五十四~エピローグ
文字数 12,409文字
五十四
プールサイドからプライベートビーチに下りて行き、鈴木は若いビーチスタッフに申し付けて、一番遠くのカバナに二人ぶんのタオルをセットさせた。それからワインリストを持って来させ、鈴木はブルゴーニュの上物を注文した。宿主は満腹のようだったが、きらめく青い海を前にしたらあらためて開放的になり、美酒が欲しくなったらしい。グラスは二つだと自らスタッフに念押しした。
わたしは不安だった。ボトルを空けた後、いよいよ処刑が行われるのだろうか。プライベートビーチの端っこだ。人気はないし、カバナの幌で覆ってしまえば、まったくの死角になる。物売りでもやって来ないかぎり、なにをしようと気づかれまい。しかし鈴木は小型拳銃をどこかにしまい、宿主の前には二度と出さなかった。
ワインが届けられた。鈴木の要望どおり本当に冷えていた。二人は乾杯し、幸福をかみしめるハネムーンの男女のように味わった。
それからとりとめのない話を鈴木がしだした。それでも語り口のどこかに人殺しの匂いを漂わせていた。だが宿主は気丈だった。口では怖いと言っているが、実際は鈴木をまるで恐れず、殺し屋稼業の男を興味深く観察しながら、時折、ずばりと質問をした。鈴木はそれに上機嫌で答えた。ただ家族の話となると、ちょっと苦しそうだった。
鈴木は妻とうまくいっていないようで、ここ何か月か付き合っている恋人がいると打ち明けた。
「サオリさん、いくつ?」
「二十八よ」
「じゃあ、きみよりずっと年上だ。取材先で知り合った人だ」
「深い付き合いなの?」
「すくなくとも女房よりはね。女房なんか、会社の愚痴ももう聞いちゃくれない」
夫婦関係の構築に関しては、わたしも苦い思い出がある。仕事ひと筋でいるうちに、妻の心はわたしから離れていった。気がつけば、間男に取りこまれ、娘まで奪われる始末だ。だから不遇をかこうのは自分ひとりだなんて思わないほうがいい。
「だけど奥さん、ほったらかしにして、ほかの女とばっかり飲みに行ってると、いつかしっぺ返し食らうかもよ」
サオリがわたしの気持ちを代弁すると、鈴木はグラスに残ったワインを飲み干し、そこにボトルの残りを並々と注ぎ足した。
「もう食らってるさ。こっちはとっくに気づいてる」
鈴木は吐き捨てた。
「女房は女房で、いろいろやってるんだ。証拠もある」
「怖いわ。夫婦なのに」
「べつにめずらしくはないだろう。これだけ離婚カップルが増えてるんだから」
「いつかその証拠を突きつけるの?」
「ああ。写真があるんだ。決定的な写真だ」
「家に置いといたら、捨てられちゃうかもよ」
「だいじょうぶだって。安全なところに保管してある。でも、まあ、ほんとはそんなもの使わずに、そっとしといたほうがいいのかもしれない。流行り病みたいに、時期がくれば自然と消滅するってこともある」
「そうかなあ。わたしにはわからないけど」
「子どもがいるからね。それさえなければ、もっとらくな解決法があるんだろうけどさ」
「子どもには両親がちゃんとついていたほうがいいと思うわ。当たりまえ過ぎる話だけど」
鈴木は空と海が交わるところをじっと見つめていた。波はそこで生まれ、そこに帰って行く。だけど自分は帰る道を見失ってから久しい。そんなことを思っているようなさみしげな顔つきだった。
ようやく鈴木が口を開いた。
「でもこんなふうにも考える。たとえ片親になったとしても、それはそれで受け容れなきゃならないし、それを通じて子どもはかえって強くなれる――」
わたしはちょっとがっかりした。同時に慈しみも覚えた。鈴木は〈ドリル〉を演じる上では優秀かもしれないが、やはり父親としては失格なようだ。このわたしとおなじく。だが宿主は辛らつだった。
「虫がいいわ」
「そうだよね。わかってるさ、ぼくだって。だけどもう昔のようにはもどれないと思うんだ。しかたないよ。そうなってしまったんだから」
「悲観するより、開き直ったほうがいいかもね。そんなような家庭はほかにいくらもあるんだから」
「サオリさんの家はどうなの?」
「平々凡々。ふつうの家庭よ。両親はいまも結構、仲いいわよ。夫婦の危機なんてあったのかしら」
「気づかないだけかも」
「かな。だとしたら、わたし、幸せだと思う。そんなことちょっとだって想像したくないもん」
「そうだよな。とにかく息子にだけは悲しい思いをさせないようにしなくちゃ」
「来年、高校受験でしたっけ?」
「ああ。早く終わってほしいよ。その後はどうなってもいい。大学なんて行かなくったって」
「らくになりたいの? 父親業から解放されて」
「そうさ。ほかになにがある? それで女房からも解放されて、やっと一人の男にもどれる」
この男は口ではそんなことを言うが、本心はそうでないのだろう。いまではなんともまずそうにワインをすすっていた。娘から無理やり引き離された経験を持つ身からすれば、子どもがいくら大きくなろうと、解放なんてありえない。それが定めなのだ。
「そううまくいくかなぁ……でもさ、鈴木さん、家庭問題をどうしてそこまでしゃべっちゃうの? わたしみたいな、赤の他人に」
「赤の他人だからいいんだよ。それにサオリさんにはもう時間が残されていないからさ」
わたしは苛立った。この男はまだ〈ドリル〉に固執している。
「やっぱりわたし、殺されるんだ」
「仕事は仕事だからね。ただ最後にうまい酒ぐらい酌み交わしたっていい」
「余裕ね。人殺しなんて、もっと必死にやるものかと思ったわ。あなたは片手で会社の仕事をして、反対の手で銃の引き金を引く。でもその器用さがあだになってる」
「言わないでよ、そのこと。自分でもわかってるんだから。器用貧乏。手相にも出てる」
鈴木は両手を広げて見せた。宿主はそれをしげしげと眺め、唇に指をあてた。
「殺し屋の相は出てないわ」
「そんな手相あるの?」
「あるわよ。わたし、手相は結構くわしいの。病院にいるとき、たいていの手相占いの本は読破した。時間はいくらもあったから」
「ずいぶん勉強したんだ。でも待てよ、それが手相にあらわれていないってことは――」
「努力家の相は出てるわ。だから後天的に身につけたんだと思う」
「生まれながらの殺し屋なんていないと思うけどね」
「何年ぐらいやってるの?」
宿主は本心から鈴木に興味を持っているようすだった。いくらわたしが距離を保とうとしても、自分のほうで近づいていく。若い娘の考えることは計り知れない。
「もう九年になる。前も言ったけど〈ドリル〉を通じて何人始末したかは勘弁してね。仕事として始めてみるとわかると思うけど、回数の問題じゃないんだ」
「慣れちゃうってこと?」
「受け取り方は自由だ」
「〈ドリル〉の仕事はいつもおなじところから降ってくるの?」
「まあそうだ。誰が元締めかは、ぼくも知らない。最大の秘密だからね」
「コードネームとかないの?」
「コードネーム?」
「映画なら必ずそういうのあるじゃない“フォックス”とか“ホワイトベア”とか」
「ああ、そういうのね。ちなみに細野さんはサオリさんのこと“モグラ”って呼んでたみたいだよ」
「 “モグラ”ですって? 失礼ね。それ、小学校のときの大嫌いな先生のあだ名よ。だけどまさか“鈴木”ってわけないでしょう?」
「今回は“鈴木太一”で通してる。もらったパスポートがそうだったから。でもふだんはとくに――」
