十七~二十四

文字数 21,164文字

十七
 ウブドに到着する前に、南アジアの珍しい鳥の数々を集めたバードパークに立ち寄ることになっていた。秘密文書の受け渡しにはもってこいの、人がたくさんいる観光地だった。細野は、檻のなかの巨大な鳥たちを観察するモグラをやや離れたところからじっと観察した。
 昨夜の男はたぶん違ったのだろう。
 モグラのことをフロントでしつこく訊ねているものだから、到着早々、任務のクライマックスが訪れたかと緊張し、その男が泊まる部屋に向かった。ドアが開くなり銃を向けたら、向こうも銃を抜いてきたから、やむなく撃った。こっちは消音器をつけていたが、男のごついリボルバーの銃身にはなにも装着されていなかった。かろうじてドアは閉まっていたものの、銃声は廊下まで響いた。
 あわてて部屋を調べたが、文書のたぐいは見あたらなかったし、それらしきものは男のポケットにもなかった。金庫も開けっぱなしで、もちろん空だった。まもなくドアをどんどん叩く音がして、インターホンも激しく鳴りだしたため、ベランダづたいに逃げざるをえなかった。
 あの男が誰だったかわからずじまいだった。モグラがあらかじめネットで探しておいたトラベルメイトだとは思えない。そんな人間が銃をぶらさげているわけがない。とするとやはり鑑定書絡みの人物だろうか。
 厄介なことになった。
 すんなりとあれを手に入れるわけにはいかないかもしれない。第二、第三のリボルバーが待ち受けている恐れがあった。狭いワゴンのなかで絶えず感じる落ち着かぬ空気がそれを表している。そしてそいつらをすべて倒さぬかぎり、問題の鑑定書にたどり着けないのである。
 細野はバードパークをめぐるワゴンの面々の後をついていった。しかしこれといった異変は起こらず、最後のコモドドラゴンの檻まで来ても、モグラが抜け駆けするようなことはなかった。
 頭がくらくらしてきた。
 前夜の寝不足による疲れが熱気によって増幅され、体の内側にあふれてきた。もしかするとやつはおれのことをすでに知っていて、もてあそんでいるのではないか。そんな不安さえ胸をよぎった。
 駐車場に帰って来たとき、待っていたジェイムズに声をかけられた。
 「ちょっといいですか」
 そう言うとジェイムズは細野をすこし離れたベンチのところに連れて行き、かしこまって話し始めた。
 「すみません、ちょっとうかがいますけど、わたし、そんなに臭いますか?」
 「え、なんだよ、いきなり」
 「自分ではわからないのです。汗臭いですか?」
 たしかめさせようと、ジェイムズは一歩近づいてきた。細野は思わずのけぞった。
 「よせよ……うん、たしかにそうかもしれない。臭うな。車のなかは閉め切ってるからとくに――」
 「いま、ぬれタオルで体拭いてきました。トイレで歯も磨いてきました」
 「それは良かった」
 「日本人は敏感過ぎるのではないでしょうか? 汗はみんなかくでしょう」
 「まあそうだけど」
 モグラのことが気になったのであいまいに返事をしていると、ジェイムズは鼻を近づけてきた。
 「なんだよ」
 細野はにらみつけた。だがジェイムズは気にもとめない。
 「あぁ、わかりました。香水みたいのちょっとつけてますね」
 ジェイムズはたぶん気位が高いのだろう。車のなかで汗臭さを指摘されて頭にきているのだ。それで意地でも日本人の体臭を見つけだそうとしている。
 「香水じゃないさ。アフターシェーブローションさ」
 「どこのですか?」
 「どこのって……ええと……たしか日本のだよ。でもどうでもいいだろ、そんなこと」
 「いや。わたしもそれ使います。これから毎日つけます。だから教えてください。どこのです?」
 「忘れたよ。日本製でもフランス製でも、好きなのつければいいじゃないか」
 「だめです。おなじやつがいいです」
 「そういう問題か?」
 「はい、そういう問題です」

十八
 そそくさと朝食を終えると星彦はとっとと部屋にこもってしまった。受験勉強はやがて親の夢をかなえるかもしれないが、親子断絶への一歩でもある。久仁子は喉の奥に苦味をおぼえた。断絶した後、きちんとひとり立ちしてくれるのならいいが、ただ親への不信を募らせるだけでは、やりきれない。そうやって引きこもりの泥沼に沈んでいった子どもの話なら、久仁子はいくらもテレビで見ていた。
 最近CDを買ったらしいヒップホップ歌手の曲が聞こえてきた。
 久仁子は洗い物をする前に食卓の上の青い封筒を手に取った。
 昨晩帰ってきたときには気がつかなかった。たぶんきのう届いたのだろう。主人宛てで、親展の印が押してあった。差出人は聞いたことのない会社だった。しかしぶしつけにマンションの売却を打診してくるような、封も切らずにごみ箱に直行するたぐいのただのダイレクトメールとは思えなかった。気になることが表書きに印字してあったからだ。
 貸し金庫ご利用の皆さまへ。すぐにご開封ください。重要なお知らせが入っています――。
 貸し金庫……?
 証券類や通帳、それにもっと価値のあるもの、他人には無価値でも当人には果てしなく重要なもの――たとえばプライベートにかかわる秘密など――を安全に保管してくれる、銀行などが提供しているサービスのことだろうか。そんな話、一度だって聞いたことがない。
 黒い霧がみるみる広がった。
 目の前にそれがあったら、自分ならまずなにをしまうだろう?
 金品はもとより、ひた隠しにしたい事実をもしまいこんでくれるのなら、真っ先に放りこみたいものがある。久仁子のしていることは、他人にでなく、家族に知られるのがもっとも怖いのだ。
 想像したくなかったが、おなじことを夫に当てはめてみた。だが貸し金庫にしまうほどのものってなんだろう? それにそんな器用なことがあの人にできるのだろうか?
