第9話 そして壁は軟化する
文字数 2,504文字
「――まぁ、お前の言いたいことも分からんではないが。もう少し大きく構えてもいいんじゃないかってのが俺の正直な感想だ」
響とアスカが居住地帯にある自宅に到着したころ。
防衛地帯にある衛生部隊棟・衛生部隊長室兼診察室では、ふたりのヤミが言葉を交わしていた。
ひとりはヴァイス。彼は神域にてアスカと響が指名勅令を授かったのを見届けたのち、この場所へまっすぐ足を運んだ。
もうひとりは部屋主のディル。
来訪予定時間ぴったりにやってきたヴァイスを迎え、すぐに何でもないふうを装った彼の様子がいつもと違うことに気がついた。
ヴァイスがペストマスクで顔全体を覆い隠していようと即座に察することができるのは長い付き合いゆえか。
ディルは懐から取り出した透明筒、その先端にある短針を己の首に刺し込みつつ、診察室の壁際に立ったままでいるヴァイスへ目を向ける。
「確かに耳を疑うような話ばかりだ。エンラ様があいつらを執行者にしようと思い立ったことも、響がそれに頷いたことも、指名勅令が下ったことも。そんでお前がまだ諦めてないこともさ」
「……ヤミ神の命に沿うことは原則的に絶対だが、第一優先は勅令任務の完遂であって誰が行うかは二の次だ。
彼らに下りた指名勅令を私が代わりに遂行しても何ら問題はない」
「お前ね。自分に来た指名勅令任務をこなすだけでも休むヒマがないってのに、まだ仕事を増やすっていうのか?」
「些事だ」
「やめとけよ。神託者たちにも釘刺されたんだろ」
「……だが、おかしいだろう。私たちヤミ属の落ち度で生物の道を無理やり閉ざされた響くんに、私たちがこなすべき仕事を一端でも担わせるのは。
罪科獣が響くんを狙っている可能性も大いにあると知っていて、何故彼を送り出せると思う」
「……」
「これまでのヤミ神の命は確かに正しかった。だが、これからもずっと正しいとは限らない。そうじゃないか」
「……ま、頭から正しいと決めつけ続けるよりはいいと思うがね」
ヴァイスの言葉にディルは吐息をつく。首に押しつけている透明筒には彼の血液が溜まっていく。
「お前が響の身を案じたくなる気持ちも分かるさ。〝半陰〟なんてものにした責任は確かにあるし、今も半分は生物だからなのか、あいつを見てると本能的に守らなくちゃならないって気にもなる。
だがな、あいつはなかなか肝がすわってる。死ぬよりつらい経験をしたってのに執行者として役に立ちたいなんて、そう思えることじゃない」
「響くんはヤミ属のことも執行者の仕事もまだまだ知らない。判断材料がないから言えることだ」
「なら希望どおり一度やらせてみればいい。それなら響も正しく判断できるようになるだろ」
「……お前もエンラ様と同じことを言うのか」
「そうなるな」
ヴァイスがディルに視線を向ける。
ディルも黒縁のメガネの奥にある灰瞳でペストマスクの先を見つめる――彼の血で満たされた透明筒を首から離し、懐より新たに取り出した透明筒の短針を同じように首へ刺しこみながら。
「ディル、お前は大らかすぎる。普段はそれでも構わないが、大事な局面では慎重に動くべきだとこの前も話したはずだ」
「おっと、毛玉型罪科獣の件の説教はもう足りてるぜ。重々分かってますとも。だが体験してようやく分かることってのは山のようにある。
お前だって日頃はとりあえずやらせて学ばせるタイプだろ? そんなお前が響にだけはやたら慎重になりすぎてないか?」
「……当たり前だ。奇跡的に助かった命をわざわざ危険にさらす必要はない」
「じゃあ危険が危険じゃなくなるよう俺たちで助けてやればいい。大事なことを教えてやって、備えさせて、経験を積ませて、乗り越えられるようにしてやればいい」
「教えたところで能力にも精神にも限界がある」
「なら技術も磨いてやればいい。それこそ人間の得意分野だろ」
「シエルだっているんだぞ。ふたりの命を摘もうとしたシエルが、生物界には今も」
「……」
「ああそうだ……やはり私が代わりに遂げよう。そうでないとまた――」
