パール・バックの聖書物語 旧約篇

文字数 9,099文字

0  序
1  天地創造
2  エデンの園
3  カインとアベル=最初の殺人
4  ノアと洪水
5  バベルの塔
6  アブラムとロトの旅
7  ロト、捕虜となる
8  神のアブラムへの約束
9  旅人たちの訪問
10 ソドムの運命
11 アブラハムの息子たち(ハガルとイシマエルの話)
12 イサクのいけにえ
13 泉のほとりのリベカ
14 エサウ、長子の権利を失う
15 ヤコブ、父を欺く
16 ヤコブのはしご
17 ラケルとレア
18 ヤコブとラバン



0 序

 パール・サイデンストリッカー・バック。The Good Earth、大地という長編小説で知られる小説家。中国語を話したアメリカ人。来日経験のある彼女は The Story Bible という聖書物語を書いている。
 原語で聖書を読んだ父親が、なぜ彼女にヘブライ語とギリシャ語を教えなかったのか知らないが、パール・バックは英語で聖書に親しんだらしい。ヒンドゥー教、仏教などの聖典に対する理解も深かったであろう彼女は、キリスト教徒のバイブルを、このように捉えている¹。

バイブルは、旧約も新約も、いろいろな読みかたがある。ある人たちにとっては神の教えであり、たしかにそういう要素を含んでいる。他の人たちにとっては英語で書かれた最も純粋な文学である。またさらに他の人たちにとっては人間性の苦悩、葛藤、歓喜を知らせる知識の要約である。子どもたちにとっては話の本である。

 キリスト教は東洋から発生した宗教であり、バイブルをアジアの本と理解する彼女はどのように聖書物語を書いたのだろうか。先に記した彼女の言葉を念頭に読み、思うところがあれば書き記したい。

1 天地創造

 物語は、「はじめに神は天と地とを創造された」という文ではじまる。神が世界を創るという七日間の創世神話は、ミケランジェロに礼拝堂の天井画を描かせ、ハイドンにオラトリオを作曲させる霊感をもたらした物語である。
 パール・バックは第一日目が始まる前の状況を、次のように描いている。

 はじめに神は天と地とを創造された。
 最初は何もなかった。地も、空も、光も、音も、生きているものも何ひとつなかった。すべてはやみと静寂であった。
 やがて神の霊が何もないところに来て、それに形を与え、光をもたらされた。

つまり、世界創造の前は無ではなく、神が存在しており、創世の力をつかってすべてを造形したと描かれているのである。
 人間は六日目に創造され、最初の人間アダムは、伴侶であるエバと「川と宝石の、花咲く木とゆたかな果実の地」であるエデンで暮らすこととなり、創造を終えた神は休むことになる。
 バビロニアの習慣がどの程度反映されたものなのか知らないが、神が六日間で世界を創造し、七日目に休んだ、というのが天地創造で描かれた神話である。

2 エデンの園

 エデンの園では、人間の不従順とこれに対する神の罰が描かれる。アダムとエバは、中央に命の木と善悪の木がある園で幸福に暮らしていたのだが、あるとき、蛇が「たけ高く美しい姿」であらわれ、こういう。

「それを食べると、あなたがたの目が開け、神々のように賢くなって、善悪を知る者となる」

 善悪を知る木から実をとって食べてはいけないと神に言われていたのであるが、蛇によって「禁じられているがために、ほかのすべての実よりも好ましく」みえるようにされ、エバはその実を食べてしまう。さらに、彼女はアダムにもその実を与え、彼も禁じられた果実の味を知ることになるのである。最初の罪である。
 この不従順を知った神は怒り、蛇、エバ、アダムに天罰を下すことになる。蛇は腹で()い歩くようになり、エバはアダムに支配されるようになり、アダムは額に汗して働き、さいごに土に(かえ)るものとなった。そのうえで、アダムとエバはエデンの園から追放されるのである。

 このように、エデンの園は神に対する人間の不服従と罰を描いていると思われるのだが、ひとつ気になる箇所がある。それは、パール・バックが最後の部分に記した、「これで世界の完成は終わった。アダムとエバが従順でなくなったからである」という一文である。これは、人間の本性は、善悪を知るが、不従順であるという一種の性悪説のように思われる。