 久仁子は居ても立ってもいられなくなり、台所から一番切れ味のいい包丁を取り出してきた。
 前にも一度やったことがある。
 と言っても、二十年近く前だ。学生時代に同棲していた男に女の字で手紙が届いたことがあったのだ。そのときは封筒の下の部分をきれいに裂き、中身を取り出して確認した後、スティック糊で接着した。事前開封に気づくのは、封が施された部分に受取人が手をかけるからであって、底の部分になんて手を触れもしない。男はまるで気づかなかった。主人だってそうだろう。日々の暮らしのなかでのちょっとした変化――髪を切るとか服を買うといったたぐいの妻のささいな挑戦――でさえ完璧に無頓着な人間だった。
 ふいにヒップホップの音が高まったような気がした。たちまち手が震え、包丁の刃がぐにゃりと曲がる。
 星彦の部屋のドアは閉まったままだった。
 息子だけでなく、玄関から警察が踏みこんでくるような気がした。久仁子は深呼吸して気持ちを落ち着かせ、さらに開封作業を続けた。ようやく中身を取り出せるだけの隙間が生まれ、そこから慎重に指を差し入れて、なかの書類を抜き取った。
 一通の案内状と新しい貸し金庫システムのパンフレットだった。
 案内状を読み、頭に疑問符が灯った。
 太平洋平成銀行大手町支店にてご利用の貸し金庫の利用料は年額おいくらに? 弊社ではその半額で、生体認証システムを導入した国際的にもトップレベルのセキュリティーを施した新サービスを実現します。
 貸し金庫の利用なんて、個人情報の最たるものだ。それがまったく関係のない企業からのダイレクトメールに堂々と記されている。明らかに個人情報の漏洩だ。しかも金融機関だ。新聞の一面で取りざたされるレベルの相当な社会問題となるはずだ。
 冷静さを保てるのもそこまでだった。
 久仁子の心は黒々とした北風に吹かれてとっくにさざ波立ち、首筋の神経がむき出しにされたみたいにそわそわしていた。
 太平洋平成銀行大手町支店にてご利用の――。
 きょうは土曜日だ。出原は午後から奥さんの買い物に付き合わされると愚痴っていた。いま電話をしてだいじょうぶだろうか。休日にこちらから電話を入れたことは一度もなかった。それがおたがいの暮らしを守る上での最低限のルールだった。だがいまは緊急事態だ。手はすでに携帯をつかんでいた。
 ヒップホップがふたたび高まり、はっとした。
 開けた封筒をしまわないと。久仁子はあわててハンドバッグにそれを突っこんだ。ダンスミュージックに興じるふりをしながら、壁の秘密ののぞき穴の前で息子が両親のウソをつかもうと息を殺している姿が頭をよぎった。子どものくせに。
 でも子どもだからこそ、か――。
 久仁子は星彦の部屋のほうをこわごわと見た。
 こんなところから出原に電話をする度胸はない。だがこのままでは、救命胴衣もつけずに外洋を漂流しているのとおなじだ。寄る辺なきまま流される一方で、誰もかえりみてくれない。
 久仁子は猛スピードでシャワーを浴び、化粧もろくろく、とにかくマンションを飛び出した。

十九
 秘書官の妻を伴ってジーン・ポートを訪ね、懸命に事情を訴えたら、DNA鑑定を実施した検体の一方の提供者の生年月日と性別、採取した部位を教えてもらえた。昭和二十四年二月十九日生まれの男性の鼻毛だった。もう一方の検体は、細かいデータが不明のまま持ちこまれたという。
 十二月二十八日の昼過ぎ、わたしは総長室を訪ねた。
 大学病院にも一応、仕事納めというのがある。昼食時に幹部職員が集まり、軽く酒を飲んだ後だったから、桜井教授も赤い顔をしていた。わたしはもちろんしらふだった。この手の話は酒の力を借りて話すわけにいかない。
 わたしはまず西崎氏の解剖について切りだした。教授は顔色一つ変えなかった。
 「ひざ裏の斑点? そんなものはなかったはずだ。あったらこのわたしが見逃すわけがあるまい。前もそんなことを誰かに訊ねられたかな」
 後輩の相談を受けてわたしが再度、おなじことを聞きにきたと教授は見抜いていた。わたしが訊ねる前に手を打ってきた。
 「桂木先生の見立ても理解できるがね、遺体がもうないんだし。写真もない。たしかに写真ぐらいは撮っておいても良かった。その点は反省する。でも最近はいろんなことが面倒になりがちだ。年は取るもんじゃないね。リタイアしたほうがいいのかもしれないな」
 だがこの大学病院に搬送されて死亡し、解剖に回された人物が、総長自らが強く支持する代議士が起こしたと疑われる事件について、徹底的に調査していたことまで告げられると、好々爺とした雰囲気が一変した。
 「言いがかりをつけるのはよしたまえ。失礼にもほどがあるぞ」
 教授は語気を荒げてわたしの詮索を批難した。わたしは総長室を追い出され、後は取りつく島もなかった。
 無言電話がかかりだしたのは、つぎの日からだった。
 正月は福岡の実家に帰省もせずにずっと家で過ごしたが、そのときも外出のたびに誰かにつけられているような気がした。まさかとは思ったが、代議士のスキャンダル絡みの話に首を突っこんでいるのだ。この先、ニュースに出るようなことだって降りかかってこないとは言えない。なんでも起きる世の中だ。
 そう考えたら急に怖くなった。
 カバンには例の鑑定書がずっと入っていた。西崎氏の妻に返そうとも思ったが、こうなった以上、かえって夫人の身に危険がおよぶ恐れがあった。そこでわたしは信頼できる人物にそれを預けることにした。
 その手続きを終えた翌日、一月五日の夜のことだった。
 思いだすだけでいまも体が震える。八時過ぎから勤務医と看護師の新年会が開かれ、帰宅したのは零時前だった。雪というより、氷の粒そのものが天から落ちてくる凍てつく晩だった。タクシーを降り、短い階段を駆け上がり、鍵を開けて玄関に飛びこんだ。いまは妻も娘もいないから、部屋が暖かいなんてことはなかったが、それでも外よりは格段に温度が高かった。そのときわたしはとてもほっとしたのを覚えている。そしてそれがわたしに与えられた生のなかで最後の安堵となるとは思いもよらなかった。
 もう一つ、そのときわたしが感じたことがある。
 匂いだ。
 料理でもしないかぎり、家のなかの臭気なんてそれほど変わるものでない。だから花をもらったときなど変化がよくわかる。人が来たときもそうだ。なにかつけているなら、たいていは気がつく。その晩もそうだった。柑橘系の香水がわずかに漂っていた。眉をひそめ、リビングのドアを開けたつぎの瞬間、目のなかが真っ白い光でいっぱいになった。
