4.ドッペルゲンガーは紅の彼岸で

文字数 18,988文字

 彰人が三年来のコンプレックスを貴彦に愚痴っていた頃、一人のけ者にされたみちるは、バスに揺られていた。
 彼女は不機嫌だった。一度は元気になったように見えた彰人は、授業中にミアカシに呼び出されて戻ってくると、再び思いつめた顔に戻ってしまった。理由は話してくれないし、こっちの心配は上の空で聞き流していた。
 貴彦は男同士だから、彰人を家に泊めても問題はない。こんなに心配しているのに、性別が違うだけで自分は一緒にいることができない。不公平だ。一緒にいた期間なら、自分の方が貴彦より勝っているのに。
 ついでに言うと、姿だって消せる人外の存在であるミアカシは、きっとあの男二人の間にでも平然と割り込めるのだろうと予測できるのが、不機嫌に拍車をかけている。一応、ミアカシも人外とはいえ女の子なわけで。しかも同性の自分が、かなり控えめに見ても間違いなく、美少女と呼ばれる類なわけで。ああ、もう心配しているのか嫉妬しているのかわからない。
 深く、深くため息をつく。
 憂鬱な気分を少しでも晴らそうと、風景を眺めた。窓の外、あまり見慣れない町並みが流れていく。いつもと違う路線に乗っているんだから、当たり前だ。今日は友人である吉嶺奈津子の家に、一晩泊めてもらうことになっている。奈津子自身は委員会で少し遅くなってしまいそうとのことで、一足先に行って彼女の家近くのファミレスで落ち合うことになった。親にも連絡してある。
 親や友人が、こういう突発的な泊まりや遊び歩きに理解があってよかったと思う。
 ――だからって理解ありすぎるのも困るけど……。
 彰人の家に一泊して、父は「責任とらせるためにまずは婚約を」と先走りかけ、母はのんきに「最近の子は進んでいるのね。今日はお赤飯かしら」と買い物メモを作り始め、そして二人に真顔で「相手はどっちなの?」と聞かれた日には。どっちでもないわ、とクッションを投げつけるくらいしかできなかった。顔から火が出そうだ。
「……そんなことよりも今はアキのことよね」
 結局、景色を見ることは大した気晴らしにはならなくて、みちるは窓ガラスに額を預けた。
 思い出すのは三年前のこと。
 飛行機の墜落事故で行方不明になった時、誰もが彰人は死んだと思っていた。
 みちるも例外ではない。夏の間を抜け殻のように過ごした。住民を喪った隣家と同じように、心が空っぽになっていた。
 まだ近所に住んでいた貴彦が、彰人が発見されたという情報と一緒に駆け込んでくるまで、本当にどうしていいかわからなかったのだ。
 記憶を失くしてすっかり人嫌いになっているという彰人に、どうすれば気を許してもらえるのか必死に考えた。はじめは目を合わせてさえくれなかった彰人がこちらを向いて、話してくれて、笑ってくれて、友達だと言ってそばにいてくれて――それで、自分が彰人のそばにいる意味はできたと思えた。
 それ以上は、望まないでいようと思っていた。
「あたし……どうして、女なんだろう」
 かすかな声で、呟く。
 男友達だったら、貴彦にだったら、彰人は気兼ねなく不安を打ち明けられただろうか。隣に立たせてくれただろうか。性別なんて関係なかった小さな頃みたいに、屋根を伝ってお互いの部屋を行き来していた頃みたいに、いられたら。
 それなら――友達以上の関係を望まなくてもよかったのに。
 いつから、自分はこうなってしまったんだろう。
 家族のような関係から一線を引いて、男女の関係を持ち込んでしまったのは自分の方だ。自由奔放に隣家に上がりこむことができなくなって、彰人を見ると何だか変な気持ちになって、一緒にいたいけど一緒にいるのが辛くなって――。
 三年と少し前の自分は、その気持ちにつけられた名前を知っていた。
 三年と少し前の自分は、今よりもだいぶ迷いが少なかった。
 そして、夏休みが迫る七月の半ば、彰人が事故に会う前のあの日に、自分は――。
 今はどこにいるのかわからない彰人の『記憶』は、あの時の答えをまだ覚えているだろうか。
 不意にそんな考えが浮かんできて、みちるは慌てて首を横に振った。『記憶』と出会うと危険なんだということは、ちゃんと理解している。ただ、本当に三年前、事故に遭う前のことも覚えているなら、せめて『あの答え』は聞きたいとは思う。
「って、三年間も『ただの幼なじみ』扱いされてて、今更だし……」
 自嘲が漏れた。答えは知りたい。けれど、それはあくまで彰人が穏やかに記憶を取り戻せるならの話だ。自分の都合のために、彰人を苦しめるのは本末転倒。みちるだって、そこまでバカじゃない。ポルターガイストで吹き飛ばされるのも、もうごめんだ。
 よくよく考えてみれば、答えをきちんと聞いたら、それがYESでもNOでも、今のような関係ではいられなくなる気がする。説得でどうにかなるんだったら、昨晩の内にミアカシがどうにかしているんだろうし。
 考えるごとに、心がずっしりと重くなっていくみたいだった。ちょっと泣きそうになってくる。きっと寝不足のせいだ。
 今までの人生を丸ごとリセットされてしまった彰人に比べれば、自分の悩みなんてちっぽけなものじゃないか。
『――次は、東駒原十丁目』
 車内アナウンスが流れた。
 みちるは奈津子の家の住所を思い出す。降りるバス停は確か、東駒原(ひがしこまばら)四丁目だったか――。
「ちょっ……!」
 乗り過ごした。なじみの薄い路線で、考えごとなんてするもんじゃない。
 慌てて降車ボタンを押す。だいぶ友人の家から遠ざかってしまった。
 幸いというべきか、降りたバス停は全く知らない場所というわけでもなかった。図書館がこの近くにあるから、時々通ることがある。冬休みに読書感想文の課題が出た時には、普段あまり本を読まない彰人、貴彦に見繕ってやったりしたものだ。
 ここから本来降りるはずのバス停までだと、徒歩三十分くらいかかるはずだった。反対車線に回れば折り返しのバスに乗れるだろうが、約束の時間にはまだ遠い。高校生の小遣いなんてたかがしれている。三十分の距離のために、バス代を払うのをためらった。
 みちるはバスに乗ってきた道を逆に歩き出す。
