1.真夏の夜のコックリさん

文字数 20,364文字

■プロローグ

 ――神様。
 いるのかわからないけど、神様。
 一度だけでいい。願いを叶えてくれ。
 神様。
 いなければ、天使でも悪魔でも仏様でも何でもいいから。
 約束したんだ。

 神様。
 神様は、どこにいるんだろう。
 手を伸ばせば、神様に届くだろうか?

 あの日、あの時。多分、生まれて初めて本気で神様を信じた。
 生まれて初めて、顔も見知らぬ誰かに、祈った。
 少しでも、近づくように。届くように、手を伸ばした。
 手を伸ばした先に、あったのは――。

「生きたいのか、お前」

 誰かの声が聞こえた気がする。
 それに、答えた気がする。死にたくない。何て当たり前な願いごとだろう。

「そんな風になってもなお、生きる理由は、あるのか?」

 それは、他の誰かにとっては何の特別でもなかったかもしれない。
 あるいは彼女にとっても――運命を覆すには足りない、まだ淡いささやかすぎる想いであったのかもしれない。
 だけど、思い出していた。
 ――帰ったら、答えを言うから。
 どうして、あの時に言わなかったんだろう。
 生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。
 だから、神様――。

「神様は、ここにいるぞ」

 そこは、闇だった。
 一筋の光も差さない、黒々とした視界が広がるだけの、真の闇だった。
 あるいは、ただ見えていないだけなのかもしれない。自分が目を閉じているのか、開いているのかもわからない。
 わかるのは、体中を苛む痛みと熱だけ。
 息苦しさはなかった。そもそも、呼吸をしていないことに気づいた。
 ただ、痛くて熱くてたまらない。それ以外の感覚が存在しない。身体のどこも動かせない。身体なんて、今の自分に在るんだろうか?
「……大丈夫だ、私が帰してやる」
 突然、声が響いた。聞こえた、というよりも、直接心に響いてきたような感じだった。
 それでも構わない。痛みと、それがもたらす熱と、この二つ以外にも世界に存在しているのだとわかったから。
 どくん、と脈打つように痛みが爆ぜた。声が存在するならば、絶叫していたかもしれない。
 しかし、それが引くと同時に、暗闇しかなかった世界に光が舞い上がった。
 天は黒。どこか蒼みがかった暗い空。
 地は紅。堕ちる刹那の夕日のような、血潮が溢れる母胎のような、紅が一面に広がる。
 にじんでいた視界は次第に明瞭になって、やがて世界の輪郭を取り戻す。
 天は星を満たした夜空だった。血のように紅いその光は、花の群れだ。細い、糸のような花びらをたくさんもった、菊に似ている形の紅い花。暗闇を照らすように咲いている。
 どうしてこんな場所にいるのか、まるで思い出せない。
 すぐそばに、少女が座っている。ほのかに赤らむ花灯りに照らされただけでは、顔立ちまでは見えなかった。それでも彼女が、地上を満たす花の群れよりも、綺麗なものに思える。
 彼女の両手には、赤く細い糸がかけられている。複雑な形を作ってはほどけ、また絡み合って新たな形を作り出す。アヤトリに似ているけれども、指と指で糸を取り合うのではなく、一瞬で形が変わる。さながら万華鏡のように、くるくると。
 一つの形ができて、それがほどけていくたびに、痛みが体中を駆け巡る。
 だけど、その度に体の感覚が戻っていく。視覚の次は聴覚が。流れる水の音がする。川があるんだろうか。聴覚の次は嗅覚が。辺りに満ちている柔らかい香りは、この紅い花のものだろうか。
 手の平で赤い糸を躍らせながら、少女は微笑む。
「大丈夫だ。私がお前を元の形に縫い合わせて、必ずウツシヨに返してやる。だから……」
 だから、なんだろう。
 少女はその続きを口にしなかった。
 赤い糸を指先に絡めたまま、彼女はそっと頬をなでてくれて――いつのまにか身体の感覚が戻ってきている――そして、それきり意識は再び闇に堕ちる。
 今度は、痛みと苦しみのない、優しい眠りの世界へと。
 穏やかな眠りへの魔力に抗えるはずもなく、深く深く、沈みこんでいく。
 もしも声が出るなら伝えたかったのに。
 ただ、一言だけでよかった。
「ありがとう」
 ただ、それだけで。

 そして、遊間彰人(あすま・あきひと)は生きる者の世界へと帰って来た。
 夏休みが終わる八月三十一日。
 一五〇人以上の死者と数十人の行方不明者を出した旅客機墜落事故から約一ヶ月、唯一の生還者として。


