四十八~五十三
文字数 19,903文字
四十八
綱木という男の運転する原付バイクが消えたのは、夜中の三時近くでも白人観光客たちがうろついている目抜き通りの交差点だった。そこを左折したため、宿主は運転手に曲がるよう指示したのだが、そこから先、バイクのテールランプがぷつりと消えてしまった。ほぼ直線の道路だから、本当なら二百メートルほど先を走るバイクが見えても良さそうだったが、影も形もなかった。運転手はさらに加速して何百メートルか進んでみたが、やはりバイクは見あたらない。宿主は困惑して元の交差点に車をもどらせた。
それから十分もしないで鈴木がやって来た。車をホテルに返し、鈴木は、ジェイムズと名乗る今回のツアーガイドの友人――こっちはバリ人らしいマデという名だった――が運転していたカローラに近づいて来た。それを車外で待っていた宿主が迎えた。助成というウブドツアーの同行者も一緒だった。原付バイクの捜索に参加するとでも言うのだろうか。
「遠くには行ってないはず。見失うわけないもの」
「路地にでも隠れたかな。車の運転手はどうした? 綱木さん、どこからか飛び出してきてまた逃走するかもしれない。スタンバイしといたほうがいいのに」
「さっき降りてどっか行っちゃったの。トイレかな」
「ちょっと、すいません」
交差点の真ん中に立っていたジェイムズが声を上げた。
「マデが呼んでます」
カローラの運転手は、バイクが左折した先に伸びる通りを五十メートルほど進んだところにしゃがんでいた。宿主は鈴木とともにそこに駆け寄った。
「これ、血ですね」
流暢な日本語だった。ジェイムズとおなじく日本人相手のツアーガイドをしているのだろう。汗臭さとは無縁のさわやかなバリの青年だった。アスファルトの路面をミミズが這ったように付着している黒々とした血痕を棒切れでつつきながら、マデは言った。
「まだ新しい。道の真ん中でしょう。この時間でも車が通ってます。それなのにまだタイヤに踏みつけられていない。だからきっと、たったいま、ついた血痕じゃないでしょうか」
「そうか」
鈴木がうなるように声を上げた。
「やっぱり足に当たったんだ」
「え、なに? なにが当たったの?」
後からついてきた助成が聞いてきたが、鈴木はうまくはぐらかした。鈴木が殺し屋――あくまで〈ドリル〉である。彼はそれに固執していたが――だということは、助成はもちろんジェイムズにもその友人の青年にも秘密にしておいたほうが良かろう。宿主がうまく後を継いだ。
「けがしてるのよ、綱木さん」
マデが立ち上がり、路面に目を凝らしながら通りを歩きだした。
「こっちにもあります!」
最初の血痕から三十メートルほど進んだところだった。
「かなり出血してるんだ」
鈴木がそう言うと、ジェイムズもマデも宿主も手分けして血痕を探しはじめた。ただ助成だけがわけがわからずうろうろしている。
「あ、みなさん! こっち、こっち」
ジェイムズだった。とうに閉店したブランドショップやレストランが並ぶ通りをさらに五十メートルほど進んだところに立ち、右手の路地を指差している。
「血の痕、いっぱいあるみたいです。マデが見つけました」
路地の奥にも様々な店や小さなホテルがひしめいていた。その先にまたしてもジェイムズの友人がしゃがんでいた。宿主がそこに近づく。
「血と血の間隔、短くなってます。バイクの速度、落としたみたいです」
マデの説明を聞かずともわかる話だった。道幅は車一台がようやく通過できる程度だし、すぐ先が急カーブになっているから、さっきみたいな猛スピードは出せまい。マデは立ち上がり、さらにあちこちを見て回った。カーブを曲がりきるころには、血痕はもう二メートル間隔となっていた。
「あった!」
マデが指さした暗がりにバイクが倒れていた。綱木が逃走するのに使った原付バイクだ。
「しっ! このなかに入ったみたいです」
バイクのある場所から筋状に連なる血痕をマデは指さした。その先に三階建てのヨーロピアンスタイルの建物があった。血痕はそのわきにある暗がりに吸いこまれている。ぼんやりとした黄色い明かりが、派手な看板を浮かび上がらせていた。
DISCO APOCALYPSE
銃撃戦の後に死を迎えるにはぴったりの場所だった。
四十九
サオリの身柄は確保したが、ジェイムズもその友人というイケメンもいるし、助成もいた。太一はいまここで〈ドリル〉を実行するわけにいかなかった。それに人騒がせな綱木については、どうやら処分の必要がありそうだった。
「ここに入ったのか。店はもう閉まってるんだろ」
太一が訊ねるとガイドらしくジェイムズが答えた。
「ここは二時までオープンね。でももう三時過ぎ。なかは誰もいませんよ……ところで鈴木さん、それにサオリさん、いったいあれは誰なのですか? ひと晩に二回も面倒に巻きこまれるのはごめんですよ」
「ああ、ほんとにそうだ。あれは綱木さんなんだ」
太一は正直に話した。どうせ後でバレる話だ。
「綱木さん? ほんとですか?」
「申し訳ないな。あやまるよ」
綱木は建物のわきから続く小径に逃げこんだらしい。裏口のようだった。太一は一計を案じた。目的はサオリの殺害だ。だったらサオリと二人きりになる状況を作りだせばいいのだが、いまからこのディスコに二人して踏みこむとなったら、ジェイムズもそれになにより助成がうるさいだろう。だったらまずは厄介の種を始末して、問題の鑑定書を手に入れてこよう。そうすればサオリは安心してホテルにもどってくれる。それからまた仕切りなおしだ。いつもよりこじれにこじれているが、まったく手に負えないわけではない。
「ジェイムズ、要するにこれは日本人によくある、ちょっとした内輪もめなんだ。だからぼくがなかに入って綱木さんを見つけてくる。できることなら話もしたい。みんなは外で待っててくれ。そうだな、どこか一杯やれるようなところで……助成さんも一緒にさ」
そう言われると助成はちょっとたじろぐような顔をした。
「……うん、まあ、みんなと一緒なら、ぼくはOKだよ。でも由里ちゃんたち、ほんとに来てないのかな」
「来てないさ。じゃあ、ちょっと行って来るよ。綱木さんさえその気なら、連れて来るから。まあ、たぶんちょっと浮かれ過ぎてるだけさ。クスリとかで」
「クスリ……あ、そうなんだ。見かけによらないんだな。ぼくなんてそんなのぜんぜん興味ない」
「助成さん、それまでみんなを頼むよ。マデさんにも薄いカクテルかなにかごちそうするといい」
「そうね」
サオリはそう言ってほかの連中をうながしながら、太一の耳元でささやいた。
「一人でだいじょうぶ? わたしも行こうか?」
「だいじょうぶ。レディは見ないほうがいいようなことも起こるかもしれない。それに一緒になかに入ったら、ぼくは〈ドリル〉を思いだして、真っ先にきみを撃ち殺す。それは間違いないね」
「仕事熱心ね、あなたってほんと」
踵を返したサオリの背中に一瞥を送ってから太一は暗い小径を進んだ。人気はない。十メートルほど進んだところに裏口のドアがあった。錠前が破壊され、半開きになっている。SIGのしわざだろう。太一は痛む右手でベレッタを構え、左手で慎重にドアを引き開けた。
天井に緑色の非常灯がぼんやりと灯る廊下だった。左右に男女のトイレが並び、その先には、魔女ランダと聖獣バロンの巨大な置物が廊下をはさんで置かれていた。太一は床に目を凝らした。出血した足を引きずったような痕が続いていた。それを追って足音をしのばせる。
血痕をたどって何回か廊下を曲がるなり、三階まで吹き抜けの正方形のホールに出くわした。高い天井に埋めこまれたダウンライトのいくつかに灯が入り、さっきまで繰り広げられていた饗宴の余韻を浮かび上がらせていた。
音楽が流れていた。
チルアウト用の静かな曲ならすこしは気分もましになるのだが、掛かっていたのは第三世界にもってこいのマドンナの昔のヒット曲だった。ホールの端に立ち、太一は慎重にあたりに目をやった。そこに誰もいないのなら、四角いステージを囲むように並ぶふかふかのソファの一つに腰掛け、ひと息つけたかもしれなかった。なんなら冷蔵庫からビールを頂戴してきたってよかった。だがそうはいかなかった。ディスコライトの真下に飾られた巨大なシヴァ神像のわきから、ズボンを穿いた足が二本、にゅっと突き出ていたのである。
血の筋はそっちに向かって伸びていた。太一は身を低くし、両手でベレッタを支持した。右腕の銃創がひりひり痛む。だがズボンの主は微動だにしない。よく見ると、左右どちらの足首からも出血はしていないし、綱木のズボンとも違うようだった。わきにモップが落ちているところからすると、宴の後始末をまかされたマドンナ好きの清掃係のようだった。小走りにそこに近づき、太一はそれをたしかめた。頭を撃ち抜かれ、ほぼ即死状態だった。
ほかにもう一人、こちらはステージの端の薄暗がりに倒れていた。おなじく頭を撃たれ、夢の島に捨てられた操り人形のようにぐにゃりとその場に倒れている。コンビを組む清掃係の片割れだろう。太一はぞっとした。なかの暗さに目が慣れるにつけ“黙示録ディスコ”の愉快な状況が明らかになるような気がした。
だがそれ以上、遺体は転がっていなかった。見つかったのは、この時間の常連とおぼしきネズミのカップルだった。ただそこはやはり太一のくつろげる場所ではなかった。感極まった女の子たちがもらした小便とこぼれたビールの泡で濡れた目の前の床がいきなり弾けて、太一の顔に飛沫となって降りかかってきたのだ。太一は腰を抜かし、四つん這いのままホールの暗がりに転がりこんだ。即座に天井方向にベレッタを振り向ける。
綱木だ。
やつが上から撃ってきたのだ。消音器付きの制式拳銃で。
太一はソファの陰に隠れ、天井を見上げた。吹き抜けになった二十メートル四方のホールの周囲には、二階にも三階にもテーブル席が取り巻いている。ホールの血痕はシヴァ神の足元から非常口を示す緑色のランプの下へと続いている。そこが階段なら綱木は上階に這って行ったと考えられる。
「綱木さん! いるんだろ!」
二階席と三階席に目を凝らし、太一は声を張り上げた。
「生まれ変わりの研究してるとかウソついて! なにやってんだよ! 細野さんとおなじじゃないか!」
一瞬の沈黙の後、頭上から声が降ってきた。すぐ近くだった。太一はぎくりとした。二階席のようだった。
「ウソじゃないさ。ニョブについては前から調べていた」
綱木はまだ落ち着いていた。だがやはり傷ついている。声は以前より弱々しかった。
「人間の根源にかかわる話だからね。でもそれはそれとして、やらなきゃならない仕事があった」
「細野さんとおなじなのか、あんたは?」
「おなじ? 仕事のことかな?」
相手の居場所をたしかめようと首を伸ばしたところ、鼻先の床が弾け飛んだ。
「そうさ。仕事のことだ。公安の刑事なのか!」
「言ったろ。団体職員さ」
「団体って、どこ系よ? 警察庁とか?」
「勝手に想像してくれ。まあ、似たようなところだと思うけど」
太一は暗がりを這いながら二階に至るルートを探した。が、やはり綱木が流したと思われる血の痕をたどるほかなさそうだった。二十メートル四角いホールのちょうど対角線上だった。そこを突っ切る度胸はない。勇猛果敢なフランス外人部隊じゃないんだ。素直に横に移動し、そこから尺取虫のように直角に上がっていくほかない。太一は二階席に目をやった。やつの姿は見えなかったが、声のする方角から考えて、太一がいまいる場所の真上あたりに潜んでいそうだった。