 問題はそれからだ。
 わたしの五感は失われなかったのだ。
 死を迎えた悲しみについても、いまもいちいち語ることができる。しばらくのあいだ、洞窟のように暗く、湿った世界に置き去りにされたことも覚えている。べとべとしたヘドロのようなものが足下に広がり、獣に取り囲まれたかのように御しがたい不安をかきたてられた。それまで見たなかでトップクラスの鮮烈でねちっこい悪夢だった。
 だからいまここにあるのは、それまでのわたしでは断じてない。あの世界を通ってきてしまったのだ。というより、もどってきてしまったのだ。
 強いて冷静さを保つ必要があった。死についてわたしは理解が足りない。だからできるかぎりの方法で、情報を集めるほかなかった。わたしは頭上に居座る存在に働きかけ、協力をあおいだ。言葉は不要だった。ただ祈り、必死になって念を送った。
 そいつは文句一つ言わずにそれにしたがってくれた。
 ほどなくしてさまざまな資料が集まった。頭上の存在は自分がなぜそんなものを読み進めているのか皆目見当もつかなかったろう。だがわたしはその目を通してそれらを分析し、一つの事実にたどり着いた。それは輪廻転生などという宗教的迷信とはまったく異なるもので、科学的根拠を主張する研究者もいるほどだった。人の肉体と精神の関係ほど、未解明のまま知ったかぶりをされている領域はないのだ。
 そこでわたしはかつて自らが施したある措置について、ようやく思いあたった。それは医師として当然の義務でもあった。
 全身の臓器について、わたしはドナー登録を済ませていたのだ。

二十
 太一は第一の行動に出た。
 四人の男たち――歌舞伎町のホストに不向きな早川、おなじサラリーマンの悲哀を醸す助成、チョコレートバー好きの眠りブタである橋本、そしてニョブとかいう生まれ変わりに関する眉つばものの研究を続ける綱木――のなかから消去法でターゲットを見つけていくほかないのだ。バードパークを出発するさい、助成が小便がしたいと言いだした。それに太一は賛同した。
 インドネシアとは思えぬ清潔なトイレだった。出てきた相手に雑巾のようなタオルを押しつけてチップを要求する不埒な連中が入口に立っていることもなかった。
 太一は助成と並んで小便をした。
 緊張しているのか助成はなかなか排尿しないようだったが、太一はそもそも尿意がない。放尿したふりをして腰を震わせた後、洗面所で待機した。ダウンアンダーからやって来たとおぼしき大男が潔癖症のまねをして執拗に手を洗っていたが、小便器に向かって粗末なホースをじっと構える日本人よりも先に水道の蛇口を締めてくれた。太一はその蛇口の具合を調べ、水が流れているときに指でふさぐと、どの範囲に水が飛び散るか手短にたしかめた。
 「バードパークとか言って、どうしてコモドドラゴンなんかいるんだろう」
 小便に時間がかかった照れ隠しか、助成は取り繕うように言いながら洗面所にやって来た。
 太一はタイミングを逃がさなかった。
 助成が左隣の洗面台に到達したとき、水が勢いよく流出する自分の側の水道の蛇口に左の手の甲を押しつけた。
 「うわっ」
 助成は洗面台から飛びのいたが、アーチとなって降りかかってきた水をよけきれなかった。
 「ごめん!」
 太一はあわてたふりをして蛇口を閉めた。
 「ごめんなさい……濡れた?」
 「ハハハ、へいき、へいき」
 「でも――」
 「暑いからちょうどいいや」
 助成はどこまでもお人好しだった。
 「水圧が安定しないんだろうね。発展途上国だから」
 そうじゃないのに有難い思いこみもしてくれる。そして純白のアロハシャツの胸元は、太一の狙いどおり見事に濡れて、透けていた。
 「濡れちゃったね」
 右のポケットのなかで汗に湿った手でベレッタを握りしめながら、太一はぽつりとつぶやいた。多少の落胆はあったが、これで四人が三人になったということだ。濡れたシャツが張りつく薄っぺらい胸には、しょぼくれた乳首が二つ並んでいるだけで、十センチ大の傷痕はもちろんほかに目ぼしい特徴はなかった。それをはっきりたしかめさせるかのように、助成はアロハシャツのボタンをいくつか外し、縮れ毛が何本か情けなく生えた骨張った胸を露出させた。
 「そうしてみると、ちょっとワイルドだね」
 太一は負け惜しみを口走った。助成はまたしても照れて、両手で小さく力こぶを作りながら言った。
 「豪快な胸毛でもあればさまになるんだけどね」
 たぶんこの男、独身だろう。太一は踏んだ。
 「だいじょうぶですか」
 ワゴンのスライドドアの前に立ち、ジェイムズが心配してきた。
 「へいき、へいき。気持ちいいぐらいさ。さすがは南の島だ」
 「水も滴るいい男ですね」
 「便所の水の滴るいい男だね」
 絶対にこの男は独身だ。童貞かもしれない。助成の後から車に乗りこみ、太一は確信した。助成はたぶん太一とおない年かそこらだろう。週刊誌によれば、四十男の一割近くが童貞であるとのデータがあるらしい。悲しいかなこの男のピント外れの発言と行動はそこで紹介されていたケースに酷似していた。
 ウブドまではすぐだという。乗りこんだ順番のせいで、多少、車内の座り順がかわった。最後列と助手席は変わらないが、二列目は早川が奥に入り、サオリが真ん中、ドア側が太一、三列目は奥がデブの橋本で、手前に助成が座った。太一は綱木の香港シャツが気になった。早川の黒いTシャツもそうだ。橋本は左右の胸にふたつきのポケットがあるブルーの開襟シャツだった。秋葉原をうろつく若い連中がよく着ているやつだ。太一はそれぞれのシャツを引きちぎってやりたい強烈な衝動を覚えた。なんならジェイムズをふくめ、ワゴンの全員を途中のジャングルで惨殺してやったっていい――。
 だめだ。
 そんな乱暴なまねはできない。帰路のことを考えてみろ。たとえ鈴木太一が偽名でも、入国してきたときはその名前で登録してある。それぞれ頭を撃ち抜いた死体を乗せたワゴンを腐った沼に沈めるかしないかぎり、誰かが端緒をつかみ、「ザ・レギャン」から出発したウブド一日観光ツアーに異変が起きたことが官憲の知るところとなる。それまでにングラライ国際空港、いや、成田にもどれるとは思えない。だから慎重にターゲットを絞っていくほかない。
 あと半日だ。
 投げ出してしまいたい気持ちがないわけでなかった。きょうは土曜。午後にはプロ野球のデーゲームがJスポーツで放送される。発泡酒片手に過ごす二時間は、いまの状況よりきっと快適で、なにより気が休まるだろう。
 それでいいのか?
