恋の香りは仄かなもので

文字数 10,000文字

 私は先々週の週末、人生最大の一大事件に遭遇した。大事件にして難事件のそれは、秋風に運ばれた金木犀の香りのような、仄かな初恋だった。その香りはどこから来てどこへ行ってしまったのかを、私は今、分からずにいる。

 事の発端は3ヶ月前の放課後、学校のパソコン室で友人のイチコと情報の課題を進めていたときのこと。いつの間にかお喋りが始まり、最近できたというイチコの彼氏の話になる。デートとかキスという単語が耳に慣れず、赤面していると、
「サヨは子どもだな~。もう高2なのに、恋愛に関してはまだまだ小2並みだね」
 そうからかわれた。そしてイチコは、これでも見て勉強なさい! と、私の腕を引っ張る。私の座る椅子が彼女の方へコロコロと引き寄せられた。パソコンの画面を覗くと、『恋する♥️週末ホームステイ』と見出しのついた動画が映し出されていた。
 『恋する♥️週末ホームステイ』とは通称『恋ステ』と呼ばれている最近人気の恋愛リアリティー番組らしい。イチコの説明によれば、この番組では男女7名の高校生が週末だけ一緒に旅をするらしい。そして、その旅を通して彼らに恋が芽生える様子を視聴者はワクワクキュンキュンしながら見るということだった。
 それから――私はその番組にすっかりハマってしまった。すでに何シーズンも番組は行われていたらしく、ふた月もすると過去のも含めてしっかり全部に目を通していた。
 そしてとある日の放課後、イチコと『恋ステ』の話題で盛り上がっていた。
「サヨ可愛いんだから参加者に応募してみたら?」
「えー、ムリムリ! 私、恋愛経験ゼロだし……」
 嬉々とした表情でイチコが私に提案した。その表情は良いこと思い付いた、という表情。イチコはきっと彼氏のいる喜びを共有したいのかもしれない。私はその提案に否定はしたものの、本当はとても興味があった。
 その翌日もイチコは応募を勧めてくれる。しかし、恋愛経験ゼロという大きなコンプレックスが重く私の足に絡み付き、なかなか自分の素直な気持ちに正直になれなかった。
 学年が上がるにつれクラスや友人との会話は恋愛の話題がほとんどになる。それぞれの彼氏や片想いの話に花が咲くのだ。なのに私は……。少女漫画の知識をフル稼働させてイメージを膨らませてみるも、自分に恋愛なんて全く想像がつかなかった。周りにはやんちゃな幼馴染男子も全校生徒憧れの先輩もいないし、下駄箱の手紙で校舎裏に呼び出されたことも屋上で不真面目ボーイとミートすることもなかった。そもそも屋上には鍵がかけられていて入ることもできないや……。とにかく、恋なんてものは自分とは無縁な世界の出来事なんだと決めつけていた。だから、自分からその世界に飛び込んでみたいという憧れはあっても、そのハードルは容易に飛び越えられないものだった。
 しかし結果として言えば、私は番組に応募することになる。
「とにかく深く考えないで応募する! 選ばれてから考えなさい」
 そうイチコにバッサリ言われたお陰だ。なるほど、確かに応募しても選ばれるのは一握りである。イチコ監修のもと私のベストな写真が選出され、アピールポイントを記入し、応募のメールを送信した。
 それから約2週間が経ち、幸か不幸か私の出演が決定してしまった。その決定は嬉しい一方で、
――恋を知らない私が恋がテーマの番組に出て良いのだろうか?
 と恋愛経験が無いことの負い目が存外に大きく私を苦しめた。自分を変えるチャンス! と鼓舞するも、どうせ自分なんて……と最後には弱気になってしまう。そんな悩ましい日々が続き――。

 先々週の土曜日、ついに収録初日は訪れた。夏も一段落した秋の入り口、風が気持ちいい朝だった。
「胃が痛ぁ……」
 楽しいはずの旅の出発は憂鬱なスタートで、恋を知らない後ろめたさと自己卑下がないまぜになった不安が私を押し潰そうとしていた。
 とは言え電車の移動は悪くはないもので、ガタンゴトンという規則的な揺れは心地好く、少しずつ旅への期待を膨らませ私を上向きな気持ちにさせてくれた。収録前にイケメンメンバー君とバッタリ遭遇なんかして、運命とか見つけちゃったりして! と乙女な妄想もできる余裕がでてきたり、けれど、制服姿の学生はどこかしこと沢山いるのでそんな妄想はあり得ないとすぐに打ち消したり。

