第5話

文字数 1,309文字

 信長が湯漬けを流し込んでいる間に、武装をすませた小姓たちも慌てて続く。帰蝶自らが、まだ大広間で籠城か討って出るかと論戦を繰り広げる家臣たちの前に、女物の鎧具足に鉢金を額に巻き、薙刀を抱い込んだ姿で現れた。

「皆の者、何をしておるのじゃ。すでに殿は熱田の大宮まで駆けて行かれた。そなたたちも、早う後を追わぬか!」

 さすがは、美濃の蝮と謳われた斎藤道三の娘である。凛々とした声は、鋭く夜の空気を引き裂いた。思いがけない怒号に諸将は大いに肝を潰し、すぐさま合戦の支度を調えるために出て行った。帰蝶は、女たちにも武装を命じる。

「よいか。殿がお帰りになるまでは、我らが何としてもこの城を守るのじゃ」

 薙刀の石突きを床に叩きつけ、おなごたちを鼓舞する。侍女たちも思い思いの武装に身を固め、女主人と共に城の要所要所へと散っていった。

 於小夜たちは信長が小姓たちと共に城を出ると同時に脱出し、桶狭間へ向かった。信玄の上洛のためには、いずれ今川も邪魔になる。この戦でどちらが勝つにせよ、信玄の行く手を阻む大名がひとり減る。二人はそう思い、戦の行く末を見届けてやろうと話し合い、桶狭間へと全速力で駆けていく。

 信長は熱田神宮で戦勝祈願を行いつつ全軍が到着するのを待つため、二人は桶狭間へ先行することができる。忍びが全速力で駆ければ、半刻ほどで桶狭間に着いた。まだ東雲の頃であるために酔い潰れた今川本陣は、だらけきっている。於小夜たちが駆けつけたときにも、周囲には酒の香気が強くたちこめており、二人は思わず顔をしかめた。

「小十郎どの、これは報せても無駄ではなかろうか」
「そうだな。我らは武田の三ツ者、今川に義理立てすることはない」

 軽蔑を含んだ眼差しで今川本陣を一瞥し、吐き捨てた。別に今川のために働けと命じられていない。信長が出陣してきたことを、今川に報せる義理もないのだ。二人は織田側の忍びが周囲にいないか気配を探り、戦場全体が見渡せる高台の岩場へと身を潜めた。辰の刻になってようやく織田軍が揃い、桶狭間へと進軍した。

 未の刻になると雲がにわかに掻き曇り、あっという間に大雨が降ってきた。この大雨を好機と捉えた織田勢は、遮二無二突っ込んでいく。ここで今川義元の首級を挙げなければという思いが、鬼神の如き攻めを行わせる。

「突き崩せ。狙うは義元の首ただひとつ、他は捨て置け!」

 信長の声が戦場に響き渡り、酒に酔っていて不意を突かれた今川軍は、あっという間に防戦一方となっていく。やがて織田軍は義元に肉薄していった。まずは堀田一忠が義元に斬りかかったが返り討ちに遭い、次いで毛利良勝に組み伏せられて首を取られた。一部始終を見届けた小十郎と於小夜。

「勝負がつきましたな、小十郎どの」
「ああ。これで今川は総崩れ、織田は見事に大将を討って大勝利だ」

 感情のこもらない声で小十郎は、行くぞと告げた。一刻も早く、勝敗を甲斐国のお屋形さまこと信玄に、この大逆転劇を報せねばならない。

(それにしても織田信長という男。大うつけとは、世を忍ぶ仮の姿であったか)

 その辺にいる百姓夫婦の格好になっている二人は、できるだけ目立たぬよう且つ、急いで甲斐国へと走った。
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