3  カインとアベル=最初の殺人

 エデンを追放されてから、アダムは土を耕し、エバは夫を支えた。やがてカインとアベルが生まれる。兄カインは父の仕事を好み、土を耕したが、弟アベルは羊の世話を好み、羊飼いとなった。そして、人類最初の殺人が行われるのである。
 きっかけは神への捧げものであった。カインとアベルは「おのおの祭壇を建て、主に供え物をした」のであるが、神はアベルのささげものをよろこび、「カインをよろこばれなかった」のである。カインは胸の中に「燃える怒り」を抱き、アベルといっしょに野に出かけ、けんかの結果、アベルを殺害し、死体を野原に横たわるままにした。

 パール・バックは、このことをもう少し詳しく描写していて、「アベルは自分の身を神にささげているかのようであった」が、カインは「自分を惜しみなく供えようとはせず、神ののぞまれるものすべてをささげてはいなかった」と書いている。つまり、ここにおいて、神が供え物の評価に差をつけたのは、彼らの神に対する献身の度合いに差を認めたからだと考えられるのである。
 パール・バックはカインを、神への献身が不十分なもの、信仰の足りないものとして造形しており、カインがノドという地で家族をもち、財を築く場面でも、「彼らは神を崇拝(すうはい)しなかった」と説明されている。

4  ノアと洪水

 アダムとエバには、セツをふくむ新たな子供たちが生まれ、大地は子供や子孫であふれるようになった。しかし、「人が地上にふえ始めると、人の悪もふえ始めた。」 セツの子孫であるノアたちをのぞき、主の言葉を聞こうとせず、「何が正しいことであるかがわからなくなり、またそれを気にしようともしなくなった」のである。
 そこで、神はノアに箱舟をつくらせたあと、四十日と四十夜の間、雨を降らせ、地のおもてから人間たちを消し去った。

 これが聖書物語に記された洪水神話の大体であるが、要するに神は律法を守らない人たち、破戒の人たちが滅ぼされ、律法を守る人たちが救済され、祝福を受けるという話である。このような洪水神話は世界各地にあり、聖書の洪水神話はシュメールの神話に影響を受けたものらしい。
 この神話は映画にされるなど、現代文化にも影響を与えている神話で、日本文学の代表的作家にもインスピレーションを与えている。たとえば、『方舟さくら丸』という作品を書いた安倍公房には、「安倍公房は初期の作品から、旧約聖書の『ノアの方舟』のような、洪水で人間が滅びるイメージを繰り返し描きました²。」という批評がある。

5  バベルの塔

 バベルの塔も、洪水神話と同じようなものかもしれない。バビロニア国の一部であるシナルの地に住んだノアの子孫たちは、「異教徒の神の神殿のように高い壮麗な」塔をつくり、「自分たちのなしとげた仕事を誇示」しようとした結果、神にことばを乱され、「同じことばを話す民の小さな群れがいくつも地上にあらわれ」るようになったからである。
 並木浩一は「神はこれを人間の自己神化の試みとみて,以後作業のできないように言語を〈乱した〉」と評している。結局、神の目に悪と映るものが神罰を受ける話である。

6  アブラムとロトの旅

 クルアーンでも高く評価されているアブラムは、ユダヤの聖典ではイスラエル民族の祖とされる。彼はセムの子孫であるテラの息子で、「あなたは国を出て、親族にわかれ、父の家を離れ、わたしが示す地へ行きなさい。」という神の声に従い、やがてカナンに住むようになる。
 その後、テラの孫ロトと別れることになるが、カナンの地にとどまることにしたアブラムは、神から、「目をあげなさい。あなたの今いるところから北を、南、東、西を見わたしなさい。あなたの見わたす地全部を、あなたとあなたの子どもたちと、子どもたちの子どもたちに与えます。あなたの子孫を地のちりのように多くします。」と祝福されたと、パール・バックの聖書物語に書かれている。
 ロトに関しては、「低地の町々の与える快楽を楽しむように」なったと語られており、アブラムとは対照的に描かれている。

7  ロト、捕虜となる

 アブラムには義人として描かれる場面がある。ロトを救出する話がそれである。アブラムと別れたロトは、ソドムの町に住んでいた。ソドムの人々は「自分たちの快楽と富の追求以外は何も考えなかった」らしいのだが、彼らがエラム王たちとの争いに敗れたとき、ロトの財産は奪われロトは捕虜となった。そのロトを救出し、エラムの王たちの軍勢に奪われた財産をすべて奪いかえしただけでなく、「報いとしてはただ、自分の小さな軍隊の若者たちのために必要な食糧を受け取った」のがアブラムだったのである。