「あたし、何やってるんだろ」
 足取りは重く、心も重く。夕方と呼べるほど傾いていない太陽は、アスファルトをじりじりと焦がす。通りすがりに現れた小さな公園の緑が涼しげで、みちるは少しだけ休憩をしようと、ふらりと立ち寄る。
 その時だった。
 ひんやりと、暑くねっとり絡みつくようだった真夏の空気が、一瞬で温度を下げる。
 後ろから足音が近づいてきていた。歩き始めたばかりの子供のように頼りなく、あまり体重を感じさせない、妙に軽い足音。
《――ちる》
 声が、聞こえた。みちるは振り返ることができずに、ただその場に立ち尽くす。
 思いいれがない場所には、来ないはずじゃなかったのか。ぐるぐると考えてみたところで、現実は変わらない。
《みちる》
 はっきりと、名前を呼ぶその声に、懐かしさを感じるのはどうしてだろう。今の彼だって、大して変わらない声で話しているはずなのに。
 振り返った。
 中学三年生の夏休み、八月二日で時が止まってしまった少年がそこにいる。迷子になった、小さな子供のような顔をして。
《ここ、どこだ? わからないんだ。みちるはなんか、違う制服を着ているし、貴彦はどこにいるのかわからないし、俺はどうしてこんなところに?》
 空白の三年間が今、自分と彼の間に横たわっている。その空白が、彼を混乱させている。
 みちるは微笑んだ。
「どうして来ちゃったの、アキ」
 止まっていた時は、動き出す。空白の中にも確かに存在しているはずの思い出さえも、押し流そうとするように。



 ミアカシは糸を繰る。
 指を動かし、形を作ってはそれを床に落とす。それは赤い線の模様となって、フローリングの上に奇妙な円陣を描き出していく。
「何をするんだ」
 自分の死亡フラグが急上昇中だというのに、彰人にできることと言ったら質問を重ねることだけだ。すぐにでもみちるの所に行こうと飛び出しかけた彼と貴彦を、ミアカシが止めたのだ。彼女にも考えがあるらしい。
 ミアカシが、再び円形の模様を床に落とす。三つの赤い円がぼんやりと輝いた。
「人間であるお前らを送るのは、少しばかり骨が折れる」
「え、まじで!? テレポートできんのか?」
 彰人と同じく、見ているしかできないことに焦っている貴彦が、真剣な声で聞いている。
 ミアカシは頷き、手首から伸びる糸を引く。彰人の心臓辺りに繋がっている、例の糸だ。
「てれぽーとかどうかは知らん。要は神隠しをやるのだ。どこかで姿を消した人間が、到底たどり着けるはずのない遠い場所に移動しているなんて話があるだろう。アレだ」
「それで、すぐにみちるのところまでいけるのか」
「そう上手く行くか。神は万能ではない」
 きっぱりと、神様本人に万能説を否定されてしまった。男二人はなすすべもなく黙り込む。
「みちるに説得を試みてもらって、足止めするってのはどうだ?」
 少しの沈黙の後、携帯電話を片手にした貴彦の提案を、ミアカシは首を横に振って却下する。
「世間でいう幽霊がなぜ理性に欠いた言動をするかわかるか? 肉体という制御媒体を失って、感情が肥大化するからだ。些細なことで暴走する。感情を抑えられないから、怒りや悲しみ、憎しみといった、暴走しやすい負の感情に支配される。時間が経てば経つほど、そうなる。昨晩の時点なら、もう少し説得のしようがあったかもしれぬが……」
「それじゃ、みちるも危ないんじゃないか!」
「だから、私が責任を取ると言っている! お前たちは危険を冒してまでついてくる必要はない。私ひとりならいつでも飛んでいける」
 口をへの字に引き結び、ミアカシは赤い糸を絡めた指先を彰人に突きつける。
「もう一度聞くぞ。お前は生きたいのか? それとも死にたいのか?」
「それは……っ」
「答えられないならそこで待っているがいい。私を失望させるな」
 きっぱりと言い切る彼女の瞳は真剣で、さっきまでポテチを横目にだらしなく目元を緩めていた少女とはまるで違っていて。
 この神様を名乗る不思議な少女は、本当に何の得もないのに彰人を――彰人が大切だと思うものを守ろうとしている。彰人が普通の人よりも強く生への渇望を抱いていた。ただそれだけの理由が全てになるくらいに、死に抗い生きることは、彼女にとって価値があることなのだ。
「僕は生きたい。『記憶』だって、僕のものだから殺さない。みちるも助ける。僕の大切な――友達だから」
 死にたくないから生きるんじゃなくて、生きたいから死にたくないんだ。
 そんな簡単なことを、どうしてさっきは答えられなかったんだろう。
「僕にできることはないのか?」
 ミアカシは赤い糸を巻かれた指先を、糸の先端が吸い込まれている彰人の胸にとんと軽く置く。
「自分の胸に聞いてみろ。答えなんていくらでも眠っている」
「そんなポンポンと答えが出てたまるか」
「ならば、ひとまず信じろ。何があっても、お前と私がこの糸でつながっている間は、お前は死なない。死なせない。貴彦、お前も信じろ。お前の友人は死なない」
「あ、ああ、わかった」
「それと、お前たち、みちるが今いる場所にできるだけ近い場所で、どちらも行ったことがある場所はないか。二人とも行ったことのある場所じゃないと、一緒に運べんぞ」
 突然話題が変わって、彰人と貴彦は顔を見合わせる。
「みちるの友達の家って、どこだ?」
「ん? 吉嶺だろ? 東駒原じゃなかったっけ?」
「何で知ってんだ、貴彦。まさかチェックしてんのか」
「女子のことなら俺に任せろ! ……ってこんな状況で何言わせんだ、ちげーよ! 去年委員会で一緒になったことあんだよ! それでだよ!」
「東駒原か……図書館なら何回か行ったことあるな」
「いや聞けよ!? 俺も行ったことはあるけど、聞けよ!」
「よし、その図書館に飛ぼう」
 貴彦の弁解を聞かず、ミアカシは糸を繰る。踊り出た赤い輪が彰人と貴彦の身体をくぐり、床で幾何学模様の円を描いていた糸が光り。
「とりこ糸とり虜呼び、白き霧界に天昇の鳥よ舞え」
 視界がぐんと揺れた。飛行機が雲に突入したように、目の前は突然白いモヤに埋め尽くされて、奇妙な浮遊感が天地をひっくり返すように。
「うわあぁぁあぁ!?
