第86話

文字数 1,184文字

 その日の夜、龍太が風呂から出てくると、父がビールを飲んでいた。平日に飲んでいるのは珍しい。龍太はもちろんビールなどは飲まないが、父のつまみを分けてもらうのは大好きだ。今日はイカの塩辛だ。龍太も大好物の塩辛だが、健康を考える母はしょっぱい顔をする。父は薬剤師なのに、おいしいものには目が無い。龍太としては父にも自分の健康を気遣ってほしいが、美味しいものは美味しいので仕方がない。
 寒くなってきているが、風呂上りはパンツ一丁で過ごしてしまう。そんな恰好で父に近付きイカの塩辛をねだる。お前にはまだ早い、と言いながらニコニコと小皿に塩辛を分けてくれる父。イカを噛みしめながら、泰史のことを思い出す。泰史も今頃、家でこんな感じで過ごしているのだろうか。

 父の機嫌がよさそうなので、龍太は尋ねてみることにした。「あのさ、お父さん。前にちょっと話した、泰史のことなんだけど」
「ん? ああ、あの野球の、仲間外れにされてた子のことね。その後、なんかあったとか?」
「それが、学校に来んようなったと」
「それはいけんなあ。でもそれ、原因は仲間はずれなんだろ?」
「うん。それどころか泰史は、野球チームの連中に蹴られたりしてたから……」
「龍太、お前、それ知ってて見逃したりはしとらんな?」
「見つけて、止めたちゃけども、止め切れてなかった、かな」
「難しいだろうけど、よう頑張ったな」
「でも、解決はしてない」
「まあ、でもな。起きたことは仕方なかから、今からできることを考えっとよ」

 父の言うとこは確かに正しい。大事なのはここからどうするか。父などの保護者たちは、泰史の万引きの件や、不良中学生との関係をどこまで知らされているのだろう。学校から話を聞いたのが母だとしても、父の耳にもそろそろ届いているだろう。少し探りながら話を進めることにした。
「お父さんは、こういう時にクラスにおったらどう解決する?」
「そら、分からん。分からんが、泰史くんが私たちに手を差し伸べてほしいと思うその瞬間は逃したくないね」
「うん、実は……」
 泰史が万引きしたかもしれない、という話を慎重に打ち明けてみた。父の赤くなった顔が少し正気に戻ったように思えた。
「それはいけんな。そうすると、御手洗さんとこは大変だな。でもまずお前たちだな」
 少し考えてから父が続ける。
「お前たちが、泰史くんをどう迎えるつもりなんか。本当の友達なら、その万引きについて注意すっとやな。ばってん、その状況では、なかなか難しかろうけど」
「きっかけも無かよ」
「きっかけ、なあ」
 龍太は、数日前に泰史のお母さんが父の薬局に来ていたことを思い出した。が、患者さんのことは話題にしてはいけないと以前から父が言っていたことも同時に思い出したので、そのことは黙っていた。泰史の親とは面識があるだろうことは先ほどの台詞でも分かるが、父も話を続けようとはしなかった。
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