《第1章》真夏の夜のコックリさん

 人生にこれ以上のドッキリイベントはいらないと思う。
 夜も更け行く午前〇時。遊間彰人は、リビングの隅に呆然と床に座り込んでいた。二つのソファには、親友たちが横たわっている。
 そんな中。
 パリポリ、パキ、ポリ……。
「梅味は良いな。酸味がたまらん。しかしこのニンニク醤油味もなかなか……初めに食べたコンソメ味も捨てがたいな」
 マヌケな乾いた音が響く。発生源は床に座ってテレビを見つつ、のん気にポテトチップスの味をかみ締めている少女。
 実にシュールな光景だった。その行為自体は限りなく日常的なのに、それをやっている彼女が日常から斜め四十五度上にはみ出しているからだ。まず、格好がありえない。白い着物みたいな上着と赤い袴、勾玉と金色の飾りを、服や髪の毛に組み紐で結び付けている。何というか、服装が邪馬台国の時代までタイムスリップしている。なまじ顔が綺麗に整っているだけに、異質感がさらに強まる。
 テレビの人物に合わせて動く彼女の頭では、目の覚めるような紅をした髪が、クセもなくさらりと揺れる。何がそんなに面白いんだろう。ただのニュースなのに。
 カリポリ、ペキ……。
 ひたすらポテトチップスを貪る古代人風味の紅髪美少女は、手を止めて、くるりとこちらを振り返った。
「この稀なる美味の供物は、他にないのか?」
「おま……まだ食う気か」
 ポテトチップス大袋三つをぺろりと平らげて、この上まだ食べると? こいつは我が家の非常食(という名のおやつ)を何だと思っているんだろう。
「何だ、食いたかったのか? やらんぞ?」
「そもそもお前のために買ったポテチじゃない」
「助けてやったのは誰だ?」
「ぐっ……」
 底意地の悪い笑みで問われ、彰人は返事に窮する。そのとおりだった。ついさっき、彼女に絶体絶命のところを助けられたばかりなのだ。それも、どうやらこれで二回目らしい。
「命の恩人に対する礼には、この程度で充分だと思うわけだな?」
「いや、その、あ……明日で良ければ」
「うむ、今日はもう遅い。こちらでは、夜は眠りの時だろう。供物のために走れとは言わぬ。明日には供物を五袋用意せよ。それでよい」
「五つも食う気か!?
 大袋三つでも、見ているこっちが胸焼けがしてくるくらいなのに、更に二袋追加ときた。明日の昼食代は諦めるしかなさそうだ。そもそも学校に行っている場合なのか?
 彰人の心配などどこ吹く風の彼女は、袋の底に残ったかけらまで綺麗に食べつくす。
「ぽてち五袋なんて、命に比べれば安かろう?」
「そりゃそうだけどさ……」
 彰人はちらと眠っている親友たちに目をやった。
 二人とも、とんでもないことに巻き込んでしまった。 
 彰人の思いが伝わったのか、
「悪いようにはせぬよ」
 少女は微笑む。さっきまで、ポテトチップスの袋を抱えてポリポリとやっていたのと同じ人物とは思えないくらい、悠然として神々しく。
 すっと突きつけられた指に、心臓を射抜かれたような気がした。
「大丈夫だ。私がお前を守ってやる。必ず平和な日常に帰してやるからな」
 彼女は微笑む。
 何度も夢にくり返し見た、あの時と同じように。
 ――大丈夫だ、私が帰してやる。
 あの時と同じことを言って、微笑む。
 だから彰人は、あの時には言えなかったことを言おうとして――だけど、何故か言葉にならなくてただ頷いた。