 ガクン、と。突然重力を取り戻した身体は、柔らかい芝生の上に落下した。白い風景は鮮やかな夏の緑へと染め上げられる。
 三人が降り立ったのは、大きな建物の近くだった。恐らく、東駒原にある図書館の裏にある公園の隅だろう。幸い、近くには人がいなかったようで、目撃者は木陰で涼んでいるところを邪魔された野良猫だけだった。尻尾を逆立てて逃げていく猫に罪悪感を感じつつ、彰人は身体を起こす。貴彦とミアカシも無事なようで、立ち上がったところだった。
「私についてこい」
 ミアカシが短くそういって、走り出す。走るというのは語弊があるかもしれない。まるで忍者かあるいは天女かという風に、およそ重力に捕らわれない跳躍力で、走っているというよりは飛んでいるに近かった。
 基本的に一般ピープルの肉体能力しか持ち合わせていない男二人は、とにかく全力疾走するしかない。図書館の裏手から飛び出し闇雲に走りまくる高校生二人に、通行人が驚いて道を空けていく。
「あの公園だ!」
 二人の十メートルほど先で、ガードレールの上に着地したミアカシが指をさす。道路の向こう側、マンションとマンションの間に挟まれている。少しの緑があるだけの、公園というよりは広場と呼ぶ方がしっくりきそうな場所だった。
 ようやく追いついたと思えば、ミアカシはすでに跳躍を終えていた。彼女の姿は軽やかに行き交う自動車の流れを越え、対岸のガードレールに着地する。もう二人のことは振り返りもしない。
「っ、行けるかぁ!」
 思わず叫んだが、通行人に訝しげな眼で見られただけだった。
 近くにあった押しボタン式の信号を待ちながら、すっかり上がった息を整える。
「くっそ、何でこんな、走っているんだろう」
 走っても、何をしていいかなんて、まだ答えられないのに。ミアカシがいうように、この胸の中にたくさん答えが詰まっているというなら、今この瞬間に、それがわかったっていいじゃないか。
「みちるが、危ない、からじゃねぇの?」
 貴彦が隣で、やっぱり息があがりながら答えて。
 彰人は首を横に振る。それは確かに理由のひとつだ。でも、答えじゃない。
 ミアカシひとりなら、すぐにみちるのところに飛んでいけた。みちるだってミアカシが危険を伝えれば、無茶なことはせずに逃げだすことができただろう。そこから『記憶』に対峙するのは、ミアカシに任せるべきことだ。
 わざわざ、時間を押してでもミアカシが彰人を連れてきた意味は何だろう。
 ――僕は、どうして生きたいんだ?
 遊間彰人としてのアイデンティティなんて、記憶喪失の自分にはないも同然だった。
 無理して遊間彰人でいる必要は、なかったのかもしれない。記憶喪失になる前の関係に固執しなければ、彰人はもっと楽に生きられたかもしれない。こんな事態にもならなかった。
 遊間彰人と言う名前の別人として生きられたのかもしれないのに、あえてこの立ち位置を選んだ理由を今、自分の胸に聞いている。
 みちるがいたから、貴彦がいたから――そんな他人任せの理由じゃなくて、もっと根本的な、ただ自分が自分であるための理由を。
 車の流れが止まる。信号が青に変わる。
 まだ熱気が残る夕方の空気を肺に満たして、地を蹴る足に力をこめる。
 三年分の空虚を埋め合わせる、答えを見つけるために。



 月見里みちるにとって、遊間彰人は幼なじみで、家族も同然の存在で、そして『初恋の人』だった。
「ねぇ、私が言ったこと、覚えてる? 北海道から戻ってきたら、答えを聞くって」
 ぼんやりとした眼を虚空に向けながら立っていた『遊間彰人』は、その言葉で考える意思を取り戻したかのように再びみちるをしっかりと見つめた。
《覚えて……いる》
 はじめに話しかけてきた頃に比べて茫洋とした声は、それでもちゃんと質問に答えてくれる。
「私ね、すっごく待ったんだよ。答え聞かせてくれるの」
《答え……?》
 聞き返してくる声は感情が抜け落ちたように平坦で、何故かとてつもなく不安を煽る。
《みちる、ここ、どこだろう。飛行機に乗っていたはずなんだけど》
 はじめと同じことを尋ねて、彼は首を傾げる。
 何かがおかしかった。『記憶』が精神体として存在していて、なおかつふらふらさ迷っているこの状況自体だけで充分おかしいのに、何だか会話が噛み合わない。
 昨晩もかみあっていなかったが、それは純粋にお互いが混乱していたからのように思えた。
 だけど今は違う。みちるの声は、遊間彰人の『記憶』にはきちんと届いていない。そんな気がする。
「ねえアキ、どうしたの? もう事故は終わったんだよ?」
 ざわり、と周囲の木々が音を立てた。風は吹いていない。暑苦しい夏の熱気が、急に背にまとわりつくような生ぬるさに換わる。
《……事故?》
 首を傾げて『遊間彰人』は微笑んだ。
 それは三年前の、みちるが好きで、告白までした遊間彰人とは似ても似つかない、もっと得体の知れない――。
 瞬間、空気が暴動を起こした。
 木々がしなり、嬲られ、その身を削られる。みちるの柔らかなウェーブを描く髪の先を、枝葉の矢が射落とす。
「――っっ!」
 声にならない悲鳴が、喉をひくつかせた。
 なおも風は唸り、周囲から雑音が消える。すぐそこの道路で聞こえていた車の行き交う音も、歩行者信号の電子音も、歩道を歩いていく学生の話し声も。
 ただ、緑の枝葉を引きちぎり躍らせる風の咆哮だけが、鼓膜を引き裂く。
 その中心で、少年は立っていた。
 三年前のままの姿で、無表情に、何の感慨もなく暴虐の中心で立ち尽くしていた。
 ――逃げなくっちゃ。
 そう思うのに、足がすくんで動かなかった。荒れ狂う空気の中で、立っているのが精一杯だ。
 風と、風に操られる凶悪な枝葉だけが、この空間を制している。四方を木々に囲まれたこの公園で、逃げ場なんてどこにあるというんだろう。
「伏せろ、みちる!」
 凛とした少女の声が放たれると共に、枝葉が降り注ぐ。
 無数の矢と化した木の枝は、彼女の身体を貫くことはなかった。おそるおそる、固く閉じていた目を開く。自分を庇うように、少女が立っていた。
 赤い糸を両手に絡めた、紅い髪をした不思議な衣装の、神を名乗るその少女の名は。
「ミアカシ!?