 「でもいいねえ、旅行って」
 車窓に広がる緑濃い密林を見つめながら葛藤する太一をよそに、満足そうに助成が言った。
 「会社のことなんか忘れられるところが最高だ」
 早川が突っこむ。
 「忘れてねえじゃん。ほんとに忘れてたら、そんなこと思いつかない。見栄は張らないほうがいいぜ」
 「そうそう」
 昌美が助成の後ろからたたみかける。
 「あたしたちなんか、これっぽっちも思いださないもん。仕事のことなんか。てゆうか、仕事のときに、遊びのこと思いだすのよね」
 メンソールたばこに火をつけようか迷いながら、由里が突き刺すように言う。
 「発想がサラリーマンとは逆なのよ。なんのために働くか? きっぱり言えるわ。遊ぶためよ。遊ぶためならどんな仕事でもするわ。だからせっかく遊びに来てるときに、仕事のことなんか思いだすわけないじゃない」
 「だけどね、ぼくがいない間に困る人がいたら、ほっとけないだろう」
 「じゃあ、休まなきゃいいじゃないか」
 早川は助成の息の根をとめるつもりだろうか。太一は腹が立ってきた。
 「そう言うなって。助成さんもたいへんなんだよ。ウソでもアバンチュール気分を味わわないと」
 「いろいろあるんだよ」
 助成はかみしめた。
 「毎日おなじ仕事に追いたてられるまま、あっという間に四十一歳さ」
 「えぇっ! そうなんだ」
 由里が驚く。
 「もっと上かと思ってた」
 助成は顔をしかめて女の子たちを振り返った。
 「いいことないんだよ、会社で。先月なんて、背中に帯状疱疹ができちまった」
 「なにそれ?」
 「神経に沿ってできる水ぶくれさ。ほんとに帯状に腫れ上がる。痛いんだよ、チクチクして。ストレスが原因さ。栄養状況も自慢できるものじゃないし」
 「もしかして独身なの?」
 昌美が訊ねると、助成は悪童たちにいじめられたウミガメのように首をすくめ、小さくうなずいた。
 「なんの会社?」
 由里が図々しく訊ねてきた。
 「食品卸系の会社」
 説明するより先に助成は名刺を取り出し、二人に一枚ずつ渡した。それからよせばいいのに助成は残りの全員に名刺を配った。ジェイムズにもだ。
 「以後、お見知りおきを」
 助成の所属する部署で扱っているのは、食品の調味料で、インドネシアのサンバルソースやシーズニングソースなどエスニック系のものも多かった。それでバリ島には一度来たかったのだという。
 「係長か。すごいじゃん」
 早川がちゃかす。課長ぐらいになれば、すごいと言われようが、一般的に係長なら誰にでもなれる。それが日本の会社だ。そこから先は営業成績より社内人脈だ。外面よりも内面を良くしたほうがいい。
 ウブドへ至る街道わきの村々では、猛然と行き交う車とバイクが舞い上げる土煙を浴びながらも、屈託のない笑みを村人の誰もが浮かべている。子どもはもちろん、働き盛りの男たちもだ。朝の東海道線とは大違いだ。たとえ全員がスプラッター映画好きだったとしても、どこか安堵させられる光景だったし、仲間入りを願い出たい気もした。
 太一は自分の会社のことを考えた。
 一生暮らしに困らぬ資産家の息子みたいなおっとりしたやつなんて、誰一人としていない。全員が中産階級の出身で、熾烈な受験競争を勝ち抜いて入社してきた。たぶん倍率は三十倍ぐらいだろう。だから誰もが戦闘的で、すきあらば隣のやつの足をすくおうと狙い、上に行こうとたくらんでいる。
 そうした見事な成り上がり根性の果てに生まれるものがある。
 社畜だ。
 上に言われたことはなんでもする。疑問を差しはさむ余地はゼロ。若いころ、太一はある連載記事のことでデスクと口論になり、部長やその上の局長のところに踏みこんでいったことがある。
 (おれとしてはOKなんだが、これがな……)
 と言って、連中はこれ見よがしに親指を立てた。
 おいおい、やくざの親分さんのことかよ?
 結局、誰もが責任を取ろうとせず、親指のせいにする。でもそんなに親指をしゃぶってみたところで、後でいいことがあるのだろうか? あったとしても、格安の社内健康診断で帯状疱疹なんかよりずっと恐ろしい病気が見つかった後だったら、どうするってんだ? それにせっかくの親指がもげたら、一族郎党、地下のガス室にこもる覚悟が必要だ。
 助成はまたしても首をすくめる。
 「すごくないよ、係長なんて。十七年勤めてやっとそれだからね。先が思いやられる。早川さんはなにしてるの?」
 反撃に出ようと思ったらしいが、金髪男には通用しなかった。
 「無職だよ。ついこの前、会社クビになった。コピー機のリース会社さ。横領とかしたわけじゃない。ただのリストラさ。いま求職中」
 「してないでしょう。こんなところにいて」
 「いいんだ、いまは。旅行するぐらいの金はある。後のことはそのとき考えることにしてる」
 それには助成は論評を加えなかった。でも考えていることは太一とおなじだろう。そんな調子だから会社をクビになった。きっとそうだろう。だがそんなふうに勘ぐるのは、なにもそんな非難めいた思いからではない。
 真逆だ。
 ケ・セラ・セラ――なるようになれの問題先送り主義的モラトリアム人生。本気でそんなふうに思える人間が、太一にも助成にもうらやましくてならないのだ。
 助成は細い首をまさにウミガメさながらに伸ばして車内を見回した。
 「そうすると、このなかでふつうの会社員は、ぼくと鈴木さん、えぇと……商社マンでしたっけ」
 「うん、そう」
 「あとは――」
 「はい、わたしも」
 二本目のチョコレートバーにむしゃぶりつきながら橋本がのっそりと手を上げた。野太い声はいつか見たアニメの主人公のようだった。早川が即座に突っこんだ。
 「コンピューター関係とかだろ?」
 「そう、そのとおり。ご名答。プログラマー」
 「見た目どおりじゃん」
 「三人ですか。意外とすくないね……あ、サオリさんもOLだっけ?」
 「わたしは派遣ですから」
 「フリーターとおなじよね」
 仲間を増やそうと由里が声を上げた。
 サオリは声を上げずに微笑む。
 太一は想像した。サオリは毎朝おしゃれな服を着て通勤し、昼時には丸の内を闊歩しているのだろう。それに引きかえ、由里と昌美は文字通りのフリーター。時間を気軽に切り売りしてその日しのぎの享楽的な生活を送っている。だいたいうしろの二人には品が感じられない。こういうのと結婚するとたいへんだ。
 ふと妻のことを考えた。
 結婚したときは、どちらかと言えば、サオリのようなタイプだった気がする。そうでなかったら結婚しなかったはずだから。
 それがいまじゃどうだ?
