また会おう、カイト

文字数 3,416文字

自宅を出て、これからどこへ行こうと考えたら、境目の森にあるあの丸太小屋が自然と思い浮かべた。カイトに案内してもらって色んな人と知り合ったけど、あそことサヤのパン屋だけ前から行きつけになっていた。
もしサヤがまだここにいれば、彼女の作ったパンをユキに食べてもらたかったが、もう叶わないと思うと残念で仕方がなかった。
しばらく歩いて、街のぼやけた影が完全に霧の中に消えた。足元の石畳の硬い触感が忽然消えて、綿飴の上で歩くような感じで、虚空を踏んでいるような気分になった。更に進むと、森の影が霧の中で見え隠れに現れた。森に入り、空中に浮いている奇妙な黒い柱がずらりと森の奥まで並んでいた。足元のねっとりした土の感触はなんだか懐かしいと思った。
ユキは目の前の景色に目を見張ったように、好奇心に溢れる目線で回りを見回した。その黒い柱の正体が気になって、近く行って確かめた。それが霧の中で一部しか露わになっていない樹幹であることに気付き、その証拠を探しに仰いで樹冠を探した。
初めて来た俺と同じ反応で、どこか微笑ましかった。
再び彼女とこの森に踏み入って、遥か昔の記憶が蘇った。あの時も似たような風景の中で、彼女と(はぐ)れた。必死に彼女の名を呼んで探し回った。その時感じた不安が移ったみたいに、平静だった水面に一滴の雫が零れ落ちたように漣が立った。ユキの側に行って、手を取った。
その行動に少し心得ていないような表情だったが、何も言わず握り返してくれた。
「目的地はもうすぐだ。行こう」
森の開けた場所に、相変らずあの小屋はあった。当然と言えば当然か。この世界に時間は流れていない。静止した世界の中で唯一流れているのは人間だけ。
ノックした後、ドアはすぐ開けられた。
「おや?」
小屋の主が来客を見て少し驚いた様子だった。
「久しぶり」
目の前の彼に挨拶した。前見たあの背の高い、ゆるい空気を纏っていた男はどこか消えてしまって、代わりに目の前に現れたのは可愛げな少年であった。
「本当に久しぶりだな。お前が先に行ったと思ったわ」
坊やがそう言って、後ろに居るユキに気が付いた。
「後ろに居るのは誰?」
「ユキって言うんだ。俺の恋人」
「へー、そっか」
彼は意味ありげに笑って目を細めてこっちを見た。
「てっきりお前がカイトの仕事を引き継いたと思った。そういうことなら、まあ、お目出度いだよね。お前も随分と若返りしたようで、つまり彼女がお前の答えだよね」
「見ての通りさ。さて、いつまでもお客さんをドアの前で立たせる気?中に入らせてコーヒーの一杯でも出せや」
「こいつ、俺のとこをカフェとかに勘違いしたか?」
冗談を言い合って、彼の家に上がった。ユキは後ろで黙々と俺らの会話を聞いて、静観を徹した。
部屋の中は相変らず、床に色んな紙が散らがって、混沌な状態であった。ユキはその意趣の変わったカーペットに戸惑っていた。
「平気だよ」
率先してそれを踏んで、ユキの手を引いた。それを見て坊やは口笛を吹いて冷やかした。
「ソファーにかけて。コーヒーを入れるから少し待って」
その言葉はユキに向かって言ったような気がした。人見知りの彼女は会ってから一言も喋らずずっと畏まっていた。
ソファーに座り、控えた視線で部屋の中を見回して、壁にかけていた絵を見て、可笑しそうに笑った。
「どうだ?俺の会心の作は?」
「子供の落書きみたい」
一切飾りのない言葉に、坊やは怒らず平気な顔だった。
「言ってくれるね。あんたの方はどうなんだ?絵が上手いか?」
「彼女と張り合うのが()した方がいい。プロ並みの技術を持っているから」
間に入って俺は言った。
「プロ並み?それは手強いね。だがプロって言えば俺だってピアノのプロだ。そっちは誰にも負けない自信がある」
そう言って彼は入れたコーヒーをテーブルの上に置き、反対側に行って、ピアノの前に座った。
「せっかく再会できたから、俺の自慢の曲を進ぜよう」
それから彼は深呼吸して、指先を踊らせた。
それは悲しい曲だった。海の向こうへ渡航する親友を、祝福や名残惜しさを込めた目で埠頭で見守っているシーンが脳裏に浮かんだ。
一曲終えて、坊やはピアノの前に座ったまま、すぐに起き上がらなかった。憂いげな目で窓の外を見て、彼に似合わない少し悲しげな表情を見せた。
「知ってるか、カイトは多分もうすぐここを出る」
「そうか」
心の一部が欠けて零れ落ちて、底の見えない深淵に飲み込まれたような気がした。
「あんまり驚かないね」
「予感はあった。そろそろかなって」
「お前が消えた後、あいつはがらりと変わった。案内人の仕事もやらずに、ただひたすら街を彷徨っていた。その様子はお前を探しているというより、お前がここに居ないという事実を確認しているようだ」
「そうか……」
それ以外の言葉は思い着かなかった。幽霊のように街を彷徨い続けるカイトの姿を想像すると、負い目を感じた。
「あいつの時間は止まっていたけど、お前が消えてようやく動き出したようだ。今のお前を見て少し分かったような気がする」
ユキは訳の分からない顔で俺の対話を見守っていた。
「見送りに行ってやれ。あいつはあの場所で待っているはずだ」
「うん」
その話を聞いて、もうじっといられなくなった。古い友との再会をもっと楽しみたい気はなくはないが、今はそれより重要なことができた。
「行こう、ユキ」