「待たせたな」
 ヒーローみたいなセリフを吐いて、彼女は自分の腕に突き刺さった枝を抜いた。人間と同じ、真紅の飛沫がその腕から零れ落ちる。
「ミアカシ、その腕……!」
「案ずるな。トコヨの存在は、傷で死んだりはせぬ」
 振り返りもせず、ミアカシは片腕を朱に染めながらも、その両手で糸を来る。
「とりこ糸とり虜呼び、赤子の背を守りし花よ!」
 糸が麻模様に似た形を作り上げ、二人に襲い掛かった枝葉を弾き飛ばす。しかし、荒れに荒れる風は収まることを知らない。やがて小さなベンチすらも砕き、無数の木の刃へと変える。
「話しあいができる空気ではなさそうだな。お前、アレに何か言ったか?」
 赤い糸の作り上げた護りの防壁の内側で、みちるは混乱しながらも何とかミアカシのいわんとしていることを理解した。恐らく自分が話したことに、彰人の『記憶』を狂わせてしまう要因があったのだ。
「え、と。あ……事故のことを」
「それだな」
「ごめんなさい!」
「お前が謝ることか。これは私の失策だ。完全に思い出す前に封じられたらよいのだが、まぁ仕方あるまいて」
「お、思い出すって?」
「あやつが自分が事故にあったことを思い出したら、終わりだ」
 みちるは自分が最強最悪に強大な地雷を踏み抜いていたことを悟る。だからといって状況を打開できる力は、常人の彼女にはない。おとなしくミアカシに護られているのが精一杯だった。
「しかし、この状況だとこちらが一手を加える隙がないな」
 盾となる形を両手で取ったまま、ミアカシは動けずにいる。会話が成立していた昨晩はともかく、今は一方的に攻撃されている状況だ。ミアカシが操る能力は、糸を繰る時間が必要になる。人間がやるアヤトリに比べれば、それはまさに神速と呼べる速さなのだが、それでも公園中の木々の枝をいっせいに飛ばしてくる相手を止めて、更に反撃に転じる余裕まではないのだろう。少なくとも向こうの意識がこちらに向いているうちは、防戦に徹するしかない。
 枝の矢を受けとめ続けた糸の形が崩れ始める。ミアカシは急ぎ、形を作り直そうと糸を繰る。
「とりこ糸とり虜呼び」
 しかし、暴風は収まらず、木々はうなり。みちるはただ祈るようにして目を閉じる。
「誰を狙ってんだぁ――っっ!」
 場違いな叫び声が割り込んできたのは、その時だった。



 その公園にたどりついた時、二人はミアカシがみちるを庇って立っている後姿を見た。
 すぐにでも駆けつけようと思ったのに、何故か公園の入り口から先に進めない。見えない空気の壁が、彰人たちを阻んでいた。
「どうなってんだ!?
 通行人のいぶかしげな顔も気にせず、貴彦は空気の壁を闇雲に叩きまくる。彰人も空気の壁を押してみたが、びくともしない。
 だけどひとつだけ、やすやすと見えない壁を突き抜けていくものが見えた。自分の胸からミアカシに繋がる、一本の赤い糸――。
「これだ!」
 彰人はとっさに、赤い糸の吸い込まれているその部分を指でこじ開けようとする。
 普通に考えれば無茶だった。これが本物の壁だったとして、糸一本ぶんの穴が開いていたところで、素手で人が通れるだけの穴に広げるなんて絶対に無理だ。考えるほうがどうかしている。
 だけど彰人は、それができると確信した。この糸はミアカシの力で繋がっている。そしてミアカシはやすやすとこの公園の中に入っている。ミアカシの力には、普通の人間には入り込めない見えない壁を突き破る力があるのだ。彼女と繋がっている自分にも、おこぼれくらいはあってしかるべきだろう。
 本当におこぼれがあったのか、それとも気合の勝利なのか。糸が貫く空気の壁に、指が穴をうがつ。後は簡単だった。力をこめて手を伸ばせば、さっきまでは全く、びくともしなかった空気の壁を、身体はやすやすと突き抜ける。
 公園の内側についた途端、強風が身体を凪いだ。思わず伏せたところで、身体が先ほど突き抜けてきた空気の壁に当たる。その向こう側では、貴彦が中空に向かって拳を振るっていた。何か叫んでいるようだが、声は聞こえない。この空気の壁は、音さえも周囲から隔絶させるらしい。
「大丈夫だ!」
 口の動きで何となくでも理解してもらうことを祈り、彰人は貴彦を残して荒れ狂う風の中を走り出す。ミアカシの作りだした赤い糸の形が風を防いでいるのが見える。糸の形は崩れかけ、それでも次の行動に移らないところを見ると、手詰まりなのか。
 糸を繰る彼女の腕が赤く染まっているのを見て、彰人の頭は瞬時に煮えたぎった。
 彼女と対峙する『記憶』は昨晩と全く同じ姿で、しかし雰囲気はずいぶんと変わっている。無表情にじっと、ミアカシとその後ろにうずくまるみちるを見ていて、彰人が来るのにも気がつかない。
 風が進路を妨害する。糸の作る防壁はついに崩れ去り、ミアカシは再び糸を繰るが、腕に傷を負ったせいか少し遅い。何の動作も必要なく、暴虐の風だけで破壊できる相手には分が悪い。
 ただ、夢中になった。一瞬でもいい。一瞬でも気がそれてくれたらそれで。
「誰を狙ってんだぁ――っっ!」
 一歩間違えばマヌケな叫び声を上げて、彰人は『記憶』に向かって突進する。その声に反応したのか、あるいは枝葉の矢降り注ぐ暴風域をためらいなく突き進む存在に驚愕したのか、一瞬だけ風が乱れた。
 その隙をミアカシが捉える。
「我は喚ぶ、火食い鳥の足掛け!」