 太一はそれについて考えるのをよした。考えても始まらないことで悩むのは、いつ消えてなくなるとも知れぬこの人生で愚の骨頂だ。
 「会社員も公務員もそうだけど、組織人はたいへんだ」
 しみじみと助成が言った。
 「旅行するにも気をつかう。逆に言えば、毎朝、会社に来てるのが一番の安心だ。机に縛りつけられてるときはそんなこと一度だって思いもしなかったのに、離れた途端に不安になってくる」
 「ばかみたい」
 スナック菓子をほおばりながら昌美が言ってはならぬことを口にした。
 太一は張り倒してやりたい気持ちを抑え、小娘たちを諭した。
 「いろいろたいへんなんだよ、おじさんたちは」
 「そうそう」
 我が意を得たりとばかりに助成はうなずいた。その隣で橋本も首肯している。太一はウソと真実を織り交ぜてつづけた。
 「商社といっても、ぼくがいるところは総務部だから、会社のなかでの仕事がほとんどだ。息が詰まるよ。上司はもちろん上しか見ない。面倒な仕事もはいはいって請けてきて、それをそっくり下に押しつける。そんなことの繰り返しだからモチベーションは下がりっぱなしだ。残業手当ては減る一方だし。たまに休日出勤とかさせられると、滅入ってくる。だからこうして無理に脱走してくるのさ」
 「でも毎月、給料もらえるじゃない」
 「そういう問題じゃない」
 「そういう問題よ。あたしたち、必死に貯金したのよ」
 「そうよ」
 由里もスナック菓子をぼりぼりやっている。現地製の怪しげな菓子だ。
 「毎月決まったお金もらえるなら、あたし、文句言わないもん。キツイ仕事やっていっぺんにものすごいお金もらうより、毎月ちょっとでもきちんともらえるほうがいい」
 「わたしもそうですよ」
 橋本だった。
 「べつに出世なんて考えてない。月給もらえりゃ十分ですよ。失業して文無しになることを考えたら、なんでもできますよ」
 チョコバーを食べ終えたブタは小娘たちに加勢した。なにか魂胆があるに違いないが、おまえは無理だろう。太一は冷ややかな視線を送りつけてやった。
 「選り好みなんてできないし、所詮、仕事ですから」
 「技術系の仕事はそうだろうけどね。営業は人相手だから。なかなか割り切れないよ」
 助成の気持ちは理解できた。そしてもっと言うなら、人相手の「人」とは会社のなかにいる人間を指している。資本主義も共産主義もない。競争相手は社内にしかいない。
 「それがイヤだからオレは辞めたのさ。命は短い。カルペ・ディエム!」
 「なにそれ?」
 即座に由里が訊ねる。
 「ラテン語で『いまを生きろ』ってこと」
 「うわっ、急にインテリっぽくなった」
 「まあな。でもいまを楽しめないやつにろくなやつはいない」
 早川の言葉にそれまで黙っていたジェイムズが口を開いた。
 「ほんと、そうですよ。死んだらおしまいです」
 心なしか安全運転になったような気がする。暴走運転手にもついに思うところがあったか。
 「おしまいなのかな?」
 サオリがぽつりと言った。
 その手の話なら、生まれ変わりに関するフィールドワークにやって来たという綱木が話しだす絶好のタイミングだった。だがいまはそれができなかった。綱木はちょうど、ホテルから持参したミネラルウォーターのペットボトルをあおり、なにかの錠剤を飲んでいるところだった。

二十一
 出原とは十二時に有楽町のスターバックスで待ち合わせた。
 昨晩の余韻がまだ久仁子の体の奥に残っていたが、きょうはその続編に至る気分でなかった。ところが久仁子はショートサイズのコーヒーにしたのに、出原は堂々とバニラ・フペチーノを注文した。蕩けたバニラアイスをストローで子どものように吸い上げ、満足そうに息をつく。
 「新聞記者としては、銀行の個人情報漏洩のほうが興味深いね。いますぐ社会部に通報したい。飛びつくはずだ。こりゃ面白いことになりそうだ。そうだ。はじめに編集局長に教えよう」
 「よしてよ。こんなんで点数稼がないで」
 「上の見る目が変わる。積み重ねは大切さ。どんなささいなことでもチャンスにつなげないと。政治部とか経済部の連中みたいに」
 「そうじゃなくって」
 「ああ、わかってるって。あいつがね……だけど女房でも知らないことは、おれにだってわからないさ」
 「ほっとけないわ」
 自分のことを棚にあげて良く言える。それに矛盾する心が久仁子は憎らしかった。会って一分もしないうちに、もう出原の胸にしがみつきたくなっている。夫にどんな秘密があろうと、とにかく出原がいればそれでいい。それは一人の女としての情からなのか、純然たる性欲からなのか、それとも二つは切り分けられないのか?
 「貸し金庫なんて使い方も知らないけど、秘密であることは間違いなさそうだね」
 久仁子は必死になって理性を取りもどそうとした。この日、無理に呼び出した愛人に求めていたのは、そんな通り一遍の答えではない。久仁子はアドバイスが欲しかった。それもいますぐ悩みを解消してくれる的確な意見――。
 「どうすればいいかな」
 「どうするって?」
 「見るのよ。たしかめないと。あたりまえじゃない」
 「無理だよ。セキュリティーがある」
 「家族よ、わたし。妻なのよ」
 語気に力がこもった途端、出原が寂しそうな顔をした。
 「いえ、なんて言うか……印鑑とか通帳とかぜんぶそろってるし、鍵だってどこかにあるはずよ」
 「女房に不利な内容のものだって隠していい場所だぜ。女房が来たからって開けさせちゃくれないよ。せめて委任状ぐらい必要だろう」
 「判子ならいまもあるのよ。いくらでも作れるじゃない。出原さん、あの人のぶんのサインしてよ」
 「おいおい。それより貸し金庫を使わなきゃいけないような秘密って、心当たりあるのかい?」
 久仁子にとってそれが一番困った質問だった。
 察して出原のほうが先に言った。
 「女かな?」
 「まさか」
 週末の昼日中のスタバではそう口にするほかない。まわりはぜんぶ健全そうなカップルだった。
 「まじめが取り得のつまらないサラリーマンよ」
 出原は逃げさせてくれなかった。
 「いないとは言えまい。あいつはああ見えてモテるほうだ」
 「でもそんなので貸し金庫まで借りる?」
 「そうとも言えるな」
 出原はいつもの口癖で言った。
 「でもその女のための隠し資産ってこともある。いずれにしろカネがらみだ。相当なものかもしれないぞ」
 「おどかさないでよ。お給料とか全部わたしが管理してるのよ。隠すような資産なんてあるはずないわ」
 「収入の口が会社だけとはかぎるまい。現におれだって、あっちこっちでアルバイト原稿書いてるし、予備校の論文添削もやってる。知ってるだろう」
 「うちの人にはないわよ、そんなの。それにお金なら銀行で口座開けばいいだけでしょ。貸し金庫を借りるほどじゃないわ」
 「そうだね」
 出原はまたしてもうまそうにバニラ・フラペチーノをすすった。もしこの人と夫婦なら、週末の昼間、わたしだってランバ・フラペーノかキャラメル・マキアートぐらい頼んでいただろう。その後、ゆっくり買い物をして、話題の映画でも見て、どこかのイタリアンの店で晩ご飯を食べて……刹那的で貪るようなセックスなんてないかもしれないが、むしろそっちのほうが精神的には安定しているだろうし、それこそが真の幸福というものなのかもしれない。
 いや、どうだろう?