「ヴァイス」
ふと、ディルの声が低くなる。その音色でヴァイスはハッと顔を上げた。焦点を合わせた先には鷹揚な眼差し。
「ヴァイス、思いつめすぎだ。今回あいつらに下った勅令はただの〝魂魄執行〟、普通なら十分程度で終わる簡単な任務だ。
響に紋翼の使い方をちゃんと教えれば移動だって一瞬だろ。お前が想定するようなことにはまずならないさ」
「……」
「だからとりあえず一回でいいんだ。まずは一回だけ信じて任せてやろうぜ」
ディルは言いながらヴァイスの方へ近づいていく。
「響はひとりじゃない。響の隣にはアスカがいる。確かに紋翼を失って戦闘能力は半分以下になったがな、今のあいつは前よりずっと成長してるよ。
響の生物としての居場所を奪ったのが相当堪えたんだろう。毎日毎日家の屋上で必死に鍛錬してるんだとさ。エンラ様の〝千里眼〟情報だけどな」
「……」
「この前の毛玉型罪科獣との戦いでもアスカは響を守ってみせた。
確かにふたりとも無傷じゃなかったさ。響の機転がなかったら危なかったのも本当だ。だが、それでもアスカはキラやルリハ顔負けの働きをしてみせたんだ」
「……」
「きっとアスカは守る戦いが性に合ってるんだろう。なら、守る者を得た今のあいつは以前よりもずっと強い。きっとこれからさらに強くなる。紋翼なんかなくても響を守りきれるくらいに」
「……」
「だから信じてやろうぜ。相棒」
ディルは言い、己の血液で満たされた二本の透明筒を握りしめた拳でヴァイスの胸を軽く叩いた。
ヴァイスは大らかに広がった笑みをしばらく見下ろし続ける。
「……時間を取らせて悪かった。任務に戻るよ。新たに用事ができたからね」
やがてヴァイスは平時の声で静寂を破り、ディルの手のなかにあるそれを受け取った。
「おう、行ってら。無理はすんなよ」
だからディルは踵を返すヴァイスへ空になった手を振るのだ。
そうして閉じられたドアに隔てられ、彼の背中が見えなくなれば静かに笑みを浮かべる。
日ごろは何事にも心乱されない相棒、その稀有な暴走を思い――安堵に少しばかりの苦味を足した、オトナの密かな笑みだ。
響とアスカが居住地帯にある自宅に到着したころ。
防衛地帯にある衛生部隊棟・衛生部隊長室兼診察室では、ふたりのヤミが言葉を交わしていた。
ひとりはヴァイス。彼は神域にてアスカと響が指名勅令を授かったのを見届けたのち、この場所へまっすぐ足を運んだ。
もうひとりは部屋主のディル。
来訪予定時間ぴったりにやってきたヴァイスを迎え、すぐに何でもないふうを装った彼の様子がいつもと違うことに気がついた。
ヴァイスがペストマスクで顔全体を覆い隠していようと即座に察することができるのは長い付き合いゆえか。
ディルは懐から取り出した透明筒、その先端にある短針を己の首に刺し込みつつ、診察室の壁際に立ったままでいるヴァイスへ目を向ける。
「確かに耳を疑うような話ばかりだ。エンラ様があいつらを執行者にしようと思い立ったことも、響がそれに頷いたことも、指名勅令が下ったことも。そんでお前がまだ諦めてないこともさ」
「……ヤミ神の命に沿うことは原則的に絶対だが、第一優先は勅令任務の完遂であって誰が行うかは二の次だ。
彼らに下りた指名勅令を私が代わりに遂行しても何ら問題はない」
「お前ね。自分に来た指名勅令任務をこなすだけでも休むヒマがないってのに、まだ仕事を増やすっていうのか?」
「些事だ」
「やめとけよ。神託者たちにも釘刺されたんだろ」
「……だが、おかしいだろう。私たちヤミ属の落ち度で生物の道を無理やり閉ざされた響くんに、私たちがこなすべき仕事を一端でも担わせるのは。
罪科獣が響くんを狙っている可能性も大いにあると知っていて、何故彼を送り出せると思う」
「……」
「これまでのヤミ神の命は確かに正しかった。だが、これからもずっと正しいとは限らない。そうじゃないか」
「……ま、頭から正しいと決めつけ続けるよりはいいと思うがね」
ヴァイスの言葉にディルは吐息をつく。首に押しつけている透明筒には彼の血液が溜まっていく。