 二つの輪を作り上げた結び目が走り、『記憶』の手足を絡めとる。だが、それはまだ本体の動きを止めただけにすぎなかった。木々を削り取るポルターガイストを収めないことには、どうにもならないのだ。
 ひとまず、彰人は叫ぶ。あらん限りの力で。
「狙うならこっちだろ!」
 要はミアカシがから意識をそらせれば――彼女が糸を繰る間さえ与えられたらいいのだ。それ以外は必要ない。元より、このポルターガイストの悪魔を止める力は、いたって平凡な人間の力しか持ち合わせていない彰人にあるはずないのだから。
「どうだ、悔しくないのか。僕はお前の身体を奪って生きているんだぞ!」
 焦点があってないように見えた『記憶』の眼に、意識が宿る。敵意と憎しみが溢れて、それは荒れ狂う風となってはじき出された。
「わ、ちょ! 待て、って!」
 こちらは丸腰の一般ピープルだ。武器を持って追い掛け回されるのなら、まだ逃げようもあった。射程距離十数メートルの遠隔広範囲攻撃なんてされて、避けられるわけがない。気をそらすだけでは済むはずがなかった。
 あえなく強風に足元をすくわれ、近くの生垣にダイブする。むしろ生垣のおかげで助かった。なかったらたった一撃でボロ雑巾のように履いて捨てられるところだった。
 標的を自分に向けるところまではばっちりだったというのに。
「アキ!」
 ミアカシの足元になす術もなくうずくまっていたみちるが、悲痛な叫びを上げる。
 茂みの中から腕を突き出して、何とか無事の合図。
 それと同時に、傍若無人なポルターガイストは近くにあったベンチさえもゆらると持ち上げていた。舞い上がる木製ベンチ二つ。いっそシュールだ。
「いやホントマジで待てそれは死ぬさすがに死ぬ僕が死んだらお前も死ぬ!」
 真っ青になってまくしたてた彰人の言葉を、『記憶』は聞いてはいなかった。むしろ聞かれていたらやばかったわけだが。自身の『死』を連想させることが、地雷だというのはさっきミアカシに聞かされたばかりだ。
「彰人!」
 ミアカシが糸を絡めた指先を凪ぐようにして払う。次の瞬間には、見えない力に引っ張られた彰人の身体が茂みの中から転がり出ていた。一拍置いて、さっきまで彰人がいたはずの場所にベンチの猛攻。あまりよく管理されていない感じの生垣が、もう原型を留めない感じにぐしゃぐしゃになった。
「さっさと逃げんか、うつけ者!」
「お、おう! 必死で逃げるから後は頼む!」
 どうやらさっきのはミアカシが糸を使って助けてくれたようだ。ミアカシのための時間稼ぎが、これじゃ何の意味もない。もっと、上手く除けられないものか。
 軋む身体を叱咤し、跳ね起きる。ミアカシは頷き、そして両手の中に再び真新しい糸の輪を作り出した。
「とりこ糸とり虜呼び、木庭の陰にて謡いし精霊よ、月の祈りによりて御霊誘い幽界の檻に籠めよ」
 いつもよりも長めの口上で、形作る。いくつもの三角形を重ね合わせたような、何を示しているのかよくわからない幾何学模様。
 彰人はそれを横目に、できるだけ彼女から離れた場所へ行こうと走り出す。ポルターガイストは、闇雲に辺りの物を巻き込んで飛ばすが、どうやら標的はある程度決まっているようだ。つまり、自分が標的になっている内は、ミアカシたちと離れれば離れるほど彼女達が安全になる。
 空を見上げる。もう一つのベンチは、すでに空中で分解して無数の木片と鉄材に変わっていた。鉄と木でできた数多の刃は、その切っ先を全て彰人に向けている。
 やっぱりそれ、普通に死ぬから。善良で平凡な男子高校生がどうにかできるレベルじゃないから。心の中で叫んだ言葉の羅列は、何の意味もなさない。公園の中から出られない以上、明確な逃げ道もない。彰人にできるのは、ただ闇雲に走り回って、どうにか致命傷を避けることくらいだ。それも、段々生傷が増えて怪しくなってくる。
 風が動き出す。刃が踊る。
 なすすべもなく、堅く目を閉じる。これで終わりなら、記憶をどうこうする前に全てが無意味になってしまう。
「やめてぇっっ」
 その声に驚いて目を開く。目前に躍り出た影。ご自慢のウェーブヘアは風の中で激しく乱れ、半そでのブラウスは枝葉に裂かれたのか、すそが破れていた。
 彼女は――親友で、隣家の住人で、いつも彰人の世話をやいてくれる幼なじみは、大きく両手を広げて、彰人を庇うように立っている。
 ミアカシのそばでおとなしくしていれば、無事でいられたのに。バカか。何やってんだ。様々な感情が絡み合って、だけど言葉にならなくって。彰人は後ろからみちるの手を引く。よろめいた彼女を引き倒して、彼女の上に覆いかぶさって。
「っ! あいたたた!」
 若干間抜けな悲鳴が出た。ばらばらと、背中に木片が落ちてくる。
 そう、落ちてきたのだ。刺さったのではなく、叩きつけられたのでもなく。
 驚いて顔を上げる。まだ空を舞っていたベンチの足や、板の切れ端が、力を喪ってばらばらと垂直に落ちていく。
 風が止まっていた。『記憶』がポルターガイストを止めたのだと、少し遅れて気がつく。
 先ほどまでの怒りをどこかに取り落としたかのような表情で、少年は立っている。三年前の遊間彰人が、迷子になったように心細げな顔で。
《みちる……、どうして》
 彰人の下から這い出し、起き上がったみちるは、目じりに涙をためていた。よほど怖かったのだろう。少し震えながら、彰人のシャツのすそを掴む。勇気を掴み取るように、強く。
 そして、手を離す。すっと立ち上がって。
「バカ言わないでっっ!!