「細野さんのことは知ってたのか!」
黙って行動するのも手だった。それこそが行儀というか、こういうときの正しい作法なのだろう。だがやつがこっちの不意をついて移動しないともかぎらない。その点、質問に答えさせれば、こっちもバレバレだが、向こうの居場所も把握できた。
「知ってたさ。情報量はたぶんこっちのほうが多い」
「でも知らん顔だった!」
「ぼくは保険なんだ」
「保険?」
太一はようやく横の壁までたどり着いた。あとは縦に二十メートル這い進むだけ。だがそこは縁日によくある射的遊びの屋台のように子どもでも狙える場所だった。太一としては直線状に並ぶソファの陰に隠れて進む必要があった。不幸中の幸いは、ちょうどそのあたりがかなり暗くなっていることだった。
「まずは細野さんが鑑定書を奪う手はずだった。彼が失敗したとき、ぼくが動きだす。さっきのバイクは、ウブドできみたちが早川さんを追跡しだしたとき、レンタバイクの店から拝借してきたんだ。あいにく申込書に書きこんでる時間はなかったけどね。そうそう、鈴木さん、警察に電話したろ。でもそれで警察が現場にたどり着けたと思うのは、ちょっとな。聞いてないかもしれないが、現場がどこか正確に伝えたのはこのぼくさ」
「きみも通報したのか? でもやつらが現着するまで二時間半もかかった」
「ぼくが通報してなきゃ、倍はかかったろう。それがバリ時間さ。ことによると捜索は夜が明けてからだったかもしれない」
「ふゅー、そんなもんかね」
「さっき部屋で窓が割れたろう。その音に気づいて隣の客が電話したとしても、客室係は平気でテレビのクイズ番組を見続けるし、開けたビールを飲み干すまでいすから腰を上げようとしない。もちろんあわてて喉に流しこむなんて罰当たりなこともしないね。最悪のケースでは、電話が掛かってきたこと自体、忘れちまうかもしれない」
まんなかまで進んだとき、プスッ、プスッと二発聞こえた。床が弾けた感じがしないところをみると、ソファが弾を吸収してしまったのだろうか。太一は生きた心地がせず、尺取虫の速度を上げた。
「でもわからないな。どうしてあの現場に踏みこんで来なかったんだい? 暗がりから撃てば、ぼくもサオリさんも簡単に片付けられた」
「サオリさんが鑑定書を確実に入手したか自信が持てなかったのさ。マッサージ店が怪しいってのはわかったけど、サオリさんの所持品まではチェックできなかったから。ただまあ、いまにして思えば、あのとき、先に鈴木さんだけでも始末しとけば良かったかな」
「だろうね。いまこんなことになるんだったら。ぼくのベレッタが命中したのは右の足首あたりかな?」
「ご名答。でもそっちはたいして痛まない。やっぱりお尻のほうがちょっと」
「薬あるんだろ」
「バイクは長いこと乗るもんじゃないね」
「ああ、なるほど」
「足のけがとおなじくらい出血してる」
「お気の毒さま。ところでぼくのことははじめから知ってたの?」
「知ってたよ。細野さんは知らなかったみたいだけど」
「たいそうなお宝なんだな。その鑑定書っていうのは」
太一はようやく壁の端にたどり着いた。そこで床の血痕をたしかめる。非常口を示す緑色のランプが上階へと至る階段を照らしだしていた。太一は息を詰めて一気にそこに転がりこみ、足音をしのばせて上った。
「なんでもそうだけど、それをほんとに必要としてる人間からすれば、コストなんて関係ないのさ。だからぼくたちみたいな輩が雇われる」
「まったくだ」
そう言って二階席に顔をのぞかせるなり、目の前の手すりが弾け飛んだ。それでも太一の目は銃火が起きた場所を正確にとらえていた。整然と並ぶテーブルの列の向こう側、二十メートル先の曲がり角のところ、低い位置からやつは発砲してきた。
いまもおなじ場所からこっちを狙っているだろう。ちょっとでも顔を出そうものなら、SIGの弾が飛んで来る。
「鑑定書を奪う人間とそれを持っていた人物を殺害する人間。じつに手がこんでる」
「そのとおり。だから鈴木さんの仕事はサオリさんを殺すことだ。鑑定書じゃない。いいかい、いまからでも遅くないからそのまま回れ右して帰ってくれるかな」
「ちょっと前ならそうしていたよ。でも人生なんて、ほんのすこしタイミングが狂うだけでずいぶんと結果が変わってくる。ぼくはいま、予期せぬ事態に巻きこまれてるんだ」
「わかってるなら、話は早い。きみだってその古臭い銃を無駄に撃ちたくないだろう」
「ああ、そうだね。よく考えてみるよ。でもそれにしてもだ――」
「なんだい?」
「ぼくもふくめ三人も使うなんて。まったく手がこんでる。尊敬するよ」
「すくなくとも三人、ね」
「よしてくれ。もう十分だ」
「疑心暗鬼になる気持ちはわかるよ。いくらプロでもこればっかりは落ち着かないからね。でも心配しないでいい。ぼくはできるだけ物事を冷静にとらえたいだけなんだ。ぼくは細野さんと鈴木さんのことしか知らない。ただその事実を言ったまで――」
先に撃ったのは向こうだった。でも太一は一拍置いてから反撃することができた。非常階段はなにも二階で終わっているわけでない。三階席にももちろん通じていた。太一は山猫にも負けないすばしこさでそこを駆け上り、手すりから半身を乗りだし、あやうく落ちそうになりながらベレッタを撃ったのだ。薄闇のなかでわずかな異変に気づき、上目づかいで三階席を見やった綱木の眉間を狙って。
五十
マデの運転でホテルに帰って来たのは午前四時前だった。
助成は鈴木に言われたとおり、クタの街でパーティーを開きたかったようだが、結局、一行はマデのカローラのところで、鈴木の帰りを待っていた。それもそうだろう。肝心の宿主自身、バスローブに裸足だったのだから。
金庫から奪われた封筒はデイパックに収められていたため無事だった。それを取りもどし、わたしは心底、安堵した。ただ宿主の部屋にもどるわけにはいかなかった。綱木によって窓が破られたままだったから、毒蛾とヤモリの王国と化しているのはまちがいなかった。ただ鈴木の部屋に行こうにも、助成がしつこくついてきて閉口した。結局、宿主はいったん自分の部屋にもどって助成をあきらめさせ、そこでとにかく十五分間がまんした後、鈴木の部屋に逃げこんだ。毒蛾なんかより現実的な恐怖が待ちかまえているというのに。
だがそこでも宿主は落ち着いていた。喧騒の街まで繰り出したものだからじっとりと汗をかいた。宿主はシャワーを浴び、それに鈴木が続いた。髪を乾かす洗面台のわきに無造作に銃が置かれている。しかしガーデニアとラベンダーの香りのする石鹸は、わたし自身の張りつめた神経もほぐしていき、銃への恐怖もなんだか薄らいでいくようだった。
もうくたくただった。
それは鈴木もおなじだろう。彼の任務はわたしを殺害すること。ところが銃弾は予想外の作業に消費され、体力も精神力も消耗したに違いない。
鈴木はビールを用意した。それを飲んでから〈ドリル〉を遂行するのだろうか? 雰囲気からはそうは見えなかった。
ところが鈴木はやはり仕事に忠実だった。拳銃の安全装置を外し、新しいローブをまとったばかりの宿主にふたたび銃口を振り向けた。どんよりとした疲労感のなか、鮮やかな恐怖がわたしの内によみがえる。
鈴木はまず宿主から部屋のカードキーを奪った。これでパスポートからもスーツケースからも宿主は切り離された。ただ問題の封筒だけは、宿主自身、ローブのポケットに持参してきていた。宿主は銃口を意識しながらも、ベッドに腰掛ける鈴木の隣に寄り添い、そっと封筒をサイドテーブルに置いた。
「聞いていいかしら?」
「なに」
漬物に使う重石が頭にのっているような、億劫なもの言いだった。宿主の部屋ではじめてわたしに銃を向けてきたときとは明らかに違う、怠惰な感じがした。
「綱木さん、どうしたの?」
「ご想像にまかせる」
「やっぱり……」
大あくびをしてから鈴木は話した。
「今回の〈ドリル〉には無関係だけど、サオリさんを逃がさないようにするためにはそこにある鑑定書が必要だった。彼はそれを奪い取ろうとした。だからまあ、ぼくからすれば正当防衛みたいなものだったかな」
「警察ざたになるんじゃない? 早川さんや橋本さんのときのようにうまくかわせるかしら」
「だいじょうぶ。あの店は夕方にならないと開店しない。それから鑑識作業が始まる。結論が出るころには、ぼくは日本に帰ってる」
強烈な眠気に襲われているのだろう。鈴木のまぶたは閉じかけては開く。それを繰り返していた。
「効くね、このビール」
「わたしももう限界」
「五分だけ横になっていいかな」
「それはわたしも有難いわ。こういうときのビール、ほんとに効くわね」
「酒はそれほど強くないんだ。正直に言うけど」
鈴木は宿主の肩に手をあてがい、二人一緒にベッドに倒れた。ただし銃口だけはしっかりと宿主の胸――彼女に鑑定書を探させるきっかけを作ったわたしの心臓が収まっている場所――に狙いをつけていた。
「そんなもの持って寝るの? 寝にくいわよ」
宿主と鈴木は向かい合っていた。
「銃を持って横になるのははじめてじゃない。それに眠るつもりはない。安全装置も掛けてないから、へたに眠るときみに逃げられるばかりか、自分を撃ってここで一人で冷たくなっちまう。それだけはごめんだからね」
そのときわたしは震え上がった。考えてみれば当然かもしれないが、男であるわたしは胆をつぶすほかなく、正直、気色悪かった。鈴木の下半身になにげなく目をやったところ、短パンの前の部分が異様に張り詰めていたのだ。だが宿主は度胸が座っていた。鈴木にはもはや〈ドリル〉以外に使う体力は残っていないとふんでいるようだった。
「じゃあ、安全装置を掛ければ?」
「それはできない。それに銃だけじゃ心配だ。悪いがこうさせてもらう」
そう言うなり、鈴木は宿主の体を抱き寄せた。死の恐怖とはいささか異なる危機感がわたしのなかに噴出した。
だがそれもそこまでだった。静かで深い寝息が聞こえてきたのである。
それが鈴木のものだったか、宿主のものだったかさだかでない。ことによると、わたしのほうが駆け足で眠りの世界へ逃げこんでいったのかもしれなかった。
もちろん自らを守るために。
五十一
目覚めたとき太一は一人だった。左手にはベレッタをしっかり握りしめていたが、銃身は自分の顔を向いていた。
朝の九時半だった。
いつの間にか眠りに落ち、そのままになってしまった。太一はベッドから跳ね起き、部屋中を探し回った。が、サオリの姿はどこにもない。問題の鑑定書も消えていた。ベレッタを短パンのポケットに隠し、太一は部屋を飛び出した。
預かっておいたカードキーを使ってサオリの部屋に侵入したが、スーツケースはそのままだった。またオプショナルツアーに出かけたのだろうか。旅程を確認しておかなかったのが痛かった。
海を見渡すプールサイドに出たとき、ビーチチェアで使うタオルを山ほどかかえたスタッフがにこやかに声を掛けてきた。太一は微笑むすらできなかった。その直後、プールわきのレストラン――最初の晩、伝令係のサイワンと子羊を血祭りに上げるはずだった店――に目をやり、太一は腰が抜けそうになった。