 夏休みの迫る、満月の晩。少年と少女は『再会』した。



 発端は半日前、夏の熱気が地面を焦がしていた昼下がりから始まる。

 私立斎宮(いつきみや)高校二年C組、遊間彰人は平凡な人間だ。
 少なくとも自分ではそう思っている。十人並みの容姿に中の上をキープし続ける成績、運動神経は可も付加もなく、目立つ趣味や特技もない。だけど他とは違うところがひとつだけあった。
 過去の思い出がない。全生活史健忘――いわゆる記憶喪失だからだ。
 事故に巻き込まれて、自分に関する全てを忘れてしまった。駆けつけてきた知り合いに囲まれ、「ここはどこ? 私はだれ?」を素でやった覚えがある。今後記憶を取り戻せるかは、医者にもわからないという。
 幸い、勉強や社会常識の記憶は残っていたので、日常生活に支障はなかった。命に関わることでもなく、不安でたまらなかった時期もとうに通り過ぎている。
 彰人にとっては、今この場所の不快指数を下げることの方が重要だった。エコロジー志向で冷房を抑えられた教室は、軽く汗ばむ微妙な気温で、快適とは口が裂けてもいえない。今もノートをウチワがわりにして仰いでいる。
 焦っても嘆いても戻らないものは仕方がないんだから、この暑さに比べたら記憶喪失なんてどうでもいいことだ。
 だけど、周りの人間までそうとは限らない。昔から親しい間柄なら、彰人以上に色々と大げさに考えている。だから、
「記憶を取り戻す秘策を見つけたんだ」
 小学校からの腐れ縁(らしい)広崎貴彦〔ひろさき・たかひこ〕が妙な解決法を持ってくるのも、割と日常茶飯事だったりする。黙っていればそれなりモテそうな感じの外見だが、思考回路は残念ながらかなりのバカだ。そのせいか、異性にモテているところを見たことがなかった。
「今度はどんなバカ話?」
 隣で聞いていた月見里〔やまなし〕みちるが、深いため息をつく。天然だと学校に証明するのがひと苦労らしい、ご自慢の色素薄めなウェーブヘアを指でもてあそびつつ、涼しい顔でのツッコミだった。
 ちなみに彼女も幼なじみで、彰人とは家が隣同士だったりする。小学校どころか、下手をすると赤ん坊時代からの付き合い(のはず)だ。顔立ちがくっきりとした美人ですらりとスタイルがよく、こちらは実際に男子にモテている。その割に彼氏ができているのは見た事がない。当然ながら彼女は貴彦とも幼なじみだ。
 気心が知れている幼なじみ同士、この三人組でつるむことが多い。
 記憶を失くす前も、その後も。
「みちる、冷たいな。俺は彰人のことを思ってだな」
「まさかまた五円玉を糸にぶらさげて、あなたはだんだん眠くなる~とかやるつもりじゃないでしょうね」
「俺がそんな低レベルな催眠術に頼る男に見えるのか!」
「見えるわ」
 弁舌なめらかな貴彦に、みちるがやはり淡々とツッコミを入れる。
 貴彦が助けを求めるような視線を送ってくるので、彰人はひとまず同意を示す。
「うん、見えるな」
 駆け込もうとした目の前で、電車のドアが閉まった人みたいな顔をされた。そこまでショックか。前科があるんだから自業自得だろう。糸にくくりつけた五円玉を揺らして……というのも、彼が作った数ある逸話のひとつに過ぎない。あの時は困った。五円玉を揺らしている本人が、あまりの退屈さに眠ってしまうんだから。つまりは毎回そういう次元ということで。
「自称催眠術に心理テスト、ショック療法と称してハバネロドリンクを作り、味見してみて自爆……あと何かあったっけ」
 真っ赤な怪汁を飲んで床を転げまわる貴彦の姿を思い起こしつつ呟くと、みちるも彼の暴走記録を思い起こしていたようで。
「お百度参りをして三十回で挫折、ピラミッドパワー水晶に拝むとかね。アキ、こいつ、いつか絶対怪しい壷を買うわよ」
「そんな金ねぇよ!」
 金があったら買うのかよ。悲鳴のような声で言い返す貴彦を横目に、彰人は心の中でツッコミを入れる。彼はきっと、金を持ったらダメになるタイプだ。セールスマンにのせられて布団でも百科事典でも、何でも買ってしまうだろう。
 ……貴彦の心配はともかくとして。
「で、結局何を思いついたんだ」
 やんわりと話を戻すと、貴彦は再び使命感に燃える瞳を取り戻す。
「俺の妹の学校で、今流行っているらしいんだ」
「は……?」
 名前は広崎奈緒(ひろさき・なお)で、現在中一の十三歳。貴彦とは兄妹仲がよく、シスコンブラコンの関係。
 思わず貴彦妹のプロフィールを思い出し、そして首を傾げる。貴彦の妹と記憶を取り戻すことの因果関係はどこにあるんだろう。
 貴彦は得意満面の顔になって、一枚の紙を取り出して机の上に広げて見せた。
