第31話 居場所

文字数 3,553文字

 上から見ていると、莉里が小さな段差で躓いているのが見えた。思わず体が動くけれど、躓いただけで、そこから転ぶことはなかった。
「莉里…」
 あの人が知ったら、どんな顔をするだろう、と思った。あの人はなぜか莉里には甘い。

『律が…娘だったら…可愛がってくれたのかな』
 俺の母親がぼんやりとそんなことを言ったことがあった。雨の日で、なぜかその日は家にいて、俺のピアノを見てくれていた。それが嬉しくて張り切って弾いた。上手く弾けたと、振り返った時に言われた言葉だからはっきり覚えている。
 その言葉が響いて、寂しくなった。
(じゃあ、もし僕が女であの人が可愛がってくれたら…、お母さんももっと優しくしてくれた?)とは口には出せなかった。
 その日が莉里の誕生日だったということを後になってから知った。
 あの人が母親の側にいないと一年に一度だけ決まった日だった。
 別に母親とあの人が毎日一緒にいたわけではないけれど、娘が自分より優先される日が存在することが嫌だったのだろう。でも俺にとっては莉里の誕生日はいつもいなくなる母親が必ずいる日だった。その日はピアノをじっと聞いてくれる。アドバイスもたくさんしてくれて、何だか嬉しい日だった。いつも一緒にいる祖父母はそれぞれ忙しい人で、二人とも大学で働いていたらしかった。だから預けられても、ご飯は用意してくれたものの、ほぼ留守番だった。ピアノを弾くしかやることがなかった。いつかまたあの日までに上手くなるように。ピアノを練習していたら、週に一度、ピアノの先生が誉めてくれて、一年に一度、母親に褒められる。ピアノが唯一の居場所だった。
 ある年、その莉里の誕生日にリサイタルを母親が企画したが、散々だった。リサイタルにはいつも駆けつけていたあの人だったが、その日だけは来なかったのだ。豪華な花は贈ってきたが、その花束は叩きつけられて楽屋でボロボロになっていた。
「愛してる」というメッセージカードはゴミ箱に捨てられていた。
 あぁ、だから「愛してる」という言葉が陳腐に感じてしまうんだ、と納得した。あの日、ゴミ箱に入れられた赤いカードと言葉が少しも役に立たなかった。

 久しぶりにそんなことを思い出していると、ドアが開いて、莉里が帰ってきた。
「ただいまー」と明るい声をだしてくれる。
「おかえり」
 その笑顔を見ると、憂鬱な過去が遠くなる。
「莉里…ごめんね。ちゃんと部屋でゆっくりしてくれていいから」
「え?」
「気を遣って、外に出なくてもいいから」
「うん。でもいつもは学校があるから。りっちゃん…どうかしたの?」
 呼び方が昔に時々戻る。多分、情けない顔をしているんだろう。
「何でもない。お腹空いて…バナナ食べたんだ」
 そう言うと、莉里が近寄って、ふわっと抱きしめてくれた。
「…辛い事がなくなりますように」
 莉里の声が耳に優しく溶けていく。
「莉里は優しいね」
「律にだけ」
 あの人からの電話は言わないことにした。莉里を無駄に嫌な気持ちにさせたくない。
「ご飯、食べに行こうか。ちょっと服着るから」
 ランニングのままで、汗もかいてるからシャワーを浴びたかった。
「ねぇ。律。ご飯はここで食べて、久しぶりに則子さんのジャズバーに行かない?」
「いいけど?」
「じゃあ、ご飯用意するから。シャワー浴びてて」
「分かった」
 莉里が何か食べたいものがあるのだろう、と俺は思いながら、シャワーを浴びた。出てくると親子丼を作っていた。
「あ、ちょっと卵が固まり過ぎたかも」と眉根を寄せていた。
 あの頃に比べたら格段に莉里は上達している。
「莉里…、ありがとう」
「ううん。私が食べたくなって。たまには出汁の味が食べたいよね」
「…うん」と言って、頬にキスをした。
 あんなに我慢してたのが嘘みたいに今は普通にキスができる。莉里が嬉しそうに微笑んでくれる。前に教えてくれたけれど、莉里は先輩に触られるだけで嫌だったらしい。だから遠慮していたけれど、俺は大丈夫だから、と言ってくれた。
 その差は何だろう。
「美味しそう。食べていい?」
「どうぞ」と莉里も食卓に着く。
 美術館を見て、帰りに日本食を売っているスーパーまで行ってたそうだ。
「冷凍の回転焼き、プレゼントしてくれたの。賞味期限が短いからって」
「へぇ。回転焼きとか…すごい久しぶり」
「うん。後でフライパンで温めてあげるね」
 知らない人から見たら恋人同士。
 でもあの人が知ったら…?
 大切にしていた莉里をどうにかしたってっ知ったら?
 俺は莉里の幸せそうな顔を見て、胸が痛んだ。
「莉里…」
「何?」
「美味しいね」
「ほんと? 良かった」
 安堵の笑顔が広がるけれど、胸が苦しくなった。俺たちはどうしたって、姉弟だから。莉里がいつか他の誰かと…、その日までって思うことにしたけど。でも本当はそうじゃない。いい弟にもなれない。他の誰かなんて、想像もしたくなくなっている。
 他の人と結婚するとき、俺は親戚の参列者として笑顔でいられるだろうか。
 莉里の手を引いて、教会を走り出してしまうだろう。
「莉里、愛してる」
「え?」
 突然言われた莉里は驚いて、こっちを見た。
「こんなに美味しいものを作ってくれてありがとう」
「えー? お世辞なの? もう」と言いながらにこにこ笑う。
 手を離すことも、一生側にいることも…きっとできない。
「お世辞じゃないよ。神様に…感謝したいくらいだ」
 莉里に会えたこと、一緒にいれる今を。それを陳腐な言葉に託した。