「ウソ。なんかあるんでしょう、コードネーム」
「あったほうがいいかな?」
「いいわ、絶対」
すると鈴木はカバナのあちこちに目をやった後、小さなテーブルに置かれたドリンクメニューをぱらぱらと開いた。それを宿主がうれしそうにのぞく。やがて鈴木の手がとまった。ビールのページだった。そこに目を落とし、鈴木が口を開く。
「じゃあ“タイガー”ってのはどうかな?」
「うそ」
「ほんとだって。じつはずっと前からそうだった。いま思いだしたよ。そう、ぼくは“タイガー”強そうだろ。すくなくとも誰からも飼われちゃいない」
「そうかしら。トラもペットにされる時代よ」
「言うなって。ジャングルを自由に駆けめぐるんだ……それにしてもなぁ、なんだかサオリさんにはいろいろしゃべっちまってるなぁ」
「いいじゃない、どうせ後で撃ち殺すんだから」
「たしかにそうだ。だからそろそろ聞いておこう」
ワインはもう残っていなかった。宿主に残された時間もあとわずかだろうか。鈴木の目つきがわずかに鋭くなっていた。わたしは逃げだしたくなった。だが鈴木は妙なことを訊ねてきた。
「サオリさんの夢はなにかな?」
「夢……なんか唐突ね。これからしてみたいことって意味でもいいかしら」
「かまわない」
つぎの瞬間、宿主がわたしのほうを振り返っていた。一つの心のなかで、わたしに答えを求めていた。わたしは彼女を優先させたかった。好きなように生きればいい。移植により生きる時間を確保したのだ。いまのわたしにはそれしか言えない。鑑定書は手に入ったが、目の前に殺し屋がいるようでは、わたしの目論見も実は結ぶまい。しかしサオリはわたしに前に出るようせっついてきた。なんという優しい娘だろう。わたしはその好意に甘えることにした。
「桂木さんには離婚した奥さんとの間に一人娘がいるの。小学校六年生よ。ムトゥさんが教えてくれたわ。でもそれはわたしも薄々感づいていた。退院してすぐのころ、買い物帰りに麻布の裏道を通ってみたの。ふだん絶対に通らない道なんだけど、なんかふらふらって足が進んじゃったのよ。そしたらそこに小学校があって、わたし、しばらく正門のところでたたずんでいた。そうしなきゃいけないって胸騒ぎがしたのよ」
「それがその子の通う学校だっていうの?」
「確証はないけどね。調べればわかるでしょ」
「そこに行くのかい?」
「親なら会いたいでしょうに」
「身につまされる話だね。もうちょっと飲む? 昼までロングドリンクで持たせたいんだけど」
「いいわね」
五十五
日曜の夜、久仁子は大きく息を吸いこみ、ゆっくりと吐いた。それからペンを取り、コンビニで買ってきた便せんにしっかりした字で「委任状」と記した。貸し金庫を久仁子がその手で開けるために不可欠なものだ。そこから先、なにを書けばいいかは、開いたままのインターネットサイトにすべてしめされている。ワードで打ち出す気にはなれなかった。そこまでするとなんだか本当に偽造に手を染めているようでイヤだった。
あの子の言ったことが胸の奥で渦巻いていた。
避難所――。
それがたとえ妻でも侵しえない場所の意味なら、それこそ銀行の地下に眠る金属製の小箱であったとしてもおかしくない。そこに詰められたものがなんであるか想像しようとすると、頭はすぐに真っ白になり、あとはなにも考えられない。未経験の拒絶反応だった。自分が犯した罪への大きな罰なのだろうか。だが後悔は起きなかった。小箱のなかにたとえなにが収められていようと、それは自分たちが夫婦になる前からずっとそこにあった。微風さえも届かぬ心の沼地でじっと発酵を続け、熟成し、そのまま手がつけられないほどの腐敗へと移行していったのだ。
自分のことはどうでも良かった。ただ星彦の将来だけが心配だった。あの人だって、いまが息子にとって一番大切な時期だとわかっているだろう。出原には軽口を聞いて、子どもが大学に入ったら離婚するかもしれないというようなことを言った。だが事態はもっと早く動くかもしれない。そう思うと、久仁子の心は激しく波打った。慰謝料はふんだくるとして、息子を抱え、どうやって生きていこう。仕事にも出ねばなるまい。
すべてはあと半日で明らかになる。
あすのこの時間には、夫が帰っている。わずかの小遣いで買った九州土産でも広げているころだろう。そのときに思いきって切りだすべきか。それとも例の個人情報流出のダイレクトメールについて中身を知りたがるふりをして、ようすを見てみたほうがいいか。
星彦はずっと自分の部屋でテレビを見ている。勉強をする気配はない。きょうは母親はうるさいことを言わない。まるでそれがはなからわかっているかのような態度に思えた。
前夜同様、一睡もできまい。それでも不思議なことに、今夜ばかりは出原に会いたくなかった。
エピローグ
デンパサールからのGA880便は、定刻より四十分も早く週明けの成田空港に着陸した。入国審査も税関もスムーズに進み、午前八時五十分過ぎには成田エクスプレスに乗りこめた。
偽名のパスポートを引きちぎるために入ったトイレの鏡でたしかめたところ、顔はそれほど黒くなっていない。日焼け止めがうまく効いたのだ。思わずうれしい気分になった。あとは東京駅で熊本土産を買えばいいだけだった。機内でぐっすり眠ってきたから体調はばっちりだ。〈ドリル〉の後は、たいていはしばらくの間、ぼんやりと過ごし、現実とのギャップを埋めるのに時間がかかるものだ。だが今回はそうでなかった。意識は明晰で、寸粉のすきもないほど覚醒している。細野や綱木のような輩がいきなり目の前にあらわれても、即座に撃退できるだろう。たとえお気に入りのベレッタを分解してスミニャックの海に投げこんできたとしても。
そのベレッタだが、ぜんぶの部品が波に洗われたわけではない。名残惜しさがないわけでなかったが、自動式拳銃の命であるスライド部分だけはいつまでも手のなかで転がし、気づいたらホテルの中庭までもどって来ていた。前の晩、綱木を追って駆け抜けた蓮の浮かぶ池のある庭だ。
さらば〈ドリル〉――。
池のほとりにしゃがみ、愛しの小型拳銃の最後の部品に別れを告げた。
ところがそれを拾い上げる愚か者がいた。
それをしめされたのは、夕方、ングラライ国際空港に向かうべく、フロントでチェックアウトの手続きをすませて、トイレに入ったときだった。
「お帰りですか?」
ぴかぴかに磨き上げた隣の小便器に並ばれるのかと思ったら、放尿しようと身構える太一のまうしろに、友だちにいたずらをする小学生のように立たれた。
「帰るさ。ぐずぐずしてると会社に席がなくなるからね。十分楽しんだよ。もう思い残すことはない」
「ウソだ。心残りの一つぐらいあるんじゃないかな」
飲み過ぎてバケツ一杯ぶんぐらい貯水しているはずなのに、瞬時に高まった緊張のせいで、尿管がきゅっと閉じてしまった。話に付き合いながら、太一は放尿をすませるべきか頭をめぐらせた。そして悩めば悩むほど、尿管の周囲がこわばっていく。
「ないと言えばウソになる。観光らしい観光も、燃えるようなアバンチュールもなかったから。でももういい」
「ベレッタもこうなったら使いものにならないしね」