 五十音のカタカナ、数字、YES・NOの表記、骨人間のような絵。コピー用紙に手書きで書かれている。用途がわからない上に何だか不気味だ。
「こっくりさん?」
 みちるにはすぐにわかったらしい。少し驚いて彼女を見ると、みちるはその用紙を手にとって観察していた。
「うん、細かいところは違うけど、これ、こっくりさんに使うのだよ」
「こっくりさんって、あの狐の霊を呼び出すとか、そういうの?」
 確か十円玉を使うやつだ。実際にやったことがあるかはともかく、日本人ならば一度は耳に挟んだことがあるくらいにはメジャーだろう。
「霊っていうのは思い込みで、無意識に自分で動かしちゃうのよね。あたしもやったことあるわ。……で、こっくりさんに頼むとか言わないわよね、貴彦?」
 じっとりと横目で睨むみちるから紙を奪い返して、貴彦は鼻で笑った。
「霊を呼び出すなんて言ってねぇだろ。これはな、こっくりさんを利用した深層心理解明装置なんだよ! 交霊術の形式を取ることにより、自分では普段気づかない隠された心が無意識の内に表に出て、質問に答えてくれるという……」
 語りに力がこもってきた貴彦に、彰人は生返事を返し、みちるは不審そうな眼差しを向ける。
「はあ」
「ふーん」
「心の奥深くに眠る記憶も、これによって表に出てきて目覚めるわけだ!」
「へぇ」
「あっそう」
「お前ら、せめてもうちょっとノってくれよ!」
 両手で頭を抱えてガッデムのポーズをとる貴彦。彰人はみちると顔を見合わせ、そしてどちらともなく。
「そんなことないって、ノリノリだって。な? みちる」
「うん、もう超ノリノリー。ね? アキ」
 二人そろって棒読みでノってみた。ガッデムがさめざめとした泣きまねに変わった。さすがにちょっと可哀想になってきたような。
 そういえばウチワ代わりにしていたのは、次の授業で使う数学のノートだった。妙案を思いついて、彰人は貴彦の肩をぽんと叩く。
「でもまぁ、僕のことを考えてくれるのは嬉しいから、一回くらいならつきあってやってもいいぞ」
「マジか!?
 泣きまねも忘れて笑顔になった貴彦に、彰人は数学のノートを突き出した。
「ところでそのわざとらしいまでのバカっぷりを見ると信じたくないけど、お前は数学が得意だったな? もちろん宿題、やっているよな? 僕、今日は当たりそうなの思い出してさ」
「あー、はいはいわかったよ。心のままに書き写せ!」
 貴彦は投げやりに自分のノートを寄越す。数学が苦手な彰人はありがたくそれを受け取った。そういえば二人とも、自分が理数系が苦手なのは記憶を失う前から同じだって言っていたっけ。記憶が全部すっぽ抜けても、人の本質なんてそう変わらないんだろう。
 そのやりとりを横目に、みちるは軽くため息をついた。
「別に、貴彦の道楽に無理して付き合わなくてもいいのよ」
「無理なんかしてないって。貴彦も本気で嫌がることはしないだろ」
 いつぞやのハバネロドリンクも自分だけ飲んでオチをつけたわけで、彼だってその辺はきちんとわきまえている。むしろ腫れ物に触る扱いをされるよりも、直球すぎてかえって後腐れがない。そこが、彰人が彼の暴走に付き合う理由である。
「まぐれで記憶が戻ったらそれはそれだし。みちるは僕の記憶が戻ると困るのか?」
 彼女は面食らったように目を見開いて、次の瞬間には焦ったように両手を使って否定をする。
「そ、そんなわけないでしょ! 心配してあげているのよ!」
「検査とかにはサボらず通っているからさ、気にしなくてもいいって」
「そう? ならいいわ。貴彦がバカなのも、アキが変なところに付き合いいいのも昔っからだもん」
 一転、いつもの調子に戻った彼女は、しみじみと頷いた。
 昔から。きっと、そうだろう。
 記憶喪失じゃなくたって、貴彦はバカなことを提案してくるんだろうし、みちるはそれにツッコミを入れるんだろう。自分は適当にどちらか(大抵みちる)に肩入れして、それなりに楽しむんだろう。
 だからきっと――こういう日常を送っているのは間違いじゃない。
 実際、記憶喪失を冗談のネタにできるくらいには、溶け込めている。一緒に過ごした日々を忘れたままでも、二人は自分の親友だ。
 彰人は機械的に宿題を書き写しながら、なんとはなしに会話を続ける。
「――そういやさ、そのこっくりさんもどき、本当に流行ってんのか? ネタだろ?」
「ネタでもねぇし、こっくりさんでもねぇよ」
「じゃあ、何ていうんだよ」
「もう一人の自分と対話する催眠術、その名も『ドッペル様』だ!」
 ……何か、急に付き合うのがバカらしくなったのはどうしてだろう。