――なんだか……もうやだなぁ
 先程上向きになった気持ちはしかし、いざ集合場所のK駅に到着すると再び下を向いてしまっていた。番組参加はやはり気が乗らなくなり、階段を登る足が重い。段を登るごとに視界に映るもの全てが色を失いはじめ、内心は弱音でいっぱいになっていった。その時――
「あっ」
 私は足を滑らせ、後ろにバランスを崩した。
――落ちる!
 そう思った時、誰かが背中を支えてくれた。
 白黒する心を落ち着かせ、支えてくれた人物の方へ顔を向ける。
「ありがとうございます!」
 そう言って見上げると、カラフルな衝撃がそこにあった。深いブルーの瞳に金色の髪。
――綺麗……。王子様みたい
 まるで少女漫画みたいな、夢のようなシチュエーション。高鳴る心臓。私は彼の腕にもたれっぱなしでうっとり見つめてしまった。彼が私を支える手を離し、ようやく私の意識は現実に引き戻された。
「さ、さんきゅーべりーまっち!」
 拙い英語で慌てて会釈をする。ふと、下に降りた視界になんだか違和感を感じた。姿勢を直して視線を戻す。彼の服装が学ランなことに気がついた。あれ、日本の学生? 疑問に思っているところへ、
「ったく、気をつけろよ」
 なんと流暢な日本語で返ってくる。というか、低めの声で言い捨てるような、不機嫌そうな語調に圧倒される。足早に立ち去る彼の後ろ姿を呆然と見送るうちに、段々とモヤモヤが込み上げてきた。
――転んだのは悪かったけど、でも!
 しばらくモヤモヤして、そして最後は溜め息が出てきた。
――今日は最悪のスタートだよ
 これからが思いやられると落ち込んだ。