8  神のアブラムへの約束

 神はアブラムの「義のために」、彼に大いに報いるという。それは一体何だったかというと、高齢であるアブラムとサライに子が生まれ、アブラムは「多くの国民の父」という意味のアブラハム、サライは「女王」を意味するサラになるという約束であった。
 神は、やがてカナンの地は、永久にアブラハムの子孫のものになると告げるのだが、要するに、神が忠実であるアブラハムを祝福すること、神の意思がアブラハムを通してこの世で実現することを描くことが、この物語の主眼であろう。

9  旅人たちの訪問

 アブラハムが「天幕の入り口にすわっていると」、「三人の見知らぬ人」に気づき、神が「三人の天の使いの形をとって」あらわれたことを確認した。そこで、彼は「天幕の入口から走っていって彼らを迎え」、彼らをもてなした。
 彼らは、「罪にみちている」ソドムの人々を滅ぼしにゆくところだったのだが、アブラハムがなぜ彼らが神であることに気づいたのかは説明されていない。パール・バックの聖書物語では、「なんとなく彼はこの人たちにはふつうでないところがあるのを知った。」と述べられているばかりである。

 擬人法というのは、人間でないものを、人間に見立てて表現することと言われるので、三人の旅人の姿で現れた人格神というのは、この表現技法を用いた描写なのだろう。

10 ソドムの運命

 神はアブラハムに「正しい者が十人いたら、その十人のために滅ぼさないであろう」と約束したが、ロト以外に「九人もの正しい人を見いだせそうもないことは明らか」であり、ソドムの町は滅ぼされることになった。
 ロトと彼の娘たちはゾアルの町へ逃げることができたが、彼らがその小さな町へはいったとき、天変地異が生じた。聖書物語にはこう描写されている。「太陽はのぼろうとしていたが、突然、大地がふるえ、揺れ始め、空はみにくい光で赤くなった。彼らのうしろでとどろきわたる雷鳴のようなゴロゴロという音とともに地面が裂けて、低地は大きく盛りあがった。火と硫黄が天から降りそそぐように思われ、死海の水は泡立ち、煮えたぎった。建物という建物は揺れ動いて、バラバラになり、大地はボロボロにくだけた。」

 パール・バックのこの話で少し気になったのは、ソドムの人たちの描写である。彼らは「悪い生き方をしているにもかかわらず、ロトには十分の尊敬をはらい、町の大いなる人物とし、時がたつにつれて、彼を自分たちの裁き人、または賢者の一人とみとめるようになった。」と述べられているにもかかわらず、旅人をかくまうロトを激しく襲うからである。彼らは「おまえはここではよそ者であるくせに、いつもわれわれの裁き人になろうとした。もしわれわれの邪魔をするならば、おまえを、あいつらよりもひどい目に合わせてやろう!」とまで言っている。この点、私には少し矛盾しているように思われた。

11 アブラハムの息子たち(ハガルとイシマエルの話)

 アブラハムとサラにはイサクが生まれたが、サラのつかえ()であったハガルとアブラハムの子であるイシマエルは彼をからかい、サラはアブラハムに「このエジプト女とその子を追いだしてください。わたしの子はその男の子といっしょに育ててはいけません。その女の息子はイサクとともに跡取りになるべきではありません。」と言った。
 アブラハムは「イシマエルをも愛していたので、彼を追いだしたくはなかった」のだが、神から「その若者のために、また女のために悲しむことはない。わたしが契約を結ぶのはイサクで、イサクを通してあなたの名は永久に知られ、あなたの一族は祝福されるでしょう。エジプト女の息子については、彼もあなたの子ですから、彼をもうひとつの国民の祖先としよう。」と言われ、彼らを送り出すことにした。

 神がサラの願いを聞き入れ、契約を結ぶものとしてイサクを選んだ理由は明確には書かれていない。一夫多妻制度から生じる問題が扱われているのだろうか。なお、クルアーンではイシマエルの子孫がアラブの民だと理解されているようである。