スライドを太一の左肩にのせ、助成は言った。たぶんトレードマークの細い首をカメのようにすくめていたことだろう。太一は苛立った。身を守る上で銃のスライドは唯一の武器になる。だから絶対に肩から落とすわけにいかなかった。そう思って体のバランスを保ちながら、ペニスにそえていた右手を左肩に伸ばしたら、こんどは張りつめた膀胱がずきりと痛んだ。まるで出口を遮断されたことで、内圧が高まり、あらぬ部分に亀裂ができているかのようだ。このままだと腹腔が携帯式の小便器になってしまいそうだった。
「きみもSIGを配備されてるの?」
ようやくスライドに指先が触れた。太一は落とさぬよう慎重にそれをつかんだ。さて、放尿はここであきらめて、振り向いてベレッタのスライドでネアンデルタール人のように殴りかかるか? だが声の感じからして、やつは一メートル以上離れたところにいるし、当然、銃を構えているだろう。
「公安なんかじゃないさ。偶然だけど、じつはぼくもいまベレッタを手にしている。ジェットファイアだ」
「気が合うね」
「前はそう思ったさ。でもいまは違う。鈴木さんがやらないなら、ぼくがやらなきゃならない。残念だけど」
「きみはぼくの保険、そういうこと?」
「だね」
「つまりこういうことかな。ミッションの出所は違うとしても、ジェイムズのあのワゴンには仕事熱心な連中が四人も乗っていたってこと? あ、早川さんもそうなのかな?」
「彼は違うと思うよ。ただの手に負えない日本人観光客でしょ」
「なるほどね。でも助成さん、きみが一番状況をつかんでいたっていうのは、ちょっと腹が立つね」
「ミッションの出所は鈴木さんとおなじだよ。横浜駅のホームであの男にパスポートを渡された。ぼくも〈ドリル〉を請け負ったんだ」
「そうだったか。でもそれはたぶん〈ドリル〉保険でしょ」
「まあね。おおむね発動されると見越して掛けられた保険かな」
「なんだよそれ。失礼な話だな。それにしてもおなじ駅で話をするなんて要領いいね、あの人も」
そのとき、地中に埋められた子犬の鳴き声さながらにかすかな尿意が下腹部にあらわれたような気がした。待て待て。ここで焦ったら元も子もない。
そうだ。
深呼吸だ。
インド伝来の精神統一法を思いだし、太一は無駄な相づちを打つのをやめて鼻から大きく息を吸った。
「忙しい男でね。ぼくにパスポートを渡した後、東海道線の下りに乗って、それからまたもどって来た。きみを伴ってね。京浜東北線のホームからずっと見てたんだ」
そして大きく息を吐く。
いい感じだ。
もうすこしだった。子犬は前足で土を掘り、むごいことをした飼い主に噛みつこうと自力で這い上がれそうだった。
「あのとき鈴木さん、ずいぶん怖い顔してたよ」
長らく断水を強いていた水道工事もようやく終了したようだった。尿意がぐんぐん高まり、バルブが緩むのが感じられた。
「なんだかけんかしてるみたいに見えた。駅員も横目で心配そうにしてた」
最初のひと滴が便器に落ちたときは、安堵のあまり貧血を起こしそうだった。祝開通! ホースの流量はみるみる増え、尿線はどんどん太くなる。膀胱は臨界点ぎりぎりだったから、このぶんだと、あと半日は小便器の前から離れられそうになかった。
太一は会話を思いだした。
「手配師もたいへんだね。でもたしかにあのとき、誰かに見られてるような気がしたんだ。あまりいい趣味とは言えないね、助成さん」
「情報はできるだけ多いほうがいいからね。ぼくが見てるなんて、あの男だって知らなかっただろう」
「サイワンは?」
「彼とはこのホテルで会っていた。きみより前にね」
「サオリさんのことはそのとき?」
「そうだ。途中で教えてやろうとも思ったけど」
「そうしてくれりゃ良かったのに。最初はきみのこと疑ったりした。バードパークのトイレで水かけたりして」
「あれは滑稽だったな」
「自衛隊にいたの?」
「ニューヨークで警官やってた。その前は海兵隊」
「アメリカ人?」
「そうだよ。小さい体はマンハッタンで雑貨屋やってる父親ゆずり」
「独身?」
「それは本当さ。でも名誉のために言っとくけど、童貞でもゲイでもない」
「疑ってなんかいないって。日本では働いてるの?」
「付き合ってた女が留学生でね」
「それを追いかけて? でもふられたんだな」
「ばか言うなって。まだ付き合ってるさ。来年、結婚する。新婚旅行はこの島以外にしたいけど。仕事はたいしたことないよ。鈴木さんとおなじ、ラッシュにもまれるサラリーマン。毎日、毎日、時間が無駄に過ぎていく。それがイヤでたまにこんなサイドビジネスに手を出す」
「そんなやつらばっかりなんだな。なにかこう、感動的な理由で殺し屋を続けてるやつっていないのかな」
「感動的な理由?」
「なんていうかな、ほら小説とかにあるじゃない。子どものころに両親を殺されていて、その復讐心にいまも衝き動かされてるとか」
「いないだろうね、そんなやつ。絵空事さ。実際はカネに目がくらんだか、そうでなけりゃ、ぼくたちとおなじような理由からだろうね」
小便は快調すぎるくらい、まるでイグアスの滝だった。
「でも助成さん、腕に自信があるのなら、いっそサラリーマンなんかやめちまえばいいのに。そのほうが自由になる時間が増えると思うけど」
「わかってるくせに、そんなこと聞かないでくれよ。〈ドリル〉は六十歳までは続けられないし、そんな年じゃ仕事の口もない。かといって若いうちに稼ぎに稼いで後は悠々自適なんて、言うは易し、だろ。不安定だからね、この仕事は。でも会社は定年まで養ってくれる。足向けて寝られないよ」
「まあね。突きつめると、やっぱりカネの問題なのかな」
「それを認めたくないんだよ、ぼくたちは」
「大いなる矛盾だね。ここで二人して社外活動にいそしんでるっていうのに」
「まったくだ。さて、そろそろ人が入って来る。話を急いだほうがいい。鈴木さん、じつは見せてほしいものがあるんだ」
「ドキッとするね。こんなときにそんなこと言われると」
現金なものだ。太一はこんどは一刻も早く排尿を終えたくてしかたなくなった。
「サオリさんの死体を見せてくれないか」
「え?」
「彼女が死んだ証拠が見たい。けさからきみたちの後をずっとつけてるけど、なかなかそれが見つからない。そこへきて、池のなかからそんなものを拾い上げた。疑いを持ってもしかたないだろう。言っとくけど、ぼくのミッションは〈ドリル〉だけじゃない」
「鑑定書?」
「ちがうよ。わかってるくせに。きみが〈ドリル〉を放棄した場合のきみの始末さ」
「驚いたな。いまの保険はそこまでカバーするんだ。じゃあ、あらためて聞くけど、サオリさんがまだ生きてる証拠はつかんだの?」
「五分ぐらい前かな、ロビーでそっちの証拠をつかんだところだ。ちなみに池でベレッタの残骸を拾ったのは、かれこれ一時間以上前のことだ」
「笑わせないでくれるか。あんまりおかしくて下っ腹がよじれるものだから、ションベンが便器から飛び出しちまう。いま一番いいところなんだ。クライマックスって感じ」
「なにかおかしなこと言ったかな?」
「きみもそうだろうけど、たとえサイドビジネスでもこの道じゃ、ぼくもプロだからね。その点をもうすこし考慮してから、ものを言ってほしいってことさ。仕事はこれからするところだった。心配しないでいい」
「素手でやるっていうのか? わざわざ役に立つ道具を捨てて」
「どうして他人が用意した銃なんか使わなきゃいけないんだ」
