長閑な日々常2

文字数 5,148文字

 文庫本に栞を挟み、カウンターの上に置く。午前中にきた客はなく、ただ座って本を読んでいるだけだった。小腹が空いてきたので、買っておいたサンドウィッチを齧りながら、ペットボトルのお茶で流し込む。
 分解されたパソコンはそのままに、類は昼休憩に入っていた。戻ってきたら、煙草の匂いがするのだろう。「いやぁ、やっぱりここが落ち着くわ」と袖を捲り、ドライバーを手にする姿を想像する。
 その妄想を揺らすのは、ズボンのポケットに入れていたスマフォだった。画面を見れば、メールの着信を知らせていた。相手は宮守忍からだった。あれから特に親しくなったというわけではないが、卒業式の日に連絡先を交換していた。

『入学式、終了したぜ(笑)
 サークル勧誘がしつこいしつこい
 こっちは陸上部に決まってるてーのにさ
 どいつもこいつも浮かれてる
 下心丸出しのお兄さんには要注意!!』

 宮守は学生時代には陸上部、確か百メートルハードルの選手だといっていた、に所属しており、全国大会にも出場するほどの実力だった。そのため色々な大学からの誘いもあったそうだが、すべて蹴り、中央学術院大学の法学部へと進学した。実に失礼な話だが、あまり勉強のできるイメージではなかったので、その話を聞いた時には驚いた。

『正直者の方が、危険は少ないと思うけれど』

 たったそれだけの文章を送るのに、十分以上も掛かってしまった。対して返信はすぐにきた。スマフォを手放す間もなかった。

『そりゃそうかも(笑)
 で、そっちはどうなのさ?
 バイト先でのラブロマンスなんてありそうかしら?』

 宮守の声で再生されるが、その顔まではおぼろげだった。蠱惑的な唇だけが、別の生き物のように艶めかしく動いている。

『ないない。ちょっと機械に詳しくなったくらいかな』

 転校した三浦風子から、宮守の元に手紙が届いたそうだ。便箋一枚に綴られた短い文章だったと教えてくれた。宮守のなかにも複雑な想いはあったのだろうが、すべてを受け入れ前に進むことを選んだようだ。

『受験勉強は?』

『ぼちぼち』

『まあ、一年あるしね。ゆっくりいこうよ
 それじゃ、部活に顔出さなきゃいけないから
 また連絡する。バイバーイ』

 ぼくは『またー』という別れの言葉を送り、スマフォをズボンのポケットにしまう。それに対する返信はなかった。少しホッとしている自分がいる。
「受験か……」
 誰もいないことをいいことに、そう呟いてみる。まるで実感のない、他人事のように聞こえてしまう。受験勉強をしていないというわけではない。バイトをしている最中に、参考書を読んでいることもある。
 たいていそういう時には類がおり、気紛れにぼくのノートを覗き込んでは、顎に手を添えて微笑んでいる。ぼくが助言を求めると、類は何もいわずに参考書、というよりも学術書といった方がいいのだろう、を手渡してくれるだけだった。
 はぁ。溜息を一つ吐く。自分はどうしたいのだろう。やりたいことは。夢はないのか。これがモラトリアムというやつなのか。駄目だ、駄目だ。気分転換にラジオでも聴こう。
 いつもの流れになってしまった。カウンターの上に置いたラジオの音量を上げていくと、いま話題の流行歌が聞こえてきた。その春らしいメロディーに、沈んでいた気分が上を向く。
 すると窓ガラスの向こう側に、見知った女の姿があった。類と同じ苗字であり、あの件にも関わっているであろう女だった。曖昧な像にそれが重なり、しっかりと認識できるという人間の凄さ、脆さを感じてしまう。
 その隣には男の姿がある。マスクを掛けているので素顔までは見えないが、その格好から大学生くらいだろうと思われる。二人は肩を並べて歩道を進み、あの喫茶店へと姿を消した。
 それを見たぼくの手が、自然と摘みを回していた。あの消えてしまった空間を、求めてしまっている自分がいる。その卑しさに嫌気が差す。が、その手を引っ込めることはできなかった。
 音声と音声の間に走る、規則正しいノイズの波。そこにかつての面影を探すことは難しかった。精神的に不安定だったそうなぼくの見た夢、ただの幻だったのだろうか。

