プロローグ~九

文字数 20,320文字

プロローグ
 眠りから覚めたとき、目に飛びこんできたのは真っ白い天井だった。そこが住み慣れたわが家でないと気づいた途端、わたしはうろたえ、記憶の奔流がわき起こるのを、物語の怪物を怖がる子どものようにびくつきながら待った。
 鉄パイプの枠に囲われた硬いベッドだった。
 天井ばかりでなく壁もカーテンも白かった。わたしは自分の仕事を思いだし、呆然とした。わたしがいなければならないのは、ベッドの外だった。決してこちら側ではない。
 あのときわたしは何者かに襲われた。
 暗がりに潜んでいた何者かに。
 記憶がよぎった途端、痛いくらいに拍動が速まった。閃光とともに訪れた闇。絶対的な恐怖のなかをわたしはさまよっていた。だがいまはこうしてベッドに横たわっている。
 助かったのだろうか? それにしてもあのとき――。
 考えるより先に胸の奥にある筋肉の塊がそれにこたえようとしていた。こんな気分はじめてだ。焦燥感がわき上がり、疼痛が胸に走る。そのときわたしは頭の上に不思議な存在を感じた。何者かがそこをうろついていたのだ。
 これと似た話をかつて聞いたことがある。ただそれとはなにかが違う。
 逆だ。
 どうやらわたしは、それについて真剣に考えてみる必要がありそうだった。


 きのうとおなじ殺人的なラッシュに息が詰まった。やっとのことでドアが閉まり、動きだす。その向こうに新たな人の波がもうできている。戸塚駅はいつまでたっても進歩しない。朝になるとどこからともなくゴキブリのように人が集まり、線路に突き落とされまいと必死になってホームにしがみついて待ち続けたあげく、やって来るのはとっくにすし詰めになった東海道線だ。おなじホームには横須賀線も来るのに、どういうわけかみんなこっちに乗ってくる。東京駅までの三十分間、うまくいったら痴漢に間違われずにすむ。いまごろあっちこっちで不届き者たちが悪事をたくらんでいることだろう。そんなに触りたいならベッドの上ですればいいだろうに。
 昨夜のことを思いだそうと努めた。
 月に一度のお楽しみとはいえ、きのうは激しかった。こっちから勇んで飛びこんでいったのに、結局、最後は奉仕する側にまわってしまった。獣を相手にした余韻がズボンの内側にまだずきずきと残っている。
 目の前にはおなじようなくたびれたスーツを着た男が二人、体を斜めにしながらつり革にしがみついていた。その間には薄っぺらな白いブラウスの若い女がはさまれている。ヴィトンのバッグで大切なところを隠して寝たふりをしているが、どうせ頭のなかじゃ似たような回想にふけっているんだろう。パートナーの手を力いっぱい握りしめたまま、天井に向かって咆哮を上げたに違いない。
 そのときだった。
 本当にぎゅっと手を握りしめられた。
 目の前の女がこっちを見ている。だがもちろん淫らな夢に耐えきれなくなってこの女が求めてきたわけではない。うしろからだった。そして一拍置いてから謎の襲撃者は、今度は三回続けて握ってきた。
 たちまち記憶がよみがえる。
 あれは去年の十一月のこと。だったら半年ぶりだ。
 つぎの横浜駅までは長かった。でももう右手を握られることはなかった。すけすけブラウスの女もふたたび前夜の回想にもどってくれた。
 ドアが開き、やっとの思いでホームに降りるなり、初夏のゆるんだ空気に体が萎えそうになった。このまま山下公園にでも出かけてのんびりできたらどんなに気分が良かろうに。でもきょうも仕事が会社で待ちかまえている。テレビ番組の視聴率調査に関する誰も読むはずのない解説原稿を書き上げた後は、関連会社である落ち目のテレビ局の社長会見に付き合い、夕方からは編集局長主催のどうでもいい会議が二つも入っている。そこへきて今度は半年ぶりの使者だ。こっちもないがしろにするわけにはいかない。
 ホームを埋め尽くしていた電車待ちの客たちが車両になだれこむと、多少は周囲がすっきりした。だがうかうかしていると、つぎの客がシロアリのようにたちまち群がってくる。あわてて見回すと、まうしろにおなじ年恰好でおなじような安物のスーツを着た男が立っていた。恐縮したような顔で何度か頭を下げるものだから小さく見えたが、本当は背丈もおなじくらいなのだろう。男はゆっくりと近づいてくると、まるでかつての同級生を見つけたかのようにうれしそうに微笑み、赤い帳面を差し出してきた。
 いきなりこれだ。
 それでもこうした状況の下ではきわめて常識的なあいさつを返してやった。
 「おはよう。ひさしぶりだね」
 それ以上の社交辞令は不要と思い、まずは男から手渡されたパスポートを開いた。
 「鈴木太一。なんか平凡な名前だね。似たような名前の人はうちの会社にもいる」
 「カッコいい名前が手に入るまで待てって言うのか?」
 「いや、べつに」
 「じゃあ、きょうからそれがあんたの名前だ」
 「うん。それにしてもこの写真、ちょっと古いね。じつはこの半年で三キロ太った」
 「やせればいいだろ。もう間に合わないだろうけどな。チケットと日程表はそろってる」
 そう言うと男は上着のポケットから無地の封筒を取り出し、鈴木太一となった人物に手渡した。この手の密会につきものだが、隣のホームあたりから誰かに見られている気がしてならなかった。
 「まさかこないだみたいに、きょうあすにもとか言うんじゃないだろうね」
 「きょうじゃない。でもあすだ」
 「ほっとした。平日はそんなに休めないんだって。それにきょうは忙しい。すこしはあの人たちも考えてくれたんだ」
 「そうじゃない。たまたまさ。あんたのことなんていちいち考えない」
 「偶然でもうれしいよ。それにきょうは忙しいんだ」
 「そうかい。あんたのことはよく知らないが、忙しいのはあんただけじゃない。おれだってそうだ」
 「そうなんだ」
 「支払いはこないだとおなじだ」
 「おなじ社畜なんだ、きみも」
 「どうでもいいだろ、そんなこと」
 「まあね。それじゃ」
 そこで話を打ち切ろうとしたら、男はそれまでになく不機嫌な顔になった。