オープンエアのテーブルで、それこそもりもりと朝食をむさぼるサオリの姿があった。
「おはよう! お寝坊さん!」
おなじレストランに何組かいたハネムーンの日本人カップルが、いっせいにこっちを振り向くくらいの大声を上げ、サオリが手を振った。ウェイトレスがにっこり微笑んでこっちを見ている。太一は動揺を見透かされぬよう注意して店に入った。口のなかが妙に粘つく。こんなことならせめてリステリンでも使ってくるんだった。
「ジェイムズの言ったとおりだわ。エッグ・ベネディクトがやっぱり最高!」
「起こしてくれればいいのに」
つい不満そうな口調になってしまった。
「起こしたわよ。でもぜんぜんだったじゃない。泥のように眠るとはあのことね。やっぱり人殺しの後はこたえるんでしょう。精神的に」
ひととおり注文を終えると、太一はコーヒーをがぶ飲みし、そのまま口をゆすいでから言った。
「人聞きのいいこと言うね。それにここは部屋のなかじゃない。きみ自身のことを案ずる上でもあまり大きな声は出さないほうがいい。店の客の三分の二はネイティブ・ジャパニーズ・スピーカーだ。離れて座っているようでいて、聞き耳を立てているかもしれない」
「あら、ごめんなさい。旅先だからつい気を許しちゃって。でも元気になって良かった。わたし、しゃっきりしてる鈴木さんのほうが好きよ」
太一は急に不安になった。
「きのう、いや、正確にはけさか、ベッドに横になった後、ぼくはどうしたのかな? 記憶がないんだ。なにかその……乱暴なこととか」
サオリはテーブルに身を乗りだし、太一に顔を近づけた。
「人に銃を向けるなんてこと以上に乱暴なことなんてある?」
「まあ、そうだけど……でももっと具体的にひどいこととか――」
「だいじょうぶよ。三十秒もしないであっちの世界に行っちゃったみたいだから」
「不覚だった。きみが起きたのにも気づかなかった。まさかこんなところにいるなんて」
「だってお腹空いたんだもの。それに部屋なんかにいるより、こっちのほうが安全だと思ったの。人殺しは人が見てないところじゃないとできない。プロはとくにそうでしょ。鈴木さんを観察してて、それに気が付いたの」
空いているいすの上に例の封筒が無造作に置かれていた。それを目を落とすと、サオリのほうで手に取って渡してくれた。
二重の封筒だった。外側はインドネシア語と英語が印字された地元企業の封筒のようだったが、内側の封筒は日本からの国際郵便だった。黒マジックでウブドの住所が書かれている。受取人はムトゥ・バクラ氏。裏には差出人名として「桂木宏記」と書かれている。住所は東京。消印は今年の一月四日付けだった。
サオリは前夜とおなじ懇願するような目になっていた。
「やっぱりドナーの記憶は失われちゃいけない。わたし、そう思うの」
「桂木って、細野さんが言ってた人かな」
たしか公安刑事の細野が射殺した仁徳医大の助教授だ。なんでも首相秘書官の死に疑問を抱き、秘書官が調査していた疑惑の事件――与党・民主国民党幹事長の福杉淳弘がからんでいるようだった――を自ら調べはじめたとかいう話だった。
「ムトゥ・バクラって誰?」
「ウブドのプラ・ダレム総代」
「プラ・ダレム?」
「バリ・ヒンドゥーには三種類のお寺があるの。祖先を祀る寺と住民の繁栄を祈る寺、そしてプラ・ダレム、死の寺よ」
「寺っていうのは、みんな死の寺なんじゃないの?」
「ここでいう『死』は『再生』に至る入口って意味よ」
「また綱木さんが喜びそうだね。輪廻転生ってことでしょ」
「まあね。それを司るお寺の総代がムトゥ・バクラさん。彼自身、ニョブなのよ。そしてその背後の力が人並外れて強いからシャーマンも務めてる」
「シャーマン? イタコみたいなやつ? 霊媒師か」
「地元じゃそれで通ってるみたい。いろいろな宗教儀式に引っ張りだこなんだって。でもそれだけじゃ食べていけない。本業は、観光客相手よ。もっとわかりやすく言うと、わたしにマッサージしてくれたおじさんがその人なの。自分の店だったんだって」
「会うべくして会ったって人だね。言い方を変えれば、自分の意思とは無関係に、なにか“べつの力”によって導かれて邂逅を果たした相手とも言える。ここまでのぼくの推理、いい線いってる?」
「まあそんなところかな。ところで鈴木さん、いまもピストル持ってるの?」
「ああ、左のポケットのなかからきみのお腹のあたりを狙ってる」
銃のことがどうしても忘れられぬ仕事熱心な男に、サオリはすこしがっかりしたような顔を見せた。気持ちはわかる。でも太一にとってはそれが仕事だった。
「マナーは悪いが、食事は右手一本ですまさないと。でも地元の人たちはみんなそうだろう。左手は不浄だ」
「なんだか落ち着かないわ。こんなにたくさん人がいるのに、銃を向けられてなにもできないなんて。でもいいわ。あなた、どうしようもなく頑固みたいだから」
「自分じゃそのつもりはないよ」
「いいから、もうすこし鈴木さんの推理を聞かせてくれるかしら」
「うん、つまりこういうこと。サオリさんをその伝説のシャーマンに引き合わせたその“べつの力”こそ、移植によってもたらされたものである。サオリさんはそう考えている」
「そう」
「ドナーは仁徳医大助教授の桂木宏記さんなんだ」
「間違いないわ」
「桂木さんは細野さんが撃った相手だよね」
「そう」
「細野さんはきのうの晩、ひき殺された」
「早川さんは、橋本さん、いえ、細野さんが撃った最初の一発でもう運転できなくなった。頭に命中したの。それでかわりにわたしがハンドルを取ったのよ」
「復讐ってこと? きみのなかの桂木さんに導かれて――」
「かもしれない」
太一は黒目がちの大きな瞳を見つめた。進むべき道に向かってまっすぐに歩き続けられそうな純真さと、大人の男を魅了する妖艶な美しさをたたえている。サオリがバリ舞踊を習ったら本当にきれいだろう。でもその内には別人が潜んでいる。太一とおなじ殺し屋に無情にも射殺された男が。
お薦めのエッグ・ベネディクトがきた。片手で味わうには難しい一皿だが、台座がわりのマフィンを上に乗る半熟卵ごとフォークで半分に切断し、オランデーズソースをたっぷりからめてからすくい上げたひときれは、最高にうまかった。
サオリが続けた。
「桂木さんが殺されたのは今年の一月五日。この封筒はその前日に発送されている。ムトゥさん言ってたわ。手紙が入っていて、そう遠くない時期に自分で回収しに来るから、それまで保管しておいてくれって書いてあったそうよ。家具の個人輸入を通じて、桂木さんとはずいぶん前から知り合いだったみたい。でもまさかこんな形で再会するとは思わなかったでしょうよ」
「サオリさんが桂木さんだって、よくわかったね」
「わたし、退院してから部屋の飾りつけをアジアンテイストに模様替えしていたの。それくらい桂木さんの内面が具体的にわたしの趣味や行動にあらわれていたのよ。それでわかったんじゃないかしら。後はムトゥさん自身のパワーだわ。桂木さんに不幸があったことも、薄々感じ取っていたみたいなのよ。それでムトゥさん、わたしの体に触れた途端、手を引っこめたの」
「感電したのかな」
「みたいなものかな。それはわたしもおなじだった。だから自然とわたしのほうから『前に会ったこと、ありますよね』って言えた。そしたら向こうも『いつか来ると思っていました』って言ってくれて、この封筒を渡されたの」
内側の封筒の中身を太一はあらためた。アルファベットと数字がずらりと並ぶ表があり、その下に小さく「鑑定結果」と記されていた。
「『九九・九%の確率で同一人物である』……もしかして桂木って人が入手した鑑定書ってこのことかな。細野さんが家庭訪問までして欲しがった重要書類」
「DNAの鑑定書よ。二か所で採取された検体のDNAが一致したってこと。ちなみに桂木さんの家にやって来たのは細野さんだけじゃないの。綱木さんもそう」
「綱木さんも?」
「そう。桂木さんが殺された一月五日、綱木さんも家に来ていた。変な話だけど、わたし、感じるの。胸の奥から桂木さんがそう伝えてくるのよ」
「きみはきのうから変な話ばかりしてる。もう驚かないよ」
「たぶんあの匂い。コロンかなにかだと思うけど、きのう、綱木さんがベランダから乱入してきたとき、ピンときたの。前に嗅いだことあるって」
「桂木さんが、だろ」
「そう。てっきり細野さんの匂いかと思ってたわ」
「公安の特捜刑事とそれと似たような仕事の男が、おなじ晩にガサ入れにやって来たってわけか。でも海外に発送した後ならどうしようもないな」
封筒には、束になった新聞のコピーも入っていた。太一はそれをテーブルに広げた。どれもおなじ事件の記事だった。
幼女変死――。
去年の八月の記事だった。地元紙と中央紙が混ざっている。勤務先に敬意を表し、太一は東邦新聞の記事を読み進めた。
十五日午後五時二十分ごろ、山形県飯豊町手ノ子の町営グラウンド内の女子トイレで、同所、会社員仁藤清さん(30)の長女で、手ノ子小一年、理奈ちゃん(6)が嘔吐したまま倒れているのを、捜しに来た家族が発見。病院に搬送したが理奈ちゃんは間もなく死亡した。死因は嘔吐物を喉に詰まらせたことによる窒息死。遺体に乱暴された跡があるため、県警はわいせつ致死事件と見て長井署に捜査本部を設置した。
同署の調べによると、理奈ちゃんはトイレの個室で便器のわきに仰向けになって倒れており、顔や下腹部に乱暴された跡があった。山形大学医学部での司法解剖の結果、遺体から男性の体液も検出された。
現場は町の中心部から離れた山村地帯。理奈ちゃんは同日午後四時ごろから、同小の友人三人と町営グラウンドで遊んでいたが、同四時四十分ごろから行方がわからなくなっていた。
その後、馬に食わせるほどの続報記事を各社が打ち合ったに違いない。だが犯人は容易には見つからず、一か月後の検証記事では、唯一の目撃情報として、犯行時間帯にトイレから出てくる赤い服を着た中年女性がいたことが記されていた。
「女じゃ、しかたないね。でもそれならいちいち新聞に書きはしない。新聞社だってばかじゃないからね」
「わたしもそう思うの。つまり――」
「女装?」
サオリは小さくうなずいた。
新聞のコピーのほかに、ワープロ打ちした文書が一枚入っていた。下のほうに桂木宏記と自署してあり、立派な印鑑が押印されている。首相秘書官の調査を追認する形で自ら作った報告書のようだった。太一はそれを読み進め、政治家の裏の顔、というより他人には決して推し量れぬ心の闇が、世のなかに存在することをあらためて痛感した。
「じつはね、わたし、退院した後、西崎さんって人に電話してたの」
「してたのって?」
「間違い電話をかけてしまったの。でもそのとき、なんだか知らないけど、相手の女性といろいろ話してしまった」
「相手は元首相秘書官の奥さんだったんだね。なるほど。綱木さんが生きてりゃ、さぞ喜んだだろうに」
太一を無視してサオリは続けた。
「いまわたしが勤めてるのも民主国民党の本部なの。とくに希望したわけじゃないんだけど、派遣会社からいくつか提示されたなかで、条件が一番良かったのがそこなの」
「導かれた……そう言いたい?」
「そうなのかなぁ……でもね、奥さんと話した後『西崎』って名前がすごく気になって、職場の机を開けてみたの。そうしたらいつの間にか入っていたのよ、西崎秘書官に関する報告書が」