 集合は男女で出口が異なり、女子は西口、男子は東口に集合することになっていた。改札を抜けて左右を見ると右手に西口の文字。私は右に向かい階段を降りる。すると制服を着た女子高生2人とスタッフらしき人が数人たむろしていた。
「ぉはようございます」
 番組への気乗りなさと先程の落ち込みで、私はすっかり憔悴しきっていた。もう声に力も出ず、挨拶は周囲の喧騒に紛れて消えそうだ。しかしそれでも、先に到着していた女子高生2人は私の挨拶に気づいてくれこちらを振り返り元気に手を振ってくれた。
「よろしくね~!」
 2人はまるで雑誌から出てきたみたいに、女の私から見ても非常に綺麗だった。2人の名前はミナミとアヤカ。ミナミは少し緊張した面持ちだが、学校ではバレー部員らしく、それについて話すときはとても素敵な笑顔を見せた。肩上に切り揃えられた髪が外に跳ねている様子はお洒落で、この前雑誌で見た女の子を彷彿とさせる。アヤカは明るく元気な振舞いで、初対面でもすぐに打ち解けられる不思議な引力を持っていた。そして明るく染めたロングの髪はウェーブしていて、大人びた雰囲気を纏っている。2人ともスラッとした高身長の体型はまるでモデルのようだった。
 私は2人と自分を比べてしまい、自分の低い身長も結びっぱなしのポニーテールも何もかも場違いに思えて、憂鬱な気持ちはさらに加速するばかりであった。
 私達はスタッフに連れられ琵琶湖の畔に場所を移し、収録が始まった。
「高身長イケメンが来たらどうする~?」
 これを言ったのはアヤカ。
「緊張するね~」
 そう言ったミナミに続いて、私は「ねー」と相づちを適当に打った。私以外の2人は旅行という非日常と恋への期待に胸をワクワク膨らませているようだったが、私は緊張で会話は遠くに聞こえ、景色は色を失いはじめていた。
――どうしよう。はじまっちゃった……
 そう内心冷や汗をかいているところに、4人の男子メンバーが颯爽と現れる。
 1人は焼けた肌が健康的で、キリッとした表情が格好良い。別の1人はくせ毛と人懐っこい笑顔が印象的だ。皆身長は高い印象を受けるがその中でも頭ひとつ飛び出ている男子もいる。そして、最後の一人に私は自分の目を疑った。不安と緊張で色を失い始めた世界でも目立つ金髪碧眼の鮮やかな美男子――先程の不機嫌王子がそこにいた。
――胃が痛い……
 手のひらに変な汗がかき始め、心臓が煩く主張しはじめた。逃げ出したい、という衝動に駆られる。けれども収録は構わず進んでいくから逃げ出すわけにはいけない。男女互いに挨拶を交わして、そのまま自己紹介の流れとなった。先に男子から自己紹介が始まる。男子達の名前はそれぞれ、ユウタ君、マコ君、リョウ君、そして不機嫌王子はケイトと言うらしい。
 最初に口を開いたのは、人懐っこい笑顔が印象的なマコ君だった。高校ではクラスの学級委員長らしく、彼の人懐っこい笑顔と明るい口調から、きっと彼はクラスのムードメーカー的存在だろうと予測でき、早速今も場を和ませている。
 マコ君に続いたのは一番身長の高いリョウ君。高校ではバスケ部員だという。その言葉に彼を見上げて私は納得した。これくらい身長があればダンクシュートとか決めれるんだろうな、羨ましい。
 続いて口を開いたのは、不機嫌王子こと金髪碧眼のケイト君。母親が日本人で父親がロシア人らしく、
「わぁ!」
 アヤカとミナミから歓声が上がった。先程ミナミが彼のことを見てアニメのキャラみたいだなんて呟いてたから、やっぱり彼は美形なんだろう。
――こうして出会えば第一印象は良かったかもなぁ
 そんなことを考えながら、でもそれにしても、と私は思った。ケイトは登場から自己紹介の間ずっと仏頂面で笑顔を見せていない。彼の不機嫌は通常モードなのだろうか? 笑わない彼はとても近寄りがたく感じる。やっぱり私はこの人のことが嫌いだ、と内心そっぽを向いた。
 そして最後に自己紹介をしたのは、日焼け男子のユウタだった。彼はサッカー少年らしく、捲った袖口から伸びる褐色の腕は、鍛えられた筋肉で引き締まっていてとても男らしく映る。
「おお!」
「すごーい!」
 リフティングが得意と言うユウタ君に男女共に歓声が上がった。ユウタ君はそれが嬉しかったのだろう、登場から凛々しい表情を崩さなかった彼の顔がほころぶ。
――可愛いな
 そう感じた彼の笑顔はとても素朴で、癒されるような安心感を私に与えた。憂鬱な心情の私に眩しく映るそれは、まるで厚い雲に覆われた空に柔らかな光が一筋差したようで、凍てついた不安の塊は優しく融かされ、モノクロに染まってしまった私の世界は色を取り戻しはじめる。
 この暖かい気持ちは、もしかして恋なのかもしれない、と私は嬉しくなった。それまでの重たく憔悴しきった気持ちは身を翻し、軽やかに何処かに飛び去ってしまう。
 皆が自己紹介を終えると、私達は近くにある琵琶湖博物館の展示スペースを借りて恋チケットを抽選した。机の上に並んだ封筒を一人ずつ手に取っていく。選ぶ封筒によって中に入っている恋チケットの枚数が4、6、10枚と異なるらしい。恋チケットとは旅に1日参加するごとに1枚消費されるチケットだ。つまり4枚あれば2週、6枚あれば3週、10枚あれば5週に渡って週末(土日)の旅に参加できるのだ。
 私の選んだ封筒には恋チケットは10枚入っていた。内1枚は赤いチケットである。
 赤いチケットは旅の間、告白を決めた日に使うチケットだ。これを使用すれば告白が成功でも失敗でも、ノーマルの恋チケットが残っていてもそこで旅は終了になってしまう。
 私の恋チケットは10枚だったので、5週間旅を続けられる。けれど一方で、この中の何人かは自分より早く旅が終わってしまうのだ。ユウタ君は何枚引いたのだろう? そんな疑問が頭をよぎった。ケイトの顔もチラリと浮かんだが、それはすぐに打ち消した。
 抽選が終わると、琵琶湖博物館内にある水族館をみんなで回った。続いて琵琶湖畔に移動し、そこで私たちはスポーツをしたりバーベキューをしたりして交流を深めた。
 バーベキュー前の空き時間にユウタ君が得意というリフティングを披露してくれた。生き生きとしたその姿はとても格好良く私の目に映り、気づいたら私は拍手をしていた。
「……ありがとう」
 ボールを止めると彼は照れた様子でお礼を言って、はにかむ。不機嫌王子にはないその煌めきがとても眩しい。そういえば、と思いケイトを目で探した時、
「ただいまーー!!」
 ツーショットで買い出しに出掛けていたアヤカとリョウが帰って来て、バーベキューの準備が始まった。
「そういえば、第一印象誰だった?」
 ミナミが玉ねぎを剥きながら、切り出す。
 私は一瞬、王子様のように見えたケイトを思い出すが、あれは旅が始まる前だからノーカンだ。
「私はユウタ君かな。元気なところが良いし、すごく格好いい」
 断言した――
 バーベキューがはじまり、やっと昼食がはじまる。皆で肉や野菜を焼いたり食べたりしながら話題に上がったのは、それぞれの好きなタイプについてだった。
「俺は見た目で判断しない人だな。生まれも育ちも日本だから、この見た目のせいで外人ってからかわれること結構あってさ」
 ケイトのこの言葉は、私の心を苦しく握りしめた。もしかして、と私は思う。彼がずっと不機嫌なのは、助けてもらった時に私が下手くそな英語でお礼を言ったから? ハーフの彼をからかったように思われたのだろうか?
 その後ユウタ君にツーショットを誘われて琵琶湖畔を散策するも、胸の内はモヤモヤと霧がかかったまま、会話も半分は上の空だった。