 「おいおい、なにか言うことがあるんだろう。そういう決まりのはずだぜ」
 そう問われ一瞬、太一は首をかしげたが、すぐに思いだした。
 「あぁ、ごめん、ごめん。うっかりしてた」
 「で?」
 「ありがとう」
 すると男は満足したように去って行った。その後ろ姿が乗客の波に飲まれるのを見つめ、太一は思った。いつかこの男とカフェに入るぐらいできるだろうか。接触はいつも短時間。五分もかからないから、どこで何をしている男かまるでわからない。家族持ちかどうかも判然としない。それでももう何年も、蜘蛛が吐くようなきわめて細い糸でつながっている。それでいて決して切れない。せめて目に見えるくらいの糸にしたいのだが、そうもいかないのは太一も承知している。
 ゲームを続ける上で、それが最低限のルールなのだ。


 ジャカルタのトランジットで思った以上に時間を食い、ングラライ国際空港に到着したのは夜九時を過ぎていた。税関を出るなり細野克彦は、喉を絞めつけるような熱気に早くもへこたれる旅行者と黄色人種と見れば日本人だと信じている客引きたちでごった返す歩道をかき分け、目の前に滑りこんで来た青いタクシーに乗りこんだ。骸骨のようにやせた運転手がうれしそうに英語でなにか話しかけてきたが、細野はそれをいっさい無視して、ただひと言「距離を保って前のワゴンの後についていけ」と伝えた。
 運転手はそれでも上機嫌で車を発進させた。遠くのホテルまで走らせてもらえると思っているのだろう。細野はバリ島ははじめてでないが、今回はどこが目的地か見当がつかない。近ければジンバランあたりだろうが、たとえこの時間でも西部のロビナあたりまでタクシーをぶっ飛ばす旅行者はざらだ。デンパサールの市街地はそれほど広くない。幹線道路とはいえ街灯はあっという間に消えうせた。その先、道がどうなってるか、前を走るワゴンの弱々しいテールランプだけが頼りだった。細野は必死になって目を凝らしながら愚痴りたくなった。役人たちのやることなら労せずして状況を把握できたが、民間人のすることとなるといつもこうだ。予想がつかないぶん、足で稼がないと追いつけない。割の合わない仕事だ。
 だが今回は大きなことは言えない。四か月前、細野自身がもっと慎重に対処していれば、こんな苦労を背負いこむこともなかった。
 いまも細野はあのときのたしかな手ごたえを覚えている。
 消音器を装着した制式拳銃SIGは、仲間内の新年会から帰宅したばかりの例の医者の眉間を広すぎるリビングの端から一発で撃ち抜き、それを賞賛するかのように血しぶきが脳漿とともに背後の壁に盛大に飛び散った。それ自体は決して気持ちのいいものでなかったが、正確無比な射撃は任務完了を意味するに十分だった。
 いやしくも警察職員である公安刑事としては、それは世間さまに顔向けできる任務ではない。闇に葬られるべき汚い仕事だ。だからこそ細野は後始末も抜かりなかった。黒で統一されたアジアンテイストの家具が並ぶリビングを徹底的に荒らして、賊のしわざに見せかけたのだ。それでも抜かりがあった。あの書類を見つけ出せぬまま、現場を後にしたのである。
 翌日、医者が脳死状態となっていると連絡があり、その後、死亡が確認された。その時点まで細野は、後ろ髪を引かれる思いがなかったわけではない。だから医者の死を知り、安心した。いまにして思えば、それこそがあるまじき姿勢だった。
 こんどこそ最後にしてやる。
 全開にした窓から入ってくる埃まみれの熱風に目を細め、細野は誓った。いつまでもこんなことしていられるわけがない。細野のやってることは犯罪以外の何物でもなかった。課長はもちろん、管理官も補佐もいまじゃエリートづらをして糊のきいた白シャツが汚れることなんかありゃしない。でもやつらがやってきたことは、いまの自分と五十歩百歩か、むしろもっとひどかった。ところがそれは犯罪と見なされない。
 いまこうしてる間にも、どこかで何かが奪われている。
 カネか誰かの命か。それとも――。
 それなのに何をしても法の網にかからず、いつの間にか表舞台の階段を上りだしている連中がいる。
 細野は犯罪と呼ばれる行為について考えた。それに手を染めたところで、反社会的であると烙印を押す者がいなければ、気に病むことはない。くよくよするのは愚だ。徹底的に利用すればいい。いま汗をかいておけば、きっと来年には汚れ仕事から足を洗える。晴れて連中の仲間入りというわけだ。退職までのおよそ二十年、のんびりと羽を伸ばしながら暮らすことができる。酔いつぶれたときなど、かつての悪行を思いだす日もあるかもしれないが、バーテンにコップ一杯の水を頼み、頭の奥に押しもどせばいい。
 道の左右にナツメヤシがうっそうと繁るようになってきた。細野は上手に荷物を詰めたボストンバッグとともに任務をたぐり寄せた。


 久仁子は出原のたばこに手を伸ばした。けだるそうな声で出原がうめく。
 「また吸うのかよ」
 説教じみたもの言いがカンに障る。出原はなにかというといちいち指図するような態度を取る。管理職が体の奥までしみついているのだ。
 「いいじゃない。家じゃ吸えないんだから」
 「吸うのはいいさ。子どもも産んだんだし、勝手に寿命を縮めてくれりゃあいい。だけどだんなに隠れて吸うっていうのがな」
 と言いながら出原も半身を起こしてたばこを取る。久仁子は自分のに火をつけ、ついでに出原のにもつけてやる。二人しておなじ枕に並んで煙を吹き上げる。
 「余計なお世話ね」
 「なんかあいつがかわいそうだ」
 「たばこがなによ」
 吸いかけをサイドテーブルの灰皿に差し、久仁子は年の割りに筋肉の張った出原の胸にしがみつく。
 「うん、まあそうとも言えるがな」
 久仁子を優しく抱きながら出原はうまそうにたばこを吸う。夫にとってはいやな上司だろうが、彼女には最高の相手だった。見た目以上に激しく、長く、上手で、なにより思いやりがある。体を通してそれがじんじん伝わってくる。それがいつも久仁子を天国へといざなってくれる。
 もう二年になる。