「そのために用意された銃だからだよ。プロならそいつを使うべきだ」
「飛び道具ならほかにもあるさ」
はったりではなかった。すくなくともこの場を切り抜けるには、この飛び道具を使うほか手はなかった。太一は下っ腹にいま一度力を入れて流れを最大にした後、おもむろに回れ右をした。
「自前のやつがな!」
助成は小便器と向かい合わせになった個室の壁を背にしてベレッタを構えていた。が、白ワインを主原料にした小便で足元を汚されるのをやつの本能が嫌った。引き金を絞るより先に、助成は放水銃の射程から逃れるべく、頬を引きつらせて右にジャンプした。その瞬間を太一は逃がさなかった。ズボンが濡れるのをいとわず、右手でつかんだベレッタのスライドを、まるで警棒さながらに相手の右手が握りしめる銃の消音器部分に力いっぱいたたきつけたのだ。それにより敵の火線をずらすことに成功した太一は、そのまま左手で助成の右手をつかんで銃口をあさっての方向に向けさせた後、一気に懐にまで飛びこんだ。やることは一つしかなかった。
代用警棒の一撃が助成の鼻を粉砕し、二打目は左の眼窩を陥没させた。三打目をお見舞いする前にやつは太一の足元に崩れた。その間にベレッタはなんと四回も発射され、それぞれ壁に小さな穴をうがった。
太一は気絶した助成を個室に引きずりこみ、なすべきことをすませてからトイレを出た。入口のところでべつの客とすれ違った。太一はまっすぐ車寄せまで歩き、タクシーに乗りこんだ。ズボンがアンモニア臭いのなら窓を開ければいい。
そして月曜の午前十時過ぎ、太一は買いたての辛子れんこんをさげ、東京駅丸の内北口を出て会社まで歩きだした。
五月晴れのすがすがしい天気だった。
大手町の東邦新聞東京本社まではいくつかルートがあるが、きょうはすこし遠回りして皇居の緑を見てみたかった。会社にもどればまた息の詰まる社畜生活だ。神秘の島でいやというほど緑は見てきたが、それももう遠い昔に思える。
でもあのわくわくする時間がなければ、そう遠くない時期になにかが壊れる。編集方針に反旗をひるがえして上司を会議室に監禁するか、家出して二度ともどらなくなるか。そして最後は取り返しのつかぬはめになって、突如、人生に幕が下りる。畜舎から脱走を試みたウシやウマの運命とおんなじだ。最後に耳に残るのは、殺し屋なんかじゃなく、毎日見慣れた飼い主によって渋々放たれた一発の銃声なんだろう。
外資系証券会社のビルの前まで来たとき、足がとまった。
血の気が失せた。
通りの向こうに久仁子がいた。
銀行に入って行くところだった。太平洋平成銀行だ。
横断歩道はあるが、信号はいつまでも変わらない。だが変わったところで、そこを渡る勇気はあるだろうか。足は強力磁石で吸いつけられたようになっている。余計な回り道をしたものだ。いつものように東京駅から丸ノ内線に乗りこめば、いまごろ会社で甘いコーヒーでもぼんやりすすっているころだ。それがどうだ。
いや、これこそが来るべき運命だったのか?
サオリは桂木宏記というドナーの意思に導かれ、バリまでやって来た。それはある意味、運命と呼べるものなのかもしれない。だとするとこうは考えられまいか? もちろん妻は心臓移植なんて受けていないが、なんらかの見えざる力により、いま、こうしてこの場に存在している――。
唐突に携帯が鳴った。
「もしもし」
出原だった。久仁子と一緒に例の写真に収まるあのあつかましい男だ。
「ああ、どうも。さっき東京駅に着きました。いま会社に向かってます」
「どうだった? 九州の美人脚本家は」
「ご機嫌でしたよ」
「そりゃ、良かった。ところでな、おまえが出してた視聴率の原稿、きょうは組めないぞ。差し替えだ」
「え、なんで?」
薄々気づいていたが、一応、驚くふりをした。とはいえ貸し金庫のある銀行に吸いこまれる妻の後ろ姿を目の当たりにしたら、気もそぞろになる。
「福杉だよ」
「なんですか?」
「読んでないのか? けさの朝日。テレビでももうやってるだろ」
「すいません。ばたばたしてまして」
「ばたばたは政治部と社会部だ。福杉淳弘が警察に引っ張られそうだ。とんでもない事件だ。小学生の女の子に対するわいせつ致死容疑だ。去年の夏、地元の山形で起きた事件だ」
やっとのことで太一は横断歩道を渡りはじめた。目は自動ドアの向こうで案内係になにか訊ねる妻から離れない。
「まじですか……信じられない」
「まじだよ。おれもこんなの初めてだ。でも女の子の爪の間にはさまってた肉片と福杉のDNAが一致したらしい。新聞協会賞ものの大スクープだ」
それから先、出原は記事の内容をかいつまんで話したが、すべては前日の午後、まったりとした時間を費やしてホテルのビジネスセンターから自ら朝日に流した話だった。それになにより、いまはもうなにも頭に残らなかった。久仁子が左手の階段を貸し金庫のある地下に下りていくのが見えたからだ。
家族の今後を考える上で、絶対に避けて通れぬ事実があった。怖がりの夫はそれと対峙するのをずっと先送りにしてきた。それなのに妻は、向こう見ずにもそれを自ら暴こうとしている。
そのときだった。
キャッチホンが入った。ここぞとばかり太一は出原の電話を切った。相手は公衆電話からだった。
「もしもし……」
声を聞いてぞっとした。あれほど連絡するなと言っておいたのに。困惑を押しやり、太一はサオリを気づかった。
「どうかした?」
「ごめんなさい……じつはね、いま、麻布の小学校の前なの」
「やっぱり行ったんだ」
「うん、どうしても気になっちゃって。もしかしたら、なにかうまくいくかもしれないし。ただね――」
太一の足がとまった。広い交差点のどまんなかだった。目は空車のタクシーを追う。悪い予感が的中したようで、いますぐそれに飛び乗らねばならないような真っ赤な焦燥感が頭のなかで燃え上がっていた。このままだと耳から火が出て、東京じゅうが炎上しそうだった。それでも太一は怖くて聞けなかった。それを察したのか、サオリのほうで話を続けた。声はかすかに震えていた。
「わたしね、一人じゃないの」
「えっ……?」
「さっき声かけられたの。学校の近くでね……ヘンよね、これって。絶対おかしいわ」
「だ……誰から?」
「それがね……」
電話口を手で覆ったらしく声がくぐもる。
「由里さんと昌美さん――」
クラクションが鳴り始めていた。それでも太一は動けなかった。横断歩道の向こうにそびえる銀行の入口――知りたがり屋の妻を飲みこんだばかりの悪魔の大口――をじっと見つめ、頭のなかでは、麻布に至る最短ルートを編みだすという絶望的な思考がはじまっていた。
ただもう一つ、胸のいちばん深いところに、青い湖の水面のような静かな感慨も浮かんでいた。自分のなかの別人、いわば前世のような存在が小首をかしげている。
もう四十も過ぎたいい大人が、ずいぶんと青臭い説教をされたものだ。まったく生意気な小娘だった。でもそれこそが長いこと、ベッドに縛りつけられ、毎日、死の恐怖にさらされてきた人間ならではの正直な気持ち、未来に夢を抱こうとする生の叫びだったのかもしれない。
だったらおれのいまの夢はなんだろう。
これまで手に掛けた者たちを“タイガー”は数えてみた。
虎は闇にまぎれ、ジャングルを駆けめぐり、精気に満ちた森の空気を胸いっぱいに吸いこみ、雄叫びを上げる。
そこに出口は、あるだろうか?