 夜に則子さんのバーに行くと、則子さんが困った顔をしていたが、俺を見て明るい顔になる。
「あ、良かったー。お姉さんに連絡したの正解ね。たまには来てくださいって」
「なんか、嫌な予感がする」と俺は大げさにため息をついた。
「勘がいいのね」
「まぁね」
「あのね。ピアニストが急遽、時間に来れなくなったから。代理で弾いてくれる? バイト代は出るわよ。ほんの…一時間くらい」
「ピアノだったら、則子さんが弾けばいいじゃん」
「私はウッドベースだから」
 ピアノはもう弾きたくないのかもしれない。そんなことを思っていると、椅子を引かれて、座るように促された。
「莉里?」と軽く振り返って睨んでみる。
「あ、ごめん。まさかこんなことになるなんて。たまに来てくださいねってメールが来たから」
 慌てている莉里を責めるのはお門違いだったけど、可愛かったからつい言ってしまった。
「ほら、何でもいいから弾いて」
「クラシックしか弾けないよ」
「アレンジできるでしょ?」
 トルコ行進曲をジャズにアレンジした。すると則子さんがウッドベースで合わし始める。絶対音感っ持ってる則子さんだから音程はばっちりだ。俺は彼女のピアノが好きだった。綺麗で鮮やかで大胆だった。
 それなのに――。
 あんなことがあって、続けられなくなることが本当に悔しい。
 則子さんの方を見ると微笑んでくれた。俺はわざと顔を背ける。思えば、二台のピアノをしたこともなかったし、こうして二人でジャズを弾いたこともなかった。カルテットとかでたまに鉢合うことはあったけれど。
 楽しい。ここで俺がやっていけたのは音楽があったからだ。いろんな人と音を重ねて会話することを知ったのもフランスでだった。
 何曲か弾いたら、ドリンクをくれる。
「スカウトされちゃうね」と則子さんは笑いながら話しかけてくる。
「あー、それはありがたいな」と俺はそっけなく言う。
「律はジャズも弾けるんだ。すごい。聞いたことなかったけど」と莉里が目を丸くして言う。
「なんちゃってだから。本物とは違うけど…」と言って、でも莉里に褒められたことは気分がすごく良かった。
「莉里さんにメールしてよかった。律君なら断られるだろうと思って。後ね、歌手がくるから、伴奏して」
「えー? ピアニストまだ来ないの?」
「ごめんねぇ」と言いながら則子さんは笑った。
 遅れてきたフランス人はどうやら恋人と過ごしていて、離れがたかったようだ。その恋人というのが同性だけど、バンドネオンを弾けるというので、楽器を持ち込んで、演奏始める。ものすごくうまかったので、しばらく莉里と並んで聞いていた。
「律…。フランスに来てよかったね」と莉里が言う。
「うん?」
「…律の居場所がたくさんある」
 それはどういう意味か分からないけれど、莉里にとって俺はいつまでもいじめられていた男の子なのかもしれない。
「莉里の居場所は…俺のところでもいい?」と冗談のように言うと、莉里が顔を赤くして頷いた。
 本当にいつまでも莉里の居場所になれたらいいな、と儚い事をぼんやりと思う。莉里はきっといつか誰かまともな相手と結婚する。そう思うと苦しくなって莉里を見る。
 則子さんがいるのに、うっかり手を握りそうになって、慌ててジンを口に入れる。ライムの香りが鼻に抜けた。
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