 もしかしたらこれから先、一生こうかもしれない。出原にも妻子がある。怖いような気もした。夫は平凡な男で、取り立てて悪いところがあるわけでない。新聞社だから給料も安定しているし、悪い遊びにふけっているわけでもない。星彦の面倒もきちんと見てるし、妻の愚痴にも耳をかたむける。
 「なんの取材なの? うちの人」
 「熊本の脚本家に会いに行った。七月から月に一本、寄稿してもらうんだよ。その打ち合わせだ。文化部はそういう仕事もする」
 「熊本なら日帰りできるでしょうに。土日もつぶすような仕事なの?」
 「うそだろ? 出張申請書は一泊二日ってなってたぞ。そんなに向こうにいるのか?」
 「知らないわよ」
 「同伴出張かな」
 久仁子は豊かな胸を揺らせて身をひるがえし、火のついたたばこをつまみ上げた。深々とそれを吸いこみながら考える。
 「放浪よ。たまにあるの……そう、熊本でしょ。わかった。自衛隊の駐屯地あるじゃない。昔の友だちがいるのよ」
 「そうだったか。でも週末、女房とずっと一緒にいなきゃいけないなんて決まりないだろう。おれだってどこかに消えてしまいたいときはある」
 「なにそれ。日曜は塾の説明会があるの。わたし一人に押しつけないでほしいわ。ほんとに勝手なんだから」
 「そう言うなって。仕事じゃいろいろ面倒なことも頼んでる。今回のだってそうさ。先週、急に上から降ってきた仕事だ。その脚本家、編集局長のお気に入りなんだよ。こないだ、うちの演劇大賞で脚本賞を取ったばっかりだ。売り出し中といえば売り出し中なんだが」
 「まさかあの女?」
 「そう。けっこういい女だろ。あれで四十二だぜ」
 「ハァ、ばかばかしい。だったら編集局長が自分で打ち合わせすればいいじゃない」
 「そうはいかないって。部長が引き受けてきちまったんだから」
 「デスクの出原さんが断ってくれれば良かったのに。毅然としてちょうだいよ、ジャーナリストなんでしょう」
 「そんなこと、おれにできると思うか? 文化部がなに言ったって上は聞いちゃくれないさ。局長も局総務もみんな政治部か経済部出身だ。おれたちとは出自が違う。いくらピントがズレてたって、そういう偉い人たちの言うことにはしたがわなきゃ。それが仕事ってもんさ。だいいち、おれはもうジャーナリストなんかじゃない。見ろよ」
 出原はあごを上げ、生白い首筋を指さした。
 「なによ」
 「見えないか? ナンバー付きの輪っかはめられてるだろう。牛は尻に烙印、羊は耳に証票。そんなのにくらべれば首輪のほうがずっといい。新聞社には自由があふれてるなんていうのは、大いなる勘違いさ」
 「なに言ってるの?」
 「社畜さ。会社に飼われて、事柄の是非はともかく上の言ったことをわき目も振らずに実行する。その社畜の言うことをあいつは文句一つたれずに聞いてくれるんだ。頼めるのはあいつだけだ」
 「もっと若い人がいるでしょうに」
 「若い連中なんて、反抗ばっかりしてぜんぜんだ。社会に目を向け、会社に背を向け。いっぱしのジャーナリスト気取りで、本気でそんなふうに思ってる。違うんだって。この年になったら逆だ。社会に背を向け、会社に目を向け、だ」
 「ばかみたい。いいようにこき使われて」
 「そんなこと言うなって。おれのほうがつらくなるじゃないか。でもな、ああ見えて、あいつはあいつでバランス取ってるのさ。だから大目に見てやってくれよ。出張先で多少、羽のばしてきてもな」
 出原はたばこをもみ消し、その灰皿を久仁子にも差し出した。
 「のばす羽なんかあるのかしら」
 火を消すと久仁子はベッドに潜りこんだ。出原はスイッチに手を伸ばし、明かりを薄暗くした。


 埃っぽい熱気のなかに、かすかな花の香りが漂っている。
 太一はバリは三度目だった。
 最初は結婚して何年かたってから妻と。二度目は仕事で。どっちだったか忘れたが、誰かがこう言ったのをおぼえている。
 バリには真闇が潜んでいる――。
 海の向こうに陽が落ちた途端、奥深いジャングルはあらゆる光を奪い、そこにあらわれるヒンドゥーの神々の手により人の目も覆われる。残るのは闇。その漆黒の世界の端っこに人間が猿と一緒にしがみついている。飛ばし屋の運転手が駆るトヨタのワゴンに乗っていると、たしかにスライドドアの向こう側から、抗いがたい真闇が忍び寄ってくるのが感じられた。
 闇は両刃の剃刀だ。
 太一のような仕事に手を貸してくれるときもあれば、あとで手を切ることもある。簡単な話、敵もまた身を隠しやすいのだ。
 リアスピーカーからはガムランの心地よい演奏が流れていた。太一はそっと車内に目を走らせた。乗客は太一のほか、六人が乗っていた。新婚旅行らしきカップルがひと組、一人旅と思われる若い女が一人。あとは太一と同年代の男たち。希望したわけでないが、太一は若い女の隣だった。
 インドネシア人の顔だちは良くわからないが、運転手は年のころは三十歳。腋臭が強い。太一はそのまうしろだった。この手の仕事にも経費節減なんてものがあるのだろうか。狭苦しいエコノミーシートに縛りつけられていたとき以上に、三流旅行会社が主催するツアーに潜りこまされたことへの不満が高まった。
 ワゴンは真っ暗な街道を死に急ぐ牛のように猛然と走っていた。
 カップルは闇に溶けこみ、行儀よくしているが、時折聞こえる密やかな笑い声にわくわく感が伝わってくる。太一は隣の女をちらりと見た。つまらなさそうに外を見ている。長い髪がわずかに触れる頬が引き締まっている。ことによると内心、助けを求めているのかもしれない。このままジャングルに引きずりこまれるとの予感は太一にもあった。ホテルまでどのくらいかかるのだろう。太一は余計な妄想を振り払い、今回の依頼について頭をめぐらせた。
 いつもそうだが、案件はぎりぎりまで伝えられない。こっちからすればすこしでも情報があったほうが腹も座るというものだが、保秘の点からは向こうのやり方も理解できる。たぶん前回と似たような話だろう。レールはやつらが敷いておいてくれるんだし、こっちは〈ドリル〉として仕上げに手を貸すだけだ。二泊四日のスケジュールを組めば、金曜に一日出張をつけるだけで、あとは月曜の昼には会社にもどって来られる。太一にも自信があった。それになにもかもはじめからわかっていたら、かえって興味が失せるというものだ。所詮、物好きで請け負ってるだけの話なのだから。