「いつの間にかってところが、うそっぽいね」
太一はコーヒーを空にし、ウェイトレスにおかわりを注文した。
「ほんとなんだから。資料室でべつのファイルを探してるときに、偶然、混ざったみたい。おなじクリアファイルに入ってたわ」
「サオリさんとしては無意識のうちにやったんだろうが、それは偶然じゃなく、必然だった。移植に関する奇妙なケースを研究する専門家はすくなくともそう考えるんだろう」
太一は桂木のレポートに目をもどした。
「福杉淳弘は去年の八月十五日の午後、支援者まわりで長井市に入り、午後二時から三時十分まで、次回選挙で社長が参謀を務めることになっている沓沢建設で打ち合わせを行っている。その後、福杉は秘書が運転する黒塗りでなく、妻が運転する自家用車で帰宅した。短時間の私用を強調し、SPには先に自宅で待機するよう指示している……なるほどね。ぼくたちが狙うのはこういう時間帯だな。でも実際は暗殺を食らう政治家なんかいまの日本にいやしない。むしろSPはお目付け役を期待されてるのさ。警察庁の中枢からね。その中枢がどことつながってるかなんてわかりゃしないけど。一般国民的に言えば、この手の“私用”は政治的不正の温床になる。その意味でもSPにちゃんと監視しといてもらわないと」
「その後、妻は友人宅に立ち寄り、それからは福杉がハンドルを握って一人で帰宅している」
レポートの該当箇所を太一は指さした。
「五時半ごろにね」
「空白の時間があるわ」
「そういうことになるね」
「ねえ」
「なに?」
「そろそろ両手で食べたらどうなの?」
「だめだ。子どもが見てるならべつだが、ここはファミレスじゃないからね。マナーに関する社会的責任はそれほど高くない」
「そうかしら。いちおう高級ホテルのメインダイニングよ、ここ」
「いくら言っても無駄だと思うが」
冷静を装いながら太一は、あさっての方向を向きだした銃口の位置を修正した。
「ケチ」
「そうだよ。太っ腹な殺し屋なんて、いると思うかい? ところでサオリさんは、自家用車を運転した福杉がその足で飯豊町の町営グランドに向かったと思う?」
「ほかにあるかしら」
「そこで福杉は女装に着替え、女子トイレに潜んだ」
「理奈ちゃんはそこにやって来た。それを裏付けるのがこの鑑定書よ」
五十二
鑑定書では二つのDNAの比較が行われている。片方は生年月日から福杉のものだった。それがもう一つの検体と一致するかどうかがポイントだった。それを検証した西崎秘書官の労苦がしのばれる。わたしは目の前の殺し屋、いや〈ドリル〉請負人が翻意してくれることを切に願った。でないと、恐るべきスキャンダルにふたがされてしまう。そしてそればかりでなく、移植手術によりせっかく人生に展望が見え始めた宿主の命が虫けらのように奪われることになる。
しかし鈴木のしゃべり方は平板なままだった。わたしが記した報告書に目を通し、書かれた内容だけを口にする。
「片方のDNAは、理奈ちゃんの右手人差し指の爪から検出された人体の皮膚のもの。山形県警から手に入れたんだね。もう一方は、県警による再三の出頭要請を幹事長が公務を理由に断ったことに疑問を抱いた首相秘書官が、もしやと思って自ら採取した幹事長の毛髪か」
「男の人って、みんな、こんなふうに鼻毛抜くものなの?」
「みんなじゃないよ。でもぼくもたまにある。クセなんだよ。痛気持ちいい感じかな」
「でもそんなのよく見つけられるわね」
「どこで誰が見てるかわからないものだ。ぼくもこれから注意するよ。拾われてこんなふうに使われたらたまらないからね。でもこの鑑定書によると、採取された二つのDNAは一致したってことだね」
「信じられないわ。テレビにもよく出るあの人でしょう。国会議員のくせに」
「善良な国会議員なんているかい?」
「でもこんなことするなんて」
子どもにそんなことをするのは、どんな職業だって許されない。人間として糾弾されるべき話だ。理奈ちゃんがなぜ嘔吐したか。考えただけで虫酸が走る。
「理奈ちゃんの喉の奥から微量の体液が検出されてるわ、ほら」
「ああ、ほんとだ。書いてある。だとするとDNAは、理奈ちゃんの爪の間に挟まった皮膚だけじゃなく、その体液からも検証可能だったんだね。あ、でもそうか。大半はゲロと一緒になって流れちゃったんだ。それが喉に詰まって窒息……どういう状況だったか考えたくないね。いくら子どもだって、そんなことされたら、爪が相手の皮膚にめりこむぐらいの抵抗はする」
「おぞましい話」
「秘書官はその事実を幹事長に突きつけた。それが逆に命取りとなった。哀れなもんだ」
この鑑定書さえあれば、福杉を訴追できるのに。鈴木はそのことにはまるで興味をしめさないようだった。わたしは途方に暮れた。だがそのとき、宿主が話しだした。ドナーであるわたしの手から離れた、彼女自身の言葉だった。
五十三
「子どものころから病院を行ったり来たり。トータルで十五年以上入院してたことになるわ。小学校も中学校もずっと院内学級だった。友だちは看護師さんがほとんど。おない年くらいの子はみんな途中でいなくなっていった」
「いなくなったって?」
「退院したのよ。冷たくなってね」
悲しい思い出に寒気をおぼえたのか、サオリはカップを両手で持ち、淹れたての熱いコーヒーをすすった。気のせいかもしれないが、大きな瞳がすこしだけ潤んでいるような気がした。
「つらい話だな」
「わたしだけ生き延びてきたみたい。だけどいつか自分も冷たくなって病院を出るんじゃないかって、ずっと不安だった。心臓移植するしか助かる方法がないのに、いつまで待ってもドナーがあらわれなかったから。わかるかしら、来る日も来る日も病室で目が覚める気持って。ドアのすぐ向こうに自分のお墓がある感じよ。ときどき本当にお線香の匂いがしてきたもの」
「ばかな」
「本当よ。わたしにはそう感じられたの。肉が焼け焦げる臭いもした。自分の体が焼かれる臭い」
エキゾチックな高級リゾートの朝。そこでこんな辛気臭い話をしているカップルなどいるわけがない。
「よせよ」
「だってほんとだもの。だからずっとあこがれてきたの……普通の生活に。朝、家族と一緒に起きて、会社に通って。夜はまた家に帰って来て。ただそれだけでいいの。そんな普通の時間が送りたかった。だからいま、すごい幸せ。もうなんにもいらないわ。それなのに鈴木さん、家族にも会社にも背を向けて逃げようとしてる」
「しょうがないさ」
太一のマグカップは空になっていた。だがもうコーヒーは飲みたくなかった。これ以上頭を覚醒させたら、サラリーマンとして絶対に見てはならぬ世界を目にしてしまうような気がして怖かった。
「どこに不満があるのかしら? ぜんぜん理解できない」
「こんなこと言うのは心苦しいけど、ぼくだって、ぜんぶがぜんぶ理解されるとは思っちゃいないんだよ。だけどいまのぼくには、こうするしかない」
太一はあらためてベレッタのグリップを握りなおし、ポケットのなかからサオリを威嚇した。それでも彼女はひるまない。なんだか向こうのマグカップには、太一だけが知らない特別なクスリでも入っているかのようだった。
「そうかしら? 自分がどうして相手に銃を向けているのか、鈴木さん、とうとう知ってしまったのよ」
それには太一は答えられなかった。不覚だった。こんなことなら昨夜のうちにさっさと引き金を引いておくんだった。グリップの手前にある鋼の突起は、いまや安全装置がかかってしまったかのようだ。まわりに誰もいなくても撃てないだろう。それが彼女に伝わるのが太一は不愉快だった。誰にも干渉されないし、誰にも気をつかわぬ仕事のはずだった。そのためには余計な知識はないほうがいい。あれこれ考え、気をつかうから、誰しもにっちもさっちもいかなくなるのだ。
これじゃ会社と一緒だ。
サオリは顔を近づけ、声をひそめて聞いてきた。
「殺し屋、いえ、その〈ドリル〉とやらの遂行には、感情を持っちゃいけないんでしょう?」
「もちろんそうだ」
「憎しみや怒りで人を撃つわけじゃない。そういうこと?」
「ひと言で言えば仕事ってことさ。誰がなにを言おうと仕事は仕事だ」
「忠実ね」
「忠実さ」
「鈴木さん、商社マンとか言ってたけど、あれウソ?」
「ウソだよ。商社マンなんか大嫌いだ」
「でも会社員なんでしょ?」
「ああ」
「なに関係?」
「まあ、なんて言うか……マスコミ関係かな」
余計なことを話している。そう思った途端、太一は酒が飲みたくなった。
「ふーん、じゃあ、その会社に対しても忠実な人っているでしょう?」
「いるさ。言っておくけど、ぼくもその一人だよ。そこそこの給料をくれるんだ。やれと言われりゃ、なんでもやる。文句は絶対に言わない」
「スーパーサラリーマンね」
「そんな聞こえのいいものじゃない。信念とか自立心とか職業的矜持なんて、まっぴらごめんだ。偉い人におべっか使ってぺこぺこしてたって、出世できりゃ、それでいい。あと二十年も会社にいられないんだ。守りを固めるのも大事になってきた」
「それがイヤで、いまわたしに銃を向けてるんでしょ」
不穏な予感がした。サオリはペースをつかみはじめている。これまで誰にも渡さなかった〈ドリル〉のペースを。もう待てない。太一は引き金に力を入れようとした。
できなかった。
客の目を気にしたわけではない。
サオリがつぎになにを言いだすか、聞きたかったのだ。
「でもそれも結局、ただの犬じゃない。誰かに飼われて、言われたとおりの忠犬ぶりを発揮する」
「違う」
「だって怒りや憎しみを心から拭い去って、ミッションを実行するんでしょ。それって会社の仕事とおなじなんじゃないの?」
「なに言ってんだ!」
たちまち客たちがいっせいに二人に目を向けた。太一は後悔した。注目を集めたことを恥じたのでない。声を荒げたら負けだ。いつもそう思ってきたからだ。殺人請負人稼業でも、会社でも――。
「サラリーマンが感情を失くしたらどうなるのかしら」
サオリは独り言のようにぽつりとつぶやいた。
無感情の歯車――。
社畜だ。
「無理にそれを押し殺すことなんかないんじゃないかしら」
いま必要なのはわれを忘れないことだった。悟られぬよう深呼吸をする……だめだ、うまく息が吸えない。みるみる顔が赤くなるのが感じられた。
「ぼくは誰かに飼われているわけじゃない“鈴木太一”だってそうだ。誰からも飼われちゃいない。やりたいようにやらせてもらってる。自己責任さ」
「いまもそう言える? なにもかも知ってしまったいまも。わたしを葬り去ることで隠蔽される事実がある。それがどれほどのものか、もうわかっているでしょう。それに目をつぶってまで、あなたはあたえられた仕事を達成しようとするの? ゲームみたいに」
客のなかには、二人のやり取りを遠くからずっと眺めている者もいた。とくに太った白人の男は英字新聞を読みながら、ちらちらと意味ありげな視線を送ってくる。まさかそれも刺客の一人ではあるまいか。
不意に太一は、すくなくとも三人だという綱木の物言いが気になってきた。太一と細野と綱木本人……だが待て。早川はどうだった? サオリに最初に接近したのはやつだ。いったいあのワゴンに何人の刺客が押しこめられていたというのだ。そしてそのなかにあって、太一はほかの連中よりもましな信条を持ち合わせていただろうか?