 力強く、叫んだ。
「何なの!? 記憶がなくなっても、記憶しかなくっても、私の中でアキはアキなのよ!? 二人に分裂して混乱してるのはあたしも同じなのよ!? どっちが死ぬとか生きるとかそういう問題じゃないの! そりゃあ今のアキは昔のアキとは全然違うけど、それでも死んだっていいとか思うわけないでしょ! 今のアキだって、あたしには大切な友達なのに。わかんないの!? あたしがそんなこと望むって、本気で思ってるの!?
 勢いよくまくし立てた後、みちるの目からこらえきれずにあふれだした涙がぼろぼろとこぼれ始める。
「ねぇ、あたしの言ってること、わかる?」
《…………》
 三年前の自分の面影をそのままにした少年は、答えない。
 『記憶』から 敵意が薄らいだのを感じ取ったミアカシが、両手に絡まる糸を解き新しい形を作り始める。
「とりこ糸とり虜呼び、風の乙女の歌誘い、月の涙の陽炎の、赤の花咲く彼岸逝き」
 歌うように、囁くように、不思議な響きを持つ言葉と複雑な工程を経て紡がれるのは、指をぬけ、手首を通り、幾重にもねじれた不詳の図形。
「花畔を望みて遷し世還る。詠みの原を願い乞う。我は取り子なり、御霊の踊る地の担い手として参ず」
 美しい円弧を描き、放射状に広がる、紅い糸。鳥かごのように、あるいは包み込む指先のように。糸は溢れ、溢れて紅糸の花が咲く。
 ミアカシがこちら側の世界に来た時と同じだ。淡く紅く輝く花弁は、夏の公園を鮮やかに染め上げていく。
 その糸の一つ一つが、動けずに立ち尽くしていた『記憶』に絡まって。毒気を抜かれたような顔で、彼は自分の身に降りかかる紅い糸を見つめていた。
《俺、は?》
 その言葉からは、錯乱も、困惑も、憎悪も、全て抜け落ちて、しっかりとした自分の意思を――持っているかのように、思えた。
《お前……?》
 『記憶』が彰人を見る。その目には警戒の色が混じっていた。まるで今初めて会ったかのような反応だ。昨晩どころか、さっきまでのことも覚えていないんだろうか。ミアカシは、時間が経てば経つほど、精神体は理性を保てなくなると言っていた。錯乱していた間のことは覚えていられないのかもしれない。
 彼はちらりとみちるを見て、紅い糸が絡まった手を、伸ばして。
《みちる》
 彼女の名を、呼んだ。
「アキ……?」
 みちるも、彼の名を呼んだ。彰人はそれを聞きながら、何だか複雑な気持ちになる。アキ、と。自分が呼ばれるのと同じそれは元々、今目の前にいる『彰人』のあだ名だったのだ。
《あの時の答え、言ってない》
「いいよ、そんなの、いつだって。あたしは気が長い女なの」
《だめだ》
「……何が?」
 ブツ、と何かが切れる音を聞いた。最初は何の音かわからなかった。
《思い出したんだ。いつでもなんて、ない。俺は――》
「彰人!」
 ミアカシが焦ったように名前を呼んだ意味もわからなかった。
 一瞬の後、答えはわかった。
 ――『記憶』に自分が死んだということを思い出させてはならない。
《俺は、死んだんだ》
 ――『死』を思い出すことで、身体は記憶にある最後の状態に戻ろうとする。
 ブチッ、と大きく、何かが切断される音。
「あ、あああああぁああああぁぁああああ!!
 理解した瞬間に、絶叫が漏れた。
 ブツ、プツン、と。これは、糸の切れる音だ。
 一瞬遅れて襲ってくるのは、右腕を襲う激痛。左手で押さえつけると、ぬらりとした生暖かい感触。
 それがずるりと、赤いしずくを撒き散らして下に落ちていく。
 視界が明滅する。自分の手が赤く染まっていく。神経が千切れて、肉がつぶれ、骨が軋み、皮膚が破れる。右手を庇い、うずくまろうと動くと、今度は左足の制御ができなくなってぐらりと大きく身体が傾く。無様に芝生の上に落ちた身体は、もう完全に彰人の支配が利かない存在になっていた。
「え? あ? ああ、アキ!?
 みちるの声が、ぐちゃぐちゃになった思考の中に混ざりこんでいく。
 息が出来ない。苦しい。皮膚の裂ける音がする。骨が折れる音がする。肉が、神経が、叩き潰される音がする。
 もう、何も考えられない。
「とりこ糸とり虜呼び、紅の彼岸よりなお遠く、黄泉の水よりなお深く、闇のみぞ知る深淵よ来たれ」
 ミアカシの声が、遠ざかっていく意識の中で、かすかに聞こえた。



 紅い花。満天の星。
 彰人はまた、あの河原のたもとにいた。ミアカシと初めて出会った場所だ。
 誰もいない。柔らかな風だけが、時々額にかかる前髪を揺らした。
 まずは、自分の両腕を伸ばしてみる。怪我なんてしていない。皮膚は健康的な肌色で、血肉や骨の色がスプラッタよろしく顔を覗かせているわけではなかった。
 ――これは……死んだかな。
 ミアカシが住んでいたトコヨという場所は、本来ならば死なないとくることができない場所らしい。自分がここにいるということは、そういうことなのか。いや、まさか……。
「ミアカシ! いないのか!?