プールサイドからプライベートビーチに下りて行き、鈴木は若いビーチスタッフに申し付けて、一番遠くのカバナに二人ぶんのタオルをセットさせた。それからワインリストを持って来させ、鈴木はブルゴーニュの上物を注文した。宿主は満腹のようだったが、きらめく青い海を前にしたらあらためて開放的になり、美酒が欲しくなったらしい。グラスは二つだと自らスタッフに念押しした。
わたしは不安だった。ボトルを空けた後、いよいよ処刑が行われるのだろうか。プライベートビーチの端っこだ。人気はないし、カバナの幌で覆ってしまえば、まったくの死角になる。物売りでもやって来ないかぎり、なにをしようと気づかれまい。しかし鈴木は小型拳銃をどこかにしまい、宿主の前には二度と出さなかった。
ワインが届けられた。鈴木の要望どおり本当に冷えていた。二人は乾杯し、幸福をかみしめるハネムーンの男女のように味わった。
それからとりとめのない話を鈴木がしだした。それでも語り口のどこかに人殺しの匂いを漂わせていた。だが宿主は気丈だった。口では怖いと言っているが、実際は鈴木をまるで恐れず、殺し屋稼業の男を興味深く観察しながら、時折、ずばりと質問をした。鈴木はそれに上機嫌で答えた。ただ家族の話となると、ちょっと苦しそうだった。
鈴木は妻とうまくいっていないようで、ここ何か月か付き合っている恋人がいると打ち明けた。
「サオリさん、いくつ?」
「二十八よ」
「じゃあ、きみよりずっと年上だ。取材先で知り合った人だ」
「深い付き合いなの?」
「すくなくとも女房よりはね。女房なんか、会社の愚痴ももう聞いちゃくれない」
夫婦関係の構築に関しては、わたしも苦い思い出がある。仕事ひと筋でいるうちに、妻の心はわたしから離れていった。気がつけば、間男に取りこまれ、娘まで奪われる始末だ。だから不遇をかこうのは自分ひとりだなんて思わないほうがいい。
「だけど奥さん、ほったらかしにして、ほかの女とばっかり飲みに行ってると、いつかしっぺ返し食らうかもよ」
サオリがわたしの気持ちを代弁すると、鈴木はグラスに残ったワインを飲み干し、そこにボトルの残りを並々と注ぎ足した。
「もう食らってるさ。こっちはとっくに気づいてる」
鈴木は吐き捨てた。
「女房は女房で、いろいろやってるんだ。証拠もある」
「怖いわ。夫婦なのに」
「べつにめずらしくはないだろう。これだけ離婚カップルが増えてるんだから」
「いつかその証拠を突きつけるの?」
「ああ。写真があるんだ。決定的な写真だ」
「家に置いといたら、捨てられちゃうかもよ」
「だいじょうぶだって。安全なところに保管してある。でも、まあ、ほんとはそんなもの使わずに、そっとしといたほうがいいのかもしれない。流行り病みたいに、時期がくれば自然と消滅するってこともある」
「そうかなあ。わたしにはわからないけど」
「子どもがいるからね。それさえなければ、もっとらくな解決法があるんだろうけどさ」
「子どもには両親がちゃんとついていたほうがいいと思うわ。当たりまえ過ぎる話だけど」
鈴木は空と海が交わるところをじっと見つめていた。波はそこで生まれ、そこに帰って行く。だけど自分は帰る道を見失ってから久しい。そんなことを思っているようなさみしげな顔つきだった。
ようやく鈴木が口を開いた。
「でもこんなふうにも考える。たとえ片親になったとしても、それはそれで受け容れなきゃならないし、それを通じて子どもはかえって強くなれる――」
わたしはちょっとがっかりした。同時に慈しみも覚えた。鈴木は〈ドリル〉を演じる上では優秀かもしれないが、やはり父親としては失格なようだ。このわたしとおなじく。だが宿主は辛らつだった。
「虫がいいわ」
「そうだよね。わかってるさ、ぼくだって。だけどもう昔のようにはもどれないと思うんだ。しかたないよ。そうなってしまったんだから」
「悲観するより、開き直ったほうがいいかもね。そんなような家庭はほかにいくらもあるんだから」
「サオリさんの家はどうなの?」
「平々凡々。ふつうの家庭よ。両親はいまも結構、仲いいわよ。夫婦の危機なんてあったのかしら」
「気づかないだけかも」
「かな。だとしたら、わたし、幸せだと思う。そんなことちょっとだって想像したくないもん」
「そうだよな。とにかく息子にだけは悲しい思いをさせないようにしなくちゃ」
「来年、高校受験でしたっけ?」
「ああ。早く終わってほしいよ。その後はどうなってもいい。大学なんて行かなくったって」
「らくになりたいの? 父親業から解放されて」
「そうさ。ほかになにがある? それで女房からも解放されて、やっと一人の男にもどれる」
この男は口ではそんなことを言うが、本心はそうでないのだろう。いまではなんともまずそうにワインをすすっていた。娘から無理やり引き離された経験を持つ身からすれば、子どもがいくら大きくなろうと、解放なんてありえない。それが定めなのだ。
「そううまくいくかなぁ……でもさ、鈴木さん、家庭問題をどうしてそこまでしゃべっちゃうの? わたしみたいな、赤の他人に」
「赤の他人だからいいんだよ。それにサオリさんにはもう時間が残されていないからさ」
わたしは苛立った。この男はまだ〈ドリル〉に固執している。
「やっぱりわたし、殺されるんだ」
「仕事は仕事だからね。ただ最後にうまい酒ぐらい酌み交わしたっていい」
「余裕ね。人殺しなんて、もっと必死にやるものかと思ったわ。あなたは片手で会社の仕事をして、反対の手で銃の引き金を引く。でもその器用さがあだになってる」
「言わないでよ、そのこと。自分でもわかってるんだから。器用貧乏。手相にも出てる」
鈴木は両手を広げて見せた。宿主はそれをしげしげと眺め、唇に指をあてた。
「殺し屋の相は出てないわ」
「そんな手相あるの?」
「あるわよ。わたし、手相は結構くわしいの。病院にいるとき、たいていの手相占いの本は読破した。時間はいくらもあったから」
「ずいぶん勉強したんだ。でも待てよ、それが手相にあらわれていないってことは――」
「努力家の相は出てるわ。だから後天的に身につけたんだと思う」
「生まれながらの殺し屋なんていないと思うけどね」
「何年ぐらいやってるの?」
宿主は本心から鈴木に興味を持っているようすだった。いくらわたしが距離を保とうとしても、自分のほうで近づいていく。若い娘の考えることは計り知れない。
「もう九年になる。前も言ったけど〈ドリル〉を通じて何人始末したかは勘弁してね。仕事として始めてみるとわかると思うけど、回数の問題じゃないんだ」
「慣れちゃうってこと?」
「受け取り方は自由だ」
「〈ドリル〉の仕事はいつもおなじところから降ってくるの?」
「まあそうだ。誰が元締めかは、ぼくも知らない。最大の秘密だからね」
「コードネームとかないの?」
「コードネーム?」
「映画なら必ずそういうのあるじゃない“フォックス”とか“ホワイトベア”とか」
「ああ、そういうのね。ちなみに細野さんはサオリさんのこと“モグラ”って呼んでたみたいだよ」
「 “モグラ”ですって? 失礼ね。それ、小学校のときの大嫌いな先生のあだ名よ。だけどまさか“鈴木”ってわけないでしょう?」
「今回は“鈴木太一”で通してる。もらったパスポートがそうだったから。でもふだんはとくに――」
