1 リテラシーと社会

文字数 4,172文字

リテラシー・スタディーズ、あるいはリテラシーと批評
Saven Satow
May, 14, 2007

「『読む力』といったところで、表層的な読みなんかどうでもよくて、その『数学の世界』の構造をどう『読みとる』かが問題だと思う。数学教育に関心を持ったのも、そうした傾向からきている」。
森毅『表層的な「読み」なんてどうでもいい』

1 リテラシーと社会
 『週刊朝日』の取材をきっかけにして、関西テレビの『発掘!あるある大辞典Ⅱ』に数多くの捏造が発覚する。こうした意図的な偽装はこれまでにも何度か問題化している。過去一五年間に表面化した主なケースだけでも、朝日放送『いつみの情報案内人素敵にドキュメント』(92年7月)、NHK『奥ヒマラヤ 禁断の王国ムスタン』(92年10月)、フジテレビ『愛する二人別れる二人』(99年3月)、日本テレビ『ニュースプラス1』(03年11月)、TBS『告白~私がサリンを撒きました~オウム10年目の真実』(04年3月)、テレビ東京『教えて!ウルトラ実験隊』(05年1月)などが挙げられる。

 他にも、『プロジェクトX 挑戦者たち』の05年5月10日放送「ファイト! 町工場に捧げる日本一の歌」に、事実と比べて大幅な誇張があると取材を受けた大阪府立淀川工業高校がNHKに再放送をしないように申し入れを行っている。その都度、映画『クイズ・ショウ』のモデルともなったクイズ番組”21”のスキャンダルを知らないはずもないのに、関係者は「演出の範囲内」という言い訳を口にしている。「人の噂も七五日」という好都合な諺を盾に、抜本的解決をとらず、おいしいとこどりを続けていく。

 こうしたごまかしに対する認識の甘さはテレビ局に限らず、他の業界にも見られる。『奥ヒマラヤ 禁断の王国ムスタン』のヤラセが発覚した後に刊行された村上春樹の『アンダーグラウンド』はその典型である。この本は、地下鉄サリン事件に遭遇した被害者と遺族、医師、精神科医、弁護士などからのインタビューを集め、「村上春樹が真相に迫るノンフィクション」として、1997年に出版されている。

 村上春樹は、「はじめに」の中で、ある女性誌の投書欄に寄せられた「地下鉄サリン事件のために職を失った夫を持つ、一人の女性によって書かれた」手紙が『アンダーグラウンド』執筆に至る動機としている。ところが、この投書は実在しない。2000年、田中康夫は慶應義塾大学で春学期に亘って講義を行っているが、その中で、国会図書館に通いつめ、該当する投書がないことをつきとめた奇特な作家のことを述べている。村上春樹はでっちあげた執筆動機に則って、「ノンフィクション」を書きあげたというわけだ。

 もしこのような投書が寄せられたなら、雑誌の編集部は彼女に連絡をとり、「よろしかったら、詳しくお話を聞かせていただけませんか」と取材依頼をすることだろう。そんなことも思い浮かばず、捏造をする村上春樹の想像力の欠如に驚かざるを得ない。しかし、現在まで、この件に関して村上春樹はマスメディア等から問いただされてはいないし、出版社が説明してもいない。

 ところが、今回はそういう高をくくった態度のツケを払わされる事態を招いてしまう。メディアへ圧力をかけ、自分の信念を正当化することを好む政治家たちが政権を運営していることもあり、メディアへの規制のいい口実として利用される。

 しかし、この政府の態度は欺瞞以外の何ものでもない。政治において、こうした捏造やヤラセ、シコミが日常的に行われている。タウン・ミーティングは言うに及ばず、各種の審議会や委員会は行政のアリバイづくりにすぎない。それらは、政策・計画・施策の立案過程において、第三者が必要性・妥当性・正当性をチェックする場であるはずだが、構成メンバーの大半もしくは全員が行政に近い立場の人物や利害関係者が占めている。有識者会議とは名ばかりで、実態は井戸端会議であって、顔ぶれを見た瞬間に、結論がすでに出ていることが一目瞭然であるのは、決して、珍しくはない。熟慮が儀式と堕している。

 おまけに、首相への記者からの質問さえヤラセではないかという疑惑まで起きている。2007年4月24日夜、安倍晋三首相は、番記者にしてはずいぶんと年齢のいった『産経新聞』の記者の質問に答えて、自分のことを書かれた『週刊朝日』の記事に対して、「これは言論によるテロではないか」と感情的になって批難したが、07年4月27日日付『日刊ゲンダイ』によると、この普段は見かけない記者と首相サイドが打ち合わせていたのではないかと推測されている。安倍首相は「この記事を書いた朝日の記者、あるいは朝日の皆さんは恥ずかしくないのか」と言ったけれども、もしそうなら、その発言は熨斗をつけてそっくり返されることになるだろう。 

 捏造の表面化以来、マスメディアの脇の甘さや政治権力によるメディア規制、テレビ局の労働環境などは、一時的にでさえ、メディア上で話題となったが、リテラシーをめぐる議論はほとんどパスされる。

