第18話 知らない顔

文字数 4,001文字

 中華街に買い物に行くという則子さんとカフェで別れてすぐに桃花さんに電話を掛ける。すぐに出てくれた。
「もしもし?」
「あ、三位になって」
「おめでとう」
 落ち着いた声が聞こえる。
「それで…今日」
「あ、今日はごめんね。アトリエの仲間と出かけるの」
 初めて断られた。
「…。うん」
「ごめんね。また連絡して」
 桃花さんに付き合いする人がいても、友人がいても、恋人がいても俺が何も言う資格はないのが分かっているのに、なぜか気持ちが拗れる。桃花さんはいつでも受け入れてくれると思いあがっている自分も嫌だった。
「ピアノ、ピアノ」と言って、俺は地下鉄の入り口に入っていく。
 桃花さんを大切にするって、具体的にどうするのがいいのか分からないまま、時間が過ぎていった。

 練習をしていると、電話が鳴る。桃花さんだった。
「律君、時間ある? アトリエの仲間と一緒にカフェで展覧会するの。見に来ない?」
「行く」
「…良かった」と少し安心したような声で日時と場所を教えてくれた。
 電話を切って、すぐにピアノを弾く。
 桃花さんが誰かと楽しく時間を過ごしているのなら、なにより最高だ、と考えることにした。俺は桃花さんのために少しも役に立っていない。そういうところも、嫌だった。

 レッスンが終わったら桃花さんの展覧会に行く予定だった。少しいいジャケットを着て行くと、先生に驚かれた。
「リィィツ、今日はデートか?」
「知り合いの展覧会に」
「へぇ。展覧会ね。ムソルグスキーの展覧会…そろそろやろうか。ちょうどいいから絵を見ておいで」
「…はい。でも…」
「でも?」
「素人なんです」
「素人?」
「絵が恐ろしく下手で」と言うと、先生は笑い出した。
「それはリィィツが見る目がないだけかもしれない。前衛的なアートかもしれないよ。とりあえず楽しんでおいで」
 そう言ってレッスンが始まった。俺は桃花さんの絵を写真に収めて、先生に見てもらおうと心に決めた。桃花さんの絵が前衛的なのか、素人の作品なのか、ジャッジしてもらいたかった。