森を出て、まっすぐあの欠落した橋を目指した。そこに着いて、橋の果てに人影が見えた。
「そこで何を見ているのか?」
背後からカイトに声をかけた。
「人を待っているよ」
カイトはゆっくりと振り返って、視線は自然と俺の後ろに居るユキに向けた。彼女を見て、寂しげな、やりきれない笑顔を浮かべた。
「やっぱりそうなったのか」
その反応に少し驚いた。
「お前、ずっと知ってたのか?」
カイトは肩を竦めてみせた。
「ほんの一部だけだけどね」
なるほど。体が初対面の時より一回り小さくなった彼は子供そのものに見えるが、苦笑いの表情は見た目と反して大人っぽく見えた。
「この場所を気に入ってほしかった」
自分がやろうとしたことに失敗した風に、やや俯いた猫背になって彼は言った。
「ここは好きだよ。俺にとっては桃源郷みたいだ」
カイトは頭を振った。そしてユキに視線を送り、続けて言ったーー
「お前には別の選択をしてほしかった。結局お前はいつものように同じ選択をした。無駄なことだと承知して諦めきれなかった。俺じゃお前を変えるのに力不足だった。残念だったよ」
「俺達は幸せだよ。他の選択をしてしまったら、それこそ永遠に後悔するかもしれない」
「幸せね……今のお前達にとってはそうかもしれないけど、傍から見て痛々しくてたまらないよ。この一瞬のために、未来とか過去とか全て勘定に入れず、出口のない迷宮を延々と彷徨い続ける。それが幸せだというのか?」
「そうだよ。俺がそう選んだから。間違っているとは思わない。後悔もしない」
「そっか。ならもうお前にかける言葉はない。俺はその呪いの輪からお前達を解放したいだけだ。それを幸せだと言うのか。世の中はままならないね」
「親身になってくれてありがとうね」
「何を言う?兄弟として当然のことだろ?」
ここ一番朗らかな笑顔を見せてくた。ああ、懐かしい無邪気な笑顔であった。
カイトは右手を差し出した。俺も右手を差し出して、彼と握手した。
「先に行くよ。向こうで待ってる」
「うん。またね」
名残惜しそうに俺と美雪を見詰めながら、カイトはゆっくりと後退(あとずさ)った。橋の果てに行き、身を翻した。彼はポケットから懐中時計を取り出して、水に落とした。霧の嵐が全てを飲み込む勢いで迸った。カイトの姿もあっという間に消えてしまった。
「消えた?」
霧の嵐が収まり、ユキはカイトの去る方向を見て不思議そうに問いた。
「うん。俺達もそういう形でここを出るよ」
「そうか……」
何か思うところがあるだろう。ユキはまだカイトの消えた先を見詰めていた。
「さっきはごめんね。ほっぽらかして」
「いいよ、別に。むしろ私が居て邪魔だった?なんか大事な話していたようで」
「そんなことないよ。君を彼に紹介したいのが本意だ。この場所も見てもらたかった。ただ偶然に二つの出来事が重なり合っただけだ」
「なるほど。それにしても、あの子とどこかで会ったような気がした。初対面のはずなのに、変なの」
「それは前世の因縁なのかもしれないね」
「かもね」
遠い先を見詰めて、彼女の目に一抹の悲しみを見た気がした。
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