――軽蔑したでしょ――

 諦めかけていたところに聞こえてきたのは、あの女の声だった。手が止まる。男と話をしている。さっき見た男だろうと思われる。頬杖を突き、ラジオのスピーカに耳を向ける。

――私はね、こういう女なの――
――だから嫌いになりなさい、ってことですか? あなたらしくもない――

 くらりと軽い眩暈に襲われる。この男の声は、あの男の声なのだ。流暢に英語をはなし、色々な曲を教えてくれた声なのだ。あの時とは違い、間もリズムもイントネーションも違っている。

――阿呆な人ね――
――自覚してます――
――君にとっては裏切り者ね――
――まあ、そうなるだろうなとは思ってましたよ――

 淡々と言葉が流れていく。上っ面だけを撫でている。互いに微笑みながら、その瞬間を楽しんでいる、そんな気がする。

――カサイさんも、そういってました――
――彼には悪いことをしたわ。あれほど愛し合っていたというのに――
――煙草、吸うようになったんですね?――
――昔からよ。隠していただけ――

 女はさらりといってのける。それが実に格好よかった。この人にはこうあって欲しいという自分勝手な願望に、女は沿ってくれている。それも嫌味や卑屈さ被虐性は微塵もなく、これが私なのよとばかりに背筋を伸ばして立っている。

――嫉妬ですか?――
――そうかもしれないわ。そこに愛がなくてもね、あの無垢な瞳は罪なのよ――
――でも、それだけじゃないですよね?――
――勘のいい人は嫌われる――
――そんなことはどうでもいいです――
――あなたも報われない生き方を選ぶのね――

 そこにどんな意味が含まれているのかはわからない。互いに詩を紡いでいるかのようで、聴いているこちらは心地がいい。

――あの人の選んだ世界を守りたいの――
――逃げた、の間違いなのでは?――
――それでも守りたいのよ。壊したくないの――
――それがたとえまやかしなのだとしても、ですか?――
――あの人が生きているのなら、どんな手を使ってでもそうするわ――

 煙草のけむりを吐き出す音。その間に、どれだけの言葉が押さえ込まれ、消えていくのだろう。

――君はどうするの? いつまでも学生ではいられないわよ――
――どこにも逃げられはしないでしょうね――
――エンジニアになる? それとも、あのガラクタのなかに戻る?――
――さあ、自分にもよくわかりません――
――どこぞの狐のようになったら、それこそ軽蔑してやるのだけれど――

 狐というのは隠喩だろうか。男は笑い、――それもいいな――と呟いた。軽蔑されることの、どこがいいのだろう。ぼくには理解できなかった。

――この街から逃げられない。逃げ込むことはできるけれど――
――物理的に、無意識的に――
――四方を囲んだ山の向こうに、海が広がっているなんて思いもしないわ――
――幸せなことですよ、知らないということは――
――同じ日本だというのに、共有していることの方が少ないくらい――
――マインドは、限りなく近いと思いますけどね――

 まるで空想の話である。こんなことを誰かが聞いたら、変人を通り越し、頭のおかしな奴だと見なされてしまうのに違いない。

――インテリは大衆を見誤り、もしくは蔑んですらいるもの。伝統を見ずに、現実に対応していない。挙句の果てには孤立する。大衆は大衆で服従することに慣れてしまい、そこで安堵と快感を貪っている。日本は外来の思想文化を上手く取り込んではいるけれど、真の意味での風土化・民族化は困難であるといったことを、どこかの本で読んだことがあるわ――

 またあの音がした。言葉が消え、生まれていく。

――生憎、こちらで出版されてはいないのだけれど――
――あちらでの生活があるんですか?――
――ええ、サキの書斎にあったのかしら――
――サキ?――
――思想家くずれの、恋で身を滅ぼした憐れな女よ――