 そうなったとき、わたしの陰に第二の出原はいまいか?
 迷いはじめた気持ちを賢明な愛人が現実に引きもどしてくれた。
 「やっぱり資産に関する書類とかじゃないかな。一般的にはそうだろう。家族に秘密とかじゃなくて、単純に安全のために預ける人もいるらしいよ。火事とか泥棒とかあるからね。妙なことを考えるのは、おれも含め、二時間ドラマの見過ぎかもしれない」
 「それだったらわたしに言うでしょう。ああ、気になる。どうしても見たい。なんかもやもやしちゃって、へんな気持ち……」
 出原は顔を近づけ、声をひそめて言った。
 「じゃあ、おれがすっきりさせてやる」
 「うわっ、エロおやじ。そうじゃなくて、わたし、けさね、子どもに妙なこと言われちゃったの」
 「なに?」
 「パパの夢はなんだろう、とかなんとか」
 「夢?」
 「そう」
 「それはあいつが一番嫌いな言葉だろうな」
 「そうなんだ」
 出原はなくなりかけた甘い飲み物を惜しむように大切にちびちびやりはじめた。
 「いいかい、クニちゃん。もうすぐあいつも役職が上がる。管理職まではまだちょっと遠いが、いずれそうなる。だから会社に専念するしかないってわかってるはずだ。社畜に徹するのもいとわずにいろいろやってくれてるのも、自分の進むべき道を承知してるからだと思う。ほかのことなんか考えてる余裕はないんだよ。あいつ、四十過ぎたろ。転職なんてもうできやしない」
 「そうよねぇ」
 そこで出原がぐっと顔を近づけてきた。たいして男前でも、品があるわけでもないが、それでいて女を安心させる顔だ。
 「わかってやってくれよ、なあ奥さん」
 出原は意地悪そうに最後のところを強調した。久仁子は膨れっ面になった。
 「一つ断っておくが、ゴマすりと社畜は全然違うんだぜ」
 「え?」
 「つまりね、ゴマすりは自分のことしか考えないが、社畜はたしかに首に輪っかはめてるが、つねに組織全体のことを考え、それを最優先に尊重する。それでいて絶対に偉ぶらない。おれからすりゃ、一つの美学、道だよ。社畜道さ」
 「なにそれ」
 ばかみたい……思わずそう口走りそうになったのを久仁子はこらえた。それを口にしたら本気で出原が怒鳴りだしそうな気がしたからだ。
 「無頼を気取って反抗するのは簡単さ。だが社畜道を貫くのはほんとは一番難しい。だから余計な夢なんか見てるひまはない」
 「だけどぉ……気になるなぁ」
 「じゃあ、自分で電話して聞けばいいじゃないか」

二十二
 かき集めた資料を精査するなかで、わたしはまず米国ウェストバージニア州の事例に注目した。
 ジェシカ・サマーセットは先天性の病気で長らく重い心臓病を患ってきたが、二十五歳のときに心臓移植を受け、病苦からついに解放された。ところがその後、食事の嗜好が一変し、それまでめったに食べたことのないメキシカン、とくに激辛料理を好んで食べるようになった。
 あるとき、ジェシカはドライブ中に急な目まいを起こして病院に担ぎこまれた。ハイウェイを走っていたら、急に目の前に真っ白い壁のようなものが迫ってくる幻覚を見たのだという。移植手術がもたらす体の変調について研究している学者が調べたところ、ジェシカが幻覚に襲われたのは、そのあたりでは知られたドライブインを出てしばらく進んだ先に立つ自動車メーカーの大きな看板の下だった。
 その場所に赴いた学者は、路肩に小さな花束が供えられているのを見つけた。すでに枯れていたが、学者はピンときて、その場所で起きた交通事故の記録を調べた。するとほぼ一年前、居眠り運転と思われる乗用車が停車中のトラックに突っこみ、乗用車の運転手が死亡する事故が起きていた。ちなみにトラックの色は白だった。
 後の展開は学者の予想どおりだった。生前の意思どおり運転手の遺体から心臓が切除され、移植を待つレシピエントの下へ届けられたのである。それがジェシカだった。死亡した運転手は、四十代のメキシコ移民の男性で、もちろん毎日、郷土料理を口にしていたという。
 似たような事例は毎年のように報告されていた。
 ドイツ・デュッセルドルフでは、心臓移植を受けた患者が退院後、スポーツに目覚めて自転車競技を始めるようになり、その後、あるロードレースに出場した。追跡調査の結果、ドナー自身、ベテランの自転車選手で、レシピエントが出場したレースでの連覇がかかっていたとき、練習中に不慮の事故に遭ったという。
 食の好みやスポーツの嗜好がドナーの影響を受けるというのは理解できる。しかし事故や出場大会の記憶まで移るというのはどういうことだろう。これについては多くの学者が「記憶の分散」説を支持していた。つまり人の記憶というのは、通常言われるように脳の側頭葉の海馬にあるのではなく、臓器をふくめ肉体の各部分にも飛び散っている、すなわち「体が覚えている」という考え方である。
 だがドナー側の視点に立ったらどうなるだろう。
 記憶が分散されるなら、それを司る自我のほうも転移してみてもおかしくない。こう主張したのは、ジェシカのケースを検証した学者だった。
 もちろん人間の自我は一つだ。
 そこで学者はこう推論した。心停止の前に脳死が起きる場合、脳内に存在する自我が静脈血をたどって心臓まで下りてきて、移植によりそれもレシピエントに受け継がれる場合がある。人間の自我があたかも脳から脱出をはかるかのようなこの推察には、科学的根拠があった。心臓をはじめとする脳死後の各臓器から通常では検出されないホルモンが多量に確認されるケースが出てきたのだ。βエンドルフィンである。人間が悦びを感じ、快楽に興じているときに分泌される精神活動に由来するホルモンで、苦痛を和らげる働きがあることから俗に脳内モルヒネと呼ばれている。脳死後にそれが各臓器で検出されるということは、そこで精神活動が営まれていたことを意味しまいか。肉体の死という絶対的な恐怖に遭遇した精神は、各臓器に飛び散り、そこで天国の花園を夢見る――。
 学者の推理は、まるでわたしのためにあるかのようだった。
