第33話 脱出不可

文字数 2,894文字

 私は中崎さんの美しい寝顔を堪能する時間なく耳を研ぎ澄ませる。母が軽快にねぎを刻んでいる音がする。今のうちにこっそり抜け出そうと思った。そっと、方向転換して布団から出ようとすると、中崎さんの手が伸びてくる。
(寝ぼけてる)と思ったが、私は伸びた手をゆっくり外して、布団から抜け出た。
 まな板の音が止まった。
 冷蔵庫の開く音がする。味噌を取り出しているに違いない。お鍋に向く瞬間にこっそり襖を開けて、抜け出ることにした。立って出るわけにはいかないので、やはり四つん這いで歩くしかない。どうにか階段まで抜け出れたら、上手く行くはずだ。
 そっと四つん這いになった瞬間、足首に中崎さんの手が絡む。
(あー、もう)と振り返って、手を外す。
 寝ているのに、何かに縋り付いたりするの…やめて欲しい、と思っていると、中崎さんの目が開いた。
「シー」と私は指を唇に当てる。
 寝ぼけているのか、ぼんやりしている。彼をとりあえず放置して、私は襖を少しだけ開けて、覗く。
(あ、今日はお父さんがいるんだった)
 リビングのソファに座って新聞を読んでいる父がいる。思い切り、真正面に座っている。父がトイレに行く隙に出て行くまでここで待機していた方がいいのか…。新聞を読んでいるので、一か八かでここからこっそり出た方がいいのか。いや絶対、待機しかない。私はそのまま後退りした。
「十子ちゃん」と中崎さんが小声で呼ぶ。
「あの…父がリビングにいて、出られません」
 近寄るように手招きされる。近づくと、耳を貸して、と言うようにさらに指でおいでおいでをされる。
 耳を近づけると、手を口の横に当てて、息が漏れないように、耳のすぐ側で話される。
「じゃあ、僕が先に出て、十子ちゃんはその間に襖の影に隠れて、僕がお父さんの前に立つから、その隙に出る?」と中崎さんが言う。
 すごく計算された動きだけれど、耳に中崎さんの息が触れて、理解するのに苦労する。
「それでいい?」
 中崎さんが話す度に耳が体温が上がるのと、背中がぞくぞくする。私は何とか頷いて、立ちあがろうとした時、一気に襖が開いた。
「え?」とお母さんが驚いたように言う。
 私は顔が真っ赤なまま中崎さんの布団の上に座っていたし、中崎さんも体を半分起こしていた。その二人に視線を二、三度行き来させて、襖はまた閉じられる。何も言わずに閉じられたので、余計に恐ろしい。
 私は自分の唾を飲む音が聞こえた。
「お父さん、ちょっとパンを買って来て欲しいの」とお母さんの声がする。
「パン? 味噌汁の匂いがするけど…」
「せっかくお父さんがいるし…美味しいのパン食べたいなぁって思って」と甘えたような声でお母さんが言う。
 大体、お母さんのお願いはなんでも聞いてくれるので、お父さんが新聞を置いて、立ち上がった。玄関まで見送ったお母さんがすごい足音を立てて、こっちに向かってくる。
 固まってしまっていたが、それどころではない。
(あ、さっきのが逃げる最大のチャンスだった)と思った時は遅かった。
 再び襖がすごい勢いで開かれる。
「十子!」と怒られた。
「あ…の…」と私が口を開けて、何か言おうとしたが、言葉が出てこない。
「ごめんなさい」と頭を下げたのは中崎さんだった。
 中崎さんは昨日のことを丁寧に説明してくれた。
「十子ちゃんは悪くないんです。怖くて、側にいて欲しいって僕がお願いして…。寝てしまったので、畳の上は悪いと思って。でも何もしてません」
「それって…魅力…なかったのかしら?」と悲しいことをお母さんは言った。
 とり会えず、お母さんに昨夜撮った写真を見て、納得してもらう。突然、現れたぬいぐるみの写真をSNSで上げてた、と見せると私史上最大の拡散されていた。
「…繋がると良いわね。でもさっさと十子は着替えて来なさい」とまた怒られた。

 私は脱兎の如く、お母さんの脇をすり抜けて、二階へ上がった。服を着替えていると、中崎さんの息を思い出して顔が赤くなる。着替え終わって、私はベッドの上に体を投げ出した。
(こんなの体が保たないよ)
 久しぶりに髪の毛をヘアアイロンで巻いた。ゆるふわの鏡の自分を見て、ため息が出る。せっかく巻いた髪だけど、ポニーテールにしてまとめる。化粧をしたいので、顔を洗いに行くことにした。
 下に降りると中崎さんはすでに着替え終えていた。昨日のうちに洗濯してた昨日と同じ服だったが、パーカーを着ていて、ジーンズを履いている中崎さんはスーツとは違って、新鮮に見える。
「十子、ご飯食べなさいよ」
「え? でもパンは?」
「パンがいい?」
 せっかく買いに行ってくれているのに、と思ったが、私は味噌汁とご飯が食べたかったので、ご飯を選択した。中崎さんもそうみたいだった。
「朝からご飯って、なかなか家では食べなくって」と言う。
 私は慌てて顔を洗いに洗面台に向かう。顔を見ると、まだ少し赤い。冷たい水で洗い流すとさっぱりした。そして化粧をしに二階へ上がる。ファンデーションをいつも以上に丁寧に塗った。そうしたら少しは赤味も見えにくくなる。
「恋の練習相手…かぁ」と呟きながら、化粧を終えた。
 下に降りると、お父さんもちょうど戻ってきた。テーブルの上のご飯を見て「パンは? 食べないの?」とみんなに聞いた。
「私が食べたかったの。ありがとう」と母が言う。
 それだけで納得してくれたようでよかった。

 ご飯を食べ終えて、中崎さんがレンタカーを借りてどこか出かけようと言ってくれた。私は携帯でどこがいいか行き先を考えようとしていたら、SNSにダイレクトメッセージが届いた。
「悪戯ですか?」
 知らないアカウントだった。
「持ち主ですか?」と私は聞いた。
 私のアカウントはほぼゲームのアイテム交換に使っていたので、怪しまれたのだろうか、と思った。
「あのぬいぐるみはもう手元にないはずなんです」
「でも…こちらにあって…」
「一度、確認させてもらえますか?」
「どこに行けば良いですか?」
「ぬいぐるみを持って来てください」と指定されたのは割と近くのファミレスだった。
「中崎さん…」とダイレクトメッセージを見せる。
「一緒に行こう。この…十子ちゃんのアカウントから女の子って分かって、そう言う目的で近づく男もいるから」と言ってくれる。
 そういえば、ぬいぐるみはどこに? とお母さんに聞いてみると、「そんなの朝からないわよ」と言われてしまった。
 慌てて、私は女の子を探したけれど、近寄れないらしくて、姿が見えない。困った、と私が家を走り回っていると、父が「何を探しているんだ」と私に聞く。
「クマの…ぬいぐるみ」
「クマの?」
「そうなの。えっと、タグに名前が書いてて」
「それなら玄関にあったぞ」と言う。
 玄関にちょこんと置かれていた。女の子が連れて行って欲しい、と置いたのだろう。
「車なら…使って良いから」と父がキーを中崎さんに渡してくれた。
「ありがとうございます」と受け取って、早速玄関まで来てくれる。
 私たちはクマのぬいぐるみを後部座席に座らせて発進させた。女の子の姿は見えないけれど、このクマを持っていけば、お母さんに繋がるはずだ、と信じていた。
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