キャンバス

文字数 2,036文字

花畑の外側へ行くと、霧が待ち侘びたようにすぐ回りの景色を覆い隠した。ここはどこへ繋がっているかは分からない。期待せずに少し歩いたが、やはり延々と霧の迷宮が続き、どこにも辿り着けなかった。
足元は乾いた黄色い土、そこに萎れた雑草が生えていた。こうしてうろうろしてもしょうがないと思い、出口探すのを諦めた。少し前の話を思い出す。自分の時間が止まったままここで永遠に留まるとか、想像だけで息が止まりそうだ。
あの花畑とユキのことを思い出す。彼女は俺よりも長い間時間が止まっているようだ。何故そこまで余裕でいられるだろうか。霧の向こう側にいるあの笑顔が無性に恋しくなった。離れたばかりなのに。
戻ろう。彼女の言う通り、俺も暇を潰す何かを見付けるべきかもしれない。花畑とその主の笑顔を脳裏に浮かべながら、引き返した。
花畑の縁に戻った途端、霧が嘘のように引いていった。向日葵達はこっちに背を向けて、まるで道標のようにある方向を示してくれた。その先は丸太小屋だった。
辻道を辿って、遠くから丸太小屋が見える。小屋と花畑の間でキャンバスが構えられており、ユキはそこで絵を描いているようだ。彼女の絵に興味が湧いてきた。足音を忍ばせてそっと近付いた。
ちょうどキャンバスの前に到着した時、ユキは手を止めて俺に挨拶した。
「あれ?ばれたか?」
「遠くから見えたから」
「そうか、何か描いている?」
見れば分かると言わんばかりに、彼女は手招きした。
彼女の後ろに回って絵を見た。それは花畑の絵だった。当然と言えば当然か。彼女の部屋の絵を思い出す。そこに掛けていた花の絵は、彼女の手によって育って綺麗に咲いた花を、その度に描いた絵だと理解した。
金色と緑が織り成す美しい景色を、顔料に乗せてキャンバスで再現していた。向日葵の色合いは現実より少々派手な気がした。辻道も描いてあり、遠くからぼやけた人影がこっちに向かって歩いてきた姿が描かれていた。まさかの俺である。
「あなたのおかげで、この絵に活気がついた」
そのぼやけた人影を指して彼女は言った。
「そうなのか。活気がいいのは、その向日葵達の方じゃないのか?むしろ俺の人影なんか玉に瑕だよ」
ユキは軽く頭を振った。
「そんなことないわ。一番華麗な姿見せた後、花は枯れてゆくしかない。しかしあなたの道はまだまだその先へゆくでしょ?」
「それは静止した絵で分かることじゃないだろう」
「私が分かればいいんだもん。自分が描いた絵だ。誰かに見せるためでもないし、それを見ればあなたのことを思い出させればそれでいい」
一理あると思った。ここに来なければ、彼女の絵はずっと花畑の風景になるし、観客も彼女自身しかいない。自分にとって意味が成し得るならば人は勝手に満足していく。自己満足が案外大事なのかもしれない。
自分はあまりにも不器用で、それができなくて、こうしてこの世界を彷徨っていたんだろう。元の自分が根っこからつまらない人間なのかもしれない。
「またしわ寄せてる。いい習慣じゃないよ。機嫌悪いの?」
ユキは座ったまま手を伸ばして、油絵筆の丸い先で俺の眉間をつんつんしてきた。
「いや、別に。ちょっと考え事してただけ」
彼女のゆるい表情を見て、心も柔らかくなった気がした。こうして彼女の側にいると、自分の中で駆け回る焦りもどこかへ消えたように、とても落ち着いた気持ちになった。
「ところで、部屋の壁にある絵、全て君が?」
「そうよ」
「花畑の景色じゃない絵も見かけたが、それはどっかで見た景色なのか?」
「私はほとんどここを出たことがないよ。ここじゃない風景は、私じゃない私が見たものよ。ここへ来る時僅か残された、過去の自分の欠片」
「俺も似たような経験があった。きっと大切な物を向こうの世界に置いてきたから、戻ろうと必死に出口を探した」
「それはどうだったかしら。私からすれば忘れることにきっと意味があると思うわ。旅立ちする時、荷物が重過ぎるとなかなか前へ進まないでしょ?」
「だとしたら何故綺麗さっぱり忘れられないだろうね。俺たちは過去の自分が残してくれた僅かなヒントでこの世界を生きてゆく。それを気にしないわけがないだろう」
「人は過去の自分をなくして”我”として成り立たない。過去の自分の欠片が僅かを残してくれたおかげで、ここでの生活に意味が成し得るじゃないのかな?」
彼女の言葉を吟味する。それは今までにない発想だ。
「ね、何故そこまではっきりしないといけないの?世界の仕組みを知って、学者にでもなるつもり?」
そう言われると、何故だろうと自分もおかしく思った。ただ何となく気になり、自分の中の焦りをどうにかして解消したくて、ベクトルが偶然一致したのかもしれない。
「成り行きに任せればいいじゃない。難しいことばかり考えるとずっと眉間のしわができたままだよ。もっと気楽に行こう」
彼女の言葉に、妙な説得力がある。それを信じたくなった。
「確かに。君に学んでみようかな。これからはよろしくね、先生」
「もう~からかわないでよ」
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