第7話

文字数 717文字

 その日のお昼でした。生協の食堂でいつものようにカツ丼を食べ終えた僕の前に、彼女が現れました。今から一緒に来て、とだけ言って、歩き始めます。なんて女だ、とも思いましたが、ついて行かない理由はありません。

 大学のある街の駅近くにもドーナツチェーン店がありました。僕は数駅離れたもう少し賑やかな街で下宿しており、働いているのはそこのお店です。なので、この街の店舗は知りません。彼女は黙って自動ドアをくぐります。そして、カードの束をバッグから取り出しました。この枚数、おそらく全て一点です。僕がこれまで彼女に渡してきたカードたち、どれも二点や三点ではなかったのでしょう。すごく申し訳ない気持ちになりました。

 そしてこの店舗の働きさんが、片手で抱えられる程度の大きさをしたぬいぐるみを、バックヤードから持ってきました。その時の彼女の目。口元。忘れられません。一気に惚れました。その満面の笑みで、彼女は言います。

「かわいいでしゅねー、一緒にお家にいきまちょーねえ」
 ぬいぐるみに話しかけているのは分かっていました。でも僕は、一緒に彼女の部屋へ行きました。初めての女の子の部屋です。本棚には、ロシア語の教科書がきれいな状態で立っています。そしてそれから、僕は楽しい大学生活を送りました。二人で食べたドーナツのおいしさは格別でした。夜の仕事は彼女の演劇修行に役立ったそうですが、彼女は普通の会社員になりました。それより前のことですが、僕がドーナツ屋のバイトを辞めてしばらくして、彼女は僕の元から去っていきました。それっきりです。妻に、この話をしたことはありませんし、これからもしないつもりです。僕がドーナツを食べない理由も、教えていません。

 [了]
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