「お前が響の身を案じたくなる気持ちも分かるさ。〝半陰〟なんてものにした責任は確かにあるし、今も半分は生物だからなのか、あいつを見てると本能的に守らなくちゃならないって気にもなる。
だがな、あいつはなかなか肝がすわってる。死ぬよりつらい経験をしたってのに執行者として役に立ちたいなんて、そう思えることじゃない」
「響くんはヤミ属のことも執行者の仕事もまだまだ知らない。判断材料がないから言えることだ」
「なら希望どおり一度やらせてみればいい。それなら響も正しく判断できるようになるだろ」
「……お前もエンラ様と同じことを言うのか」
「そうなるな」
ヴァイスがディルに視線を向ける。
ディルも黒縁のメガネの奥にある灰瞳でペストマスクの先を見つめる――彼の血で満たされた透明筒を首から離し、懐より新たに取り出した透明筒の短針を同じように首へ刺しこみながら。
「ディル、お前は大らかすぎる。普段はそれでも構わないが、大事な局面では慎重に動くべきだとこの前も話したはずだ」
「おっと、毛玉型罪科獣の件の説教はもう足りてるぜ。重々分かってますとも。だが体験してようやく分かることってのは山のようにある。
お前だって日頃はとりあえずやらせて学ばせるタイプだろ? そんなお前が響にだけはやたら慎重になりすぎてないか?」
「……当たり前だ。奇跡的に助かった命をわざわざ危険にさらす必要はない」
「じゃあ危険が危険じゃなくなるよう俺たちで助けてやればいい。大事なことを教えてやって、備えさせて、経験を積ませて、乗り越えられるようにしてやればいい」
「教えたところで能力にも精神にも限界がある」
「なら技術も磨いてやればいい。それこそ人間の得意分野だろ」
「シエルだっているんだぞ。ふたりの命を摘もうとしたシエルが、生物界には今も」
「……」
「ああそうだ……やはり私が代わりに遂げよう。そうでないとまた――」
「ヴァイス」
ふと、ディルの声が低くなる。その音色でヴァイスはハッと顔を上げた。焦点を合わせた先には鷹揚な眼差し。
「ヴァイス、思いつめすぎだ。今回あいつらに下った勅令はただの〝魂魄執行〟、普通なら十分程度で終わる簡単な任務だ。
響に紋翼の使い方をちゃんと教えれば移動だって一瞬だろ。お前が想定するようなことにはまずならないさ」
「……」
「だからとりあえず一回でいいんだ。まずは一回だけ信じて任せてやろうぜ」
ディルは言いながらヴァイスの方へ近づいていく。
「響はひとりじゃない。響の隣にはアスカがいる。確かに紋翼を失って戦闘能力は半分以下になったがな、今のあいつは前よりずっと成長してるよ。
響の生物としての居場所を奪ったのが相当堪えたんだろう。毎日毎日家の屋上で必死に鍛錬してるんだとさ。エンラ様の〝千里眼〟情報だけどな」
「……」
「この前の毛玉型罪科獣との戦いでもアスカは響を守ってみせた。
確かにふたりとも無傷じゃなかったさ。響の機転がなかったら危なかったのも本当だ。だが、それでもアスカはキラやルリハ顔負けの働きをしてみせたんだ」
「……」
「きっとアスカは守る戦いが性に合ってるんだろう。なら、守る者を得た今のあいつは以前よりもずっと強い。きっとこれからさらに強くなる。紋翼なんかなくても響を守りきれるくらいに」
「……」
「だから信じてやろうぜ。相棒」
ディルは言い、己の血液で満たされた二本の透明筒を握りしめた拳でヴァイスの胸を軽く叩いた。
ヴァイスは大らかに広がった笑みをしばらく見下ろし続ける。
「……時間を取らせて悪かった。任務に戻るよ。新たに用事ができたからね」
やがてヴァイスは平時の声で静寂を破り、ディルの手のなかにあるそれを受け取った。
「おう、行ってら。無理はすんなよ」
だからディルは踵を返すヴァイスへ空になった手を振るのだ。
そうして閉じられたドアに隔てられ、彼の背中が見えなくなれば静かに笑みを浮かべる。
日ごろは何事にも心乱されない相棒、その稀有な暴走を思い――安堵に少しばかりの苦味を足した、オトナの密かな笑みだ。