 こうやって呆れるのも、平穏で優しい日常の一部。
 自分の居場所が確保されている証明なのだと――その時はまだ、思っていた。



 記憶を失ったのは三年前の夏。
 何も覚えていないわけだから、当然知っていることは全部後から教えてもらったことだ。
 三年前の八月二日、北海道行きの旅客機の通信が途絶える。その旅客機は航路を少し外れた東北の山中で墜落、炎上しているのが発見された。
 機体は大破、乗客乗員のほとんどは死亡、一部は遺体が見つからず行方不明、事故の状況から生存者の存在は絶望視される。――しかし、生きて戻った人間が一人だけいた。
 事故からほぼ一ヵ月後、八月の三十一日。事故のあった山から一番近い村で、山道の入り口に倒れていた少年が保護される。服装はあまり乱れておらず、目立った外傷や衰弱はない。その代わり自分に関する記憶を全て失っていた少年は、持ち物などから、事故機に乗っていた遊間彰人と特定される。飛行機に同乗していた他の家族は、死亡が確認されていた。
 墜落事故唯一の生存者が一ヶ月近くたってから無傷で保護され、しかもその一ヶ月を含む全ての記憶が本人にはない。謎に包まれた生還劇は『現代の神隠し事件』として日本中を騒がせた。
 当事者である彰人としては、とてもはた迷惑なことに。何だよ神隠しって。
 今でこそ平穏な日常も、かつてはめちゃくちゃだったのだ。そういう時に助けてくれたのは誰かと言えば、やっぱり貴彦やみちるだったわけで。彰人が足を向けて眠れないと思っている親友一号、貴彦は今、彰人の部屋でだらだらと漫画を読んでいる。深層心理解明装置というよりは謎儀式と呼びたい、その名も『ドッペル様』(本当にあんまりなネーミングだ)の遂行には、夜が適しているとかで。学校を終えた後、貴彦は家に帰らずそのまま彰人の家まで来た。みちるはさすがに野郎二人にずっと付き合うつもりはないらしく、時間まで家にいると帰っていった。そういうわけで、今は野郎二人で暇つぶしタイムだ。
 例の謎儀式用紙をひらひらと振って、彰人はふと心の内に湧いてでた疑問を呟く。
「何で今更、なぁ。心理テストとか自己催眠とか、大昔に通った道だろ」
「だってお前、前に言ってただろ? 記憶を失くしてから時々見る夢があるとか」
「ん? 今でもたまに見るけど、それが何か?」
 確かに彰人は、同じ内容の夢を何度もくり返して見ていた。記憶を失う前には一切話題にならなかったというから、恐らく記憶喪失になった後から見るようになったんだろう。
 真っ暗闇に自分がいる。そこに声だけ聞こえてくる。段々痛みと一緒に身体の感覚が戻ってきて、そこが満天の星空と一面に赤い花が咲く河原だとわかる。すぐ側には少女がいて、赤い糸でアヤトリをしている。少女は何かを言おうとして、いつも途中でやめてしまう。聞き返すこともできずに、そのまま目が覚めてしまうのだ。
 気になるけれども、特に害がなく医者からも気にするなといわれていたので、深く考えないことにしていた。
「だからって、何でこっくりさんもどきに繋がるかな」
「夢は深層心理の現れとかいうだろ? そういう話で奈緒と盛り上がっていたら、こういうのがあるよ、ってさ」
 どうやら人の話題で妹と盛り上がっていたらしい。
 貴彦の妹とは遊びに行った時に何度か話したことがある。兄の親友が記憶喪失となったことに思うところはあるようで、実に複雑な顔をされた。間接的にお節介を焼かれたということか。
 ……それでドッペル様になるのが、さすが貴彦の妹というべきか。もしかすると今までの貴彦暴走伝説の半分くらいには、彼女の提案も混ざっているのかもしれない。
「っていうか、夜にやるようなことが流行るもんなのか?」
 彰人の疑問は、ごく当たり前のものだと思う。中学生の女の子が、夜に何人もで遊ぶのはおかしい。
 当の貴彦は得意げに鼻を鳴らし、鞄の中からボロボロの本を取り出す。ふせんが貼ってあるのは、貴彦がやったのか、彼の妹が丁寧にも目印をつけてくれたのか。
