曰く、莉里は受験勉強より必死でフランス語を勉強していたという。その姿からもうきっとフランスに行くのだろうとうっすら分かっていたが怖くて聞けなかったと言った。
「…だからとなりに住んでるって聞いた時は…もうどうしようもないって思ったの。無理に引き離したって…また…きっと」
(隣に住んでる? 莉里が嘘をついたんだろうか)と思って黙っておいた。
「あなたに関わらないでって言ったけど…莉里が無理だったみたいね」
「それは…ただ…姉として心配してくれているだけで」
「そう…だといいけど」とため息を吐く。
「でも…莉里はもともと天真爛漫じゃなくて…俺のことを可哀そうに思って、明るく振舞っていたと思います。優しい人だから。だから…俺がいなくなって…元に戻っただけだと思いますよ。俺が知ってる莉里は物静かで本を読んでいるような…人でしたから」
「え?」と莉里の母が驚いたような顔をした。
「フランスは好きだから来たって言ってました」と言って頭を下げる。
「…そう」と言って、少し寂しそうに笑い、続けて「ありがとう」と言った。
 立ち去る俺に
「私より…莉里のこと分かってるのね」と聞こえたけれど、振り向かなかった。

(莉里が俺に会いに来た?)
(まさか)
 期待を否定しながらも、俺の足取りは軽くなった。
 帰国した日、ピアノの練習をしていたら、莉里が綺麗にメイクして帰宅した。聞くと、語学学校の学生達に化粧をしてもらったらしい。莉里は化粧をしてもしなくても綺麗だけど、莉里のお母さんが言っていたことが胸をくすぐっていて、アイシャドウとリップをプレゼントする。二人で百貨店に行って選んだものだった。

 その日の莉里は少し様子がおかしかった。マレ地区でガレットを食べた後の帰り道、莉里から恋人のフリをしようと言われる。その上、恋人らしいキスをしようとまで言われた。
(莉里…まさか…本当に?)
 そんな思いを消すように
「好きな人としなきゃ…」と言う。
 そしたら莉里はあの日のことを聞いてきた。どうして自分にキスをしてきたのか、と。真っ赤な顔で、早口で聞くけど、目は切なく俯く。もう嘘はつけない。
「初恋」
 そう言った。
 言葉にしてしまって、もう元に戻れないと思った。姉弟としていられないのは分っていた。関係が終わるのが哀しくて顔を背ける。
 哀れに思ったのか莉里がキスしていいって言う。思わず抱きしめると、胸のなかに温かさが収まった。微かに震えているのが伝わった。それなのに「無理してない」と言う。
 そんな莉里だから
「今でも…初恋が終われない」と言った。
 ずっとずっと忘れられなかった。
 あの日から、ずっと想ってた。

 そんな思いが叶うなんて思いもしなかった。
 その日、莉里を抱いた。
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