 事情はともかく、人はあちこちでさまざまな形の愛を交わす。それがかけらでも味わえるなら、決まりきった人生はより潤いのあるものになるだろう。太一はそれを実践している。妻では満たしえぬ部分に手の届く恋人がいた。
 だが女相手では満たされぬ渇望もある。
 鈴木太一は仮の名前だ。本名を刷りこんだサラリーマンの名刺にすがって生きるうちに、その渇望は日に日に高まり、いまでは亡霊のように太一につきまとっている。
 地方支局に勤務していた若いころは、新聞社なんてもっと自由で、好き勝手のできる職場と思っていた。それがいまではどうだ。来る日も来る日も、上の顔色をうかがってばかりだ。それが定年を迎える日まで続くと思うと、ぴかぴかに磨き上げられた会社のトイレで吐き気がこみ上げてきた。
 それに折り合いをつけるには、もっと自分と対峙できる時間を持たねばならない。サラリーマンはとくにそうだ。会社の連中には、趣味の世界に逃げ道を作る者もいる。だが夢を描いているようでいて、そのじつただの現実逃避でしかない。実態は給料をえさに会社に飼われ、いいように使われてるだけだ。そんなことで人生の貴重な時間を空費するなら、それを忘れる瞬間があったっていい。いや、なければならない。断じて。
 だから太一はいま、闇に包まれる熱帯雨林の島に来ているのだ。
 視線を感じた。
 隣の女がこっちを見ていた。太一はぎこちなく会釈した。無愛想に見えないか心配になった。
 「お一人ですか?」
 通る声でずばりと聞いてきた。薄暗かったが色白に見えた。わずかに憂いをたたえたような瞳には、長旅の疲労感と見知らぬ土地への不安、そして偶然隣に座った中年男への好奇心が漂っている。
 「ええ、まあ」
 ぶっきらぼうな男だ。
 太一は自分に幻滅した。ただこの女もミッションにかかわっているのかもしれない。日程表に書かれた話がすべてだなんて思わないほうがいい。
 「そうなんですよ。なんとなく一人旅」
 「なんとなく一人旅……ですか?」
 手を口にやり、くっくと女は笑いだした。それがなんとも自然で愛らしく、仕事を一瞬忘れさせるくらい意味ありげに見えた。明るいところで見たら結構ときめく美人かもしれない。
 「まあ、男一人で来る場所じゃないよね」
 この線の出し方は、われながら気に入った。誰にでもすぐにお腹を見せる。床屋の親父さんにありがちな、話好きの男がよく使う手口だ。
 「出張とかじゃなくて?」
 「一応バカンスかな。仕事休んでるから」
 「バリははじめて?」
 「うん、そう。右も左もわからない」
 「おんなじだ、わたしと」
 「一人?」
 女は小さくうなずいた。
 「べつに女だって、一人旅はさまになりませんよ。来るまでは憧れがあったけど、いざ来てみたらいろいろ不便で。こういう移動のときもずっと黙ってないといけないでしょ」
 「あぁ、わかる、わかる。ぼくもそうだから。腹のなかじゃ、猛然としゃべりまくってるっていうのに」
 「ホテルはどちら?」
 「パンフレット見て適当に選んだんですよ。『ザ・レギャン』。プールがきれいだったから。スミニャックとかいう地区でしたっけ?」
 「あぁ、わたしもそこですよ。きっとおなじ写真にひかれたんだわ」
 そのとき腋臭の運転手が振り向いた。
 「この車、全員、おなじホテル行きますね」
 流暢な日本語だった。話を全部聞かれていたと思うと、ちょっと恥ずかしかった。
 「一人の人、たくさん来てますよ。『ザ・レギャン』のレストラン、ラムチョップ最高ですよ。一番おいしい料理です。朝は卵料理が有名です。エッグ・ベネディクトなんかうまいですよ。たくさん食べてツアー出かけてください」
 「ツアー?」
 太一の質問に女がこたえる。
 「オプショナルツアーのことでしょう。なにか予定はありますか?」
 「いや、とくに。まだなにも決めてない。風の向くまま気の向くままさ」
 さらりと太一はかわした。でもこの女の部屋は訪ねてみたい。オプショナルというなら、それもありかもしれない。そのときは闇を味方につけないと。朝晩、電車に揺られるだけが能のサラリーマンには無縁のアバンチュールの匂いがした。


 ホテルの正面に横づけしたワゴンから全員が降りてきたので細野は安心した。駐車場に待機させたタクシーまで走ってもどり、メーター料金を手早く支払った。部屋は一つぐらい空いてるだろう。それよりわがモグラの部屋をたしかめないと。
 細野は分解したSIGが収まるボストンバッグを盛大に揺らし、暗がりを滑るように突っ切った。
 川北智生から銀座の高級クラブに呼び出されたのは、一か月前のことだった。鍵のついたドアでしっかりと仕切られた奥の個室に入っていくと、無類の女好きのはずの川北がホステスもつけずに一人で飲んでいた。見た目はさえない老人であるこの男が、現政権の単独与党である民主国民党で幹事長を務める福杉淳弘の陰の腹心であることは、公安の特捜刑事なら誰でも知っている。決して表に出ぬ名だが、福杉の地元・山形で、淳弘の父親で厚生大臣も務めた福杉吉之助の裏選対を取り仕切っていたのが川北だった。
 八十歳を優に越えていたが、日々、女のエキスをすすっているせいか川北は目も耳もしっかりしている。その鷲のような眼光でテーブルについた細野を見据え、しばらくは最近の政治情勢など訊ねてきた。どうせいい話じゃないと薄々わかっていたからじれったかった。それが狡猾な老人に伝わり、話がさらに先に進まなくなった。前に会ったときもこんな感じだった。相手を崖っぷちまで追い詰め、焦らせ、あごが出たところで、はじめて本題がはじまる。
 「西崎のこと、まだほじくり返してるモグラがいる」
 箸の先で丹波牛のステーキをつつきながら、川北はぼそりと言った。その言葉がなにを意味するか細野はすぐに理解した。
 五か月前のことだ。
