長閑な日常

文字数 2,852文字

 教室に並んだ背中。教壇に立つのは初老の教師。黒い名簿を手に、しげしげと生徒の姿を確認している。そこには四十の名前が並んでおり、そのうちの一つに、佐藤健一というぼくの名前もあるのだろう。
 ホームルームは淡々と進み、初老の教師は姿を消した。その途端に、教室のなかは騒がしくなっていく。誰が最初に口を開いたのはわからないが、それは段々と伝播していく。ぼくは何をするでもなく、ぼんやりと外を眺めている。
 高校最後の夏が終わり、季節は秋となっていた。窓の外に広がる長閑な景色には、仄かに灰色が混じっている。ここは地方都市にしては景気もよく、大学だって五本の指では足りぬほどに存在している。
 それに一役買っているのが『屋敷研究所』だということも、この街に住んでいれば自ずとわかる。この街の政治、経済は、良くも悪くも『屋敷研究所』に依存している。民間でありながら、国家からの多大なる支援を受けており、優秀な研究者も多数在籍しているという。
 そこに群がるようにして、大学や企業、その他の研究機関もやってきた。ぼくの生まれる前にその形態はできあがっており、今でも膨張し続けている。筑波のような研究都市といってもいいのかもしれない。自然を多く残しながらも、近未来的な建築物や乗り物、その他細々としたことで溢れている。
 ぼくの通う高校は、そんな街のちょうど中心に位置している。大学のようなキャンパスに自由な校風、ただ違うのは、制服があるということくらいだろうか。それだって髪を染めていようが、ピアスをつけていようが、制服を着崩していようが、咎められることは決してない。
 だけれども、ぼくはいいようのない違和感、いや、恐怖感といった方がいいのかもしれないが、そんなものを覚えていた。まだ年端もいかぬ頃にはなかった感情で、それは年齢を重ねるごとに膨れていき、今や呑み込まれてしまいそうだった。この教室のなかに、自分と同じような奴はいないのだろうか。
 すっと視線を移してみると、迫る受験へと向かい参考書を開く者、残り少ない高校生活を楽しむ者、誰とも話さずにぼうっとしている者と様々だった。当たり前だが、誰かの心のなかなどわかりはしない。このなかに同じようなことを思う奴がいたのだとしても、それを知る術などはないのだから。
 若い男の教師が教室のなかへと入ってくると、それを追いかけるようにしてチャイムが鳴った。教師の苗字は黒川という。下の名前までは知らなかった。伸びた黒髪に、黒縁の眼鏡、黒のセーターを着ている。冴えない文系男子といった感じ。虚ろな目でこちらを見ている。
女のクラス委員長が「起立!」というと、ガタガタと椅子のすれる音があちこちから上がる。皆の頭が一つ、いや二つほど上昇したので、ぼくがそれに合わせようと立ち上がると、「礼!」という声で背中が丸まり、すぐに戻り、「着席」という声で椅子がすれ、背中が並ぶ。
「えーと、今日は道元からだったかな……」
 黒川は教科書を捲りながら、訥々と授業を進めていく。チョークを手にし、簡潔にまとめられた板書はみやすく、ノートも取りやすい。かといって、倫理を受験で使う人は少ないので、真面目に聞いている者は少なかった。
「先生!」
 一人の女子生徒が手を上げた。皆の視線がそちらに向く。黒川はチョークを置き、後頭部を掻きながら、「はい、何でしょう?」と気だるげな声でいう。
「先生は、京都帝国大学の出身なんですよね?」
 その女子生徒の声に、教室のなかが俄かにざわつき出す。京都帝国大学といえば、東京帝国大学と並ぶ、エリート中のエリートの通う大学だ。
「ええ、そうなるんですかね、ここでは」
「どうして、こんなところで教師なんかしてるんですか?」
「こんなところではないですし、なんかというのも適切ではないですね」
「教師が夢だったんですか?」
「ええ、昔はそうでした」
「今は違うんですか?」
「もう、教師ですから」
 すると別の男子生徒が、「何の勉強をしてたんですか?」と言葉を挟む。このクラスで一番のお調子者で、お笑い芸人を目指していると噂に聞いたことがある。
「一応、哲学ということになってはいますが、哲学をしていました、と胸を張ることはできないでしょうね。かつての哲学者の哲学やら思想やらを研究していた、といった方が適切のような気がします」
 内職をしていた者の手も止まり、その視線は黒川へと注がれている。ぼくらが三年に進級するかしないかの頃から、黒川はこの『秀峰高等学校』で教鞭を執っている。パーソナルな話題に触れられたことは、これが初めてのことだった。年齢も出身もわからぬ、謎の多い人物だった。
「先生は、京都の人ですか?」
 普段はおちゃらけた男子生徒が、真面目な声でそう尋ねる。黒川はしばし宙を睨み、「いいえ、東京です」と答えた。それも初めて知る情報だった。不思議なことに、知れば知るほど黒川を包む霧が濃くなっていく。
「どうして須永見に?」
「それはまぁ、色々とありまして……」
「東京の子って、どんな感じ?」
「君たちと、そう変わらないと思いますけど」
 黒川は、ちらりと腕時計を確認する。授業を再開したいようだが、生徒の嬉々とした視線を受けてか、どうしたものかと悩んでいる。
「先生っていくつですか?」
 また別の女子生徒。黒川は気恥ずかしそうに、「三十七」と答える。皆が、少し驚いたといった感じの声を上げる。確かに、二十代でも通用するかのようなみてくれに、雰囲気だった。
「結婚してるんですか?」
「いえ、していませんが」
「彼女は?」
「そんなこと、別に知りたくもないですよね?」
「質問に質問で返さないでくださーい」
 教室のなかに笑いが起こる。黒川は溜息を一つ吐き、「ほら、授業を再開しますよ」と無理やりに話を切り上げ、チョークを手に黒板の方を向いてしまった。ちぇー、という女子生徒の声が、最後の笑いを誘った。
 あっという間に時間は経ち、ぼくのノートには文字が並び、ちょうど目が冴えてきた頃に、授業の終了を告げるチャイムが鳴った。クラス委員長の「起立! 礼!」の後に、皆の「ありがとうございました」が続き、各々、休み時間に入っていく。
黒川は慣れた手付きで黒板を消し、ゆったりとした動きで教室から出ていった。ぼくは頬杖をついたまま、その背中をぼんやりと眺めていた。途中、友人の棟方勇作が隣のクラスだというのにやってきて、何だかんだといっていたが、そのほとんどを聞き流し、曖昧な返事でやり過ごしてしまった。
 黒川と話がしてみたかった。今までには事務的なことで二、三言葉を交わしたことのある程度だった。この街の外からやってきた黒川ならば、ぼくがこの街に対して抱いている恐怖感、もしくは違和感のようなものに、同意、もしくは異議を唱えてくれるかもしれない。この宙ぶらりんな状態で淡々と時が過ぎていく、それだけはどうにも気持ちが悪いのだった。
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