「やり方が二通りあるらしい。簡単にやるやつと本格的にやるやつ。簡単なのは、いつやってもいいんだってさ。そのかわりに効果も弱めってやつ」
「ふーん……」
 で、その本は一体。何だか激しく嫌な予感がする。
「やるからには本格派を目指そうというわけだ。これがやり方の載っていた本だっつーことで、妹に頼み込んで借りてきた」
「ちょっと、その本を見せてくれないか?」
 彰人は渡された本をしげしげと観察する。しっかりとした布貼りで分厚く、もう少し新しければそれなりに見栄えのする立派な本だっただろう。どこでこんな本を手に入れたんだろう。図書館で借りたんだろうか? 背の下部分に白くて丸いシールの跡があるけど、ひょっとすると『禁貸出』のマークがあったのでは。そうじゃないことを祈る。
 表紙の装丁にはちょっと不気味な幾何学模様の上に、かすれかけた印字で『失われた呪法の再興』と……。
「これ、ダメだろ。呪(のろ)いって字だぞ!」
「ああ、ちげーよ。それはマジナイホウって読むんだろ?」
 ノロイでもマジナイでも、非科学的なのには変わりない。それとも実を言うとこの本は、おまじないや呪術を心理学的見地で解説、実施を懇切丁寧に指導する教本だとでも。そんなバカな。
 おそるおそるふせんの貼られたページをめくる。図解はなかった。『内なる声を語らせる法』という物々しい筆字体のタイトルの下に、用意するものや、実施条件、注意点などが味気なく箇条書きにされている。何だこの黒魔法。
 コツン、コツン。
「うげ!?
 突然窓を叩くような音がして、彰人は思わず声をあげる。何せ不気味な本を見ている時だし、ここは二階だ。ホラーを信じる性質じゃなくても、さすがにどきりとする。
「アキ! 貴彦! いるんでしょ!」
 怪音を立てた張本人の声が聞こえてきた。隣の家だ。カーテンを開けると、わずか一.五メートル先にある月見里家二階の窓には、長い定規で彰人の部屋の窓を叩くみちるの姿があった。高級とは言いがたい住宅地ゆえの世知辛い距離だ。
 怪しい呪い本(断じて心理学の本ではないと思う)を脇に置いて、彰人は窓を開ける。
「言いたいことあるなら、電話かメールにしろよ」
「こっちの方が早いでしょ! これからそっち行くから、玄関の鍵あけといてよ」
「屋根伝ってきたら?」
 窓の下に張り出したひさしを加えると、一.五メートルの隣家との距離は、四〇センチまで縮まる。少し跳んだら簡単に渡れる距離だ。みちる母の情報によれば、子供の頃はみちると彰人はこのひさしを飛び跳ねてお互いの家を行き来していたとか。
「バカ言わないで。肉じゃがのおすそ分けあげるから、さっさと降りてきてよ」
「なるほど、肉じゃがに飛び移れってのは無理だな」
「いいから早くして!」
 ピシャン、と乱暴に向こうの窓とカーテンがしまり、部屋の電灯も消える。下に降りたみたいだ。
 彰人も二階から降りて、玄関先に出る。ラベンダーから濃紺へのグラデーションを描く夏の夜空には、白くて丸い満月が浮いている。そういえば、さっきの呪い本には満月の夜に行うのがいいとか書いていた気がする。わざわざ条件通りの日を選ぶあたり、貴彦も芸が細かいというべきか。
 しばらく待っていると、肉じゃがのタッパーと、四角い小さな箱を一緒に抱えたみちるがやってきた。徒歩十数秒の距離を踏破した彼女は、玄関前に立つ彰人にタッパーを押し付けた。
「これ、冷蔵庫に入れといて。明日食べてね」
 みちるを家の中に招きいれ、二階に行く前にキッチンによってタッパーを冷蔵庫にしまう。あの事故で、記憶だけではなく両親と妹も失ったので、この家には基本的に彰人しかいない。一応、叔母が保護者として一緒に住んでいることにはなっているものの、仕事に忙しいので会社に缶詰したり、会社近くのホテルに泊まることの方が多い。顔を合わせるのは週に一回あるかないかだ。
 さらに情けないことに彰人は料理がからっきしダメで、食事に関しては隣家に頼りきっていた。ご飯は月見里家に呼ばれるか、向こうからおかずが配達されてくるかの二択である。この状態では、隣家には足どころか背中すら向けて眠れないかもしれない。