 2日目の午前は彦根城へ出掛けた。彦根城は本丸にたどり着くまでに長い長い石段を登らなくてはならない。体力のない私は石段の途中から息が上がって苦しくなってくる、が、前を行くミナミとアヤカはマコ君、リョウ君と会話をしながら軽やかに階段を登っていた。
「大丈夫?」
 私の少し前を行くユウタ君が心配そうに声をかけてくれる。
「うん……ありがとう」
 私は息を切らしてユウタ君の方を見上げる。気遣いが嬉しい。けれども、
「足元疎かにすんなよ」
 後方から聞こえるケイトの言葉は、荒っぽく言い捨てるようで折角の嬉しい気分は台無しになる。私はうん、とだけ返事をして石段を登ることに集中した。
 先を行く4人は楽しげに、そして少しずつ遠ざかるので、早く追いつこうと急いで足を動かすが、なかなか追い付けない。しばらくしてようやく石段の終わりが見え、頬が緩むのが自分でも分かった。
「あと少しだよ」
 先に登りきったユウタ君が10段程先の所で手を差し伸ばしてくれている。手はまだ届かない距離だったが、私も彼に向かって手を伸ばした。その時、石の凸凹に躓いてバランスを崩す。

――あぁ、まただ……
 私は思った。また私は不本意ながらもケイトに支えられて転倒を免れてしまった。
「大丈夫?」
 心配そうなユウタ君に、
「だから足元気を付けろって」
 不機嫌そうなケイト。
 彼らの声は、けれどどちらもまるで水中に潜った時のようにくぐもって聞こえた。だってあと少しの残った石段を、ケイトが私の手を引いて登るものだから、その手がとても力強くて暖かいから、私の全身の細胞がさわめいて、それどころじゃなくなっていた。湧き出す不思議な感覚に混乱する。
 石段を登りきると私はケイトの手を振りほどき、たまたま目についたご当地キャラのひこにゃんのところまで走って、飛びついた――。

 彦根城での収録を終えて、私たちは移動のロケバスに乗り込む。次に向かうのは黒壁スクエアという、お洒落なお店や美味しいお店が立ち並ぶ観光街だ。
「ひこにゃん可愛かったねー!」
 バスに乗り込み開口一番そう言ったのは、私。収録中にひこにゃんに飛びついたことが恥ずかしくて、こう言えば私の奇行の全てはひこにゃんが可愛すぎたせいにできるはず! という苦し紛れのごまかしだった。それにしても、まだケイトに捕まれた手の感触が残っている。少し湿った暖かさ。思い出される手の温もりに顔が熱くなる。一方で、心配してくれたユウタ君にも助けてくれたケイトにも、ありがとうを言えていない事実が霧のように冷ややかに心に充満していった。
 そのうち車内では、アヤカの提案でじゃんけん大会がはじまる。勝った2人は次の収録場所で気になる人をツーショットに誘えるという勝負だ。勝負は何度かあいこが続き盛り上がった。そして、最終的にミナミと私の2人勝ちになった。
 私はツーショットの相手に、ユウタ君を誘った――。