 決して表ざたにできない仕事で、本来なら白シャツ仲間に加わるための優先チケットになるはずだった。前の首相秘書官、西崎靖治に関する話だ。細野はその任務に失敗した。
 川北は過去は責めなかった。
 「教えていただけませんか」
 努めて誠実そうに細野は訊ねた。それに川北は努めて真摯に答えてくれた。それが細野にはかえって怖くもあった。もう失敗は許されない。仕事でつまづいた責任を命であがなわねばならぬ公務員などどこにいよう。だがそれが白シャツ党に入れぬ者の現実だった。
 「党本部の資料室から西崎の一件に関する報告書がなくなった。報告書といってもただの新聞の切り抜きだよ。放っておいてもいいんだが、福杉が心配しているらしい。秘書が連絡してきてね。痛くない腹ならいいが、あの件はまずい」
 「内部ですね」
 川北は刺すような一瞥を放った。細野は寒気をおぼえた。なまじの政治家より、この老人のほうが威圧感があった。
 「誰かの悪意を感じる。調べてるみたいだ。ジーン・ポートにもそれらしい問い合わせがあったようだ。マスコミとは思えん」
 「ジーン・ポートにもですか」
 「ああ。だからおまえにはちょっと汗かいてもらわないといけない」
 老人は公安の特捜刑事をねめつけた。
 その夜、細野は眠れなかった。不完全な仕事を後悔したわけではない。ただの田舎の政治ゴロに蔑むような目を向けられた上、それにしたがわねばならないわが身がとてつもなく無力な存在に思えたのである。そんな姿は妻にも二人の娘にも見せられない。家では、家族思いの実直な警察官だと思われている。警備課に所属していることまでは話しているが、そこから先の仕事について妻は知らないし、聞いてもこない。それを思うにつけ、体の芯から震えがこみ上げてきた。
 西崎靖治は去年の十一月まで首相秘書官を務めていた。元々、警察庁のエリート官僚で、地方警察の本部長も経験している。ジーン・ポートは、親子鑑定などを通じて一般化しつつあるDNA鑑定を請け負う民間の検査機関で、西崎はどういうわけか去年の十月、そこに検査を依頼していた。周囲も知らなかったことからすると、個人的な調査であったと思われる。それをもとに西崎がなにをもくろんでいたのか、いまはもうわかりようがない。西崎は秘書官の職務を続けられなくなったからだ。
 去年の十一月二十二日、西崎靖治は麹町の官舎で心筋梗塞の発作を起こし、死亡したのである。
 そこまでなら細野がかかわる必要もなかった。ところが思わぬところで横やりが入った。それはあまりに執拗で粘っこかったため、課長も管理官も飛ばして細野のところに直接声がかかった。細野は任務遂行の段になっても、上司には知らせなかった。だからいまも上は知らないかもしれない。それが細野のやり方だったし、組織の方針でもあった。責任問題が生じた際、余波を最小限に抑える上で好都合なのだ。トカゲの尻尾きりというやつだ。
 だからこそ切られてなるものか。
 任務は明快だった。西崎の下へ送られたあの鑑定書を入手する。それも正式鑑定であることをしめすジーン・ポートの証明印をついた原本だ。今回はそれを手にする者の命より、それ自体の確保が問題だった。
 細野が『ザ・レギャン』のフロントに到着したとき、ワゴンの一行はまだロビーにいた。ラタンのソファに仲良く並び、ホテルサービスのジャムーをすすっているところだった。フルーツにジンジャーほかさまざまなスパイスと秘薬を混ぜた南国の薬用ドリンクだ。それを横目で見ながら、細野は空室をたしかめ、ツインの部屋を確保した。チェックインをすませると、細野は用事があるふりをして客室までのエスコートを断り、遠巻きにモグラのようすを注視した。一気にジャムーを飲みほし、エキゾチックな歓待にご満悦といったところだった。


 日付が金曜から土曜に変わるころ、久仁子は出原の腕にしがみついてホテルを出た。腰から下はくたくただったが、小腹がすいていた。出原に訊ねると近くに遅くまでやってる蕎麦屋があるという。やるだけやって出すだけ出したら早く帰るというのが男の悪い癖だが、出原はまるでこれから本番であるかのように、うれしそうに久仁子の手を引っ張った。
 この時間でも店は混んでいた。奥の席に陣取り、二人で冷酒と板そばを頼んだ。
 「子どもが大学入ったら、わたし、どうなるかわからないわ」
 「わからないって?」
 「なにか夢のあることがしたい」
 「いまのままじゃだめか? おれのほうはおいそれと離婚なんかできやしない」
 そう言うと出原は冷酒をぐびぐびとあおって飲み干した。その堂々とした姿が久仁子をなぜか安心させる。
 「そうじゃないの。出原さんのこととはべつの話。人生そのものの送り方よ。いまの状況にはすくなくとも夢はない。わたし、こんな平凡な暮らしをするためにあの人と結婚したんじゃないもの」
 「なにが夢だよ。その年になって、そんな子どもじみたこと言うなよ。白けちまう。だいたい、あいつの選択しだいじゃ、いまごろあんたは自衛官の妻のままだ。たしか陸自だったよな。給料はいまの半額以下で転勤も多い。そんなのにくらべたら、たとえだんなが社畜と呼ばれようと、いまの暮らしのほうがずっと豊かでましだと思うがな」
 「自衛官なんかとくらべないでよ」
 「でもいまの世のなか、日々の生活に汲々としてる人間がほとんどだ。おれたちなんて、恵まれすぎてる部類なんだぜ。ぜいたくは言うもんじゃない」
 「そりゃ下を見たらきりがないわよ。だけどそれこそ、絵空事の世界だわ。わたしにはいまの暮らししかないんだし、それが基準なんだもの。それにわたし、お金だけのこと言ってるんじゃないの。人間かくあるべし。そういう話をしてるのよ。その意味で高望みしてなにがいけないの?」
 「うん、まあそうとも言えるがな」
 「考えてみてよ。あの人、自衛隊辞めていまの会社に入ったのだって、お父さんのコネがあったからでしょ。そもそも自衛隊だって、大学出て仕事がなかったからじゃない」
 「そうなのかな」