「銃口を向けられたら、ふつうは命乞いをするものだけどね。そんなふうに説教されると、調子が狂うよ。だけど余計なことは考えずに、仕事を実行できればそれが一番いい」
苦し紛れにそう言ってみたが、自分でも釈然としない。なにかとてもずるいことを言って、逃げようとしているみたいだった。会社でいやな仕事を後輩に押しつけるときによく使う手だ。
「会社にいるだけでは味わえない冒険心を満たしたいの?」
「なかなかいいものの言い方だね」
「だけどあなたには冒険のように思えても、福杉さんからすれば、あなたはよく働くただの飼い犬ってことになるでしょうよ」
左手の人差し指をベレッタの引き金にかけたまま太一はぐっと堪えた。ここで発砲するのは、はなはだしゃくだった。
「でもね、あなたの飼い主は、小学一年生の女の子を公園のトイレの個室に連れこんで、そこでズボンを下ろして――」
「やめてくれ」
せいぜいハネムーナーにありがちなささいな口げんかだと思われる程度の声音で、太一は言った。
「人の仕事に口出ししないでくれるかな」
「ごめんなさい。でも大切なことだと思ったから」
「いいんだ。気にしないで。サオリさんにそんな顔をされると、ぼくもつらい」
太一はナプキンで口元を拭い、静かに立ち上がった。
「ビーチに出よう。カバナもある」
「海が見たいの?」
「うん。考えてみれば、せっかくビーチリゾートに泊まってるのに海を堪能しないってのもどうかと思う。それに――」
「飲みたい?」
うなずくかわりに太一は、ようやくポケットから左手を抜き出した。
「ワインをもらおう。きんきんに冷えた白」
「高いわよ」
「いいんだ。カネなら心配しないでいい」
綱木という男の運転する原付バイクが消えたのは、夜中の三時近くでも白人観光客たちがうろついている目抜き通りの交差点だった。そこを左折したため、宿主は運転手に曲がるよう指示したのだが、そこから先、バイクのテールランプがぷつりと消えてしまった。ほぼ直線の道路だから、本当なら二百メートルほど先を走るバイクが見えても良さそうだったが、影も形もなかった。運転手はさらに加速して何百メートルか進んでみたが、やはりバイクは見あたらない。宿主は困惑して元の交差点に車をもどらせた。
それから十分もしないで鈴木がやって来た。車をホテルに返し、鈴木は、ジェイムズと名乗る今回のツアーガイドの友人――こっちはバリ人らしいマデという名だった――が運転していたカローラに近づいて来た。それを車外で待っていた宿主が迎えた。助成というウブドツアーの同行者も一緒だった。原付バイクの捜索に参加するとでも言うのだろうか。
「遠くには行ってないはず。見失うわけないもの」
「路地にでも隠れたかな。車の運転手はどうした? 綱木さん、どこからか飛び出してきてまた逃走するかもしれない。スタンバイしといたほうがいいのに」
「さっき降りてどっか行っちゃったの。トイレかな」
「ちょっと、すいません」
交差点の真ん中に立っていたジェイムズが声を上げた。
「マデが呼んでます」
カローラの運転手は、バイクが左折した先に伸びる通りを五十メートルほど進んだところにしゃがんでいた。宿主は鈴木とともにそこに駆け寄った。
「これ、血ですね」
流暢な日本語だった。ジェイムズとおなじく日本人相手のツアーガイドをしているのだろう。汗臭さとは無縁のさわやかなバリの青年だった。アスファルトの路面をミミズが這ったように付着している黒々とした血痕を棒切れでつつきながら、マデは言った。
「まだ新しい。道の真ん中でしょう。この時間でも車が通ってます。それなのにまだタイヤに踏みつけられていない。だからきっと、たったいま、ついた血痕じゃないでしょうか」
「そうか」
鈴木がうなるように声を上げた。
「やっぱり足に当たったんだ」
「え、なに? なにが当たったの?」
後からついてきた助成が聞いてきたが、鈴木はうまくはぐらかした。鈴木が殺し屋――あくまで〈ドリル〉である。彼はそれに固執していたが――だということは、助成はもちろんジェイムズにもその友人の青年にも秘密にしておいたほうが良かろう。宿主がうまく後を継いだ。
「けがしてるのよ、綱木さん」
マデが立ち上がり、路面に目を凝らしながら通りを歩きだした。
「こっちにもあります!」
最初の血痕から三十メートルほど進んだところだった。
「かなり出血してるんだ」
鈴木がそう言うと、ジェイムズもマデも宿主も手分けして血痕を探しはじめた。ただ助成だけがわけがわからずうろうろしている。
「あ、みなさん! こっち、こっち」
ジェイムズだった。とうに閉店したブランドショップやレストランが並ぶ通りをさらに五十メートルほど進んだところに立ち、右手の路地を指差している。
「血の痕、いっぱいあるみたいです。マデが見つけました」
路地の奥にも様々な店や小さなホテルがひしめいていた。その先にまたしてもジェイムズの友人がしゃがんでいた。宿主がそこに近づく。
「血と血の間隔、短くなってます。バイクの速度、落としたみたいです」
マデの説明を聞かずともわかる話だった。道幅は車一台がようやく通過できる程度だし、すぐ先が急カーブになっているから、さっきみたいな猛スピードは出せまい。マデは立ち上がり、さらにあちこちを見て回った。カーブを曲がりきるころには、血痕はもう二メートル間隔となっていた。
「あった!」
マデが指さした暗がりにバイクが倒れていた。綱木が逃走するのに使った原付バイクだ。
「しっ! このなかに入ったみたいです」
バイクのある場所から筋状に連なる血痕をマデは指さした。その先に三階建てのヨーロピアンスタイルの建物があった。血痕はそのわきにある暗がりに吸いこまれている。ぼんやりとした黄色い明かりが、派手な看板を浮かび上がらせていた。
DISCO APOCALYPSE
銃撃戦の後に死を迎えるにはぴったりの場所だった。
四十九
サオリの身柄は確保したが、ジェイムズもその友人というイケメンもいるし、助成もいた。太一はいまここで〈ドリル〉を実行するわけにいかなかった。それに人騒がせな綱木については、どうやら処分の必要がありそうだった。
「ここに入ったのか。店はもう閉まってるんだろ」
太一が訊ねるとガイドらしくジェイムズが答えた。
「ここは二時までオープンね。でももう三時過ぎ。なかは誰もいませんよ……ところで鈴木さん、それにサオリさん、いったいあれは誰なのですか? ひと晩に二回も面倒に巻きこまれるのはごめんですよ」
「ああ、ほんとにそうだ。あれは綱木さんなんだ」
太一は正直に話した。どうせ後でバレる話だ。
「綱木さん? ほんとですか?」
「申し訳ないな。あやまるよ」
綱木は建物のわきから続く小径に逃げこんだらしい。裏口のようだった。太一は一計を案じた。目的はサオリの殺害だ。だったらサオリと二人きりになる状況を作りだせばいいのだが、いまからこのディスコに二人して踏みこむとなったら、ジェイムズもそれになにより助成がうるさいだろう。だったらまずは厄介の種を始末して、問題の鑑定書を手に入れてこよう。そうすればサオリは安心してホテルにもどってくれる。それからまた仕切りなおしだ。いつもよりこじれにこじれているが、まったく手に負えないわけではない。
「ジェイムズ、要するにこれは日本人によくある、ちょっとした内輪もめなんだ。だからぼくがなかに入って綱木さんを見つけてくる。できることなら話もしたい。みんなは外で待っててくれ。そうだな、どこか一杯やれるようなところで……助成さんも一緒にさ」
そう言われると助成はちょっとたじろぐような顔をした。
「……うん、まあ、みんなと一緒なら、ぼくはOKだよ。でも由里ちゃんたち、ほんとに来てないのかな」
「来てないさ。じゃあ、ちょっと行って来るよ。綱木さんさえその気なら、連れて来るから。まあ、たぶんちょっと浮かれ過ぎてるだけさ。クスリとかで」
「クスリ……あ、そうなんだ。見かけによらないんだな。ぼくなんてそんなのぜんぜん興味ない」
「助成さん、それまでみんなを頼むよ。マデさんにも薄いカクテルかなにかごちそうするといい」
「そうね」
サオリはそう言ってほかの連中をうながしながら、太一の耳元でささやいた。
「一人でだいじょうぶ? わたしも行こうか?」
「だいじょうぶ。レディは見ないほうがいいようなことも起こるかもしれない。それに一緒になかに入ったら、ぼくは〈ドリル〉を思いだして、真っ先にきみを撃ち殺す。それは間違いないね」
「仕事熱心ね、あなたってほんと」
踵を返したサオリの背中に一瞥を送ってから太一は暗い小径を進んだ。人気はない。十メートルほど進んだところに裏口のドアがあった。錠前が破壊され、半開きになっている。SIGのしわざだろう。太一は痛む右手でベレッタを構え、左手で慎重にドアを引き開けた。
天井に緑色の非常灯がぼんやりと灯る廊下だった。左右に男女のトイレが並び、その先には、魔女ランダと聖獣バロンの巨大な置物が廊下をはさんで置かれていた。太一は床に目を凝らした。出血した足を引きずったような痕が続いていた。それを追って足音をしのばせる。
血痕をたどって何回か廊下を曲がるなり、三階まで吹き抜けの正方形のホールに出くわした。高い天井に埋めこまれたダウンライトのいくつかに灯が入り、さっきまで繰り広げられていた饗宴の余韻を浮かび上がらせていた。
音楽が流れていた。
チルアウト用の静かな曲ならすこしは気分もましになるのだが、掛かっていたのは第三世界にもってこいのマドンナの昔のヒット曲だった。ホールの端に立ち、太一は慎重にあたりに目をやった。そこに誰もいないのなら、四角いステージを囲むように並ぶふかふかのソファの一つに腰掛け、ひと息つけたかもしれなかった。なんなら冷蔵庫からビールを頂戴してきたってよかった。だがそうはいかなかった。ディスコライトの真下に飾られた巨大なシヴァ神像のわきから、ズボンを穿いた足が二本、にゅっと突き出ていたのである。
血の筋はそっちに向かって伸びていた。太一は身を低くし、両手でベレッタを支持した。右腕の銃創がひりひり痛む。だがズボンの主は微動だにしない。よく見ると、左右どちらの足首からも出血はしていないし、綱木のズボンとも違うようだった。わきにモップが落ちているところからすると、宴の後始末をまかされたマドンナ好きの清掃係のようだった。小走りにそこに近づき、太一はそれをたしかめた。頭を撃ち抜かれ、ほぼ即死状態だった。
ほかにもう一人、こちらはステージの端の薄暗がりに倒れていた。おなじく頭を撃たれ、夢の島に捨てられた操り人形のようにぐにゃりとその場に倒れている。コンビを組む清掃係の片割れだろう。太一はぞっとした。なかの暗さに目が慣れるにつけ“黙示録ディスコ”の愉快な状況が明らかになるような気がした。
だがそれ以上、遺体は転がっていなかった。見つかったのは、この時間の常連とおぼしきネズミのカップルだった。ただそこはやはり太一のくつろげる場所ではなかった。感極まった女の子たちがもらした小便とこぼれたビールの泡で濡れた目の前の床がいきなり弾けて、太一の顔に飛沫となって降りかかってきたのだ。太一は腰を抜かし、四つん這いのままホールの暗がりに転がりこんだ。即座に天井方向にベレッタを振り向ける。
綱木だ。
やつが上から撃ってきたのだ。消音器付きの制式拳銃で。
太一はソファの陰に隠れ、天井を見上げた。吹き抜けになった二十メートル四方のホールの周囲には、二階にも三階にもテーブル席が取り巻いている。ホールの血痕はシヴァ神の足元から非常口を示す緑色のランプの下へと続いている。そこが階段なら綱木は上階に這って行ったと考えられる。
「綱木さん! いるんだろ!」
二階席と三階席に目を凝らし、太一は声を張り上げた。
「生まれ変わりの研究してるとかウソついて! なにやってんだよ! 細野さんとおなじじゃないか!」
一瞬の沈黙の後、頭上から声が降ってきた。すぐ近くだった。太一はぎくりとした。二階席のようだった。
「ウソじゃないさ。ニョブについては前から調べていた」
綱木はまだ落ち着いていた。だがやはり傷ついている。声は以前より弱々しかった。
