第44話 指揮者

文字数 2,566文字

 ホテルに戻って、莉里とビデオ通話する。
「無事に着いたの?」と莉里が言う。
「うん。合わせも終わったし、後はご飯食べに行って、寝ようかな」
「ご飯って何食べるの?」
「なんか…フィッシュアンドチップス食べようかなぁって思ってる」
「いいなぁ」
「莉里は?」
「私は…えっと。後で冷蔵庫見てみる」
 冷蔵庫にはそんなにいいものはなかった気がする。
「明後日行くね」
「うん。ぜひ。気を付けて来て」と言いながら、何だか通話を切るのがもったいない。
「律…。あのね」
「ん?」
「変な夢を見るの」
「え?」
 莉里が言うには何だか黒いものが追いかけて来るという。捕まりそうなところで目が覚めると言う。俺はもしかして記憶の蓋が開いているのだろうか、と考えた時、莉里が話し出す。
「あのお城のお化けにとりつかれたのかな?」
「え? お城? あ、あのお城の?」
 すっかり忘れていたお城の怖かった体験から来ているようで、少し安心してしまった。
「うん。あのお城かなぁ。やっぱり教会とかに行った方がいいかな」
「あー、うん。まぁ、そうかもしれない。こっちのお化けだし」と俺は適当に合わせておいた。
「分かった。じゃあ、明日、学校帰りに行ってみるね」
「うん。それでいなくなるといいけど、もし怖かったら、マシューを借りて寝たらいいよ」
「あ、それはいいね。マシューにお願いする」と少し安心したような笑顔が見れた。
「じゃあ、もう切るね」
「うん。おやすみなさい」と莉里は言う。
 莉里は割と躊躇なく通話を切る。すぐに黒い画面になった。たった数日離れているだけなのに、恋しくて仕方がない。でも莉里はそうでもないのかもしれないな、と思って、淋しくなった。
 もう一回電話しようかなと思ったけれど、特に用事がなくて困ってしまった。結局、電話できないまま、外に出てフィッシュアンドチップスを食べた。全てが揚げ物で、少し胃が重たい。
 お店から出ると雪がちらちらと降ってきた。足早にホテルの戻ることにする。ふとショーウィンドウに飾られているダイアのペンダントが目に留まった。莉里へのクリスマスプレゼントにいいな、と思う。何を見ても莉里のことばっかりだ。自分でも重症だと思った。

 音楽学校のコンサートも無事終わって、一息ついた。ホテルで行われた懇親会に顔を出すと、そこの教授が俺のスペイン人の先生の悪口というか、裏話をたくさん話してくれる。
「あんなやつに習ってるのに、立派なもんだ」と言われた。
 フランス人の先生のことも話すと、そちらには頭が上がらないらしい。忖度なく、あれこれ話すのを俺は聞きながら、少し羨ましく思った。
 いつか則子さんが言ってたように、上の世界は自由だと言っていた。その空気感が分かる。
 俺がピアノ科の教授と話していると、メアリーが飛び込んできた。
「リツ! 今日は素敵だった!」
「え? 今日は?」
「昨日より良かったよ! まじ、惚れそうになったもん」
 昨日も頑張ったんだけど…と少し細かいことで落ち込む。
「リツは顔もいいし、これから売れるだろうね。私も昔は男前だったから、女性の皆さんが列をなしたんだよ」と教授が真面目にいう。
「それは残念なことです」とメアリーが大袈裟にいう。
 英国ジョークは謎すぎて笑うタイミングがわからない。
 メアリーが耳打ちする。
「指揮者が来てるから、挨拶する? その方がいいと思う。紹介するから」
「うん」と言うと、メアリーは自然と腕を取って歩き出す。
 今日の主役がそんなことするから、目立って仕方がなかった。みんなが注目してるのがわかる。
 そんな中でメアリーが有名指揮者に話しかけるから、恥ずかしくて仕方がない。メアリーと指揮者は長い付き合いがあるようで、頬を合わせる挨拶をしている。それが終わると眼光鋭く俺を見た。
「ピアニストのリツよ! 素敵だったでしょ?」とメアリーは気にせず、そう紹介してくれる。
「初めまして。園田律です」
 あからさまに不躾な視線で上から下まで俺を見た。
「コンチェルトの経験は?」
「学校だけです」
 軽く馬鹿にしたように鼻を鳴らして、メアリーを見た。
「僕は綺麗な女性が好きなんだけどねぇ」
「あら、レイシストだっただなんて」とメアリーがきつい口調で返した。
 この会話もその場にいる人に聞かれてると思うと何も言えなくなる。
「ただの好みじゃないか」と指揮者も引かないから、メアリーも言い返そうとする。
「好みに合わないなら仕方ないよ」と俺はメアリーを止めた。
「え? だって…」
 そろそろ大御所感が出てきそうな指揮者だけど、嫌われたのなら仕方がない。
「合わない人と音楽は作れないからね」と俺はメアリーを落ち着かせようと言った。
「…作れない?」と指揮者が聞き返す。
「まぁ…。お気に召されないようですし…難しいと思います」
 なんだか面倒くさくなって、本音を言った。
「この僕が? 好き嫌いで音楽を作れないと?」と顔を近づけられる。
 この時点でさっきまでざわめいていた周囲が動きを止めた。静寂な中、成り行きを見守る人たちばかりになった。
「無理じゃないですか?」
「無理じゃない」
「まぁ…。そうかもしれませんね」と肩をすくめて会話を終わらせようとしたら、さらに顔を近づけられて、思わず顔を横に向けてしまった。
「じゃあ、コンチェルトしてやる!」
 いい加減、辟易としてしまって「結構ですよ(ノーサンキュー)」と言ってしまった。
 会場がざわざわし始めたから、まずいことを言ったと気づく。
 その後、指揮者が叫んで、何を言ってるのか聞き取れなかったけれど、来年の春にコンチェルトをすることになった。
 一斉に周りが拍手するから、俺は狐につままれたような気持ちになった。
 後で、いろんな人から「よくやったね」と声をかけられたが、ピアノ演奏のことじゃなさそうで、なんだか不思議な気持ちになった。
「リツって…なんか…度胸あるね」とメアリーに言われた。
(いや。ただただ面倒くさくなっただけ)とは言えずに曖昧に笑った。

 しばらくクラシック界隈で俺が不遜な態度を指揮者にとって怒らせたあげく、コンチェルトの共演をさせるように仕向けた策士だと噂された。だからコンチェルトは絶対に成功させたいと俺は思った。ラフマニノフの超有名コンチェルト曲を選んだのは指揮者の嫌がらせだと思うけれど、きっちり練習して驚かすつもりでいる。
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