 陶器の触れ合う音がする。今日もあの店は、ゆったりとした時のなかにある。

――シバくんからも、似た雰囲気を感じるわ。まあ、彼自身は気が付いてはいないのでしょうけれど。誰よりも近く、手を伸ばせば触れられる距離にいるというのに、その面影だけがそこにある。私はあの人に触れられるわ。愛のないセックスでも、互いの熱は感じられる。私を誰かと重ねていても、あの人の腰の上にいるのは、私でしかないのだから。ねぇ、君はどう思う?――

 ずいぶんと無茶な振りをする。女は男の反応を窺っている。楽しんでいる。耽美的でエロティック。その香りがこちらにまで漂ってくる。

――どうも思いません――
――強がりかしら。どう、一度くらいしてみない?――
――お断りしますよ。その思い出に縛られるのは御免です――
――あら、素敵じゃない。人は、思い出のなかで生きていけるわ――
――思い出のなかだけで生きてはいけませんよ――
――ただの自慰行為でしかない、ということかしら?――

 刺激的な言葉だ。誰かに聞かれてはいまいかと周囲を見回す。が、ただ息を止めた機械だけがこちらを見ていた。

――今日は、大学の入学式ですね――
――あの人にとっては、実に儀式的な時間でしょうね――
――学者は皆そうなのでは?――
――偏見の塊のような発言だけれど、妙に説得力があるから不思議だわ――
――そろそろ帰ります――
――そうね。あの人も戻っているでしょうし――
――もう会うことは止めましょう、お互いのために――
――君のために、でしょ?――

 動きがあった。衣の擦れる音の後に、会計を済ませる女の声、マスターの低い声が続く。ドアが開き、二人の姿が露になる。その間にも、それを知らせる音は聞こえ続けていた。
 女は通り掛ったタクシーを止め、それへと乗り込み颯爽と去っていった。それを見送る男に話し掛ける女の姿があった。それが類だとはすぐにわかった。男と別れた類は道路を渡り、こちらへと向かってくる。
 類を見ていると、その背後で喫茶店のドアが開いた。出てきたのは男だった。それを見た瞬間に、意識がそちらへと引き付けられる。抗うことはできなかった。拒絶に近い否定をするぼくがいる。
 黒川だ。いや、そんなはずはない。他人の空似だ。黒川は退職し、地元に戻っているという話だった。学校の再開された日にはもういなかった。あまりにも突然の出来事だったが、嵐のなかでは些細なことでしかなかった。

「ただいまぁー」

 類が薄暗がりのなかに立っている。袖は軽く捲られ、そのなかでも眩しく見える。背後にあった男の姿は、いつの間にか消えていた。
「佐藤くん、交代しましょうか」
「はい」
 類はよしと指を鳴らし、ドライバーを手に取った。何を目的としているのかはわからないが、午後も作業は続けるようだ。ぼくは立ち上がり、伸びをする。さっきの男の影がちらついている。
「夢見さん、さっき話してた男の人は?」
「ん? 見てたんだ」
 ぼくの主義に反する行為だ。それでも、聞かずにはいられなかった、類はドライバーで螺子を外しながら、「覚えてないの?」といった。
「前に尋ねたことがあるじゃない。ここで働く前のことよ。男を知らないかって。若い男だっていってた」
 ああ、確かにそんな記憶が残っている。類には『野々村さん?』と尋ねられたような気がする。ぼくは男の名前を知らなかったので、曖昧な返事しかできなかったと思う。が、そこも曖昧なのだった。
「あれが野々村さん」
「そうなんですか」
「素っ気ないのね」
「昔のことですから」
 あの男は野々村といい、あの声の持ち主であり、あの女に恋をしていた。様々なことが繋がっていき、霧の奥深くへとぼくを誘う。手を伸ばしたところで、その裾を掴むことすらできなさそうだ。
 ぼくは「休憩に入ります」といい残し、控え室へと移動する。ここには車の走る音すらも届かない。ラジオを置いたままにしてしまった。取りに戻る気にもなれなかった。どうせ聞こえてくるのはノイズだけだ。余計な心配は必要ない。
 何もかもが億劫だ。エプロンを付けたまま、壁に寄り掛かりへたり込む。この物語の終わりは近い。あとはそれがいつになるのか、いつにするのかだけでしかない。幕を下ろすことができるのは、ぼくだけしかいないのだから。
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