 昨晩の夢みたいに、ミアカシの声が聞こえてくるかもしれない。
 叫んでみても、返事はなかった。
 そういえば、自分の胸につながっていたあの糸はどうなっているんだろうか。見下ろすと、糸はまだ左胸から伸びていた。その行き先は、前と同じく、静かに流れる川の中へと。
 河岸に立って、水面を覗き込む。紅い糸はほのかに輝きながら深い水底へとゆらゆら吸い込まれていた。
 この糸が繋がっている間は、お前は死なない。死なせない。
 ミアカシがそう言った。この糸は、まだミアカシと繋がっているのだろうか。そうすると、まだ自分は死んでいないんだろう。
 わずかな希望観測をもって、彰人は糸の吸い込まれる水面に手を伸ばす。
 瞬間、水面が大きくうねった。
「――っっ!?
 悲鳴をあげる暇もなく、彰人の体は暗いうねりの中に糸も簡単に飲み込まれていく。
 冷たくはなかった。息も苦しくならなかった。そもそも、自分は息をしていないのだと気づいた。
 ただどこまでもどこまでも、沈んでいく。底を見ようとしても、目に映るのは暗ひたすら鮮やかな真紅。星の明かりも、河岸に咲き乱れる紅の花も、ここには存在しない。赤い水がうねりながら彰人の身体を深淵にいざなう。
「話が……あるんだけど」
 不意に声が聞こえてくる。
 闇雲に手足をばたつかせて、何とか声のする方を見た。鮮烈な赤がやわらいで、見慣れた風景が視界に飛び込んでくる。隣同士の遊間家と月見里家。二階の向かい合わせにある彰人とみちるの部屋は、それぞれ窓が開け放たれている。青々と茂った庭木が、少なくとも季節が夏場であることを教えてくれた。
 今よりも少し幼くて、緩やかなウェーブを描く髪も肩に届いていなくて。そこには中学生時代のみちるの姿がある。一方、向かいの窓で頬杖をついている自分の顔も、今よりも幼い。
 彰人の記憶にはないシーンだ。多分、記憶喪失になる前のできごとだろう。
「なんだよ、こんな時間に改まって。あ、わかった、愛の告白だろ! わかるぞ、俺ってかっこいいもんなぁ!」
 ニヤニヤと笑いながら冗談を言う三年前の自分。彰人知るみちるなら「そんなわけないでしょ、バカじゃないの!」と辛らつな一言で斬り捨てるところだ。
 だけどそうじゃなかった。部屋から漏れ出る薄暗い明かりでもわかるくらい、彼女は顔を真っ赤にしている。
 思えば、彰人はパジャマ代わりらしいTシャツとハーフパンツ姿なのに、彼女はきっちりとよそ行きらしいワンピースを着ている。ただならぬ気配に気づいた彰人はあせあせとしていて、微笑ましいというべきなのか、情けないというべきなのか。
「べ、別に返事は今じゃなくていいからっ! むしろ、今即答されても困るっていうかっ!」
 ちょっと上ずり気味の声でみちるがそう言って、彰人も首をぶんぶんと縦に振る。
「その、あの……、恋愛的な意味で、見て欲しいかな……って!」
「あ、ああ、その」
「う、うん」
「へ、返事はその……」
「い、今は言わないでって言ってるでしょ!」
「だ、だからその、わかった。明後日から北海道行くから、帰ってから言う」
「う、うん、お願い。それじゃ!」
 ピシャン、と窓を閉めて、シャッとカーテンが引かれる。みちるの姿が消えた窓を見つめながら、彰人は百面相をしている。さっきのみちると負けないくらい赤い顔をして。空を見上げたり地面を見下ろしたり、忙しい。
 ――何だこりゃ……。
 第三者の視点でこっぱずかしい告白シーンを見せ付けられた彰人(現在)は、呆然としていた。
 みちるが自分に告白していたという点についてももちろんだが、自分の反応にも。彰人にとって、みちるはあくまで幼なじみで親友だったからだ。たとえば今のみちるに告白されたとしても、ピンとこなかったに違いない。過去の思い出を共有できない負い目が、恋愛的感情から彰人を遠ざけていた。
 どうやらまんざらでもなさそうな自分に「ありえないだろ!」とつっこみたくなっている。
 だけど、本当はわかっていた。むしろ今までの場面場面を思い出すと、自分はちょっと鈍すぎるんじゃないかとも思う。
 ――だって、貴彦と合わせて三人セットな感じだったし……。
 心の中で言い訳を繰り返していくと、再び世界は真紅に塗り替えられた。もう落ちているのか昇っているのか浮かんでいるのかもわからない。
「あー、わかった。みちると何かあったんだな」
 次に見えてきた場面では、やっぱり今より少し幼い貴彦が、呆れたような顔で家の前の塀に寄りかかっていた。彰人と二人並んで缶ジュースを飲んでいる。
「あれか、告白でもされたか」
 ぶふぉ、と彰人が派手にジュースを吹き出した。
「なななな、なんで」
「汚ねぇ! つか、お前はわからないかったかもしれないけど、あれだけあからさまに態度おかしくなってたら普通わかるだろ?」
「わかるか!?