 頭上の存在は、そんなものを読まされてどう思ったことだろう。だがわたしとしては、権威ある医学誌に、すぐれて科学的な推論が掲載されていることを心強く思った。これは現実に起きていることなのだ。そう信じられる余地が残っていたのが、なによりわたしにはうれしかった。そしてかつてムトゥ師が語ってくれたヒンドゥーの神々の秘蹟――ニョブの子どもたち――も、ただの絵空事ではないように思えてきた。
 ただ生前の最後の記憶があまりに鮮烈だったぶん、わたしはいまなおそれに引きずられ、結果、それが新たな危険を招いたことに気づかなかった。後を宿主にまかせ、ここでじっと黙っていれば良かったのだ。
 それにレシピエントの自我との関係もある。
 わたしは自ら思考しているようでいて、そのじつ、レシピエントの体を借りて記憶を統合し、現実に対処し、将来を予測している。そのときレシピエントの自我は離れたところから、じっとこっちのようすをうかがっている。わたしのほうからそちらに声を掛けることはできないし、向こうも関心はあっても、話しかけてはこない。
 たぶん無理なのだ。明確な形でのコミュニケーションは――。
 だからわたしは念を送りつけるほかなかった。
 レシピエントはいま、乗り合いワゴンに揺られている。ウブドへと至る何度となく通った道だ。いつかここへ香里を連れて来たかった。踊りが得意だからバリ舞踊を習わせたら、あの子はきっと上手く踊れたに違いない。それを気の強い母親が許すかどうかはわからないが。
 運転手は浅黒い顔つきのアジア人だった。日本語学校を卒業したというのはウソだろう。きっと川崎で不法就労したときに実地で学んだのだ。その手の輩はバリには事欠かない。そんな怪しげな運転手がさっきまで盛んに発していた汗臭さが消えていた。あんまりみんなで言うものだから、バードパークでデオドラントスプレーでも買いこんだのだろうか。
 すえたような臭いが消えた後、車内にかすかに漂っていたのは、決して忘れえぬあの香りだった。

二十三
 ウブドに到着したのは午前十一時半過ぎだった。
 太陽は頭のてっぺんから容赦なく照りつけ、細野は帽子を持ってくれば良かったと後悔した。それでもホテルのある海沿いのスミニャックなどに比べ湿度はだいぶ下がっている。ここから夜七時のケチャダンス公演までは自由行動だった。いまなお念入りに汗を拭き取る運転手の案内で美術館めぐりやジャングルツアーもできたし、近郊の村まで足を伸ばすことも可能だった。
 正念場だった。
 フリーターの二人は早々に買い物に出かけ、よせばいいのにその尻を助成が追いかけていった。残ったメンバーはガイドブックを広げ、鳩首会談を開いた。
 「まずはランチでも」
 そう言ったのは細野だった。任務のときはいつもそうだ。絶え間ない緊張感が食欲を強烈に高める。しかもいまここに至って、さらに居心地の悪さを感じるようになっていた。メンバーの誰かがストレスの元を強烈に発している。それを感じるだけでもどっと胃液があふれてきた。
 「パレスの近く、イブ・オカって店でブタの丸焼き出してます」
 ジェイムズが教えてくれた。
 「バビ・グリンという料理です。スライスした肉に辛いたれをかけてご飯と混ぜて食べます。安くておいしいからわたしはそこで食べます。早く行かないとなくなります。じゃあ――」
 そんなことを言われて断る筋合はない。ぞろぞろとついていくと、ちょうど焼き上がったブタが大きな包丁で切り分けられているところだった。それにスパイスをふんだんに使ったソースをかけ、手でご飯と混ぜるのだという。うなぎ屋の店先のような煙とともに香ばしい匂いがあたり一面に広がっている。
 なかばオープンエアの日本の座敷のようなところに通され、ツアーのメンバー五人で料理ができるのを待った。ジェイムズはおなじガイド連中のなかに混ざって、インドネシア語でべらべらとしゃべりだした。
 「それにしても蒸し暑いね」
 ビンタンビールをあおると、鈴木という商社マンが文句をたれ、シャツのボタンをあらかた外した。
 「みんな、よくがまんできるね。裸になりたいくらいなのに」
 「海の家ならそうしてるけど」
 細野が言ってやると、鈴木は首をすくめた。
 「そうだよな。一応ここ、レストランだもんね」
 店にエアコンはない。小上がりと天井があるだけだ。そこへバビ・グリンがやって来た。料理だけなら豚肉の汁かけご飯だ。あんなふうにして豪快に作ったようには見えない。シャンツァイの香りがなんともエスニックだ。
 「うまい、うまい」
 細野は我を忘れてかきこんだ。ニンニクや青唐辛子、ジンジャーのほか、スパイスがたっぷり効いている。一分もしないうちに、全身の毛穴が開き、汗がどんどん噴き出してきた。これではジェイムズのことは言えない。鈴木の言うとおり、シャツを脱いでしまいたかった。
 やがて空腹が落ち着き、細野はようやくモグラ観察に身を入れられるようになった。とはいえ、こんなに人がいるところではブツの受け渡しなどできまい。
 「丸焼きのときから見てるから、なんか本当に生きものを殺生したって感じだね」
 鈴木はすくなからず興奮しているようすだった。
 「あのブタちゃん、ちゃんと昇天できたかな?」
 「早川さん、それってちょっと怖くないですか? でももう生まれ変わってるかも。わたし、そう思う」
 「サオリさん、もしかしてぼくのニョブの研究に興味ありますか? ご興味があるなら、もっと話して聞かせますよ。ぼく自身、いろんな体験をしている」
 「体験ってどういうの? もしかしてヒンドゥーの神々が放つ稲妻に胸を切り裂かれたときの聖痕があるとか?」
 鈴木がわけのわからないことを訊いた。
 「いや、心霊現象って言えばいいかな。前世の霊感みたいなものだよ」
 「教えてくれよ、先生。おもしろそうじゃん。先生もニョブなのかい?」
 「うんうん、わたしも知りたい。予知夢とか見たりするの?」
 細野はビールの大瓶をもう一本注文し、みんなのグラスに注いでやった。たいして冷えてないが軽くてうまいビールだった。
