日々々常5

文字数 3,646文字

 コンビニで乾電池とイヤホンを買い、すぐに店先で封を開けた。出たごみはごみ箱へと捨ててしまった。古びた黒の携帯ラジオに電池を入れ、イヤホンを挿し、耳につける。
 音は遠く、くぐもっていた。空には相変わらずの厚い雲。天気予報では雪が降るといっていた。身体の芯から震えるような寒さだった。吐く息が白く、それが美しいと思えた。
 両手をポケットに突っ込んで、俯き加減で歩みを進める。時を止めた街。音のない街。そんな言葉でしか表現できない。語彙力の貧困さに、センスのなさに腹を立てながらも、気取った調子で風を切って歩みを進める。
 携帯ラジオの音量を徐々に上げってゆくと、どこかで喧しいノイズに襲われた。少し意図的に、顔を顰める。そこに気が付く人は誰もいない。いっそ、大声で歌でもうたおうか。音程が外れていたって、歌詞が間違っていたってかまわない。
 ノイズが消え、聞こえてきたのは激しいメロディー。男性ボーカルの伸びのある歌声は、その荒波にすいすいと乗っていく。言語も、発音も、間も、リズムも違う。意味はわからない。いや、聞き取れない。
 だけれども、ぼくはこの曲を知っている。妹から借りた、いや、押し付けられたアルバムに収録されていた。タイトルまでは覚えていないが、妙に耳に残っている一曲だった。

――✖✖✖✖✖✖✖ ✖✖✖✖✖で、『✖✖✖ ✖✖✖✖✖✖✖✖✖』でした――

 曲が終わり、聞こえてきたのは男の声だった。ぼくの足は自然と止まり、また動き出す。微かにだが、景色が変わった。そんな気がした。

――最近、ノイズがひどいですね。色々な憶測も飛び交っているようですし。いっておきますけど、あれは僕のせいではないですからね――

 男は笑う。お茶のペットボトルに口を付け、喉を潤す。向こうから一台のパトカーがやってきて、ぼくとすれ違う。人のよさそうな若い警察官が、じっとこちらをみつめていた。

――とまあ、愚痴をいってもしょうがないので、この辺でメールでも読みましょうかね。ええっと、どこだったかな……――

 紙を捲る音。男はこの放送を一人でやっているのだろうか。いったいどこで、どんな体制で。これはネットラジオのようなものではない。

――ラジオネーム、カーチスさん――

 男の落ち着いた声は、こちらを安心させてくれる。寝る時に聴いていたら、心地好く闇へと落ちていける。

――メールテーマはないようなので、自由気儘に書かせてもらいます。あまり文章が面白くはないので、読まれることはないでしょうが――

 路地はどんどんと細くなり、住宅街へと入っていく。生憎の天気のせいか、洗濯物を干している家はない。窓のカーテンは閉め切られ、物悲しく立ち並んでいる家々の姿が、緩やかな坂の下には広がっている。

――私が大学生の頃、今から二十年近くも前の話になります。まだ無鉄砲で堅物で世のなかをわかった気になっていた愚か者の頃でした。まあ、今もさして変わってはいませんが、上手く誤魔化せているとは思います――

 男はそこで言葉を切り、何かを飲んだようだった。喉を鳴らす音と、こつんと何かのぶつかる音が聞こえてきた。

――学生の時分、私はヨットサークルに所属し、近くの塾で講師のアルバイトをしていました。前者はすぐに幽霊部員となりましたが、後者はなかなかにやっていたといえるでしょう。生徒たちからは、恐い先生だと思われていたようですね。特に怒ったこともなく、緩い気持ちでやっていたというのに、周囲の評価というのはわからぬものです――

 二十年近く前に大学生だったということは、黒川と同じくらいの年齢ということになるだろうか。そして、塾講師のバイトをしていた。それは最近に耳にした言葉だった。まさかなと、ぼくは自嘲的な笑みを浮かべた。

――数は少ないですが、友人と呼べる者もおりました。高校時代からの付き合いだったブンちゃんはとても呑気な奴でして、渾名のごとく新聞記者になるのが夢でした。またサキという女性は理知的でてして、私のような奴を愛してくれておりました――

 あの公園の前に出る。ぽつんと取り残された空間には誰もおらず、吹き抜ける風に金属が軋んだ音を立てていた。

――ふらりと大学にやってきて、いつの間にか溶け込んでしまっていたあの男には謎が多く、それは今でもそのままなのです。博識で頭の切れるくせをして、多くを語るということをしませんでした――