 程なくして黒壁スクエアに到着する。
 私はユウタ君とガラス館に入った。レトロな洋館風の店内はやや薄暗いが、窓からの光がサンキャッチャーに反射して光の粒が店内に綺麗に散らばっていた。棚には可愛いガラスの人形や色とりどりのグラス等が並んでおり、2階へ行くと展示ケースに入れられたガラス製の大小様々な動物や船の置物が飾られていた。あれが綺麗、これが可愛いと当たり障りのない会話が続き、そしてそれらが途切れたとき、

「ごめん」
「ありがとう」

 声が重なった。私達は顔を見合わせ一瞬絶句し、それから互いに顔を緩ませた。それからユウタ君は真面目な表情に戻り、
「さっきサヨちゃんが石段から落ちそうになったのは、僕のせいだ」
 ごめんと頭を下げた。
「そんなこと……」
 無い、と否定するのを待たずにユウタ君は続ける。
「君が登りきる前に僕が声をかけたから、足元の注意がそれて危ない目に……」
 彼は辛そうな表情で私も苦しくなる。私の不注意のせいなのに、彼がそんな風に考えてたなんて知らなかった。私は――、
「私は……ユウタ君が心配してくれて、手を差しのべてくれて嬉しかったよ。ありがとう」
 身体を折り曲げる。あの時すぐにそう伝えていたら良かったんだ。ごめんね、と内心で呟く。言いそびれたありがとうを伝えてもなお、心の中に充満していた霧は少しも晴れはしなかった。
 いつの間にか私達は店を出て当てもなく道を歩いていた。次はどこ行こうか、なんて話ながら街を散策していると、
「手、繋がない?」
 ユウタ君が手を差し出す。少し前までは男の子と手を繋ぐなんて考えてもいなかった。私は戸惑いつつもその手を取り――感触に違和感が走った。気づくとその手を振り払っていた。一瞬の沈黙が流れる。
「あの、ごめん私」
「ううん大丈夫。こっちこそ」
 謝る私にユウタ君は辛そうな微笑みで力なく笑った。罪悪感がじわりと胸を締め付ける。
 それから私達はもう手を重ねることはなかった。ふたりの距離は最初よりも少し離れたままツーショットは続き、そのまま旅は終了する。

 翌日つまり月曜日、私はイチコに2日間のことを早速話した。本当は守秘義務ってやつで放送日までは誰にも教えちゃだめなんだけど、2日間の出来事はもう私のキャパを超えていて、イチコも興味津々で、つまり不可抗力だった。という訳で人生初の恋愛相談がここに開催される。
「ふむふむ、あのサヨが遂に男子と手を繋いだのか~。しかも2人と! てか聞いてるとサヨはケイトが好きなように聞こえるんだけど」
「いや断然ユウタ君だよ! ケイトっていっつも口調怖いし、無愛想だし、近寄りがたくて……嫌なやつ~って感じなんだよ!」
「そうかな~、ケイト言うほど嫌なやつじゃなくない? 彦根城のときだって、サヨは階段で転んだ前科があるから後ろで見守ってくれてたんだよ、きっと。不器用王子だと私はみた! てか、恩人に嫌なやつとか言わないの!」
 ぐぅの音も出なかった。イチコに言われて、ケイトのことになると少しムキになる自分がいることに気がついた。私はケイトの表面しか見れてないのかもしれない。
「うん、ごめん……」
 私が謝ると、イチコはよしよしと私を撫で、
「ケイトにお礼まだなんでしょ? ちゃんとお礼言って、ついでにちゃんと話してみなよ、ね?」
 背中を叩いた。まるで保護者みたいだ。

