日々常8

文字数 5,455文字

 放課後、バイト先へと向かう棟方、遊佐の背中を見送り、下校する他の生徒の波に乗り歩道を進む。このまま家には帰らない。キキに借りていたハンカチを返すために、白井家へと向かうつもりだ。
 昨日も一昨日もそのつもりだったが、そのまま帰宅してしまった。最初はいつもの公園で返そうと思っていたが、あれ以来、キキが公園に姿を現すことはなかった。風邪が長引いているのだろうか。
 公園の前を通り過ぎる。やはり、キキの姿はなかった。見慣れた景色に、わずかばかりの欠けがある。普通の人ならば見過ごしてしまう、もしくは気が付いたとしても、自分には関係のないことだとすぐに流してしまうような程度のことだ。
 風邪が長引いているのだろうか。言葉を交わしたのはあの日だけだというのに、こんなにも心配してしまっている自分がいる。妹と年齢が同じということもあるのだろうが、あの憂いを帯びた横顔や、華奢な身体がよけいにそうさせているのだろう。
 雪に足を取られながら、緩やかな坂道を登っていく。両脇には、似たような住宅が並んでいる。その景色のなかを歩くのは二度目のことだが、あの時は夜の闇に包まれており、街灯のぼんやりとした明かりだけが頼りだった。
 立派な門の前で足を止める。表札には『白井』とある。あのスポーツカー、斯波の物だろう、の姿はなかった。一つ息を吐き、妄想し、チャイムを押した。キキの父は大学教員という話なので、この時間には不在かもしれない。

『はい。ああ、君はこの前の……』

 反応がないのでもう帰ろうかと思っていると、キキの父の声が聞こえてきた。心臓が途端に脈を打ち、後悔してしまっている自分がいる。乾いた唇を一舐めし、インターフォンに顔を近付ける。

「あのー、ちょっと用事がありまして……」
『ちょっと待っていてください』

 ぷつんと途切れる機械の気配。一分も経たずに玄関のドアが開き、茶のズボンに白のワイシャツ、その上には紺のセーターを着た白井が姿を現した。髪は整えられ、ダンディな雰囲気はそのままだった。

「どうしたんです?」
「あの、娘さんにハンカチを借りてまして」

 白井は門を開け、「外で話すのもあれなので」といった。ぼくが敷地のなかに入ると、白井は門を閉め、先に立って歩き出す。白井はサンダル履きで、その擦れる音を聞きながら後に続く。
「紅茶とコーヒー、どちらを飲まれます?」
「あ、えっと、紅茶で」
 ぼくは応接間に通されて、この前と同じ席に腰を下ろした。白井は「いま紅茶を淹れてきますので、どうぞ気を張らないで」といい残し、姿を消した。そういわれても、脚を伸ばし、ふんぞり返って座ることもできなかった。背中を丸め、両手は太腿の上に置き、かしこまって室内を見回す。
 この前と変わったところはない、と思う。棚の上、同じ位置にはあのオルゴールが置かれていた。そっと手を伸ばし、触れてみたいという衝動に駆られるが、理性がそうさせてはくれなかった。コートを脱ぎ、制服の上着も脱いでしまう。暖房が利いているので、袖を捲っても平気だった。