「人間の根源にかかわる話だからね。でもそれはそれとして、やらなきゃならない仕事があった」
「細野さんとおなじなのか、あんたは?」
「おなじ? 仕事のことかな?」
相手の居場所をたしかめようと首を伸ばしたところ、鼻先の床が弾け飛んだ。
「そうさ。仕事のことだ。公安の刑事なのか!」
「言ったろ。団体職員さ」
「団体って、どこ系よ? 警察庁とか?」
「勝手に想像してくれ。まあ、似たようなところだと思うけど」
太一は暗がりを這いながら二階に至るルートを探した。が、やはり綱木が流したと思われる血の痕をたどるほかなさそうだった。二十メートル四角いホールのちょうど対角線上だった。そこを突っ切る度胸はない。勇猛果敢なフランス外人部隊じゃないんだ。素直に横に移動し、そこから尺取虫のように直角に上がっていくほかない。太一は二階席に目をやった。やつの姿は見えなかったが、声のする方角から考えて、太一がいまいる場所の真上あたりに潜んでいそうだった。
「細野さんのことは知ってたのか!」
黙って行動するのも手だった。それこそが行儀というか、こういうときの正しい作法なのだろう。だがやつがこっちの不意をついて移動しないともかぎらない。その点、質問に答えさせれば、こっちもバレバレだが、向こうの居場所も把握できた。
「知ってたさ。情報量はたぶんこっちのほうが多い」
「でも知らん顔だった!」
「ぼくは保険なんだ」
「保険?」
太一はようやく横の壁までたどり着いた。あとは縦に二十メートル這い進むだけ。だがそこは縁日によくある射的遊びの屋台のように子どもでも狙える場所だった。太一としては直線状に並ぶソファの陰に隠れて進む必要があった。不幸中の幸いは、ちょうどそのあたりがかなり暗くなっていることだった。
「まずは細野さんが鑑定書を奪う手はずだった。彼が失敗したとき、ぼくが動きだす。さっきのバイクは、ウブドできみたちが早川さんを追跡しだしたとき、レンタバイクの店から拝借してきたんだ。あいにく申込書に書きこんでる時間はなかったけどね。そうそう、鈴木さん、警察に電話したろ。でもそれで警察が現場にたどり着けたと思うのは、ちょっとな。聞いてないかもしれないが、現場がどこか正確に伝えたのはこのぼくさ」
「きみも通報したのか? でもやつらが現着するまで二時間半もかかった」
「ぼくが通報してなきゃ、倍はかかったろう。それがバリ時間さ。ことによると捜索は夜が明けてからだったかもしれない」
「ふゅー、そんなもんかね」
「さっき部屋で窓が割れたろう。その音に気づいて隣の客が電話したとしても、客室係は平気でテレビのクイズ番組を見続けるし、開けたビールを飲み干すまでいすから腰を上げようとしない。もちろんあわてて喉に流しこむなんて罰当たりなこともしないね。最悪のケースでは、電話が掛かってきたこと自体、忘れちまうかもしれない」
まんなかまで進んだとき、プスッ、プスッと二発聞こえた。床が弾けた感じがしないところをみると、ソファが弾を吸収してしまったのだろうか。太一は生きた心地がせず、尺取虫の速度を上げた。
「でもわからないな。どうしてあの現場に踏みこんで来なかったんだい? 暗がりから撃てば、ぼくもサオリさんも簡単に片付けられた」
「サオリさんが鑑定書を確実に入手したか自信が持てなかったのさ。マッサージ店が怪しいってのはわかったけど、サオリさんの所持品まではチェックできなかったから。ただまあ、いまにして思えば、あのとき、先に鈴木さんだけでも始末しとけば良かったかな」
「だろうね。いまこんなことになるんだったら。ぼくのベレッタが命中したのは右の足首あたりかな?」
「ご名答。でもそっちはたいして痛まない。やっぱりお尻のほうがちょっと」
「薬あるんだろ」
「バイクは長いこと乗るもんじゃないね」
「ああ、なるほど」
「足のけがとおなじくらい出血してる」
「お気の毒さま。ところでぼくのことははじめから知ってたの?」
「知ってたよ。細野さんは知らなかったみたいだけど」
「たいそうなお宝なんだな。その鑑定書っていうのは」
太一はようやく壁の端にたどり着いた。そこで床の血痕をたしかめる。非常口を示す緑色のランプが上階へと至る階段を照らしだしていた。太一は息を詰めて一気にそこに転がりこみ、足音をしのばせて上った。
「なんでもそうだけど、それをほんとに必要としてる人間からすれば、コストなんて関係ないのさ。だからぼくたちみたいな輩が雇われる」
「まったくだ」
そう言って二階席に顔をのぞかせるなり、目の前の手すりが弾け飛んだ。それでも太一の目は銃火が起きた場所を正確にとらえていた。整然と並ぶテーブルの列の向こう側、二十メートル先の曲がり角のところ、低い位置からやつは発砲してきた。
いまもおなじ場所からこっちを狙っているだろう。ちょっとでも顔を出そうものなら、SIGの弾が飛んで来る。
「鑑定書を奪う人間とそれを持っていた人物を殺害する人間。じつに手がこんでる」
「そのとおり。だから鈴木さんの仕事はサオリさんを殺すことだ。鑑定書じゃない。いいかい、いまからでも遅くないからそのまま回れ右して帰ってくれるかな」
「ちょっと前ならそうしていたよ。でも人生なんて、ほんのすこしタイミングが狂うだけでずいぶんと結果が変わってくる。ぼくはいま、予期せぬ事態に巻きこまれてるんだ」
「わかってるなら、話は早い。きみだってその古臭い銃を無駄に撃ちたくないだろう」
「ああ、そうだね。よく考えてみるよ。でもそれにしてもだ――」
「なんだい?」
「ぼくもふくめ三人も使うなんて。まったく手がこんでる。尊敬するよ」
「すくなくとも三人、ね」
「よしてくれ。もう十分だ」
「疑心暗鬼になる気持ちはわかるよ。いくらプロでもこればっかりは落ち着かないからね。でも心配しないでいい。ぼくはできるだけ物事を冷静にとらえたいだけなんだ。ぼくは細野さんと鈴木さんのことしか知らない。ただその事実を言ったまで――」
先に撃ったのは向こうだった。でも太一は一拍置いてから反撃することができた。非常階段はなにも二階で終わっているわけでない。三階席にももちろん通じていた。太一は山猫にも負けないすばしこさでそこを駆け上り、手すりから半身を乗りだし、あやうく落ちそうになりながらベレッタを撃ったのだ。薄闇のなかでわずかな異変に気づき、上目づかいで三階席を見やった綱木の眉間を狙って。
五十
マデの運転でホテルに帰って来たのは午前四時前だった。
助成は鈴木に言われたとおり、クタの街でパーティーを開きたかったようだが、結局、一行はマデのカローラのところで、鈴木の帰りを待っていた。それもそうだろう。肝心の宿主自身、バスローブに裸足だったのだから。
金庫から奪われた封筒はデイパックに収められていたため無事だった。それを取りもどし、わたしは心底、安堵した。ただ宿主の部屋にもどるわけにはいかなかった。綱木によって窓が破られたままだったから、毒蛾とヤモリの王国と化しているのはまちがいなかった。ただ鈴木の部屋に行こうにも、助成がしつこくついてきて閉口した。結局、宿主はいったん自分の部屋にもどって助成をあきらめさせ、そこでとにかく十五分間がまんした後、鈴木の部屋に逃げこんだ。毒蛾なんかより現実的な恐怖が待ちかまえているというのに。
だがそこでも宿主は落ち着いていた。喧騒の街まで繰り出したものだからじっとりと汗をかいた。宿主はシャワーを浴び、それに鈴木が続いた。髪を乾かす洗面台のわきに無造作に銃が置かれている。しかしガーデニアとラベンダーの香りのする石鹸は、わたし自身の張りつめた神経もほぐしていき、銃への恐怖もなんだか薄らいでいくようだった。
もうくたくただった。
それは鈴木もおなじだろう。彼の任務はわたしを殺害すること。ところが銃弾は予想外の作業に消費され、体力も精神力も消耗したに違いない。
鈴木はビールを用意した。それを飲んでから〈ドリル〉を遂行するのだろうか? 雰囲気からはそうは見えなかった。
ところが鈴木はやはり仕事に忠実だった。拳銃の安全装置を外し、新しいローブをまとったばかりの宿主にふたたび銃口を振り向けた。どんよりとした疲労感のなか、鮮やかな恐怖がわたしの内によみがえる。
鈴木はまず宿主から部屋のカードキーを奪った。これでパスポートからもスーツケースからも宿主は切り離された。ただ問題の封筒だけは、宿主自身、ローブのポケットに持参してきていた。宿主は銃口を意識しながらも、ベッドに腰掛ける鈴木の隣に寄り添い、そっと封筒をサイドテーブルに置いた。
「聞いていいかしら?」
「なに」
漬物に使う重石が頭にのっているような、億劫なもの言いだった。宿主の部屋ではじめてわたしに銃を向けてきたときとは明らかに違う、怠惰な感じがした。
「綱木さん、どうしたの?」
「ご想像にまかせる」
「やっぱり……」
大あくびをしてから鈴木は話した。
「今回の〈ドリル〉には無関係だけど、サオリさんを逃がさないようにするためにはそこにある鑑定書が必要だった。彼はそれを奪い取ろうとした。だからまあ、ぼくからすれば正当防衛みたいなものだったかな」
「警察ざたになるんじゃない? 早川さんや橋本さんのときのようにうまくかわせるかしら」
「だいじょうぶ。あの店は夕方にならないと開店しない。それから鑑識作業が始まる。結論が出るころには、ぼくは日本に帰ってる」
強烈な眠気に襲われているのだろう。鈴木のまぶたは閉じかけては開く。それを繰り返していた。
「効くね、このビール」
「わたしももう限界」
「五分だけ横になっていいかな」
「それはわたしも有難いわ。こういうときのビール、ほんとに効くわね」
「酒はそれほど強くないんだ。正直に言うけど」
鈴木は宿主の肩に手をあてがい、二人一緒にベッドに倒れた。ただし銃口だけはしっかりと宿主の胸――彼女に鑑定書を探させるきっかけを作ったわたしの心臓が収まっている場所――に狙いをつけていた。
「そんなもの持って寝るの? 寝にくいわよ」
宿主と鈴木は向かい合っていた。
「銃を持って横になるのははじめてじゃない。それに眠るつもりはない。安全装置も掛けてないから、へたに眠るときみに逃げられるばかりか、自分を撃ってここで一人で冷たくなっちまう。それだけはごめんだからね」
そのときわたしは震え上がった。考えてみれば当然かもしれないが、男であるわたしは胆をつぶすほかなく、正直、気色悪かった。鈴木の下半身になにげなく目をやったところ、短パンの前の部分が異様に張り詰めていたのだ。だが宿主は度胸が座っていた。鈴木にはもはや〈ドリル〉以外に使う体力は残っていないとふんでいるようだった。
「じゃあ、安全装置を掛ければ?」
「それはできない。それに銃だけじゃ心配だ。悪いがこうさせてもらう」
そう言うなり、鈴木は宿主の体を抱き寄せた。死の恐怖とはいささか異なる危機感がわたしのなかに噴出した。
だがそれもそこまでだった。静かで深い寝息が聞こえてきたのである。
それが鈴木のものだったか、宿主のものだったかさだかでない。ことによると、わたしのほうが駆け足で眠りの世界へ逃げこんでいったのかもしれなかった。
もちろん自らを守るために。
五十一
目覚めたとき太一は一人だった。左手にはベレッタをしっかり握りしめていたが、銃身は自分の顔を向いていた。
朝の九時半だった。
いつの間にか眠りに落ち、そのままになってしまった。太一はベッドから跳ね起き、部屋中を探し回った。が、サオリの姿はどこにもない。問題の鑑定書も消えていた。ベレッタを短パンのポケットに隠し、太一は部屋を飛び出した。
預かっておいたカードキーを使ってサオリの部屋に侵入したが、スーツケースはそのままだった。またオプショナルツアーに出かけたのだろうか。旅程を確認しておかなかったのが痛かった。
海を見渡すプールサイドに出たとき、ビーチチェアで使うタオルを山ほどかかえたスタッフがにこやかに声を掛けてきた。太一は微笑むすらできなかった。その直後、プールわきのレストラン――最初の晩、伝令係のサイワンと子羊を血祭りに上げるはずだった店――に目をやり、太一は腰が抜けそうになった。
