5 リテラシーの存在論

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5 リテラシーの存在論
 メディア固有の技法は実際の人間の体感との間で齟齬を生じることもある。人はじっくり見たいと思うと、顔を近づける。しかし、それを動画にした場合、逆の効果がおきてしまう。動画において距離の遠近法は時間の緩急としても知覚される。アップのシーンでは時間が速く、ロングになると、遅く感じられる。こういう固有のノウハウを知らないと、そのメディアを使ったコミュニケーションは成り立たなくなってしまう。

 ワン・クールの連続ドラマにしろ、一話完結の二時間ドラマにしろ、テレビ・ドラマは、映画と違い、お茶の間で視聴されるため、画面を見続けていなければわけがわからなくなるのでは困る。ちょっと台所へビールをとりに行ってもどうなっているかをつかめるように、音声を聞いているだけで、物語の展開がわかるようにしなくてはならない。当然、絵の持つ情報量は低くなり、音声の占める役割が大きくなる。

 また、平田オリザの『演劇入門』によると、カメラ・ワークのない舞台ではセリフによって遠近法を示さなければならない。最初に現前の場面から遠いセリフを発し、徐々に近づけていく。ウィリアム・シェークスピアの『マクベス』は、荒野にいる三人の魔女が登場し、魔女1の「いつまた三人、会うことに?」のセリフで幕を開ける。さらに、物語は出来事の連鎖ではなく、舞台への人の出入りにより展開する。そのため、見せ場は劇の冒頭の方につくられ、ミステリーのような最後にトリックが暴かれるプロットは向かない。第一幕第三場で、マクベスは自分が王になるという魔女の予言を知る。

 同じ舞台であっても、セリフ劇とミュージカルでもリテラシーは異なる。ミュージカルにおいて、歌や踊りの場面は内面の発露や感情の爆発を表わす。そのため、深い内面性や複雑な問題を扱うことは難しい。音楽に重点を置きすぎて、ストーリーや演技がおろそかな作品となることもまま見られる。お客も、セリフ劇よりも娯楽性を求める層が足を運ぶ。

 ある作品を別のメディアで表現しようとする場合、その特性の違いから、テクストをアレンジすることは不可避である。翻訳作業が要る。ジョージ・バーナード・ショウの『ピグマリオン』において、イライザ・ドゥーリトルは独身主義者のヘンリー・ヒギンズ教授の元を離れて、おそらく失敗すると思われるにしても、フレディ・アインスフォード=ヒルと結婚するが、それをミュージカル化した『マイ・フェア・レディ』では、彼女は教授と結ばれる。言語と階級という英国の社会的問題よりも、シニカルさを抑え、メロドラマ性が強調された結末となっている。これは、タイトルの変更が予告している通り、セリフ劇とミュージカルのリテラシーの差異から生じた改変の一例である。

 さらに、リテラシーの変容が社会の変化を表象していることも少なくない。今日のデジタル技術に立脚したヴァーチャル・リアリティは遠近法を明暗によって見せている。テレビは。それ加色法の世界である。現在普及しているモニターは、ブラウン管にしろ、液晶にしろ、プラズマにしろ、発光して像を形成する。そこで示される遠近法は毛様筋の伸縮による焦点の調整ではなく、瞳孔の開閉によって感じられているものである。見続けていれば、眼は疲労し、視力低下の危険性がある。光はR(赤)・G(緑)・B(青)の三原色によって構成され、それらをすべて混ぜ合わせれば、白くなる。デジタルがそうした光の世界だとすれば、アナログは色の世界である。デジタル・カメラは対象の光を読みとるため、夜であっても、わずかにでも光ってさえいれば、特に光源を準備しなくても、対象を撮れる。他方、アナログ・カメラは反射光をフィルムに写しとる。フィルムの感度の差はあるが、光源がなければ、撮影はできない。

 色は減色法に従っている。赤・青・黄の三原色をすべて混入させれば、黒くなる。R・G・Bではなく、シアン(赤)・マゼンタ(青)・イエロー(黄)・ブラック(黒)の四色を重ね合わせてつくり出す世界である。映画のために、夜を撮影しようとするなら、昼間に、フィルターを入れて、絞り(F)を絞らなければならない。もしデジタル・カメラで同様の撮影をすれば、出来上がったシーンは白くなってしまう。今のヴァーチャリティには、真の意味で闇はない。しかし、それは、現代社会に真っ暗闇がないように、今という電気の世界の本質を表象しているとも言える。光の混合加算により、社会に白い空白が生まれているというのに、「心の闇」や「社会の闇」、「アンダーグラウンド」という比喩はあまりにも時代錯誤すぎる。「社会のベゾルト-ブリュッケ現象」や「社会のブローカー・スルツェ現象」など光にまつわる効果を譬えに用いるべきだろう。

 また、リテラシーの特性が人の思考や規定していることもある。東浩紀は、『動物化するポストモダン』において、すべての価値が「スーパーフラット」なポストモダンを体現するオタク文化の特徴として「キャラクター」への思い入れを挙げているが、これはアニメーション語のリテラシーに起因する。

 実写はカメラを用いるため、どこかに焦点を合わさなければならないのに対して、使わないということではないけれども、アニメはカメラの制約から解き放たれている。同一の画面の中で一本の木と一人の人間を描こうとした場合、実写では焦点の都合上、どちらかを主にせざるを得ないが、アニメにおいては、「スーパーフラット」であるため、両方を主にできる。アニメは、カメラの遠近法に縛られず、どこまでも平面的な視覚を提供する。役者の演義という曖昧なものを排除し、世界を平面に分割して、時空間は自由に扱え、寓話的なリアルさを観客に訴える。「シュミラークルの全面化」(ジャン・ボードリヤール)であるアニメは、物語性が希薄であるなら、すべてが主役であり、同時に主役が不在の世界を描ける。実写はどんなに平面的にしようとしても、カメラの遠近法が作用しているため、観客に立体性・実存性を思い起こさせてしまう。