「お待たせしました」

 ドアが開き、トレイを手にした白井が姿を現した。ぼくの前にカップ、ミルクの入った陶器、角砂糖の詰まった瓶を置き、この前と同じ席に腰掛けた。
「娘から、ハンカチを借りていたそうですね?」
「はい。でも、住所を聞きそびれてしまいしまいまして」
「あの時は、お世話になりました」
「あ、いや。こちらの方こそ、出すぎたマネをしてしまって」
 白井はゆったりと脚を組み、ズボンのポケットから煙草の箱を取り出すと、一本抜き取り口に咥え、ライターを取り出し火を点けた。見るからに高そうなライターだった。葉の燃える音が、微かに聞こえたような気がした。
 ぼくは角砂糖を一つ摘み、淡褐色のなかにそっと落とす。そこにミルクを注ぎ、ティースプーンで掻き混ぜる。カップを持ち上げると、その熱が指先に伝わってくる。香りを楽しみ、口を付ける。ほんのりとした甘さに、すっと抜けるような感覚。
「ケーキでもあればよかったのですけれど」
「あ、いえ、そんなこと」
 白井は目を細め、ぼんやりとけむりのゆく末を眺めている。ぼくなどは視界に入っていない。煙草の持ち方にも個性が出るようで、白井は右の親指と人差し指で摘むようにして吸っている。黒川は、左の人差し指と中指の先の方で挟んでいた。ライターも、コンビニでみかける安物を使っていた。
 妄想や考察の海に片足を突っ込みそうになっていたので、無理に引っ張り現実へと戻ってくる。ふと目に入ったのは、ガラス扉の棚に並べられた飛行機の模型やらおもちゃの兵隊の姿だった。そこにはいくつかのフォトフレームも並べられており、無垢な笑顔を浮かべたキキと目が合った。
 この前には気が付かなかった、いや、視界には入っていたのだろうが、それらを流してしまっていた。今は、それらに惹き付けられてしまっている。白いワンピースを着、麦藁帽子を被った幼いキキが、気恥ずかしそうにこちらを見ている。視線を移すと、ランドセルを背負ったキキの姿。その隣に立つのは、白衣姿の斯波だった。まだ若い。キキは不機嫌に頬を膨らませ、斯波の脚にひしとしがみ付いている。
「親バカ、とでも思っていますか?」
 白井は微笑む。「いえ、そんなこと」と、ぼくはすぐに否定する。乾いた舌を紅茶で湿らせ、他の写真にも視線を移していく。白井、斯波、見たことのない恰幅のいいおばさんの姿もあるが、その中心にいるのはいつもキキだった。ただの一枚を除いては。
 あ、という声を漏らしてしまった。セピア色の写真。そこにキキの姿はない。写っているのは、二人の男とその間に挟まれた一人の少女。ぼくはその写真を見たことがある。左端に立つ男、黒川からみせてもらった。
「どうしたのですか?」
「あ、いえ、何でもないです」
 離れているので、輪郭はぼやけている。記憶のなかにある写真を探し、引っ張り出す。それもまた、ぼやけている。確かなことなどは一つもない。それでも、探さずにはいられない。右端に立つのは、おそらくは白井だろう。無邪気にVサインをしている少女は、驚くほどにキキと似ていた。
 この少女が、キキの母親なのだろうか。そんな気がする。ということは、白井の妻ということにもなる。だが、彼女の姿が写されたのはその一枚だけだった。キキや白井、斯波とは違い、年齢を重ねることはない。切り取られた瞬間のまま、その輝きを保ち続けている。
 この少女の名前は。キキに似ているが関係はあるのか。黒川はぼくの通う高校で教師をしているが、白井は知っているのだろうか。まだ、その仲は続いているのだろうか。興味に押され次々と疑問が湧いてくるが、直感というのだろうか、それらを白井に尋ねることはできなかった。
「あの写真が、気になっているようですね」
 白井の言葉に、身体が跳ねた。カップを持つ手が、小刻みに震えている。自分の幼さが情けなく、恥ずかしかった。すぐさま視線を引き剥がし、「若いですね」と早口でいってしまってから、すぐに後悔に襲われる。
「そうですね。二十年近くも前に撮ったものですから」
 白井は気分を害したという様子もなく、穏やかな笑みを湛えたまま、ゆったりとカップに口を付けた。吸いかけの煙草は、灰皿の縁に立て掛けられている。けむりは揺らぎ、交わり、どこかへと消えていく。
「学生の頃ですね。彼は同じ大学で学んでいた友人です。とはいっても、ほんの短い期間でしたが。元々は京都の大学に在籍していて、ある哲学者に興味を持ち、わざわざこちらの大学に潜り込んでいたのです。旧華族の家柄だそうで、親も大企業の幹部だといっていました。そのコネをふんだんに使ってやった、と笑っていましたよ。かといって驕ったところはなく、気さくな奴でした」
 白井はそういうが、黒川が旧華族のお坊ちゃまだという話を信じ、想像することは難しかった。黒川はぶっきらぼうな教師であり、ぼくの前では気さくなお兄さんというイメージだった。そこに御曹司という要素が混じり込んできて、もうぐちゃぐちゃになってしまう。輪郭すらも滲んでしまう。
「今の私と同じで、囚われてしまっていたのです」
「この女性は?」