 「そうよ。だからそういうこといろいろ考えると、流されるまま流されちゃって、あの人ってほんと主体性がない。根性とか覇気とかもないし。なんて言うか、なにくそって気持ちがないのよ。どんなことに対しても。会社でも地味で目立たないでしょう。まさに社畜にぴったりよ。いいようにこき使われて最後はポイ。わたし、そんな人とこの先一緒に暮らす自信ないもの」
 肩をすぼめ、辟易した顔で出原は言った。
 「なんだか自分のことを言われてるみたいだな。だけどなぁ、主体性があって根性も覇気も持ち合わせてて、派手で目立つ男なんて、一緒にいるとかえって疲れると思うがな。それにでっかい夢のあるやつもそうだ。言ってみりゃ、そういうやつらの夢は妄想に近い。わかるだろ、ここ」
 そう言って出原は、箸を持ちながら人差し指でこめかみをつついた。
 「うちの会社にもいろんなことで悩み過ぎて、心の病になったやつがごろごろいる。そいつら、みんなそうだよ。自分のなかに高い理想を持ち過ぎてるんだ。いまのおれは本当のおれじゃないってな。それで最後はそいつに食われちまう。やっぱり人間、分をわきまえないと。とくにこの年になったらな。注意一秒けが一生だ」
 「病気の人の話を出されてもね。でも出原さんみたいな感じがいいな」
 久仁子は冷酒をすすった。すっきりとした水のような喉ごしだ。ここでこうしてずっと二人でグラスの中身をすすっていたい気がした。
 「いろんなことがわかってるみたいだもの。それでいて堂々としてる。そういうところがうちの人にもあればなぁ」
 出原はにやりとし、そばに箸をつけはじめた。久仁子もそれに続く。もう元になんかもどれない。猛スピードで坂を転げ落ち、世界は真っ赤に歪み、ぐわんぐわんと回りだしている。後は時間の問題かもしれない。心に悪魔を飼う女がここにいた。


 わたしは映画館の観客だった。
 視覚というスクリーンに映し出されるものを内側からじっと眺めるしかなかった。ただ意識は明晰だった。記憶にはいまもあの恐怖の瞬間が痛いほどにこびりついていたし、いま目の前で起きていることもしっかりと把握できた。
 問題は、それが意味するものを受け容れられるかだった。
 それには可能なかぎり、記憶を遡り、ここに至った事態を整理する必要があった。それも支配者のごとく頭上に居座る存在と折り合いをつけながらだ。さもないとわたしは目玉をえぐられ、同時になにより大切な意識までも奪われて、無という存在に成り果てるかもしれないからだ。そうなったら支配者も多いに痛手を受けるだろうが、無を超えるものはない。人の死でさえ、それを超えられない。
 ならば死とはいったい、なんだろう?


 名前がサイワンだから当然、現地の人間かと思ったが、むせ返るほど濃密な夜気を背中に従えて部屋にあらわれたのは、アースカラーの地味な開襟シャツをまとった東洋系の顔だちの男だった。
 「きみはもしかして?」
 「サイワン」
 「日本語は?」
 「ばか言うな。日本人だって」
 太一がドアのチェーンロックを外すなり、サイワンは室内に滑りこんできた。あやうく恐ろしく大きな蛾も一緒に招き入れそうになり、太一は音を立ててドアを閉めた。毒蛾だ。あんなのに触ったら、体中赤く腫れ上がって、会社に帰ったとき、なにかひどいいたずらでもしたんだろうと詮索されるにきまってる。
 サイワンは太一よりも若干背が高く、痩せていて、いかにも商社の駐在員って風体だった。ただ細い目の奥から放たれる眼光には、相手を射すくめる力があった。それはまっとうな仕事をして、日なたの人生を送ってきた者の目つきとは、明らかに違う、大型の爬虫類に近いものだった。いまの自分の目はどうだろう。おなじ匂いを嗅ぎ取り、太一はふと気になった。
 「で、どうするの?」
 「まずはこれだ」
 サイワンはズボンのポケットに右手を突っこんだ。
 その瞬間、太一は動いた。
 肩をつかんでドアのほうを向かせるなり、左手で空いている男の左手をねじ上げた。同時に右手は男の腰部にあてがい、たったいま入ってきたばかりのドアにどすんと押しつける。衝撃で外の壁にへばりついていたモスラが鱗粉を撒き散らしながら飛び立つさまが頭に浮かんだ。これで男が手を突っこんだままの右ポケットは完全にブロックされた。なかにあるはずのものの引き金を絞って攻撃しようものなら、自分の太ももか浅黒い肌の少女たちを泣かせてきた自慢のものを撃ち抜く覚悟が必要だった。
 「さすがだな。これくらいは警戒されるって言われたぜ……痛ぇっ、おい、やめろ!」
 「人前でポケットに手を突っこむやつにろくなやつはいない。だから子どもにもポケットから手を出せって学校で教えるだろう。習わなかったのか? 初等教育の基本中の基本だと思うけどな。さぁ、ゆっくりと右手を出して。指はぜんぶ伸ばしたままだ。ぴんとだよ。手相占いしてもらうつもりでちゃんと見えるようにしてくれるかな」
 「こんなところで占い師に会うとはな」
 「まあ、いちいちたしかめないでもきみの手相は察しがつく。たぶん生命線が極端に短くなってるだろうね。いまにも消え入りそうだ」
 サイワンは言われたとおり、じつに緩慢に右手を開いたままポケットから出しはじめた。黒っぽいものとか銀色のものが見えたら、即座にわき腹にパンチを食らわせるつもりだった。だがサイワンは不義理はいっさいしなかった。空になったポケットに即座に太一の右手が滑りこむ。
 「おい、おまえ、ゲイか? 大事なとこだけは勘弁してくれ」
 「それはきみしだいさ」
 太一の指先は布きれに触れ、その下に期待通りの硬いものを感じた。そいつをピンセットと化した指先でつかんで取り出す。ハンカチにくるまれたものが顔を出すなり、太一は野良猫さながらのすばしこさでサイワンから離れ、大理石の床を裸足が駆け抜ける音が、客の情事を見させられ過ぎて少々疲れぎみのファンが回る高い天井に響いた。
 「心配するなって」
 サイワンは厭味のように言った。
 「用心深いに越したことはないがな」
 太一はハンカチでくるんだまま手にしたものを引っくりかえした。黒光りする小ぶりのボディが顔を出すなり、太一の頬がはじめて緩んだ。
 ベレッタのジェットファイアだった。
 「どうしてぼくの趣味がわかったの?」
 太一はサイワンにハンカチを投げ返した。