「ウソ。なんかあるんでしょう、コードネーム」
「あったほうがいいかな?」
「いいわ、絶対」
すると鈴木はカバナのあちこちに目をやった後、小さなテーブルに置かれたドリンクメニューをぱらぱらと開いた。それを宿主がうれしそうにのぞく。やがて鈴木の手がとまった。ビールのページだった。そこに目を落とし、鈴木が口を開く。
「じゃあ“タイガー”ってのはどうかな?」
「うそ」
「ほんとだって。じつはずっと前からそうだった。いま思いだしたよ。そう、ぼくは“タイガー”強そうだろ。すくなくとも誰からも飼われちゃいない」
「そうかしら。トラもペットにされる時代よ」
「言うなって。ジャングルを自由に駆けめぐるんだ……それにしてもなぁ、なんだかサオリさんにはいろいろしゃべっちまってるなぁ」
「いいじゃない、どうせ後で撃ち殺すんだから」
「たしかにそうだ。だからそろそろ聞いておこう」
ワインはもう残っていなかった。宿主に残された時間もあとわずかだろうか。鈴木の目つきがわずかに鋭くなっていた。わたしは逃げだしたくなった。だが鈴木は妙なことを訊ねてきた。
「サオリさんの夢はなにかな?」
「夢……なんか唐突ね。これからしてみたいことって意味でもいいかしら」
「かまわない」
つぎの瞬間、宿主がわたしのほうを振り返っていた。一つの心のなかで、わたしに答えを求めていた。わたしは彼女を優先させたかった。好きなように生きればいい。移植により生きる時間を確保したのだ。いまのわたしにはそれしか言えない。鑑定書は手に入ったが、目の前に殺し屋がいるようでは、わたしの目論見も実は結ぶまい。しかしサオリはわたしに前に出るようせっついてきた。なんという優しい娘だろう。わたしはその好意に甘えることにした。
「桂木さんには離婚した奥さんとの間に一人娘がいるの。小学校六年生よ。ムトゥさんが教えてくれたわ。でもそれはわたしも薄々感づいていた。退院してすぐのころ、買い物帰りに麻布の裏道を通ってみたの。ふだん絶対に通らない道なんだけど、なんかふらふらって足が進んじゃったのよ。そしたらそこに小学校があって、わたし、しばらく正門のところでたたずんでいた。そうしなきゃいけないって胸騒ぎがしたのよ」
「それがその子の通う学校だっていうの?」
「確証はないけどね。調べればわかるでしょ」
「そこに行くのかい?」
「親なら会いたいでしょうに」
「身につまされる話だね。もうちょっと飲む? 昼までロングドリンクで持たせたいんだけど」
「いいわね」
五十五
日曜の夜、久仁子は大きく息を吸いこみ、ゆっくりと吐いた。それからペンを取り、コンビニで買ってきた便せんにしっかりした字で「委任状」と記した。貸し金庫を久仁子がその手で開けるために不可欠なものだ。そこから先、なにを書けばいいかは、開いたままのインターネットサイトにすべてしめされている。ワードで打ち出す気にはなれなかった。そこまでするとなんだか本当に偽造に手を染めているようでイヤだった。
あの子の言ったことが胸の奥で渦巻いていた。
避難所――。
それがたとえ妻でも侵しえない場所の意味なら、それこそ銀行の地下に眠る金属製の小箱であったとしてもおかしくない。そこに詰められたものがなんであるか想像しようとすると、頭はすぐに真っ白になり、あとはなにも考えられない。未経験の拒絶反応だった。自分が犯した罪への大きな罰なのだろうか。だが後悔は起きなかった。小箱のなかにたとえなにが収められていようと、それは自分たちが夫婦になる前からずっとそこにあった。微風さえも届かぬ心の沼地でじっと発酵を続け、熟成し、そのまま手がつけられないほどの腐敗へと移行していったのだ。
自分のことはどうでも良かった。ただ星彦の将来だけが心配だった。あの人だって、いまが息子にとって一番大切な時期だとわかっているだろう。出原には軽口を聞いて、子どもが大学に入ったら離婚するかもしれないというようなことを言った。だが事態はもっと早く動くかもしれない。そう思うと、久仁子の心は激しく波打った。慰謝料はふんだくるとして、息子を抱え、どうやって生きていこう。仕事にも出ねばなるまい。
すべてはあと半日で明らかになる。
あすのこの時間には、夫が帰っている。わずかの小遣いで買った九州土産でも広げているころだろう。そのときに思いきって切りだすべきか。それとも例の個人情報流出のダイレクトメールについて中身を知りたがるふりをして、ようすを見てみたほうがいいか。
星彦はずっと自分の部屋でテレビを見ている。勉強をする気配はない。きょうは母親はうるさいことを言わない。まるでそれがはなからわかっているかのような態度に思えた。
前夜同様、一睡もできまい。それでも不思議なことに、今夜ばかりは出原に会いたくなかった。
エピローグ
デンパサールからのGA880便は、定刻より四十分も早く週明けの成田空港に着陸した。入国審査も税関もスムーズに進み、午前八時五十分過ぎには成田エクスプレスに乗りこめた。
偽名のパスポートを引きちぎるために入ったトイレの鏡でたしかめたところ、顔はそれほど黒くなっていない。日焼け止めがうまく効いたのだ。思わずうれしい気分になった。あとは東京駅で熊本土産を買えばいいだけだった。機内でぐっすり眠ってきたから体調はばっちりだ。〈ドリル〉の後は、たいていはしばらくの間、ぼんやりと過ごし、現実とのギャップを埋めるのに時間がかかるものだ。だが今回はそうでなかった。意識は明晰で、寸粉のすきもないほど覚醒している。細野や綱木のような輩がいきなり目の前にあらわれても、即座に撃退できるだろう。たとえお気に入りのベレッタを分解してスミニャックの海に投げこんできたとしても。
そのベレッタだが、ぜんぶの部品が波に洗われたわけではない。名残惜しさがないわけでなかったが、自動式拳銃の命であるスライド部分だけはいつまでも手のなかで転がし、気づいたらホテルの中庭までもどって来ていた。前の晩、綱木を追って駆け抜けた蓮の浮かぶ池のある庭だ。
さらば〈ドリル〉――。
池のほとりにしゃがみ、愛しの小型拳銃の最後の部品に別れを告げた。
ところがそれを拾い上げる愚か者がいた。
それをしめされたのは、夕方、ングラライ国際空港に向かうべく、フロントでチェックアウトの手続きをすませて、トイレに入ったときだった。
「お帰りですか?」
ぴかぴかに磨き上げた隣の小便器に並ばれるのかと思ったら、放尿しようと身構える太一のまうしろに、友だちにいたずらをする小学生のように立たれた。
「帰るさ。ぐずぐずしてると会社に席がなくなるからね。十分楽しんだよ。もう思い残すことはない」
「ウソだ。心残りの一つぐらいあるんじゃないかな」
飲み過ぎてバケツ一杯ぶんぐらい貯水しているはずなのに、瞬時に高まった緊張のせいで、尿管がきゅっと閉じてしまった。話に付き合いながら、太一は放尿をすませるべきか頭をめぐらせた。そして悩めば悩むほど、尿管の周囲がこわばっていく。
「ないと言えばウソになる。観光らしい観光も、燃えるようなアバンチュールもなかったから。でももういい」
「ベレッタもこうなったら使いものにならないしね」
