第4話

文字数 773文字

 そうやってアルバイトにも慣れた七月の夜でした。彼女がお店に来ました。金曜日で二十三時を回っていたと思います。ロングヘアーで薄化粧。目立たない程度にフリフリのついた黒いワンピース。綺麗な人だと思いましたが、どこかで会ったような気もします。彼女は、硬く焼き上げたあとにチョコを少しだけ塗ったドーナツと、ふわりとしながらしっとり感を保った生地に砂糖をまぶしたドーナツの二つだけを買って帰りました。この二つは定番で売れ筋でした。二つだけなので家族へのお土産ではなく、自分で食べるのでしょう。おそらく自分とそう年の違わない女性。夜の仕事でしょう。疲れた体をこのドーナツが癒すのか、と思うと、僕も嬉しくなりました。いつもより気合と優しさを込め、ありがとうございました、と言いました。目が合ったと思います。嬉しくなりました。

 それから毎週、彼女はお店にやってきました。それまでも使っていただいていたのかもしれませんが、僕が意識したのはあの日からです。買って帰るドーナツは、細長いチュロスをリボン状に曲げたものだったり、ストロベリーチョコのものだったり、いろいろでした。夏休みのシフトは悩みましたが、金曜日だけは入ることにしました。実家には土曜から金曜の朝までの一週間滞在すれば十分でしょう。人生初の海外旅行は、格安航空券で香港への二泊でしたので問題ありません。金曜日に働ける人材は重宝されます。八月のお盆時期は彼女が来ないのではないかと心配しましたが、そんなことはありませんでした。お店のエアコンが少し弱くなった八月の終わりころ、おつりとレシートを渡す僕の指が、彼女の手に触れました。僕はその頃まだ女性経験がありませんでした。熱を帯びた僕の顔を見て、彼女は微笑んでくれた。そう思いました。あんなにうきうきしてショーケースのガラスを拭いた夜はなかったでしょう。
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