オープンエアのテーブルで、それこそもりもりと朝食をむさぼるサオリの姿があった。
「おはよう! お寝坊さん!」
おなじレストランに何組かいたハネムーンの日本人カップルが、いっせいにこっちを振り向くくらいの大声を上げ、サオリが手を振った。ウェイトレスがにっこり微笑んでこっちを見ている。太一は動揺を見透かされぬよう注意して店に入った。口のなかが妙に粘つく。こんなことならせめてリステリンでも使ってくるんだった。
「ジェイムズの言ったとおりだわ。エッグ・ベネディクトがやっぱり最高!」
「起こしてくれればいいのに」
つい不満そうな口調になってしまった。
「起こしたわよ。でもぜんぜんだったじゃない。泥のように眠るとはあのことね。やっぱり人殺しの後はこたえるんでしょう。精神的に」
ひととおり注文を終えると、太一はコーヒーをがぶ飲みし、そのまま口をゆすいでから言った。
「人聞きのいいこと言うね。それにここは部屋のなかじゃない。きみ自身のことを案ずる上でもあまり大きな声は出さないほうがいい。店の客の三分の二はネイティブ・ジャパニーズ・スピーカーだ。離れて座っているようでいて、聞き耳を立てているかもしれない」
「あら、ごめんなさい。旅先だからつい気を許しちゃって。でも元気になって良かった。わたし、しゃっきりしてる鈴木さんのほうが好きよ」
太一は急に不安になった。
「きのう、いや、正確にはけさか、ベッドに横になった後、ぼくはどうしたのかな? 記憶がないんだ。なにかその……乱暴なこととか」
サオリはテーブルに身を乗りだし、太一に顔を近づけた。
「人に銃を向けるなんてこと以上に乱暴なことなんてある?」
「まあ、そうだけど……でももっと具体的にひどいこととか――」
「だいじょうぶよ。三十秒もしないであっちの世界に行っちゃったみたいだから」
「不覚だった。きみが起きたのにも気づかなかった。まさかこんなところにいるなんて」
「だってお腹空いたんだもの。それに部屋なんかにいるより、こっちのほうが安全だと思ったの。人殺しは人が見てないところじゃないとできない。プロはとくにそうでしょ。鈴木さんを観察してて、それに気が付いたの」
空いているいすの上に例の封筒が無造作に置かれていた。それを目を落とすと、サオリのほうで手に取って渡してくれた。
二重の封筒だった。外側はインドネシア語と英語が印字された地元企業の封筒のようだったが、内側の封筒は日本からの国際郵便だった。黒マジックでウブドの住所が書かれている。受取人はムトゥ・バクラ氏。裏には差出人名として「桂木宏記」と書かれている。住所は東京。消印は今年の一月四日付けだった。
サオリは前夜とおなじ懇願するような目になっていた。
「やっぱりドナーの記憶は失われちゃいけない。わたし、そう思うの」
「桂木って、細野さんが言ってた人かな」
たしか公安刑事の細野が射殺した仁徳医大の助教授だ。なんでも首相秘書官の死に疑問を抱き、秘書官が調査していた疑惑の事件――与党・民主国民党幹事長の福杉淳弘がからんでいるようだった――を自ら調べはじめたとかいう話だった。
「ムトゥ・バクラって誰?」
「ウブドのプラ・ダレム総代」
「プラ・ダレム?」
「バリ・ヒンドゥーには三種類のお寺があるの。祖先を祀る寺と住民の繁栄を祈る寺、そしてプラ・ダレム、死の寺よ」
「寺っていうのは、みんな死の寺なんじゃないの?」
「ここでいう『死』は『再生』に至る入口って意味よ」
「また綱木さんが喜びそうだね。輪廻転生ってことでしょ」
「まあね。それを司るお寺の総代がムトゥ・バクラさん。彼自身、ニョブなのよ。そしてその背後の力が人並外れて強いからシャーマンも務めてる」
「シャーマン? イタコみたいなやつ? 霊媒師か」
「地元じゃそれで通ってるみたい。いろいろな宗教儀式に引っ張りだこなんだって。でもそれだけじゃ食べていけない。本業は、観光客相手よ。もっとわかりやすく言うと、わたしにマッサージしてくれたおじさんがその人なの。自分の店だったんだって」
「会うべくして会ったって人だね。言い方を変えれば、自分の意思とは無関係に、なにか“べつの力”によって導かれて邂逅を果たした相手とも言える。ここまでのぼくの推理、いい線いってる?」
「まあそんなところかな。ところで鈴木さん、いまもピストル持ってるの?」
「ああ、左のポケットのなかからきみのお腹のあたりを狙ってる」
銃のことがどうしても忘れられぬ仕事熱心な男に、サオリはすこしがっかりしたような顔を見せた。気持ちはわかる。でも太一にとってはそれが仕事だった。
「マナーは悪いが、食事は右手一本ですまさないと。でも地元の人たちはみんなそうだろう。左手は不浄だ」
「なんだか落ち着かないわ。こんなにたくさん人がいるのに、銃を向けられてなにもできないなんて。でもいいわ。あなた、どうしようもなく頑固みたいだから」
「自分じゃそのつもりはないよ」
「いいから、もうすこし鈴木さんの推理を聞かせてくれるかしら」
「うん、つまりこういうこと。サオリさんをその伝説のシャーマンに引き合わせたその“べつの力”こそ、移植によってもたらされたものである。サオリさんはそう考えている」
「そう」
「ドナーは仁徳医大助教授の桂木宏記さんなんだ」
「間違いないわ」
「桂木さんは細野さんが撃った相手だよね」
「そう」
「細野さんはきのうの晩、ひき殺された」
「早川さんは、橋本さん、いえ、細野さんが撃った最初の一発でもう運転できなくなった。頭に命中したの。それでかわりにわたしがハンドルを取ったのよ」
「復讐ってこと? きみのなかの桂木さんに導かれて――」
「かもしれない」
太一は黒目がちの大きな瞳を見つめた。進むべき道に向かってまっすぐに歩き続けられそうな純真さと、大人の男を魅了する妖艶な美しさをたたえている。サオリがバリ舞踊を習ったら本当にきれいだろう。でもその内には別人が潜んでいる。太一とおなじ殺し屋に無情にも射殺された男が。
お薦めのエッグ・ベネディクトがきた。片手で味わうには難しい一皿だが、台座がわりのマフィンを上に乗る半熟卵ごとフォークで半分に切断し、オランデーズソースをたっぷりからめてからすくい上げたひときれは、最高にうまかった。
サオリが続けた。
「桂木さんが殺されたのは今年の一月五日。この封筒はその前日に発送されている。ムトゥさん言ってたわ。手紙が入っていて、そう遠くない時期に自分で回収しに来るから、それまで保管しておいてくれって書いてあったそうよ。家具の個人輸入を通じて、桂木さんとはずいぶん前から知り合いだったみたい。でもまさかこんな形で再会するとは思わなかったでしょうよ」
「サオリさんが桂木さんだって、よくわかったね」
「わたし、退院してから部屋の飾りつけをアジアンテイストに模様替えしていたの。それくらい桂木さんの内面が具体的にわたしの趣味や行動にあらわれていたのよ。それでわかったんじゃないかしら。後はムトゥさん自身のパワーだわ。桂木さんに不幸があったことも、薄々感じ取っていたみたいなのよ。それでムトゥさん、わたしの体に触れた途端、手を引っこめたの」
「感電したのかな」
「みたいなものかな。それはわたしもおなじだった。だから自然とわたしのほうから『前に会ったこと、ありますよね』って言えた。そしたら向こうも『いつか来ると思っていました』って言ってくれて、この封筒を渡されたの」
内側の封筒の中身を太一はあらためた。アルファベットと数字がずらりと並ぶ表があり、その下に小さく「鑑定結果」と記されていた。
「『九九・九%の確率で同一人物である』……もしかして桂木って人が入手した鑑定書ってこのことかな。細野さんが家庭訪問までして欲しがった重要書類」
「DNAの鑑定書よ。二か所で採取された検体のDNAが一致したってこと。ちなみに桂木さんの家にやって来たのは細野さんだけじゃないの。綱木さんもそう」
「綱木さんも?」
「そう。桂木さんが殺された一月五日、綱木さんも家に来ていた。変な話だけど、わたし、感じるの。胸の奥から桂木さんがそう伝えてくるのよ」
「きみはきのうから変な話ばかりしてる。もう驚かないよ」
「たぶんあの匂い。コロンかなにかだと思うけど、きのう、綱木さんがベランダから乱入してきたとき、ピンときたの。前に嗅いだことあるって」
「桂木さんが、だろ」
「そう。てっきり細野さんの匂いかと思ってたわ」
「公安の特捜刑事とそれと似たような仕事の男が、おなじ晩にガサ入れにやって来たってわけか。でも海外に発送した後ならどうしようもないな」
封筒には、束になった新聞のコピーも入っていた。太一はそれをテーブルに広げた。どれもおなじ事件の記事だった。
幼女変死――。
去年の八月の記事だった。地元紙と中央紙が混ざっている。勤務先に敬意を表し、太一は東邦新聞の記事を読み進めた。
十五日午後五時二十分ごろ、山形県飯豊町手ノ子の町営グラウンド内の女子トイレで、同所、会社員仁藤清さん(30)の長女で、手ノ子小一年、理奈ちゃん(6)が嘔吐したまま倒れているのを、捜しに来た家族が発見。病院に搬送したが理奈ちゃんは間もなく死亡した。死因は嘔吐物を喉に詰まらせたことによる窒息死。遺体に乱暴された跡があるため、県警はわいせつ致死事件と見て長井署に捜査本部を設置した。
同署の調べによると、理奈ちゃんはトイレの個室で便器のわきに仰向けになって倒れており、顔や下腹部に乱暴された跡があった。山形大学医学部での司法解剖の結果、遺体から男性の体液も検出された。
現場は町の中心部から離れた山村地帯。理奈ちゃんは同日午後四時ごろから、同小の友人三人と町営グラウンドで遊んでいたが、同四時四十分ごろから行方がわからなくなっていた。
その後、馬に食わせるほどの続報記事を各社が打ち合ったに違いない。だが犯人は容易には見つからず、一か月後の検証記事では、唯一の目撃情報として、犯行時間帯にトイレから出てくる赤い服を着た中年女性がいたことが記されていた。
「女じゃ、しかたないね。でもそれならいちいち新聞に書きはしない。新聞社だってばかじゃないからね」
「わたしもそう思うの。つまり――」
「女装?」
サオリは小さくうなずいた。
新聞のコピーのほかに、ワープロ打ちした文書が一枚入っていた。下のほうに桂木宏記と自署してあり、立派な印鑑が押印されている。首相秘書官の調査を追認する形で自ら作った報告書のようだった。太一はそれを読み進め、政治家の裏の顔、というより他人には決して推し量れぬ心の闇が、世のなかに存在することをあらためて痛感した。
「じつはね、わたし、退院した後、西崎さんって人に電話してたの」
「してたのって?」
「間違い電話をかけてしまったの。でもそのとき、なんだか知らないけど、相手の女性といろいろ話してしまった」
「相手は元首相秘書官の奥さんだったんだね。なるほど。綱木さんが生きてりゃ、さぞ喜んだだろうに」
太一を無視してサオリは続けた。
「いまわたしが勤めてるのも民主国民党の本部なの。とくに希望したわけじゃないんだけど、派遣会社からいくつか提示されたなかで、条件が一番良かったのがそこなの」
「導かれた……そう言いたい?」
「そうなのかなぁ……でもね、奥さんと話した後『西崎』って名前がすごく気になって、職場の机を開けてみたの。そうしたらいつの間にか入っていたのよ、西崎秘書官に関する報告書が」
「いつの間にかってところが、うそっぽいね」
太一はコーヒーを空にし、ウェイトレスにおかわりを注文した。
「ほんとなんだから。資料室でべつのファイルを探してるときに、偶然、混ざったみたい。おなじクリアファイルに入ってたわ」
「サオリさんとしては無意識のうちにやったんだろうが、それは偶然じゃなく、必然だった。移植に関する奇妙なケースを研究する専門家はすくなくともそう考えるんだろう」
太一は桂木のレポートに目をもどした。