「何か、いっつも通い妻みたいなことさせてて悪いなぁ」
「え!? もうやだ、今更何言ってるのよ!」
 大げさに驚くみちるに、彰人の方が驚いた。触れてはいけない部分に触れてしまったような。
「いや、別に変な意味じゃなくてな」
「食費とかは美紀恵さんからもらっているもん、どっちかというとデリバリーサービスじゃないの? 貴彦、二階にいるのよね?」
 何故かいいわけのように叔母の名前を出して、みちるはそそくさと階段を上っていく。彰人は慌ててその後ろをついていった。彼女が持つ四角い小箱は何だろう。じっと見ていると、視線に気づいたのかみちるが立ち止まり、振り返る。
「あ、これ? ソーイングセットよ。貴彦が持って来いっていうから。なんちゃってこっくりさんに使うみたい」
 みちるにも深層心理解明装置としては認識されていないらしい。当然か。
 こっくりさんもどきのどこに裁縫箱が必要なんだろう。首を傾げつつ階段を上ると、貴彦が例の怪文書を広げていた。一人待ちぼうけをくらっていた彼は、ニヤァと不穏な笑みを浮かべる。
「遅いなぁ、お前ら。アイビキでもしてんのかと思ったぞ」
 んなアホな。軽く受け流しかけた彰人の傍らで、みちるは何かのスイッチが入ったみたいに素っ頓狂な声をあげる。
「や、やめてよ、バカヒコっ!! 変なこと、言わないでっっ!!
 顔を真っ赤にしながら、体全体で拒否の姿勢。さっきといい、何もそこまで徹底的に拒絶しなくてもいいのに。少しいじけた気分になる。
「そうか、僕のことがそんなに嫌いか」
「え、ちょ、違うの、私とアキは幼なじみだから、そういうの、ないだけ! あーもう、さっさとはじめるならはじめてよぉ!」
 何故かぐーで彰人の背中をぽかぽか殴りつけながら、みちるは貴彦にソーイングセットを突き出す。何だ、この展開。
 貴彦は何だかにやにやした顔で、箱を開けた。中学校の裁縫の授業以来久し振りに見る、マチ針のささった丸いフェルト玉と、色とりどりの糸。貴彦はその中から赤い糸と、縫い針を一本取り出す。
「それじゃ本番いくぞー。彰人、これに糸を通せ」
「僕がやんないとダメなのか?」
「主役がやんないでどうすんだ。みちるも、そろそろやめてやれ。彰人が指に針をブッ刺すぞ」
 彰人が針を手に取った瞬間、みちるもぴたりと八つ当たりパンチをやめた。まだ顔が赤い。そんなに恥ずかしかったんだろうか。兄妹のように育ったと聞かされているみちるとの関係をからかわれても、彰人はピンとこない。
 悶々としながら針に糸を通そうとする。何度やっても上手くいかない。貴彦が変なことをいってみちるを怒らせるから、こっちまで動揺してきたみたいだ。
 一方、ふくれっつらをしながらみちるは気を紛らわすように呪い本をしげしげと見ている。拗ねた顔つきが、読み進めるにつれて段々呆れと嫌悪に塗りつぶされていった。
「ねぇ、バカヒコ、本気でこれやる気?」
「本気でやる気だ。それと、俺はバカヒコじゃねぇよ」
「あんたはバカヒコで充分よ」
「ひでぇ、彰人、何か言ってやってくれよ」
 うるさい。こっちは今ので失敗十回目だ! ……と叫びたい気持ちを抑えて顔を上げると、はずみでするりと糸が通った。ナイスバカヒコ。
 すっかりいつもの調子に戻ったみちると一緒に、しみじみため息をつく。
「やっぱこれ、呪われた本にしか見えないよねぇ」
「うん、キモイよなぁ」
「お前ら、ここまで付き合っておいて……!」
 ネタだと思っているから付き合えるわけで、こんな非科学的方法を信じるほど彰人の頭はお花畑ではないのだ。貴彦だって、まさか本気で信じてはいないだろう。今の心情は、まさに乗りかかった船というやつだ。付き合っておいてここでやめるのは、という気持ちは彰人にも多少ある。ネタならば、オチがつくまで極めねば。
「こっくりさんなんてやったことないけど、案外面白いかもな」
「こっくりさんじゃないって!」
「あー、はいはい、ドッペル様ね。誰だ、この名前考えたの」
「俺だ」
 お前かよ。
 彰人とみちるの容赦なく冷たい視線に、貴彦はみるみる萎縮し、ついには部屋のすみで丸まってのの字を書きだした。