「おう。愛の力は全てを見ぬくぜ」
 今度は、ジュースを取り落とした。飲みかけのジュースがこぼれ落ちてアスファルトにシミを作っていく。
「もったいねぇ!」
「そんな場合かっ!」
 額に容赦なく本気のチョップをいれる彰人。なかなか素敵な音がした。どうやら当時の自分は、ツッコミが今よりもずっとアグレッシブかつバイオレンスだったようだ。
「いてぇ! ひでぇ!」
 貴彦のノリはあまり変わらない。あくまで、ノリだけは。
 ぶつぶつと文句を言いながら、彼は額をさする。
「お前さー、帰って来た後に答えいうとか言ってるけど、もう答えとっくに決まってんだろ? だからさ、嫌がらせ。せいぜい悩め、でも答えは変えんな」
「ああ、そうかよ……」
「そうだとも。俺は新しい愛を求めるぜ。あと、北海道土産は黒い恋人でヨロシク」
「くそ、悩む気が失せる!」
「はははは、失せろ失せろー!」
 場面が暗転する。会話から想定するに、事故の当日か前日か。
 ――なんだこの微妙な三角関係……。
 自分が考えていた記憶喪失前の関係と、だいぶ食い違っている。
 考えるまでもなく、みちると貴彦がかつて三人の中にあった微妙な恋愛模様を、彰人の記憶喪失と同時に綺麗さっぱりもみ消してしまったからだろう。
 二人は記憶をなくしても変わらずに接してくれていたのではなくて、記憶をなくした彰人と新しく関係を作ることを選んだ。
 だけど、きっとそこには彰人には到底わからない、葛藤があったはずで。
 それは、彰人のためではなかったのかもしれない。自分達が知っている彰人がいなくなってしまった穴を、すぐに埋め合わせなければやってられなかったのかもしれない。彰人が自分勝手に怯えていたのと同じように、もっと独善的で欺瞞に満ちた理由が、奥底に眠っているのだろうか。
 だけど、そんなことは些細なことだ。
 記憶をなくした自分が、二人にとっていらない存在にならないように。三年間、彰人はそんなことばかり考えてきた。それと同じことを二人が考えていたとしても、それは決しておかしなことじゃなくて。
 ――これは、走馬灯ってやつなのかな。
 暗転しては様々な場面が現れる。三人の思い出もあれば、それぞれとの思い出もある。あの二人とは全く関係ない、写真でしか知らない家族との思い出もある。
 自分の知らない自分の記憶が、浮かんでは消えていく。
 北海道行きの飛行機に乗る前、小学生だった妹が窓の外から飛行機を指さして笑う。 飛行機の中、窓の外の景色が傾いて、浮上していく機体さっきとはうってかわって、隣にいる自分の手をぎゅっと握る妹。
 大丈夫だよ、飛行機が落ちるなんて、そうそうあることじゃないんだから。
 そう言って笑う、三年前の自分。
 乗った飛行機が衝撃に揺れる。悲鳴をあげる乗客。浮上した時とは逆の角度で、より鋭角に傾いていく。轟音、衝撃、熱気、悲鳴。
 最後の一瞬、隣の妹を守ろうとしたのか、それとも生き残るための希望を掴み取ろうとしたのか。手を、伸ばす。
 伸ばした先にあったはずの、妹の身体は手ごたえがなかった。その代わりに腕が別の方向を向いていた。折れた骨が肉と皮を突き破って、赤い飛沫を散らす。
 一瞬遅れて、衝撃で突き出た金属片が足を貫く。それから――それから。
 わからない。世界は暗転する。意識がなくなったのだろう。ただ、バラバラになって燃え尽きていく飛行機と一緒に、自分の身体もバラバラになっていく音が聞こえていた。皮膚が破ける音、肉が潰れる音、骨の砕ける音。それら全てを炙る熱風。
 暗かった。何も見えなかった。いつしか自分の身体がぐちゃぐちゃになっていく音も、消え去っていた。
 意識が落ちる寸前に、視界がぐにゃりと不自然に歪んでいくのが見えた。
 歪んで、落ちる、世界は。星と、花と、水と――。
《俺は死んだんだ》
 声が聞こえる。三年前の自分の声。
 その声に、彰人は答えた。
「違う。ここに落ちた」
 情景は消え去り、赤い世界には二人だけしかいなくなった。
 仰向けになって倒れている少年を、彰人は漂いながら見下ろしている。
 ここが世界の底らしい。彰人から切り離された、十四年分の記憶の深淵。
「どうして死んでいると思うんだ? ここに僕がまだいるのに」
 たとえ、本当なら死んでいたのだとしても。
 死ぬのが正しい運命であって、世界にとって受け入れがたい存在なんだとしても。
 この三年間、遊間彰人という人間が存在し、生きていたという事実は覆せない。遊間彰人は生きている。死んでなんかいない。
 ――今更簡単に、死ねるはずがない。
「お前、生きたいのか? 死にたいのか?」
 ミアカシがしたのと同じ質問を投げつける。
 自分の胸の内に――自身の『記憶』に、問う。
「生きたいなら、こんな所に沈んでいる場合じゃない。死にたいんだったら、生憎だけど僕が生きたいから寿命まで付き合ってもらう」
 血だまりの中で横たわる死体の目に、意思の光が宿る。
「言っただろ! お前が死ぬと僕まで死ぬんだよ!」
 ――僕は、ずっと憧れていたんだ。
 ミアカシが、限られた時間に抗いながら生きる人間に憧れたように。
 みちるや貴彦という得がたい親友がいて、その上親友たちは自分のことをすっかり忘れてしまってもまだ、温かく支えてくれて。
 記憶を失くす前の遊間彰人は、彼らをそうさせるだけの価値がある人間だった。
 その事実が、羨ましくて、悔しくてたまらなかった。
 走っている理由は――遊間彰人というアイデンティティにこだわって、苦しんでまで今の生き方を選んだ理由は、自分が『遊間彰人』に憧れて、そうありたいと願ったから。
「どうしてほしいんだ!? 生きたいのか? 死にたいのか!?
 手を伸ばすのは。
 誰かとつながりたいから。つなぎとめたいから。
 誰かを助けたいから。誰かに――助けて欲しいから。
「僕に、助けて欲しいのか!?」 
 赤い水の中で、少年と眼があった。憎しみも消えて、虚ろに支配されているのでもなく、ただ十四歳の少年の顔で。三年前の遊間彰人そのものの姿で。
 手を、伸ばした。
 口を、動かした。
 ――たすけて、と。
 そう言っていると、思った。
 だから、この伸ばされた手は助けられるためにある。伸ばした手は助けるためにある。
「僕は――僕たちは生きるんだ! 僕が死んでないんだからお前だって死んでいるわけない! 僕は、お前なんだからな!」
 手と手が触れ合って、固く握り合った瞬間に、赤い水は二人で一人の彰人たちを更なる深みへと押し流していく。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み