スライドを太一の左肩にのせ、助成は言った。たぶんトレードマークの細い首をカメのようにすくめていたことだろう。太一は苛立った。身を守る上で銃のスライドは唯一の武器になる。だから絶対に肩から落とすわけにいかなかった。そう思って体のバランスを保ちながら、ペニスにそえていた右手を左肩に伸ばしたら、こんどは張りつめた膀胱がずきりと痛んだ。まるで出口を遮断されたことで、内圧が高まり、あらぬ部分に亀裂ができているかのようだ。このままだと腹腔が携帯式の小便器になってしまいそうだった。
「きみもSIGを配備されてるの?」
ようやくスライドに指先が触れた。太一は落とさぬよう慎重にそれをつかんだ。さて、放尿はここであきらめて、振り向いてベレッタのスライドでネアンデルタール人のように殴りかかるか? だが声の感じからして、やつは一メートル以上離れたところにいるし、当然、銃を構えているだろう。
「公安なんかじゃないさ。偶然だけど、じつはぼくもいまベレッタを手にしている。ジェットファイアだ」
「気が合うね」
「前はそう思ったさ。でもいまは違う。鈴木さんがやらないなら、ぼくがやらなきゃならない。残念だけど」
「きみはぼくの保険、そういうこと?」
「だね」
「つまりこういうことかな。ミッションの出所は違うとしても、ジェイムズのあのワゴンには仕事熱心な連中が四人も乗っていたってこと? あ、早川さんもそうなのかな?」
「彼は違うと思うよ。ただの手に負えない日本人観光客でしょ」
「なるほどね。でも助成さん、きみが一番状況をつかんでいたっていうのは、ちょっと腹が立つね」
「ミッションの出所は鈴木さんとおなじだよ。横浜駅のホームであの男にパスポートを渡された。ぼくも〈ドリル〉を請け負ったんだ」
「そうだったか。でもそれはたぶん〈ドリル〉保険でしょ」
「まあね。おおむね発動されると見越して掛けられた保険かな」
「なんだよそれ。失礼な話だな。それにしてもおなじ駅で話をするなんて要領いいね、あの人も」
そのとき、地中に埋められた子犬の鳴き声さながらにかすかな尿意が下腹部にあらわれたような気がした。待て待て。ここで焦ったら元も子もない。
そうだ。
深呼吸だ。
インド伝来の精神統一法を思いだし、太一は無駄な相づちを打つのをやめて鼻から大きく息を吸った。
「忙しい男でね。ぼくにパスポートを渡した後、東海道線の下りに乗って、それからまたもどって来た。きみを伴ってね。京浜東北線のホームからずっと見てたんだ」
そして大きく息を吐く。
いい感じだ。
もうすこしだった。子犬は前足で土を掘り、むごいことをした飼い主に噛みつこうと自力で這い上がれそうだった。
「あのとき鈴木さん、ずいぶん怖い顔してたよ」
長らく断水を強いていた水道工事もようやく終了したようだった。尿意がぐんぐん高まり、バルブが緩むのが感じられた。
「なんだかけんかしてるみたいに見えた。駅員も横目で心配そうにしてた」
最初のひと滴が便器に落ちたときは、安堵のあまり貧血を起こしそうだった。祝開通! ホースの流量はみるみる増え、尿線はどんどん太くなる。膀胱は臨界点ぎりぎりだったから、このぶんだと、あと半日は小便器の前から離れられそうになかった。
太一は会話を思いだした。
「手配師もたいへんだね。でもたしかにあのとき、誰かに見られてるような気がしたんだ。あまりいい趣味とは言えないね、助成さん」
「情報はできるだけ多いほうがいいからね。ぼくが見てるなんて、あの男だって知らなかっただろう」
「サイワンは?」
「彼とはこのホテルで会っていた。きみより前にね」
「サオリさんのことはそのとき?」
「そうだ。途中で教えてやろうとも思ったけど」
「そうしてくれりゃ良かったのに。最初はきみのこと疑ったりした。バードパークのトイレで水かけたりして」
「あれは滑稽だったな」
「自衛隊にいたの?」
「ニューヨークで警官やってた。その前は海兵隊」
「アメリカ人?」
「そうだよ。小さい体はマンハッタンで雑貨屋やってる父親ゆずり」
「独身?」
「それは本当さ。でも名誉のために言っとくけど、童貞でもゲイでもない」
「疑ってなんかいないって。日本では働いてるの?」
「付き合ってた女が留学生でね」
「それを追いかけて? でもふられたんだな」
「ばか言うなって。まだ付き合ってるさ。来年、結婚する。新婚旅行はこの島以外にしたいけど。仕事はたいしたことないよ。鈴木さんとおなじ、ラッシュにもまれるサラリーマン。毎日、毎日、時間が無駄に過ぎていく。それがイヤでたまにこんなサイドビジネスに手を出す」
「そんなやつらばっかりなんだな。なにかこう、感動的な理由で殺し屋を続けてるやつっていないのかな」
「感動的な理由?」
「なんていうかな、ほら小説とかにあるじゃない。子どものころに両親を殺されていて、その復讐心にいまも衝き動かされてるとか」
「いないだろうね、そんなやつ。絵空事さ。実際はカネに目がくらんだか、そうでなけりゃ、ぼくたちとおなじような理由からだろうね」
小便は快調すぎるくらい、まるでイグアスの滝だった。
「でも助成さん、腕に自信があるのなら、いっそサラリーマンなんかやめちまえばいいのに。そのほうが自由になる時間が増えると思うけど」
「わかってるくせに、そんなこと聞かないでくれよ。〈ドリル〉は六十歳までは続けられないし、そんな年じゃ仕事の口もない。かといって若いうちに稼ぎに稼いで後は悠々自適なんて、言うは易し、だろ。不安定だからね、この仕事は。でも会社は定年まで養ってくれる。足向けて寝られないよ」
「まあね。突きつめると、やっぱりカネの問題なのかな」
「それを認めたくないんだよ、ぼくたちは」
「大いなる矛盾だね。ここで二人して社外活動にいそしんでるっていうのに」
「まったくだ。さて、そろそろ人が入って来る。話を急いだほうがいい。鈴木さん、じつは見せてほしいものがあるんだ」
「ドキッとするね。こんなときにそんなこと言われると」
現金なものだ。太一はこんどは一刻も早く排尿を終えたくてしかたなくなった。
「サオリさんの死体を見せてくれないか」
「え?」
「彼女が死んだ証拠が見たい。けさからきみたちの後をずっとつけてるけど、なかなかそれが見つからない。そこへきて、池のなかからそんなものを拾い上げた。疑いを持ってもしかたないだろう。言っとくけど、ぼくのミッションは〈ドリル〉だけじゃない」
「鑑定書?」
「ちがうよ。わかってるくせに。きみが〈ドリル〉を放棄した場合のきみの始末さ」
「驚いたな。いまの保険はそこまでカバーするんだ。じゃあ、あらためて聞くけど、サオリさんがまだ生きてる証拠はつかんだの?」
「五分ぐらい前かな、ロビーでそっちの証拠をつかんだところだ。ちなみに池でベレッタの残骸を拾ったのは、かれこれ一時間以上前のことだ」
「笑わせないでくれるか。あんまりおかしくて下っ腹がよじれるものだから、ションベンが便器から飛び出しちまう。いま一番いいところなんだ。クライマックスって感じ」
「なにかおかしなこと言ったかな?」
「きみもそうだろうけど、たとえサイドビジネスでもこの道じゃ、ぼくもプロだからね。その点をもうすこし考慮してから、ものを言ってほしいってことさ。仕事はこれからするところだった。心配しないでいい」
「素手でやるっていうのか? わざわざ役に立つ道具を捨てて」
「どうして他人が用意した銃なんか使わなきゃいけないんだ」
「そのために用意された銃だからだよ。プロならそいつを使うべきだ」