 呼吸が乱れ、胸が苦しい。視界が霞み、頭のなかが揺れている。熱い汗が、シャツの下を滑り落ちていく。立っているのもしんどくて、胃のなかにあるものを吐き出してしまいたい。

――恋もしました。不道徳なことだとは思いますが、塾での教え子にです。勿論ですが、そこに至るまでには様々な葛藤もありました。ですが、芽生えた初心な感情を押し止めておくことはできませんでした――

 公園に足を踏み入れ、硬い地面の上を進んでいく。一脚のベンチがあり、そこに倒れ込むようにして身を投げた。方膝を立てて目を閉じて、腹の上で両手を組む。それだけで、ずいぶんと楽になる。

――それも一方的なものでした。片想いというやつです。その時の感情に触れるだけで、今でも頬が熱くなってしまいます。少女は向日葵のような娘でした。そのすべてが、私には眩しく見えました。最初は物静かな印象でしたが、次第にそれも変わっていきました。人懐っこい娘だな、よく喋る娘だなといった大人の余裕のようなものを持っていましたが、それがぼろぼろと崩れ落ちていったのです――

 上空を飛び交うヘリの音。灰色の空を切り裂いて進んでいく。それでもその姿は見えなくて、どこまでも厚い雲に覆われている。目蓋の向こうに広がる景色を想像してみる。違和感はない。が、それが確かなのかはわからない。

――私の青春は、恋と戦いとのなかにありました。抗いながらも、誰かを愛する日々を生きていたのです。不条理に焦り、怒り、嘆いていました。そんな無力な自分を責めていました。どうしてこの少女が、こんなにも重い運命を背負わなければならないのか。幸福な結末などを夢見ることも許されない。それでも少女は笑っていました。前を見据え、歩いていました――

 街はその仮面を剥ぎ、不気味に蠢いている。これが本来の姿なのだろうか。それは暴力的で、恐怖や謀略が隅々にまで張り巡らされている。

――多くの仲間が死にました。皆、この街の現状を変えようと抗っていました。手に入れることの難しい映画のビデオを観、音楽を聴き、本を読み、恋をしながら生きていました。少女の運命を変えるのだと、私や友人は躍起になっていました。いま思えば、それを成し遂げることなどは不可能に近いのでしたが、そういうことは延々と繰り返されてきたのです。私たちも、そのなかの一つとなってしまったということなのです――

 男は言葉を止め、また喉を潤したようだった。長い文章だ。それでもそれを語るのにはそれだけの言葉が必要で、これは男にとっての懺悔であり、供養のようなものなのだと思えた。

――少女は運命に従い、短い一生を終えました。その遺伝子と私の遺伝子とを継ぐ少女が、今の私の娘です。母の愛を知らず、腑抜けたように日々を生きる父だけがいるのです。どう接していいのかもわからぬ父のせいで、寂しい思いをさせてしまったことでしょう。その上、娘が成長するにつれ、そこに少女の面影を見るようになってしまい、父であるということですらからも逃げ出してしまったのです――

 男はつっかえることもなく、淀みなく読み進めていく。時折、紙を捲る音に意識が引き寄せられる。

――いつの間にかあの男は大学を去り、この街からも姿を消してしまいました。ブンちゃんとも、私なんかを愛してしまったがために辛い思いばかりをさせてしまったサキとも疎遠となっていき、今では何をしているのかさえもわかりません。あの夏で止まってしまっているのです、私の時は。都合のいい思い出のなかだけで生きているのです。そのせいで、辛い思いをさせてしまっている人たちがいるというのに――

 だいぶ落ち着いてきた。ぼくは上半身だけを起こし、空気を吸う。その冷たさに肺が震え、胸の中央が鋭く痛む。

――まだ書き足りないところですが、こいつは何をいいたいんだと思っている方も多いでしょうから、そろそろ終えることにしたいと思います。リクエストする曲は、✖✖✖✖の『✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖✖』でお願いします。あの少女が大好きで、娘もよく口ずさんでいた曲です――

 男がそういい終えると、軽やかな朝のようなメロディーが聞こえてくる。ぼくはそれに背中を押され、公園を後にした。相変わらず、空はどんよりとした灰色の雲に覆われていた。ぼくの知る少女、キキの姿を求めて振り返るが、そこにはぽっかりと開けた空間があるだけだった。
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