「友人です。まだ高校生でした」
 白井は煙草を咥え、浅く息を吸う。その音が、こちらにまで届く。ぼくは紅茶をちょびりと啜り、唾と一緒にごくんと飲み込む。
「私は塾でバイトをしていて、そこの教え子でした。物静かで、聡明な娘。第一印象はそうでしたが、次第に変わっていきました。授業が終われば講師室にやってきて、授業に関係のないことをべらべらべらと語っていました。そのギャップが面白く、ついつい私も口数が多くなってしまい、どうでもいいことをべらべらべらと話してしまいました。それから塾の外でも会うようになり、黒川にも紹介しました」
 白井は立ち上がり、口の端に煙草を咥え、ガラス棚の方へと近付いた。扉を開け、その写真の納められたフォトフレームを手に取り、裏に手を回す。板が外され、空となったフォトフレームは棚に戻し、写真だけを手に戻ってくる。
「彼は抜けたところのある奴で、彼女にはいいように使われていましたよ。口を開けば罵り合い。私が長男なら、彼は次男、彼女は天真爛漫な末っ子といった感じでしょうか。いま思えば幸福で、夢のようなひとときでした」
 白井は変わらぬ調子でそういうと、椅子に腰掛け脚を組む。写真を一瞥し、それをぼくの方へと差し出した。
「いいんですか?」
「どうぞ」
 ぼくは受け取り、背景の長閑な風景から、三人の姿を順繰りに見ていく。白井は仏頂面でこちらを見ている。黒川は腕を組み、ぼんやりとどこかを眺めている。笑顔なのは、少女だけだった。それでも、素直にいい写真だと思えた。
 引っくり返すと、日付と名前が書き込まれていた。縦書きで、それぞれに筆跡が異なっている。左から『黒川純平汰』『切原真理奈』『白井真幸』という並びだった。そこで初めて、黒川の名前を知った。白井の名前は、何と読むのだろう。
 その瞬間、チャイムが響く。短く、よく通る音だった。どきりとし、思考がぷつんと途切れてしまう。白井は腕時計をちらりと見て、「もうそんな時間ですか」と呟いた。煙草を灰皿でくりくりと揉み消して、立ち上がる。
「あの、お客さんですか?」
「そんなところです」
「じゃあ、ぼくはこの辺で」
 椅子の背に掛けていたコートを羽織り、思い出したようにポケットからハンカチを取り出した。紺色の、サラリーマンなどが持っていそうなものだった。
「娘さんに、ありがとうと伝えてください」
「ええ、わかりました」
 ぼくは、ハンカチを白井に手渡す。白井はそれを受け取ると、机の上に置いた。そのまま白井に続いて部屋を出て、玄関で靴を履き、扉を開ける。周囲は暗くなり、家々や街灯の明かりが点々と広がっていた。冷たい風が頬を撫でる。コートのポケットに両手を突っ込み、段差をぴょんと飛び下りる。
門の前には、一人のおばさんが立っていた。年齢は六十代くらいだろうか。にこにこ顔で恰幅がよく、白地のエプロンを身に付けている。右手にはネギの先端が飛び出た手提げ袋を、左手には竹箒を持っている。その顔をみながら、何か引っ掛かるものを覚えていると、おばさんは手提げ袋を高く掲げた。
「旦那様、今日はボルシチですよ」
 その声にも丸みがあった。おばさんはきょとんとした顔でぼくを見て、「こちらのお坊ちゃまは?」と白井に尋ねた。
「娘の友人ですよ」
「あら、珍しい」
 おばさんはしげしげとぼくを観察し、「こんばんは」といった。その声も、丸みを帯びたものだった。
「あ、こんばんは」
「お邪魔でしたでしょうか?」
 おばさんは目尻を下げ、白井を見た。表情がころりと変わる。子供のようだ。白井は右手をひらりと振り、「いえいえ、そんなことないですよ」といった。
「本当ですか?」
「あ、はい。ちょうど帰ろうと思ってたところだったんです」
「そうですか」
 おばさんはにこりと笑う。そこではたと思い出す。よりふっくらとし、髪も白くなってしまったが、あの並べられた写真のなかに、このおばさんの姿もあった。次から次へと何かが繋がっていき、より見えなくなっていく。
 白井が門を開けてくれる。ぼくはお辞儀をし、外へと出る。おばさんの隣に立つと、ほんのりと甘い匂いがした。吐き出す息の白さがわかる。空には星が輝き、丸い月が威圧的に浮かんでいる。路面の雪は水となり、路肩にはまだその姿を残していた。
「それじゃあ、ぼくはこれで」
「ええ、気を付けてくださいね」
「坊ちゃん、転ばんように」
 おばさんは子供にいい聞かせるようにそういうと、ぼくの背中をぽんと叩いた。コート越しにも、その温もりを感じ取ることができた。ぼくはそれに背中を押され、またお辞儀をし、坂を下りていく。水に混じる氷の塊は脆く、踏み潰すたびにしゃくしゃくという音を立てる。
ふと振り返ると、おばさんがこちらに向かい手を振っていた。ぼくは柄にもなく手を振り返し、家路を辿る。ゆっくり、ゆったりと。恥ずかしさで頬が火照り、冷たい風が気持ちよかった。仮初めな月の光は乳白色で柔らかく、すべてを包み込んでくれるかのように錯覚してしまう。
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