12 イサクのいけにえ

 このエピソードは、神に対するアブラハムの信仰の強さを示すものである。イサクが「立派な若者に成長」すると、神は「へブルびとの先祖なるアブラハムを試み」るため、彼に「あなたの子、あなたのひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」と命じた。
 彼は「神の命令をあやしみはしたが」、これに服従し、イサクを連れて燔祭をする山へ登っていき、彼の手足を縛って祭壇のたきぎの上に置いた。しかし、高く持ち上げた刀を振り下ろそうとしたとき、神の使いの声をきく。「イサクに危害を加えてはならない。今、わたしは、あなたの神への愛が深く、真実で、神に従順であることを知った。」
 アブラハムが目をあけると、「角をやぶにひっかけている雄羊」が目に入り、イサクではなく、その雄羊が燔祭のいけにえとなって神にささげられた。

 神に絶対服従するアブラハムの姿が描かれており、信仰の強さを称えるエピソードかもしれないが、自分の子どもを殺す命令すらも忠実に守ろうとする信仰を狂信的だと理解する人もいると思われる。

13 泉のほとりのリベカ

 サラが亡くなり、アブラハムはイサクの寂しさを慰めるために彼の妻を探すことにした。アブラハムはイサクの妻にへブルの娘を望み、財物を管理する最年長のしもべに、アブラハムの親族のなかからイサクの妻を探すように指示した。
 その後、アブラハムのしもべはアブラハムの兄弟ナホルの孫娘リベカを見出し、彼女を連れてくることに成功する。

 聖書物語には、アブラハムは「隣人たちと親しくまじわり、彼らから尊敬されていたが、自分の種族が彼らの種族と混じることを望まなかった。」と書かれている。その理由は具体的に述べられていないが、神に忠実で、信仰心の強いことから、へブル人のアイデンティティ、特にその信仰が保たれることを強く望んだということかもしれない。そうであれば、故郷のへブルびとにイサクの妻を探すよう命じたのも、このためだろう。

14 エサウ、長子の権利を失う

 アブラハムの死後、イサクとリベカはベエルシバに住み、リカベは子を生むことになるが、その前に主は彼女に対し、「二つの国民があなたの胎内にあり、二つの民があなたから分かれ出る。一つの民は他の民よりも強く、兄は弟に仕えるであろう」と告げる。
 そして、この神の言葉に沿った兄弟が描かれることになる。兄は強く、男らしく、狩りを好むエサウであり、弟は穏やかで、羊番をしながら家の近くにいることを好むヤコブであるが、兄は長子権を軽視し、それを軽率に弟に譲ってしまう。
 長子権は「家族の頭となって、家長のすべての権利と責任、祭司としての特権と義務を持つ」ことになる重要な権利だったのだが、アウトドア派のエサウは、レンズ豆のスープと引き換えに、「もし飢えで死んだら、長子権などわたしに何になろう」といって、インドア派のヤコブにこれを譲ることを誓ってしまうのである。
 リベカはイサクとちがってヤコブのほうをイサクの跡継ぎにふさわしいと考え、「子どもたちの生まれる前に言われた主のことば」を思い出し、「ヤコブとリベカは長子権のことを考えた。」と書かれている。この話は、エサウのような人の軽率を戒めるエピソード、あるいは、頭をつかうものが権力を握るエピソードとして読めるように思われる。

15 ヤコブ、父を欺く

 聖書物語には、リベカとヤコブが、イサクがエサウに与えようとした祝福を奪い、ヤコブはエサウから憎まれるようになった話が記されている。
 祝福は「長子権を確認し、さまざまな権利と財産を祝福された者に与えることになる」重要なものだそうで、エサウから長子権を買ったヤコブが祝福を求めるのは自然なことのように思われるのだが、イサクはエサウがヤコブに長子権を譲ったことを認めていなかったのだろうか。このことの詳細は述べられていない。また、エサウは「弟め!よくもヤコブ(奪い取る者)と名づけたものだ。二度までも彼はわたしを押しのけた。二度までも彼は策をつかってわたしのものを奪った。」というけれども、自分の意思でレンズ豆のスープと引き換えに長子権を譲ることを誓ったのだから、この主張にはあまり説得力がないように思える。

16 ヤコブのはしご

 ヤコブは、エサウの怒りを避けるため、またサラの兄ラバンの娘を妻にめとるため、旅に出ることになった。その旅の途上で神が現れる夢を見るのだが、その夢の中で神はこういった。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが横になっている地を、あなたとあなたの子孫とに与えよう。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての種族はあなたとあなたの子孫とによって祝福されるであろう。見よ、わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行ってもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは約束したことをなしとげるまでは決してあなたを捨てない。」
 この旅の前にイサクはヤコブに対し、「おまえはカナンの娘を妻にめとってはならない」といっており、イサクは父アブラハムが望んだことと同じことをヤコブに望んだことになる。ヤコブが夢に見た神の言葉からして、アブラハムの神、イサクの神が、ヤコブの神となることを示すエピソードなのだろう。