「福杉淳弘は去年の八月十五日の午後、支援者まわりで長井市に入り、午後二時から三時十分まで、次回選挙で社長が参謀を務めることになっている沓沢建設で打ち合わせを行っている。その後、福杉は秘書が運転する黒塗りでなく、妻が運転する自家用車で帰宅した。短時間の私用を強調し、SPには先に自宅で待機するよう指示している……なるほどね。ぼくたちが狙うのはこういう時間帯だな。でも実際は暗殺を食らう政治家なんかいまの日本にいやしない。むしろSPはお目付け役を期待されてるのさ。警察庁の中枢からね。その中枢がどことつながってるかなんてわかりゃしないけど。一般国民的に言えば、この手の“私用”は政治的不正の温床になる。その意味でもSPにちゃんと監視しといてもらわないと」
「その後、妻は友人宅に立ち寄り、それからは福杉がハンドルを握って一人で帰宅している」
レポートの該当箇所を太一は指さした。
「五時半ごろにね」
「空白の時間があるわ」
「そういうことになるね」
「ねえ」
「なに?」
「そろそろ両手で食べたらどうなの?」
「だめだ。子どもが見てるならべつだが、ここはファミレスじゃないからね。マナーに関する社会的責任はそれほど高くない」
「そうかしら。いちおう高級ホテルのメインダイニングよ、ここ」
「いくら言っても無駄だと思うが」
冷静を装いながら太一は、あさっての方向を向きだした銃口の位置を修正した。
「ケチ」
「そうだよ。太っ腹な殺し屋なんて、いると思うかい? ところでサオリさんは、自家用車を運転した福杉がその足で飯豊町の町営グランドに向かったと思う?」
「ほかにあるかしら」
「そこで福杉は女装に着替え、女子トイレに潜んだ」
「理奈ちゃんはそこにやって来た。それを裏付けるのがこの鑑定書よ」
五十二
鑑定書では二つのDNAの比較が行われている。片方は生年月日から福杉のものだった。それがもう一つの検体と一致するかどうかがポイントだった。それを検証した西崎秘書官の労苦がしのばれる。わたしは目の前の殺し屋、いや〈ドリル〉請負人が翻意してくれることを切に願った。でないと、恐るべきスキャンダルにふたがされてしまう。そしてそればかりでなく、移植手術によりせっかく人生に展望が見え始めた宿主の命が虫けらのように奪われることになる。
しかし鈴木のしゃべり方は平板なままだった。わたしが記した報告書に目を通し、書かれた内容だけを口にする。
「片方のDNAは、理奈ちゃんの右手人差し指の爪から検出された人体の皮膚のもの。山形県警から手に入れたんだね。もう一方は、県警による再三の出頭要請を幹事長が公務を理由に断ったことに疑問を抱いた首相秘書官が、もしやと思って自ら採取した幹事長の毛髪か」
「男の人って、みんな、こんなふうに鼻毛抜くものなの?」
「みんなじゃないよ。でもぼくもたまにある。クセなんだよ。痛気持ちいい感じかな」
「でもそんなのよく見つけられるわね」
「どこで誰が見てるかわからないものだ。ぼくもこれから注意するよ。拾われてこんなふうに使われたらたまらないからね。でもこの鑑定書によると、採取された二つのDNAは一致したってことだね」
「信じられないわ。テレビにもよく出るあの人でしょう。国会議員のくせに」
「善良な国会議員なんているかい?」
「でもこんなことするなんて」
子どもにそんなことをするのは、どんな職業だって許されない。人間として糾弾されるべき話だ。理奈ちゃんがなぜ嘔吐したか。考えただけで虫酸が走る。
「理奈ちゃんの喉の奥から微量の体液が検出されてるわ、ほら」
「ああ、ほんとだ。書いてある。だとするとDNAは、理奈ちゃんの爪の間に挟まった皮膚だけじゃなく、その体液からも検証可能だったんだね。あ、でもそうか。大半はゲロと一緒になって流れちゃったんだ。それが喉に詰まって窒息……どういう状況だったか考えたくないね。いくら子どもだって、そんなことされたら、爪が相手の皮膚にめりこむぐらいの抵抗はする」
「おぞましい話」
「秘書官はその事実を幹事長に突きつけた。それが逆に命取りとなった。哀れなもんだ」
この鑑定書さえあれば、福杉を訴追できるのに。鈴木はそのことにはまるで興味をしめさないようだった。わたしは途方に暮れた。だがそのとき、宿主が話しだした。ドナーであるわたしの手から離れた、彼女自身の言葉だった。
五十三
「子どものころから病院を行ったり来たり。トータルで十五年以上入院してたことになるわ。小学校も中学校もずっと院内学級だった。友だちは看護師さんがほとんど。おない年くらいの子はみんな途中でいなくなっていった」
「いなくなったって?」
「退院したのよ。冷たくなってね」
悲しい思い出に寒気をおぼえたのか、サオリはカップを両手で持ち、淹れたての熱いコーヒーをすすった。気のせいかもしれないが、大きな瞳がすこしだけ潤んでいるような気がした。
「つらい話だな」
「わたしだけ生き延びてきたみたい。だけどいつか自分も冷たくなって病院を出るんじゃないかって、ずっと不安だった。心臓移植するしか助かる方法がないのに、いつまで待ってもドナーがあらわれなかったから。わかるかしら、来る日も来る日も病室で目が覚める気持って。ドアのすぐ向こうに自分のお墓がある感じよ。ときどき本当にお線香の匂いがしてきたもの」
「ばかな」
「本当よ。わたしにはそう感じられたの。肉が焼け焦げる臭いもした。自分の体が焼かれる臭い」
エキゾチックな高級リゾートの朝。そこでこんな辛気臭い話をしているカップルなどいるわけがない。
「よせよ」
「だってほんとだもの。だからずっとあこがれてきたの……普通の生活に。朝、家族と一緒に起きて、会社に通って。夜はまた家に帰って来て。ただそれだけでいいの。そんな普通の時間が送りたかった。だからいま、すごい幸せ。もうなんにもいらないわ。それなのに鈴木さん、家族にも会社にも背を向けて逃げようとしてる」
「しょうがないさ」
太一のマグカップは空になっていた。だがもうコーヒーは飲みたくなかった。これ以上頭を覚醒させたら、サラリーマンとして絶対に見てはならぬ世界を目にしてしまうような気がして怖かった。
「どこに不満があるのかしら? ぜんぜん理解できない」
「こんなこと言うのは心苦しいけど、ぼくだって、ぜんぶがぜんぶ理解されるとは思っちゃいないんだよ。だけどいまのぼくには、こうするしかない」
太一はあらためてベレッタのグリップを握りなおし、ポケットのなかからサオリを威嚇した。それでも彼女はひるまない。なんだか向こうのマグカップには、太一だけが知らない特別なクスリでも入っているかのようだった。
「そうかしら? 自分がどうして相手に銃を向けているのか、鈴木さん、とうとう知ってしまったのよ」
それには太一は答えられなかった。不覚だった。こんなことなら昨夜のうちにさっさと引き金を引いておくんだった。グリップの手前にある鋼の突起は、いまや安全装置がかかってしまったかのようだ。まわりに誰もいなくても撃てないだろう。それが彼女に伝わるのが太一は不愉快だった。誰にも干渉されないし、誰にも気をつかわぬ仕事のはずだった。そのためには余計な知識はないほうがいい。あれこれ考え、気をつかうから、誰しもにっちもさっちもいかなくなるのだ。
これじゃ会社と一緒だ。
サオリは顔を近づけ、声をひそめて聞いてきた。
「殺し屋、いえ、その〈ドリル〉とやらの遂行には、感情を持っちゃいけないんでしょう?」
「もちろんそうだ」
「憎しみや怒りで人を撃つわけじゃない。そういうこと?」
「ひと言で言えば仕事ってことさ。誰がなにを言おうと仕事は仕事だ」
「忠実ね」
「忠実さ」
「鈴木さん、商社マンとか言ってたけど、あれウソ?」
「ウソだよ。商社マンなんか大嫌いだ」
「でも会社員なんでしょ?」
「ああ」
「なに関係?」
「まあ、なんて言うか……マスコミ関係かな」
余計なことを話している。そう思った途端、太一は酒が飲みたくなった。
「ふーん、じゃあ、その会社に対しても忠実な人っているでしょう?」
「いるさ。言っておくけど、ぼくもその一人だよ。そこそこの給料をくれるんだ。やれと言われりゃ、なんでもやる。文句は絶対に言わない」
「スーパーサラリーマンね」
「そんな聞こえのいいものじゃない。信念とか自立心とか職業的矜持なんて、まっぴらごめんだ。偉い人におべっか使ってぺこぺこしてたって、出世できりゃ、それでいい。あと二十年も会社にいられないんだ。守りを固めるのも大事になってきた」
「それがイヤで、いまわたしに銃を向けてるんでしょ」
不穏な予感がした。サオリはペースをつかみはじめている。これまで誰にも渡さなかった〈ドリル〉のペースを。もう待てない。太一は引き金に力を入れようとした。
できなかった。
客の目を気にしたわけではない。
サオリがつぎになにを言いだすか、聞きたかったのだ。
「でもそれも結局、ただの犬じゃない。誰かに飼われて、言われたとおりの忠犬ぶりを発揮する」
「違う」
「だって怒りや憎しみを心から拭い去って、ミッションを実行するんでしょ。それって会社の仕事とおなじなんじゃないの?」
「なに言ってんだ!」
たちまち客たちがいっせいに二人に目を向けた。太一は後悔した。注目を集めたことを恥じたのでない。声を荒げたら負けだ。いつもそう思ってきたからだ。殺人請負人稼業でも、会社でも――。
「サラリーマンが感情を失くしたらどうなるのかしら」
サオリは独り言のようにぽつりとつぶやいた。
無感情の歯車――。
社畜だ。
「無理にそれを押し殺すことなんかないんじゃないかしら」
いま必要なのはわれを忘れないことだった。悟られぬよう深呼吸をする……だめだ、うまく息が吸えない。みるみる顔が赤くなるのが感じられた。
「ぼくは誰かに飼われているわけじゃない“鈴木太一”だってそうだ。誰からも飼われちゃいない。やりたいようにやらせてもらってる。自己責任さ」
「いまもそう言える? なにもかも知ってしまったいまも。わたしを葬り去ることで隠蔽される事実がある。それがどれほどのものか、もうわかっているでしょう。それに目をつぶってまで、あなたはあたえられた仕事を達成しようとするの? ゲームみたいに」
客のなかには、二人のやり取りを遠くからずっと眺めている者もいた。とくに太った白人の男は英字新聞を読みながら、ちらちらと意味ありげな視線を送ってくる。まさかそれも刺客の一人ではあるまいか。
不意に太一は、すくなくとも三人だという綱木の物言いが気になってきた。太一と細野と綱木本人……だが待て。早川はどうだった? サオリに最初に接近したのはやつだ。いったいあのワゴンに何人の刺客が押しこめられていたというのだ。そしてそのなかにあって、太一はほかの連中よりもましな信条を持ち合わせていただろうか?
「銃口を向けられたら、ふつうは命乞いをするものだけどね。そんなふうに説教されると、調子が狂うよ。だけど余計なことは考えずに、仕事を実行できればそれが一番いい」
苦し紛れにそう言ってみたが、自分でも釈然としない。なにかとてもずるいことを言って、逃げようとしているみたいだった。会社でいやな仕事を後輩に押しつけるときによく使う手だ。
「会社にいるだけでは味わえない冒険心を満たしたいの?」
「なかなかいいものの言い方だね」
「だけどあなたには冒険のように思えても、福杉さんからすれば、あなたはよく働くただの飼い犬ってことになるでしょうよ」
左手の人差し指をベレッタの引き金にかけたまま太一はぐっと堪えた。ここで発砲するのは、はなはだしゃくだった。
「でもね、あなたの飼い主は、小学一年生の女の子を公園のトイレの個室に連れこんで、そこでズボンを下ろして――」
「やめてくれ」
せいぜいハネムーナーにありがちなささいな口げんかだと思われる程度の声音で、太一は言った。
「人の仕事に口出ししないでくれるかな」
「ごめんなさい。でも大切なことだと思ったから」
「いいんだ。気にしないで。サオリさんにそんな顔をされると、ぼくもつらい」
太一はナプキンで口元を拭い、静かに立ち上がった。
「ビーチに出よう。カバナもある」
「海が見たいの?」
「うん。考えてみれば、せっかくビーチリゾートに泊まってるのに海を堪能しないってのもどうかと思う。それに――」
「飲みたい?」
うなずくかわりに太一は、ようやくポケットから左手を抜き出した。
「ワインをもらおう。きんきんに冷えた白」
「高いわよ」
「いいんだ。カネなら心配しないでいい」