 「さあね。おれは言われたとおりのことをしてるだけだ。理由なんか聞きゃしない。教えてもくれんだろうし。それにしてもあんた、見かけより力あるんだな。ほんとに肩が外れるかと思った」
 サイワンはねじ上げられた左腕を大げさなくらいぐるぐると回した。
 「最近は関節技ばっかりだね。前は首に腕回して頚動脈押さえたけど、失敗も多いから。人間なんてかくも弱い生き物さ」
 「やめてくれ。ぞっとする」
 太一は小型拳銃の弾倉をすばやく取り出し、実弾をたしかめた。きちんと八発収まっていたが〈ドリル〉には最初の一発で十分だ。弾倉をもどし、念のためサイワンに銃口を向ける。認めたくないが、この瞬間がたまらない。生殺与奪が右の人差し指一本にかかっている。人間はまさにかくも弱き存在だ。相手が会社の幹部たちなら、もっと楽しかろうに。一人の人間として対峙したとき、最後は本物の銃を持ってるほうが生き残るってわけだ。
 「それじゃあ、そろそろ教えてくれるかな」
 「人から話を聞くとき、いつもそんな態度を取るのか? あんたの小学校では教わらなかったか? ポケットの話以外に」
 諭すように言われ、太一は取りあえず銃口を下に向けた。人の話を聞くときは相手の目を見なさい。学校ではそう教わった。でも銃を向けてはいけません、そんなふうに教わったかどうか思いだせなかった。
 「行儀よくしろと言われても、これがせいぜいかな。言っとくが、きみの学校とおなじで、うちの学校も道徳教育のレベルは低かったんでね。人を見れば泥棒と思うような連中が教師をやっていた」
 「わかったよ。おたがいなかなかナイスな学校を卒業したもんだ」
 そう言うと、サイワンは太一の近くにある籐の長いすまでやって来て、幾何学模様のクッションに腰を下ろした。日本のたばこに火をつけ、苦しげに吸いこむと、思いだしたようにもう一度、肩を回す。痛みに顔をしかめるさまから察するに、肩の靭帯を損傷しているかもしれなかった。もちろん悪性の四十肩ってこともあるが。
 「ターゲットは胸に十センチ大の傷痕がある。ベレッタの弾はそいつにくれてやってくれ。それから病気持ちだ。薬を毎食後服用するらしい」
 「なんの病気?」
 「よくわからん。バウアールって薬だ。明日の九時に正面からツアーバスが出る。来たときとおなじ旅行会社主催のウブド一日ツアーだ。そのなかの客の一人だ」
 ウブドはここから内陸に一時間ちょっと行った観光地だ。太一はまだ行ったことがなかった。
 「土産物屋でたっぷり買い物して、夜は地元グループのケチャダンスを見て帰って来る。その途中であるものの受け渡しが行われるはずだ」
 「ケチャダンス?」
 「バリの伝統舞踊さ。見りゃわかる」
 ガムランの演奏に合わせて踊る舞のことだろう。太一は舞踊そのものより、青銅楽器と竹笛が奏でる澄み切った音色にひかれた。東京の地下街にいたら絶対に味わえない響き、熱帯雨林に身をゆだねているからこそ感得できる異界との交信手段のようだった。
 「受け渡しってなんなの?」
 「待てって。あんた、晩メシまだだろう。下で食おうぜ。そうだな――」
 サイワンはすっと立ち上がり、腕時計をたしかめた。その動きに合わせ、太一はベレッタの銃口の向きを変える。サイワンは苦笑して言った。
 「あんたが狙う相手はおれじゃないんだぜ。おれはあんたにとって一〇〇%無害な伝令係にすぎん。十時四十五分でいいだろ。先に行って待ってるよ。メシ食いながら話そう」
 「もしかしてこっちのツケで食べようと思ってる?」
 「いけないか?」
 「いいけど」
 「酒も飲ませてもらうゼ」
 「ご自由に」
 「おれのぶんの部屋も取ってある。ここまで来て飛んで帰るなんてばかばかしいからな。スイートにしといた。あとで知り合いが遊びに来るんだ。その前に腹ごしらえさ」
 「女か?」
 「部屋で一緒に酒飲むだけさ」
 「いいな、そっちは仕事が終わって」
 さっき来たときに一緒だった女のことが脳裏をよぎった。部屋はこの近くだったろうか。仕事はどうせあすの朝からだ。運だめしにドアをノックしてみたっていい。
 「悪いが、おれはいま、いろんな期待に胸を膨らませてるところさ。海外旅行の初日なんて、みんなそんなものだろう。さて、なに食おうかな」
 「ラムチョップがいいらしいよ。精もつくだろう。たぶんオーストラリア産だ」
 「じゃあ、それにしよう。あとはパスタかな。ポルチーニ入れたクリームソースでも作ってもらうか」
 「ラム肉とクリームパスタ? こんな夜遅くに?」
 「いけないか?」
 「いいけど、かなりヘビーだと思うよ。ぼくは最近、食が細くてね。脂っこいものはちょっと」
 「じゃあ、そのぶんおれが食ってやるよ。ガソリンはいつだって満タンにしとかないとな。それが紳士のマナーってもんだろう」
 それからきっかり二十分後、太一はそのままの恰好でレストランに下りた。サイワンが持ってきたときとおなじく右のポケットにベレッタ・ジェットファイアをしのばせてあった。かえすがえすもなかなかの配慮だ。これで安心して〈ドリル〉に打ちこめる。いまどきシングルアクションの銃なんてレトロに過ぎるかもしれないが、引き金を引いただけで弾の装填と発射がいっぺんに行われるダブルアクションの銃を持参せねばならない、やるかやられるかの一触即発の場面はそもそも太一のほうでごめんだった。太一が銃を引き抜くのは最後の最後。暗がりで音もなく背後から接近したときだけだ。
 先に来ているはずのジェントルマンの姿がなかった。
 シャワーでも浴びているのだろう。パールホワイトを基調に民族衣装をアレンジした制服のスタッフに訊ねると、予約だけはこっちの名前できちんと入っていた。屋外のプールサイド席を勧められたが、小雨が降りだしていたし、キャンドルの炎のなびき具合から見て潮風も強そうなのでそっちは遠慮した。小型拳銃の弾丸を後頭部に撃ちこむ相手のことを話し合うのだ。強風にかき消されまいと大声を張り上げた途端、まわりの客の興味をひき、商談はそこでおじゃんになる。
