第9話 八人会議

文字数 2,682文字

 5月31日、火曜日。成瀬の呼びかけで代表者による話し合いが行われることになった。場所はレンガ造り風の壁に、上部が半円のガラス窓が並んだ洋風のカフェだ。所々置かれたプランターには造花が溢れている。
 八人掛けのテーブル席に、一年生と二年生の代表が向かい合って座っていた。お互い初めて見る顔に緊張感が漂う。それぞれ手元には注文したドリンクがあり、時々ストローに口を運んだ。
 二年生側の席は一つ空いている。経営コースの倉田が来ていなかった。成瀬がスマホを手に取る。集合時刻を五分過ぎていた。『まだか?』と送っていたメッセージは既読になっていない。
「じゃあ、始める。単刀直入に……」
 成瀬はブリーフケースからプリントを取り出すと、田村弟の前に置いた。条例案を提出するための用紙だった。シャープペンシルで薄く『進級券所持禁止』と書かれ、学籍番号と名前の欄は空いている。
「この条例を作ってもらいたい」
「……無条件で、ですか?」
 田村弟が尋ねた。
「何が欲しい?」
「それは……一年生が欲しいのは単位です。つまりコインです」
 他の三人に視線を送りながら田村弟は答えた。
「何枚だ?」
「何枚って……」
「2000単位か?」
「そうですね……」
「成瀬はん、そんなコインどこにあんねんな」
 狩野が小声で尋ねた。
「二年には少し余分に単位を取ってもらう」
「少し余分って、ちょっと待って、計算するわ……」
 スマホで計算機のアプリを起動する。2000÷166=12.048……。
「1人12単位、4コマやな。前後期で2コマずつか……」
「市川はそれでいいか?」
「……それ以外にないなら。仕方ない」
「いやいや、ちょっと待ってえな。単位を取れる保証なんて、どこにもないねんで。今年がどんな試験なんか、まだ分からへんのにやで」
「一年の時は、少なくともオレの国際コースは、難しくなかった。単位がコインっていう特殊なシステムで、取るのまでは厳しくしてないだろ。大学側もそこまで鬼じゃない」
「楽観的やな。成瀬はんだけかもしれへんし、去年はそうでも今年は分からへんで」
 木製の玄関ドアが開く。坊主頭が入ってきた。倉田だった。代表者のテーブルに来て、空いていた席に腰を下ろすと、狩野と市川を越えて、成瀬の厳しい視線が向けられた。
「遅れてきて何もなしか?」
「……別になりたくて、なったわけじゃないし」
「ま、いい。とりあえず、お前の意見が聞きたい」
「何の話?」
 隣の市川が説明する。
「一年生に進級券の所持を禁止する条例を作ってもらう代わりに、二年生はコインを2000単位分渡すってことで話をしている」
「……どっちでもいい。決まった方に従う」
「じゃあ、お前は賛成ってことでもいいんだな?」
 めんどくさそうに倉田がうなずくと、成瀬は一年生の代表に顔を向けた。
「二年の代表は賛成でまとまった」
「いやいや、僕は賛成してへんで」
「4人中3人が賛成している。4分の3は可決に必要な3分の2より大きい」
「それ、数の暴力やで。市川はんも倉田はんも、よく考えた方がええって」
「よく考えるのは、お前だ。余分に授業を受けることが悪いことか。オレたちは大学に学びに来てるんだ。この交渉が成立すれば一年も二年も、あとは自分たちの授業での成績次第で進級できる。安心して普通の大学生活が送れるんだぞ」
 狩野は天井を見ながら首を回した後、一年生に目を向けた。
「そっちの気持ちも分かるけど、やっぱ不公平なんちゃう。僕らかって、34人も退学してんねんで。こっちが必要な進級券を持ってるって、おかしいと思わへんの」
 成瀬が割って入る。
「それは大学側の責任だ。新しく作るコストを省いたのか、理由は分からないけど、使ってるコインが同じだから仕方ない」
「仕方ないことはないやろ。進級券については関係あらへん」
「あの……」
 田村弟に視線が集まる。
「二年生の単位について書かれたプリントを、掲示板に貼るよう俺に指示したのは……成瀬さんなんです」
「ええっ!」
 びっくり仰天した狩野が、思わず立ち上がる。
「ほな、最初から全部、成瀬はんが仕組んでたってこと?」
「……全部じゃないが」
 狩野は右手を大きく横に振った。
「この話はなしや。いったん白紙に戻そ」
 不穏な空気に一同が応じた。

 本棚が壁一面にズラリと並ぶ。二号館の四階にある図書室は、オリエンテーションの時に学長が言っていた通りマンガはなく、経済と法律に関する専門書で圧倒的に占められていた。
 冷房がガンガンに効いている。梅雨に向かって蒸し暑さも増してくる時期、学生にとっての憩いの場になりつつあった。
「……つまんねえ」
 ミクロ経済学の本を開きながら、鈴木が机の上にあごを置く。前に座っていた佐藤が古代ローマ史の本を閉じた。
「『勉強して単位さえ取れば、あとは遊べる』って言っておきながら、いきなりそれか」
「遊べるっていう保証がないと、勉強する気になれん。進級券さえ手に入ってれば、勉強から解放されたのに……」
「もう言うなよ。あいつのお陰で平和に過ごせてるところもあるわけだし」
「あいつって?」
「成瀬だ」
「……まあな。去年はコインの奪い合いばっかで、遊ぶなんていう空気じゃなかったからな」
「ところで、何して遊びたいんだ?」
「海に行きてえ」
「それ、女とだよな?」
「もちろん」
 鈴木が大きくうなずいた。
「いい女いるか? この大学、七割か八割くらい男子だし。しかも噂では、滝山教授の存在で女子の割合が増えたらしいからな」
「この大学で見つける必要はない。一年の時に人間関係は崩壊してるし、三年もどうなるか分からない。そもそも俺の好みが少ない」
「好みって?」
「……オッパイだ」
 佐藤から目を逸らし、恥ずかしげに鈴木が答えた。
「海と巨乳ってわけか……悪くない。全然悪くない。いや、むしろ良い。最上級だ」
「だろ。海と巨乳の具現化、これが大学生活における俺たちの至上命題だ」
「でも、どうやって……」
 鈴木がスマホを手に取る。
「世の中にはマッチングアプリっていう便利なものがあって、実はすでにインストールしてある」
「なんと」
「これは身長とか出身地とか、いろんな条件で検索できるんだ」
「なら、香川出身の田中は?」
 佐藤の言葉の意味を鈴木はすぐに理解した。
「なるほど……いける。やれる。東京の人口はハンパない。可能性は無限大だ」
 二人の顔から満面の笑みがこぼれる。鈴木が「ウオー」と雄叫びを上げると、佐藤が「ワオー」と応えた。するとカウンターから派遣社員の女性が鬼の形相で近づいてきた。
「静かにしてください!!」
 二人は口を押さえながら、頭を下げた。
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