 そして花束を買って、展覧会場所に向かう。桃花さんはカフェだと言っていたが、ナシオン広場から少し歩いたところにあるベトナム料理店だった。
「こっちー」と店先で手を振ってくれる。
 久しぶりに見る桃花さんは嬉しそうに微笑んでくれた。
「桃花さん、これ」と言って花束を渡すと大げさに喜んでくれた。
「かわいい。嬉しい。素敵」
「展覧会…って初めてだから。何もって来たらいいか分からなくて」
「いいよ。手ぶらでも良かったのに。見て、見て。私以外はすごく上手だから」と言って手を引かれる。
 カラフルな店内、緑の壁に絵が掛けられている。
「バインミー美味しいよ」
「え?」
「ベトナムのサンドイッチ。是非食べてみて」
「あ、うん」
 そう言われるとテーブルに案内された。なんだかうまい客引きのようだった。鶏肉のバインミーというのにしてみる。それとベトナムコーヒーもおすすめされる。
「桃花さん」と後ろから声が聞こえた。
「あ、明日香ちゃん」
「え? すごいかわいいイケメン。親戚の子?」と明日香ちゃんと言われた女性は俺を見た。
「あ、絵のモデルになってもらおうとナンパしたの」
「えー? ほんと? 私もなってもらおうかな」
「いい子でしょ? かわいいし、綺麗だし。ピアニストだって」と勝手に話す。
「…桃花さんの絵はどれ?」
「あるよー。えっと、あれ」と指差すけど遠いのと、観葉植物が死角になっていて良く見えない。
「見えないから、近くで見てくる」
「いいよ、そんな…しっかり見なくても」
 そうは言ってもここにいても気まずいから絵を見ることにした。壁に掛けられた絵は色とりどりえ、そしてモチーフもバラバラだった。写実的に描いてる人もいれば、デフォルメされている絵もあった。
「これ…」と言葉が詰まったのは桃花さんの絵だった。
 どこかで見た気がするのは気のせいじゃなかった。俺をモデルにして描いている絵に彩色が施されていた。やっぱりへたくそだった。
「…あ、ちょっと色が失敗しちゃったかなぁって」と桃花さんが後ろから慌てて言い訳をする。
「斬新だよねぇ」と明日香さんが横でしげしげと眺めながら言う。
「…」
 俺は何も言えずにただ眺める。他の桃花さんの絵はテーブルの上に飾られた花や、果物なのに、それも決してうまいとは言えないが、まだ形状が分かるし、そんなに酷く逸脱しているようには思えない。どうも人物を描くのが苦手なのかもしれない。
「でも…どうしてこの三枚にしたの? 三枚しか描かなかったの?」
「え。あ、うーん。そんなこと…はないんだけど。えっと…やっぱり律君は…飾ってみようかなって思ったんだけど…。やっぱり…辞めとけばよかった?」
「いいけど…」
 似てなさ過ぎて、俺がモデルなんて分からないだろうし、と思った。
「でもどこかしら似てるよね」と明日香さんが言う。
「え? どこが?」と思わず言ってしまった。
「この髪の毛くりくりのところとか。ちょっと大きな目が伏し目がちなところとか。上手かどうかって言われrたら、応えられないけど、特徴はとらえてる気がする」
 そういうものだろうか、と俺は首を傾げた。
「ね。もういいでしょ?」と桃花さんは俺の腕を引っ張る。
「他のもゆっくりみたいから」と言うと、桃花さんがどこかへ行ってしまった。
「ほんとはね、他の絵も…律君なの」
「え?」
「律君の絵を上手に描こうとそればっかり描いてたの」
 驚いて明日香さんの顔をまじまじと見る。
「…でね。うまくいかなかったみたいで。慌てて、この静物画の絵を二枚描いて、出したみたい。後は全部律君? らしき人物像で。みんなが笑っちゃって。一番引きで描いたのを出すことにしたの。でも、今日、本人に会って、似てなくないなって思ってる」
 何も言えなくなった。
「桃花さんってかわいいよねぇ」
「え?」
「絵を描いてるとき、自然と声出してるの。『え? あれ?』とか」
 そんな風に全然思ったことなかった。いつもクールで、笑えない冗談を言う人だけど。
「すごく天然で…。愛すべき人だから、私は大好き」と明日香さんが言う。
「…そうですか。なんか…知らなくて」
「私もびっくりしちゃった。こんなイケメンに声かけてたなんて」と言って笑う。
 俺の知らない桃花さんがいて、何だか不思議な気持ちになった。
「声かけられた時は…変な人かとは思いましたけど」
「思い切りがいいよねぇ…。病気のせいもあるかも…だけど」
「病気? 手術したのは知ってますけど」
「…うん。でも…転移の恐れもあるから。五年待って転移してなかったらいいけど、もし転移してるってなったら、もう何もできなくなるって、ここに来たんだって」
「…じゃあ、まだ…」
「本当は定期的に病院でチェックしなきゃいけないのに…」
 俺は思わずその場で頭を下げて、桃花さんを探した。店の外に出ると、桃花さんが他の人と話していた。
「あ、そろそろバインミーできてる…」という桃花さんの手を引いて、少し歩いた。
 無言で歩いて、無言で着いてくる。
 少し角を曲がったところで止まる。何かの店舗らしいがシャッターが下りていた。
「病院行かないの?」
「え?」
「ガンだったって」
「…あ。あー。うん。そう。まぁ、いいかなぁって」
「良いわけない」
「帰ったらいくわよ」
「今日?」
「日本で行くわよ」
「帰るっていつ?」
「まぁ、そろそろお金ないし…半年後とか?」
「一回帰国して、また戻ってきたらいいじゃん」
「えー? 面倒だし」と言って顔を背けた。
 不貞腐れた顔をしている。でも思い返せば、離婚後の慰謝料で資格と取ったらと勧めた時ももしかしたら未来を考えていなかったからなのかもしれない。
「生きてて欲しいんだけど」
「生きてるじゃない」
「お願いだから…桃花さんは」
「何? どうしたの?」と初めてちゃんと話を聞いてくれそうだった。
「別にいい人でもなかった。恋しいって思うこともないけど…。そんな人でもやっぱり死んだって聞いた時はショックだったから」
「…お母さんのこと?」
「そう。だから自分でも驚いた。こんなにショックなんだって」
 本当に怖くなって、夜中に泣いたりして、莉里に慰められた。莉里がいなかったら…どうなっていただろうと思う。
「…ごめん」
「桃花さんは…もっとどうでもよくないし、大切だから…生きてて欲しいって」
「…ずるいなぁ」とため息を吐く。
「え?」
「そんな綺麗な顔で言われたら…悪く思っちゃうじゃん。まぁ、考えとくから。バインミー食べなよ」
 桃花さんは絶対に俺に自分の領域に入らせないようにしている。体をつなげても、絶対に侵入を許してくれない場所があった。
 俺が動かないでいると、まるで飼い犬が踏ん張っているのを諦めてみる飼い主のような目で俺を見る。
「あのさ、お祝いだから」
「え? なんの?」
「三位になったんでしょ? そのお祝いのバインミーだから。私の驕りだから、食べてよ」
 なんだかんだと桃花さんの思惑通りに動く自分が嫌だけど…。
「絵を買ってくれてもいいよ?」と冗談を言うから、またお店に戻った。

 そしてレッスン時に先生が
「展覧会は良かった?」と聞いた。
「あ、はい。前衛的なアートで」
 実際、あの後、桃花さんから電話があって
「ごめんね。なんか、律君をモデルにした絵が売れて」と謝られた。
 どうして謝られたのかは謎だったけれど、売れたことの方の驚きが大きかった。
 なんでもアフリカ系フランス人が郷土料理をする店に飾るというので買って言ったということだった。
「いくらだったの?」
「五十ユーロ」
 それが安いのか高いのかもはや分からなくて、無言になった。
「初めて絵が売れたからすごく嬉しくて。律君のおかげだね」と桃花さんは喜んでいた。
「…よかった」
 桃花さんが嬉しいのなら、と思って言った。どこのだれか分からない人に自分を描いた絵が買われたというなんとも不思議な体験だった。
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