第4話 距離

文字数 2,699文字

 莉里と同じ中学に通うことになったけれど、莉里は受験生になって忙しそうだった。中学ではいじめられることもなく、学校内で莉里に会うと笑顔で声をかけてくれる。
 それが眩しくて、そっけない態度や、気づかないふりをしたりしてしまった。
 通りすがりに
「莉里の弟、かわいい」と隣にいた友達が言う。
「そうなの。本当に天使みたい」と莉里が言うのが聞こえた。
 天使――。
 全然、天使なんかじゃないのに、と唇を噛んだ。
 最近、おかしい。莉里の姿を見たいようで、見たくない。一緒の家にいると、莉里がすぐ話しかけてくるけど、その無邪気さに苛立ってしまう。

 桜はもう葉だけになっていて、春のふわふわした匂いで包まれていた。毎朝一緒に通学するから、みんなに莉里が姉だと知れ渡ってしまった。廊下の窓に体をもたせかけて、運動場を見た。体操着に着替えた莉里がちょうど出てきた。ポニーテールにしている髪が揺れていた。ぼんやり見ていると、視線を感じたのかこっちを向いた。
「あ」と言う顔をして笑顔で手を振る。
 どういう顔をしていいのか分からなくて、顔を背けた。そして教室に戻る。
 朝の登校時間も苦痛だ。莉里の明るい声、柔らかい笑顔、気を遣ってくれる話題。
 ――何もかもが辛かった。
 可愛い弟だと思ってくれて、大切にしてくれてるのが伝わる。でもそれがなぜか残酷に思えた。
 春の日差しの中で莉里は本当に綺麗に見える。
「園田の姉さん、綺麗で優しくて、いいなぁ」と前の席の同級生に羨ましがられた。
 そいつの姉は暴君らしく、いつも使い走りをさせられていると言った。むしろ莉里がそうだったら、いいのに、と思って頷いた。

 コンクールに出ることを決めたのは家で莉里と接触を持ちたくなかったからだ。学校に帰るとすぐに先生の家に行く。レッスン室以外にもピアノがある。だからそこで練習させてもらうことにした。教えてもらっている先生と母は友人だったらしく、家の事情は知っていた。
「練習し辛いなら家に来てくれていいから」と言われていた。
 コンクールという理由で莉里を顔を合わす時間を減らしたかった。それに莉里も受験で塾に通っていたから一週間、朝だけしか会わないということもあった。熱心に練習した甲斐あって、全国まで通った。そうすると先生も熱が入って、レッスン時間以外でも見てくれるようになった。
「遺伝ってすごいわね。弾き方が似てるもの」
「え?」
「お母さんと…」
 何も言えなくなる。
「でも…恋愛をしてからは…おろそかになってたけど」
 正直、あまり母親のことは分からない。
「あなたに言うのも残酷かもしれないけど、恋ってそんなにいいものなのかしらね?」
 黙っていると、悔しそうな声で言う。
「一応、彼女は私のライバルだったんだから…。何かあったらって、あなたのこと頼むって言われてたけど…。こんなにあっさりいなくなるなんて」
(頼んでいたんだ…)と不思議な気持ちになる。
「不倫して、子ども産んで、事故で死んで…。わがままし放題」とどこにぶつけていいのか分からない怒りを吐いていた。
 莉里の父親とデートする度に祖父母に預けられていたし、デートのない日はピアノを弾くから、とやはり祖父母に預けられていた。祖父母の家で育ったようなものだった。でもピアノを弾くときだけは側にいてくれたから、ピアノさえ弾いていれば愛してくれると思っていた。上手く弾けた時は誉めてくれた。それが何より嬉しかった。ただそれだけのためのピアノだった。
「そう…努力もしてたけど、私よりも自由で。羨ましかったわ」と言って、楽譜を閉じる。
 自由な人だったというのは間違いない。
「さぁ、しっかり練習して、本番に向かいなさいよ」と言う横顔が淋しそうに笑った。

 遅くなった夜の帰り道を歩いていると、塾帰りの莉里と偶然会った。
「りっちゃん」と駆け寄ってくる。
「あ…塾…遅かったね」
「りっちゃんも。練習頑張ってるね。全国の…応援に行きたいけど、模試と重なって」
「いいよ。あの人が…来てくれるから」
「お父さん?」
「一人で行けるんだけど…なんか来るって」
「えぇ? 邪魔にならない?」と実の父親のことを莉里が言うから思わず笑ってしまった。
 すると莉里がほっとしたような顔を見せる。
「どうかした?」
「ううん。最近、りっちゃんが冷たいから」
「別に…そんなわけじゃ」
「…私、りっちゃんのお姉さんになれないのかな?」と淋しそうな顔で言う。
 その言葉が胸に刺さって、否定できなかった。黙っていると、莉里が「それは…そうだよね」と慌てて自己完結しようとする。
「…なんか、姉弟(きょうだい)っていうのはよく分からない」
「あ、うん。ごめんね」
「…でも。優しくしてくれてありがとう」と言うと、莉里がほろほろと涙を零し始めた。
「…よかったぁ。嫌われてるかと…思ってた…から」
 思わずハンカチを取り出して渡そうとした。今度はハンカチを落としたのは自分だった。
「だって、私だけが好きなのかと思って…」
(…好き?)
「だからうざがられてるのかな…とか。面倒臭いって思われてるのかなって…」と言う。
 落ちたハンカチを拾って、でも渡せなかった。
「りっちゃん、ごめんね。可愛い弟が出来て…嬉しくて、距離の取り方分かんなくて」
「距離の取り方なんて…そんなん…こっちも」と言っていると、握りしめたハンカチを莉里が「貸して欲しい」と取る。
 落ちたハンカチなのに、涙を拭く。
「それ…落ちたやつ…」と一応言っておいたけれど、まるで聞いてなかった。
「ごめんね。ごめんね」と繰り返される。
 なんだか謝られると、こっちまで動揺してしまう。
「…あのさ。莉里ちゃんはお姉ちゃんって言うか…。親切にしてくれて、ありがたくて。…後、綺麗だから…緊張する」
 莉里の目が大きく開いた。
「りっちゃん。…天使」とまた抱き付こうとするから、後ろに下がった。
 距離とか言ってるのに少しも分かってない。きっと莉里にはどこかで捕まえてきた野良の猫が毛を逆立てているように見えているのかもしれない。
 そうやって微妙な距離を取りながら、お互い探り合っていると、向こうからあの人が来た。
「何やってるんだ?」
「お父さん」と莉里が言う。
「二人とも早く家に帰りなさい。莉里は塾休んでないだろうな?」
 まるで二人でさぼってどこかに行ったかと疑っているようだった。その台詞は莉里もさすがにむっとしたようで「お父さんじゃないから嘘はつきません」と言って、すたすたと歩いて行った。
 強烈な嫌味を言われたせいか、黙って歩き始める。三人とも同じ場所に向かうのに、バラバラで帰るのが少し奇妙だった。
 春の夜はふわふわしていて、心もとなかった。
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