「飛び道具ならほかにもあるさ」
はったりではなかった。すくなくともこの場を切り抜けるには、この飛び道具を使うほか手はなかった。太一は下っ腹にいま一度力を入れて流れを最大にした後、おもむろに回れ右をした。
「自前のやつがな!」
助成は小便器と向かい合わせになった個室の壁を背にしてベレッタを構えていた。が、白ワインを主原料にした小便で足元を汚されるのをやつの本能が嫌った。引き金を絞るより先に、助成は放水銃の射程から逃れるべく、頬を引きつらせて右にジャンプした。その瞬間を太一は逃がさなかった。ズボンが濡れるのをいとわず、右手でつかんだベレッタのスライドを、まるで警棒さながらに相手の右手が握りしめる銃の消音器部分に力いっぱいたたきつけたのだ。それにより敵の火線をずらすことに成功した太一は、そのまま左手で助成の右手をつかんで銃口をあさっての方向に向けさせた後、一気に懐にまで飛びこんだ。やることは一つしかなかった。
代用警棒の一撃が助成の鼻を粉砕し、二打目は左の眼窩を陥没させた。三打目をお見舞いする前にやつは太一の足元に崩れた。その間にベレッタはなんと四回も発射され、それぞれ壁に小さな穴をうがった。
太一は気絶した助成を個室に引きずりこみ、なすべきことをすませてからトイレを出た。入口のところでべつの客とすれ違った。太一はまっすぐ車寄せまで歩き、タクシーに乗りこんだ。ズボンがアンモニア臭いのなら窓を開ければいい。
そして月曜の午前十時過ぎ、太一は買いたての辛子れんこんをさげ、東京駅丸の内北口を出て会社まで歩きだした。
五月晴れのすがすがしい天気だった。
大手町の東邦新聞東京本社まではいくつかルートがあるが、きょうはすこし遠回りして皇居の緑を見てみたかった。会社にもどればまた息の詰まる社畜生活だ。神秘の島でいやというほど緑は見てきたが、それももう遠い昔に思える。
でもあのわくわくする時間がなければ、そう遠くない時期になにかが壊れる。編集方針に反旗をひるがえして上司を会議室に監禁するか、家出して二度ともどらなくなるか。そして最後は取り返しのつかぬはめになって、突如、人生に幕が下りる。畜舎から脱走を試みたウシやウマの運命とおんなじだ。最後に耳に残るのは、殺し屋なんかじゃなく、毎日見慣れた飼い主によって渋々放たれた一発の銃声なんだろう。
外資系証券会社のビルの前まで来たとき、足がとまった。
血の気が失せた。
通りの向こうに久仁子がいた。
銀行に入って行くところだった。太平洋平成銀行だ。
横断歩道はあるが、信号はいつまでも変わらない。だが変わったところで、そこを渡る勇気はあるだろうか。足は強力磁石で吸いつけられたようになっている。余計な回り道をしたものだ。いつものように東京駅から丸ノ内線に乗りこめば、いまごろ会社で甘いコーヒーでもぼんやりすすっているころだ。それがどうだ。
いや、これこそが来るべき運命だったのか?
サオリは桂木宏記というドナーの意思に導かれ、バリまでやって来た。それはある意味、運命と呼べるものなのかもしれない。だとするとこうは考えられまいか? もちろん妻は心臓移植なんて受けていないが、なんらかの見えざる力により、いま、こうしてこの場に存在している――。
唐突に携帯が鳴った。
「もしもし」
出原だった。久仁子と一緒に例の写真に収まるあのあつかましい男だ。
「ああ、どうも。さっき東京駅に着きました。いま会社に向かってます」
「どうだった? 九州の美人脚本家は」
「ご機嫌でしたよ」
「そりゃ、良かった。ところでな、おまえが出してた視聴率の原稿、きょうは組めないぞ。差し替えだ」
「え、なんで?」
薄々気づいていたが、一応、驚くふりをした。とはいえ貸し金庫のある銀行に吸いこまれる妻の後ろ姿を目の当たりにしたら、気もそぞろになる。
「福杉だよ」
「なんですか?」
「読んでないのか? けさの朝日。テレビでももうやってるだろ」
「すいません。ばたばたしてまして」
「ばたばたは政治部と社会部だ。福杉淳弘が警察に引っ張られそうだ。とんでもない事件だ。小学生の女の子に対するわいせつ致死容疑だ。去年の夏、地元の山形で起きた事件だ」
やっとのことで太一は横断歩道を渡りはじめた。目は自動ドアの向こうで案内係になにか訊ねる妻から離れない。
「まじですか……信じられない」
「まじだよ。おれもこんなの初めてだ。でも女の子の爪の間にはさまってた肉片と福杉のDNAが一致したらしい。新聞協会賞ものの大スクープだ」
それから先、出原は記事の内容をかいつまんで話したが、すべては前日の午後、まったりとした時間を費やしてホテルのビジネスセンターから自ら朝日に流した話だった。それになにより、いまはもうなにも頭に残らなかった。久仁子が左手の階段を貸し金庫のある地下に下りていくのが見えたからだ。
家族の今後を考える上で、絶対に避けて通れぬ事実があった。怖がりの夫はそれと対峙するのをずっと先送りにしてきた。それなのに妻は、向こう見ずにもそれを自ら暴こうとしている。
そのときだった。
キャッチホンが入った。ここぞとばかり太一は出原の電話を切った。相手は公衆電話からだった。
「もしもし……」
声を聞いてぞっとした。あれほど連絡するなと言っておいたのに。困惑を押しやり、太一はサオリを気づかった。
「どうかした?」
「ごめんなさい……じつはね、いま、麻布の小学校の前なの」
「やっぱり行ったんだ」
「うん、どうしても気になっちゃって。もしかしたら、なにかうまくいくかもしれないし。ただね――」
太一の足がとまった。広い交差点のどまんなかだった。目は空車のタクシーを追う。悪い予感が的中したようで、いますぐそれに飛び乗らねばならないような真っ赤な焦燥感が頭のなかで燃え上がっていた。このままだと耳から火が出て、東京じゅうが炎上しそうだった。それでも太一は怖くて聞けなかった。それを察したのか、サオリのほうで話を続けた。声はかすかに震えていた。
「わたしね、一人じゃないの」
「えっ……?」
「さっき声かけられたの。学校の近くでね……ヘンよね、これって。絶対おかしいわ」
「だ……誰から?」
「それがね……」
電話口を手で覆ったらしく声がくぐもる。
「由里さんと昌美さん――」
クラクションが鳴り始めていた。それでも太一は動けなかった。横断歩道の向こうにそびえる銀行の入口――知りたがり屋の妻を飲みこんだばかりの悪魔の大口――をじっと見つめ、頭のなかでは、麻布に至る最短ルートを編みだすという絶望的な思考がはじまっていた。
ただもう一つ、胸のいちばん深いところに、青い湖の水面のような静かな感慨も浮かんでいた。自分のなかの別人、いわば前世のような存在が小首をかしげている。
もう四十も過ぎたいい大人が、ずいぶんと青臭い説教をされたものだ。まったく生意気な小娘だった。でもそれこそが長いこと、ベッドに縛りつけられ、毎日、死の恐怖にさらされてきた人間ならではの正直な気持ち、未来に夢を抱こうとする生の叫びだったのかもしれない。
だったらおれのいまの夢はなんだろう。
これまで手に掛けた者たちを“タイガー”は数えてみた。
虎は闇にまぎれ、ジャングルを駆けめぐり、精気に満ちた森の空気を胸いっぱいに吸いこみ、雄叫びを上げる。
そこに出口は、あるだろうか?