17 ラケルとレア

 夢で神を見た後、ヤコブは母の兄であるラバンのもとに辿り着くことができたが、そこでラバンに(だま)され、彼の娘たちであるレア、ラケル姉妹と結婚することになる。ヤコブは羊や牛の世話をしながら七年間奉仕し、ラケルと結婚したいと申し出て、結婚の祝宴が催されるのだが、「夜の暗闇の中を彼がヤコブのところに連れていったのは、厚い結婚のベールにつつまれたレア」だった。その後、伯父ラバンは「まずレアと一週間を過ごしなさい。そうして一週間過ぎたらすぐにラケルとも結婚しなさい。二人以上の妻をもっている者はめずらしくありません。レアもラケルもあなたにあげましょう。すなわち、もう七年間わたしに仕えてくれるならば、そうしましょう」と提案する。ヤコブはこれに同意するのだが、聖書物語では、その理由を「なぜなら彼はラケルを非常に深く愛していて、世の中の何物よりも彼女が彼の妻となることを望んでいたからである。」と述べている。
 当時のハランにいたへブルの人たちは、「妹を姉より先にとつがせる習慣」はなく、一夫多妻はめずらしいものではなかったらしい。現代的な感覚からすれば、ヤコブを悩ませるラバンは、ななかの悪者のように思われるのだが、彼に厳しい神の裁きが下されたという描写はないようである。当時のヘブライズムの視点で見ると、こうした行為はそれほど悪には映らなかったのかもしれない。

18 ヤコブとラバン

 ラケルが子を生まず、一夫多妻にともなう出産の問題が生じた。そこで、ラケルはビルハというつかえ女に子を生ませたりしたのだが、そうすると姉のレアもつかえ女のジルバに子を生ませる事態となった。結局、ラケルはヨセフを生んだので、ラケルをもっとも愛していたヤコブはヨセフをほかの子ども以上に愛するようにはなったのだが。
 ヤコブはラバンのもとを去りたいと考え、このことをラバンに告げたが、「もしあなたに好意があったら、わたしを去らないでください。あなたがここに滞在中、わたしもよく努めました。だからどうかとどまってください。わたしは、経験によって、主があなたのゆえに、わたしを祝福されたことを知りました。ここにとどまってください。どんな報酬をお望みか言ってください。わたしはそれを払います」などという。このラバンという人物は、ヤコブが「ずるくて、機会があれば、また自分をだますであろう」と考えるような人として描かれており、家畜の飼育にすぐれたヨセフを低い報酬で働かせ、自分の財産を増やすことを望んだようである。ラバンとの取引後、ヤコブの家畜の群れがラバンの群れより大きくなっていくと、ラバンの目は「以前ヤコブがただラバンを富ませようとして働いていたころほど好意」を示さなくなり、「好意からおよそ遠いもの」になった。
 そこで、ヤコブは彼らのもとを離れることを決意し、神からも「ラバンがあなたに対してしたことはすべて見ました。さあ、この場所から立ちあがりなさい。あなたの先祖の国と、親族のもとに帰りなさい。わたしはあなたとともにいるであろう」と言われる。

 最終的にヤコブとラバンはアブラハムとナホルの神に誓い、アブラハムの一族はバビロニアの先祖との「きずなを解かれ」、このときから「自分たちだけの国民」となったと記されている。
 なお、ラケルはヤコブとともに出発するとき、「ラバンが非常に大切にしている神々の像」を盗み出し、怒りをもってヤコブに追いついたラバンが「あなたはあなたの父の家に帰りたくなって、逃げ出したくなったにしても、なぜわたしの家の神々を盗んだのか?」と尋ねているので、彼の宗教は多神教であることが示唆されている。ラバンとの決別は多神教との決別も意味しているのかもしれない。





₁ パール・バック. 刈田元司訳. 1999. 『聖書物語 旧約篇』. 教養文庫. p.3
₂ ヤマザキマリ. 2022. 安倍公房 砂の女. NHK出版. p.28
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