 そことは正反対のところにある大理石の柱に囲まれたテーブルに陣取り、ビールを注文してからゆっくりとメニューを眺めた。たしかにラムチョップはあったが、一皿五十六ドルもする。ほとんど青天井の経費とはいえ、堂々と注文するには抵抗があった。同時にこんなところまで来てそんなしみったれたことをいちいち考えるのもどうかと思った。毎度のことで、サラリーマン根性が顔を出してくる。スポンジについたターメリックか濃縮プロポリスの染みのようだった。いくら洗っても落ちやしない。
 二本目のビールを注文する段になってもサイワンはあらわれなかった。三十分も遅れている。胸騒ぎを覚え、太一は席を立った。しかしどこの部屋かわからないし、フロントで聞いたところで、サイワンなんてあだ名にきまってる。やむなく太一は、ハネムーン先で新妻に遁走されたあわれな男さながらにホテル内をあてもなく歩きまわった。
 最上階のフロアに上がったとき、太一は眉をひそめた。
 警察らしき制服の男が廊下の真ん中へんにある部屋のドアに手をかけ、なかに向かって早口でまくしたてている。太一はズボンのジッパーを開けっぴろげにしていても一向に気づかぬ、超開放的な日本人客を装ってその前を通過してみた。
 そこで足がとまった。
 室内にはほかに三人の制服警官がおり、フローリングに横たわる人物を取り囲んでいた。後方にはレストランとおなじ制服の女性スタッフとダークスーツのホテルマネージャーらしき男が、こんなときまで対応マニュアルがあるのかと思わせるほどそっくりなようすでたがいに顔をこわばらせていた。広いベランダに至る窓は開放され、小雨混じりの生ぬるい潮風が、事態の怪しい雲行きを象徴するかのように厚地のカーテンをめくり上げていた。まるで昔見たロジャー・コーマンの映画のようだった。
 ドアのところにいた警官が、あっちへ行けというようなニュアンスのことをインドネシア語で言ってきたが、太一はにわかには足を動かせなかった。頭のなかは空っぽで、ガムランの鳴り響く深い闇のなかに突如浮かび上がったエリア51製のUFOのように、そこだけがただぼんやりと白く染まっていた。
 美味をうわさされる子羊にむしゃぶりつくはずの紳士はいま、床の上でわき腹から血を流して冷たくなっていた。


 幹事長を揺さぶるモグラの部屋は、海に面した側の棟の二階。幸いにも細野の部屋もおなじフロアで、さして離れていなかった。もう零時をまわっている。さっきレストランで軽食を取った後、やつは部屋に引き上げた。この先、第三者と接触するなら、おそらく明朝以降だろう。ロビーで聞き耳を立てた話では、朝九時にホテルの正面からオプショナルツアーに出発するらしい。あわてて細野はさっき電話で申し込んできた。参加者はたいして多くあるまい。移動はワゴンのはずだ。だったらいよいよ至近距離であのモグラと対峙するってわけだ。怪しまれぬよう注意して、つかず離れずでいかねばならない。細野は気を引き締めた。失敗は許されなかった。
 川北の指示を受けた後、三週間ほどしたときだった。細野の捜査線上に一人の人物が浮上した。党職員からIT系のメンテナンス業者まで、党本部の資料室に入れる人間を絞った上で、首相秘書官の未亡人の携帯電話の通話記録を調べた結果だった。
 そこから先が細野を悩ませた。
 今年の一月、SIGの弾丸で頭を吹き飛ばした男――仁徳医大医学部の助教授、桂木宏記――との接点が見つからなかったのだ。党本部にこの春から出入りする人物で、経歴にもおかしなところはない。どこか患っていたようで長期入院をしていた経緯があるが、病院は仁徳医大の付属病院でないし、桂木がそこでアルバイトをしていた形跡もない。だいいち桂木が小銭を稼ぐのはふつうの病院ではない。どこかの監察医院のはずだ。桂木の専門は法医学だった。
 いずれにしろあのモグラが鑑定書類を持っているかどうかが問題だった。自宅は目黒駅に近い一戸建てで、両親と三人で暮らしていた。父親は芝の税務署勤務で、母親は専業主婦というありふれた家庭だ。細野は平日の昼間、母親が外出したすきに開けっ放しの風呂の窓から侵入した。二階の南側の部屋がやつの私室だった。そこで徹底的に捜索を行った。
 部屋は、壁一面にバティックと呼ばれるインドネシアの腰巻に使う布が飾られ、コーヒーテーブルとサイドボードとCDラックはこげ茶色に塗ったチーク材でまとめられていた。細野は、ガムランのCDが放置された仕事机を真っ先に調べた。それから押入れ、衣装ケース、アジア方面の旅行ガイドが並ぶ本棚などありとあらゆるところを開けてみた。鑑定書といってもただの紙きれ一枚だ。どこにだって隠せよう。だが細野とてプロだ。家宅捜索はお手のものだから、物を隠す場所については目星をつけられた。ところがことごとくそれが外れた。それから細野は階段を下り、居間や両親の部屋も調べてみた。しかし母親が帰宅するまでに問題の書類は見つからなかった。判明したのは、帰りぎわ、自分が胃の噴門のあたりに重苦しさを覚えているということぐらいだった。
 その後、二度にわたって細野は侵入を試みたが、いずれも失敗に終わった。そして徒労感とはべつに毎回、不思議な気分、というより気味の悪い感覚に細野はとらわれた。胃の不調はそれによるものらしく、憂さ晴らしに飛びこんだ白金台のダイニングバーではろくに酒が進まなかった。
 あの部屋だ。
 目に見えぬなにかが、そこにいたのである。黙々と捜索を続ける細野のことを背後からじっと見つめ、無言で責めてくる。うしろめたい作業ゆえの罪悪感のなせるわざだったのかもしれないが、それよりももっとリアルで、水の中に顔を押しこまれているような息苦しさを覚えた。説明しがたい体験だった。だから最後に侵入したときは、母親が帰って来るより先に自ら外に転がり出たのだった。
 狭い車内で目指すモグラと並びあったとき、どんな気分だろう。息も絶え絶えになって逃げ出してきたあのときの感覚がまざまざとよみがえり、ベッドに入ってからも細野は明かりを消すことができなかった。
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