 そして来る先週末、旅の3日目はユウタ君とケイトのどちらとも気まずいままに1日が終わった。そしてその日にリョウ君が赤いチケットを使用し、彼の旅が終了する。
 旅の4日目は追加メンバー無しの1人足りない状態で収録はスタートした。収録開始早々、ミナミはマコ君とアヤカはユウタ君とツーショットに出掛けてしまい、私とケイトは皆から取り残される形でツーショットに出掛けた。
 ケイトは相変わらずの仏頂面で、私は緊張でいっぱいいっぱいになる。しっかりしなよ、とイチコに背中を叩かれたような気がした。
「あの、ありがとう。この前助けてくれて、2回もその……」
 私の素直な気持ちは訥々と吐き出される。言葉が中々出て来ずもどかしい。気づくとケイトは少し困ったような表情をしていた。
「いや、寧ろごめん。手掴んだの嫌だったろ」
 彼の初めて見る表情で紡がれたのは、意外な謝罪だった。甦るのは石段を登りきるときの記憶――力強く引かれた手の暖かな感触、そして、その手を振りほどいた感覚だった。
「あれは、びっくりしたからで……。ケイトがそう思ってるなんて知らなかった」
 手を振り払ってしまったときのユウタ君の辛そうな表情も脳裏を過る。私は人を傷つけてばっかりだな、と悲しくなった。
「私もごめん。あんな態度したら傷つくよね。それに……」
 言葉が溢れだす。
「初めて会ったときもケイトを嫌な気持ちにさせてた。駅の階段で落ちそうになったの助けてもらったのに、日本人じゃないと思っちゃって、ケイトは外国人って見られるの嫌なのに、私は下手な英語なんか喋って、ごめん」
 目に映るケイトが少しぼやけた。
「そうだっけ?」
 勇気出して言ったはずの謝罪、なのにケイトの返事は気の抜けるようなもので、
「でもいつも怒ってる感じだったし、嫌われてると思ってた!」
 私はムキになるが、そこへケイトの大きな手が降ってきた。
「俺はもともとこうなの! つーか、サヨってそんな喋れんのな」
 ケイトは私の頭をぐしゃぐしゃに撫でながら破顔し、笑いだす。彼が笑うのは初めてで、なんだか見惚れてしまい、その内私もつられて一緒に笑いだした。なんだか胸の内の霧が晴れていくような感じがした。ちゃんと話してみて良かったとホッとした。

 そして3週目の日曜日。旅の6日目の今朝、私の旅のチケットはあと2週分残っていたけれど告白用の赤いチケットを回収箱に投函した。
 呼び出したのは、ユウタ君だ。少し照れたような純朴な表情は第一印象と違わず、私をほっとさせる。私は一度深呼吸をして口を開いた。
「この前の繋いだ手、ごめんね。あれから気まずくなって、このまま旅を続けるのも、旅が終わるのも、会えなくなるのも嫌だったから、ずっと謝りたかった。本当にごめん」
 今日を逃すと謝罪ができない気がした。関係を修復できない気がした。
「私は第一印象からユウタ君に安心感をもらってて、好きだなと思ってました。一緒にツーショット行ったときは楽しかった。だから、あの、これからも友達みたいにいられたらなって思いました」
 また仲良くしてください、と差し出した手指に冷たい風が絡み付き、空気へ溶けていく。葉擦れの音が沈黙の静けさを際立たせた。
「僕もサヨちゃんが好きだよ。繋いだ手を拒否されたときは嫌われたかと思ってたから、そう言ってもらえて嬉しい。けど……」
 ユウタ君は視線を落とす。
「サヨちゃんの好きは僕の好きと違うのかなって思うな。実は僕も今日、サヨちゃんに告白するつもりだった。けど、でも僕の好きは……友達としてじゃなくて……だから、ごめん」
 彼は辛そうに微笑み、さよならと言って足早に立ち去っていった。

 こうして私の旅は呆気なく終わりを迎えた。メンバーとのお別れの時、もう何が悲しいのかも分からず泣きじゃくる私をケイトが優しく包み込んだ。ケイトの温もりは心地好く、それも今日までと思うと私の胸を更に締め付けた――

 そして今、私は帰りの電車に揺られている。黒い窓に映る私の顔は目が腫れて酷いものだった。私は確かにこの旅で恋を知った。けれどその恋は余りにぼんやりとしたもので、私にはとうとう分からなかった。秋の香のように何処かへ消えてしまったその仄甘い香りを、私はもうすでに懐かしい。
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