 けれども、リテラシーには共通理解の契機がある。江戸時代中期、『世界項目』という演劇作成マニュアルが刊行されている。『忠臣蔵』とその外伝である『四谷怪談』は、そこにあげられている『太平記』巻二十一の「塩冶(えんや)判官の慙死」をモチーフにして執筆されている。戯曲の作者も、演じる俳優も、劇場に足を運ぶ観客もこの背景を承知して、楽しむのが当時の姿である。見る側も、作る側同様のリテラシーを身につけ、共有したうえで、上演されている。

 こうしたリテラシーの共有に取り組まずに、番組制作者が「視聴者も演出が入っていることを承知しているはずだ」と弁解している。しかし、それは手品を超能力だと宣伝しておきながら、ばれた途端、手品だと言い逃れようとするものだ。この無責任の結果、以降も、テレビ番組にシコミやヤラセが行われていることが見つかっている。

 「リテラシー(Literacy)」は、近年、注目されている概念であるが、その歴史は古く、教育の中で捉えられている。アカデメイアを誕生させた古代ギリシアの教育は、佐藤学東京大学教授の『教育の方法』によれば、デモクラシーの成立とリテラシーの普及という二つの契機によって成り立っている。

 ジョン・デューイは、『民主主義と教育』において、デモクラシーがコミュニケーションと密接な関係にあると次のように述べている。

 デモクラシーとは、たんなる政府の形態ではない。一つの集団生活の形式であり、相互の経験を全員が共同に理解しあうような生活形式である。各人が共通の利害をわかちあっていれば、各人が行動する場合には必ず他人の行動を考慮し、他人の行動をもって自己の行動の方向を決定することが必要である。

 デモクラシーが「一つの集団生活の形式」であるのは、それがコミュニケーションを通じて思考・行動をわかちあうからである。デモクラシーの態度は対他的なコミュニケーション実践そのものであって、たんなる手続きや制度に従うことではない。

 現代に至るまで、教育機関は、変遷を遂げながら、コミュニケーションの形成・向上とリテラシーの伝承・浸透の役割を果たしている。学校には、リテラシー=コミュニケーションという二つの規範があり、それに基づいて公共性・公益性に寄与しているが、これは、おそらく、将来的にも消えることはないだろう。リテラシーは社会的インフラの重要な一つと考えなければならない。

 リテラシーは、時代や社会に応じて、達成・習熟に関する基準が異なる。近代以前の欧州における民衆の識字率を調べるには、各地の教会に保存されている教区の信者の名簿をあたる。同一の筆跡で記された名前は聖職者が代筆を行ったと判断し、推定されている人口との比率から識字率を算出する。自分の名前の読み書き能力の有無を基準とするアプローチをとるのはたんに史料の限界によるわけではない。民衆レベルで必要とされる水準がその社会構成を表象するからである。

話す能力は共同体の内部で生活しているうちに、ある程度まで習得できる。一方、識字能力は、たとえ初歩的であったとしても、体系的ないし組織的教育を不可欠とし、その学習方法は政治制度と関連している。日本語をしゃべれても、そのリテラシーを教えるには体系的な方法論を知っていなければならない。教育を通じてリテラシーは明確化され、体系化される。

 現在の識字率の統計では、自分の名前の読み書き能力の有無は最低限度とされている。国民国家の登場による公教育制度の整備は、識字率の基準を3R’sに高める。日常生活上必要な文書の記述・読解の技術的な能力の有無であり、これが一般的な国際基準として理解されている。

識字率の調査に関しては、日本も含めて、マイノリティ問題と無縁ではないため、完全とは言い難い。けれども、先進諸国においては、小学校程度の読み書きというこの段階はほぼ到達したと見なせる。他方で、途上国──特に、サハラ以南のアフリカとアジア──では、絶望的な貧困や不安定な政情、無秩序な治安、頑迷な偏見により、学校教育がままならず、社会的悪循環を断ち切るためにも、識字率の向上は早急の課題である。残念ながら、多くの人々の努力にもかかわらず、学校の備品が略奪の対象となったり、教師がテロの標的として襲撃されたりする状況は依然として克服されてはいない。

 先進諸国では、次の段階のリテラシーの向上に主眼が移っている。仕事や福祉、社会参加を可能にする読み書き能力を活用できる「機能的な読み書き能力」の水準が低さが問題となっている。従来の国際基準では読み書きができる人の10~50%が、現代社会における「機能的な読み書き」には達していない。この新しいリテラシーの普及が社会的課題となっている。

 これにはいくつかの理由が挙げられる。教育学には「9歳の壁」あるいは「10歳の壁」と呼ばれる分岐点がある。この年齢以降、学習内容に抽象的な思考が入り、世界的に、児童間の学力格差が顕著になり始める。しかし、それ以上に、新しいメディア・テクノロジーの発達に伴い、社会的に要求される読み書きの技術が変化したことが大きい。 
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