 「べつにぼくはニョブじゃないと思うけど、インドネシアの場合、じつは相当数の人がニョブだと言われてるんだ。つまり断片的に死者の記憶を持ってるってこと。人口の半数近くだって説もある」
 「ってことは……一億人以上じゃない。どうしてそんなにいるのかしら?」
 「地球のなかでの地理的位置なのか海洋民族としての遺伝的特質なのか、理由はまったくわからない。ただバリ島に関して言えば、輪廻信仰に基づく宗教儀式が長年続いていて、多くの人がその手の話を信じやすいってこともあるかもね」
 「なんだよ、そりゃ。ずいぶん肩透かしだな、先生。要するに、勝手に死者の記憶があるって信じこんでるってわけかい?」
 「ケチャダンスの最中に、トランス状態に陥って死者と交信をはじめる踊り手がいるんだ。見た目はたしかにイッちゃってる感じさ。けど、あれなんかは、集団的興奮状態が作りだす一種の偽装状態、というか要は見世物だと思うよ。ただね――」
 「なんだよ、もったいぶるなって」
 「とくにバリ・ヒンドゥーは輪廻信仰が強いんだけど、ぼくは物事の順序が逆じゃないかって考えてる。つまり、そういう信仰があるからニョブを自認するんじゃなくて、元々、ニョブが多い人たちだから、死者を祀るさいにもそれに基づく信仰や儀礼が生まれたってことさ。たんに輪廻っていうと、魂の永遠を願うじつに人間的な希望のように思えるけど、現実にそういうことが起きてるから、社会のほうがそれに合った思想や信仰を持つようになった。そうは考えられないかな?」
 ここに至り、心霊談議はさらに熱を帯びた。そしてみんなで汗だくになって話し合ったあげく、モグラが臓器移植がどうのこうのという話をしだした。ほかの連中はひどく感心した。
 「いいね、夢中になれるものがあるって」
 細野のグラスにビールを注ぎ返しながら、ぼそりと鈴木が論評した。その言葉がやけに細野の胸に残った。
 「いまじゃ、物忘れもひどいし、新しいことなんかからっきし。なんにも吸収できないよ。子どもに期待するのがせいぜいだ」
 鈴木がそう言った途端、水を打ったように心霊談議が収まった。みんなの視線を受けて鈴木がつづけた。
 「男の子が一人いるんだ。中学三年」
 「受験だね」
 細野が思わず口走ると、鈴木はつらそうな顔をした。
 「それもそうだけど、心配なのはそれだけじゃない。だんだん親のしてることが見えてくる難しい年ごろなんだよね。だからボロが出そうになると、たまにこうして親のほうが逃げてくる。会社からも家庭からも逃げてばっかりだ。もう何年もそんな生活さ。みんな、お子さんはいるの?」
 鈴木の問いかけに全員、首を横に振った。
 「うらやましいよ」
 細野には本当は娘が二人いる。だから人生への空虚な気持ちは鈴木とおなじだった。もしかしたらこの男とは、超常現象とはべつの話で盛り上がれるかもしれない。
 それはなんだろう?
 細野は考えるのが怖くなった。

二十四
 目を閉じ、わたしはじっと嗅覚を研ぎ澄ませた。
 一月五日に訪ねて来た狙撃犯がどんな人物だったか見当もつかない。ただかすかに感じ取れる。
 あの匂いだ。
 コロンだろうか。おなじものをつけていることだってあるし、壮絶な体験であったため、神経が過敏になっているだけかもしれない。
 昼食に入った店では、食べ物の匂いが強く、鼻が利かなくなった。バリ絵画で埋めつくされた美術館でようやく記憶に残るあの甘い香りを嗅ぎわけた。
 暗殺者がそばにいる。
 パニックに襲われたが、わたしはそれに絡め取られぬよう必死にこらえ、魔手から逃れる方法を思案した。
 一方で矛盾する気持ちもあった。
 愛らしい香里の笑顔が胸いっぱいに広がった。五歳の誕生日には、将来はパパのお嫁さんになると言って泣きだし、七夕飾りには家族三人の絵をクレヨンで書きこみ、ハートマークで囲った。はじめて自転車に乗れたのは一年生のとき。暗くなるまで二人で練習し、荷台を押す手を思いきって離したら、まるで習いたてのセスナパイロットのようによろよろと自力走行を開始した。そして医局の仕事に疲れて帰宅したとき、ベッドで見せるあの天使のような寝顔――。
 わたしは結婚には失敗した。だが娘は何者もわたしから奪えない。それは思いあたる理由もないまま、消え入るようにわたしから離れていった妻にだってわかっているはずだ。だからこそ法律やらなにやらで、わたしがあの子に近づけないようにしているのだ。しかしそれもすべて父親が生きていての話だ。その土台が崩れ去ったいま、わたしはあの子にもう会えないのだろうか。
 こんな身となってからわたしは一度だけ、香里に会いにいったことがある。
 学校の帰り道に待ち伏せしたのだ。夕方の四時過ぎだった。香里は友人とじゃれ合いながら校門の外に姿をあらわした。わたしは息を飲み、一歩近づいた。声こそかけられなかったが、慈しみに満ちた父の視線に気づかせることはできた。だが直後、わたしは絶望した。香里は素っ気ない顔つきでわたしを無視し、目の前を通り過ぎていったのである。失意にまみれ、わたしはその場から消えて行った。だからこそいま、なすべきことがある――。
 復讐だ。
 相手は特定できた。後は機をうかがえばいい。
 暗殺者は代議士の悪事を隠蔽しようとわたしに凶弾を放った。しかしその銃が守ろうとしたものがなんだったか、彼は知っていたのだろうか。福杉淳弘がどれだけおぞましい行為にふけっていたかわかっているのか。
 香里は十二歳。被害者の少女はそれよりずっと幼い。それを思うと、両親の悲しみと怒りは察してあまりある。
 だが暗殺者のほうも、すでにわたしに気づいているかもしれない。なにしろ狙いはこのわたしと例の鑑定書なのだから。だからそれを手に入れるまでは、暗殺者から離れていなければならない。すくなくとも誰もいないところで二人きりになるようなまねはしたくなかった。
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