 ところが、物語性を強くしようとすると、その遠近法の欠落さにより、その展開をセリフに依存せざるをえない。ウォルト・ディズニーのアニメでキャラクターがセリフを喋らせたように、何かを主にするため、セリフがその記号の機能を果たす。「なにもかもが『見えるもの』から『わかるもの』になってしまったのです」(『映画を見る眼』)。東が強調するキャラクターへの偏愛はここから生まれている。キャラクターとセリフへの傾倒はアニメをラジオ・ドラマとしてそのまま使えるようにさせてしまう。

 この背景の下、吹き替え以上に、アニメを中心にして声優が脚光を浴びる。それでいて、大部分の日本のアニメは映像的には極めて保守的であり、アニメで描写する必要性は皆無になってしまい、自己完結性だけが強まっている。「カメラが入るポジション、見せ方は、オーソドックスで、落ち着きのいい実写のそれとなんら変わっていません。実写の映画のセオリーをそのまま引き継いでいます。動植物が人間の言葉を喋ることで人間化しているとしたら、どんなお化けであろうが、これは人間ドラマです。さまざまに工夫された絵柄によって、ファンタジーであることから目を覚まさせない、人間のセリフ劇です」(『映画を見る眼』)。

 小栗康平は、『映画を見る眼』において、従来の映画批評はリテラシーを十分に考慮してこなかったと次のように批判している。

 映像はものの外側に当たった光が反射されているものです。内部はもともと関係ありません。だからこそ、それをとう内的な表現にするかということが問われるはずなのに、時間がそれを裏切るとでもいえばいいのでしょうか、なにか別なものに置き換えられてしまうのです。それを映両独自の「聖なる時間」ととらえて、だからこそ映画は「映画の王国」を作り出すのだ、そう考える人たちもいます。記号論が映画批評に持ち込まれて以降、積極的に映画のニュートラルな時間感覚を武器にして、映画そのものを意味論から解き放つ、そういう考え方をもつ人たちも増えてきました。なかには外郎化された時間に運動という概念を当てはめて、映像の表面性をことさら強調する評論もあるようですが、そこで語られる言葉自体が空回りしていて、なんだか映画そのものと関係ない言説というふうにも思えることがあります。哲学や思想、美学などいろいろな力を借りて、もっと慎重に説き明かしていかなければならない、映画のむずかしい側面です。

 これは映画に限った事態ではない。リテラシーを無視もしくは軽視して批評が広範囲でまかり通っている。

 リテラシーという観点から見れば、先に言及した村上春樹の『アンダーグラウンド』は問題点が多い。「顔のない多くの被害者の一人」ではなく「一人ひとりの人間の具体的な──交換不可能(困難)な──あり方」を浮き彫りにすると言いながら、証言者のプロフィールにおいて、「いかにも若々しい青年」や「いかにも思いやりがありそうだ」、「いかにも育ちのよい」といったように、村上春樹は「いかにも」を連発している。「具体的」どころか、その描写をしていない。別に、プライバシー権に配慮しているわけでもない。言っていることと実際に行っていることが食い違っているだけだ。

 村上春樹の文章は社会性が未熟なために、その人の固有性を伝達する力が貧弱である。ジェリー・コールマンというアナウンサーは、「マウンド上には、ピッチャーのランディ・ジョーンズ。彼はカール・マルクスのような髪型をしたサウスポーで、バッター・ボックスに立ったフー・マン・チューのようなヘア・スタイルのラボスキー選手に向かって、第一球を……」という感じでMLBの中継をしているが、村上春樹と比べるまでもなく、固有名詞の喚起力を巧みに使い、非常に「具体的」な表現である。ソープ・オペラ的なステロタイプは直感主義的で、解釈する必要がなく、受動的に接していても、即効的に、その意味を理解している錯覚に陥らせる。にもかかわらず、村上春樹はこう告げている。「基本的に、自分が現在前にしているインタビュイーの一人ひとりを、個人的に感情的に好きになろうとつとめた」。

 「ノンフィクション」だけでなく、村上春樹の小説作品にも、リテラシーの視点から読みとると、ろくに調べもせず、思いつきと思いこみを言語化した問題点を無数に発見できる。移調学期の特徴を知らないままに、交響曲のスコアを書いているようなものだ。くどくなるので、ここでは具体的な箇所に立ち入ることは差し控えざるを得ない。文体はリテラシーに則った上での各作家に見られる特徴であり、リテラシーが無視されていれば、それは文学以前にすぎない。

 特に、村上春樹の作品は、文学ジャンルで言うと、「ロマンス」に属している。この物語形式は、最初に結末が提示され、すべての要素はその目的を実現するために奉仕されていく。「なぜこうなったのか」を導き出すのに無駄なものや余分なものは排除される。こうした円環構造のため、ノースロップ・フライの『批評の解剖』によると、ロマンスは現実を描くと言うよりは、作者の願望充足を最も満たす。多様性を押し出し、書き手の自意識の優位が確認される物語である。こうした特徴のジャンルなので、独りよがりにならないためにも、綿密なリサーチをして創作に臨まなければならない。しかし、小説内で登場人物の「社会的動作」などのリテラシーの差異を書き分けられていなければ、そういうずさんで怠慢な作品を文学として評価の対象とすることはできない。文芸批評に必要なリテラシーに達していれば、それは極めて容易いことである。「自分の思いこみから自由になること。それが事由にとって、なにより難しいことなのだけれど」(森毅『地図にない未来』)。
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