「やることやって、後で貴彦にジュース奢らせるネタにでもしよう」
「それ賛成。暑いから肝試しだと思って付き合ってあげるわ、ジュース」
「ガン無視かよ! それと、俺の名前はジュースじゃねぇ!」
 のの字を書くのはあっさり中断して、貴彦はみちるの手から呪い本を奪い取った。そして、さくさくと使う物の準備を始める。
 学校で見せられた、こっくりさんに似た形式の文字が書かれた紙。これの下には、床を傷つけないためとかで、ダンボールを敷いてある。何で床を傷つける恐れがあるのかは意味不明。次に、彰人の名前が書かれた、白い紙を切り抜いて作った人型、五円玉。五円玉は、さっき針に通した糸の端にくくりつける。
「その紙人形、骨人間の絵のところに置いて、心臓の辺りに針をブッ刺して立てる」
「…………刺す?」
 ダンボールの下敷きが必要なはずだ。今からでも止めていいだろうか。少しだけノったのを後悔した。これが藁人形と五寸釘だったらネタにもなりゃしない。
 こっくりさん用紙の骨人間は、この人型の場所の目印だったらしい。自分の名前を書かれた紙人形を、彰人は何だか微妙な気持ちになりつつ置く。
 あの題名の読みがノロイではなくマジナイでありますようにと願いながら、紙人形を針で貫いた。……返事がない。ただの紙人形のようだ。
「次は、俺とみちるがそれぞれ、彰人の肩に手を置く」
「え? こ、こう?」
 若干、引きつった顔のみちるがおそるおそる、彰人の右肩に手を載せる。貴彦は左肩に。
「で、彰人は五円玉に指を乗せる。これが動くんだ。実行中は、決して五円玉から指を離さないこと。そして俺とみちるは、彰人から手を離さないこと」
「う。うん」
 みちるが心なしか青ざめた顔で、首をぶんぶんと縦に振る。さっきまでとは打って変わって完全に怖気づいている。そういえば彼女は、あまり怖い話が得意なほうではなかった。最初は面白がっているのに、途中から耳やら目やらを塞ぎだすタイプだ。それでも止めようと言わないのは、意地と恐怖心を天秤にかけたら、かろうじて意地が勝ってしまったからかもしれない。
「んで、これを……すまん、俺には読めない」
 言葉に詰まった貴彦が差し出した呪い本には、流麗過ぎる行書体で呪文っぽい文が書かれている。読み方に若干自信がない部分もあるが、文系ゆえか彰人には何とか解読できた。
《彼方にありて此方に呼ぶ、我が御霊の欠片呼ぶ》
「彼方にありて……こなた?に呼ぶ、我がおんりょう?の欠片呼ぶ?」
「アキ……『おんりょう』じゃないと思う。怨霊のオンはウラミって字よ」
「えーと、おん、ごれい……あ、『みたま』かな?」
「あ、それっぽくねぇ?」
 結局三人がかりで解読。若干、不気味さが薄れてきた。
 五円玉に乗せた人差し指に、力を込める。恐怖心を通り過ぎたら、急に好奇心が湧いてくる。夏の特番でやる心霊特集をおっかなびっくり見ている時のような気で。
 よし、来るがいい。こっくりさんでもドッペル様でも、迎えてみせよう。
 ついでに記憶が戻るんだったら、キツネの霊でもドッペルゲンガーでも何でも存在を信じてやる。
 深く息を吸い、改めてその言葉を読み上げる。

 彰人は、後悔をした。
 この瞬間こそが、平穏な日常に戻るための最後の分岐点だったのだ。

「彼方にありて、此方に呼ぶ。我が御霊の欠片呼ぶ」

 一瞬の後、部屋は暗転する。
 蛍光灯の割れるヒステリックな音と共に。



 真っ暗だった。
 彰人の頭の中は真っ白だった。
 蛍光灯が割れたのだ。このタイミングで。いかにもオカルト的に。
「いやぁ! なな、何、何なのぉ!?
「どうした!? 怪我はないか!?
 みちるが半狂乱になって左肩にしがみついている。貴彦が、彰人の位置を確かめるように、右肩においた手に力を込める。
 彰人は凍りついたように動けずにいた。二人の声と手が両肩で位置と無事を知らせてくれるのを感じながら、妙な既視感に囚われる。
 真っ暗な世界。何も見えないのに、声が聞こえる。そんなことが、前にあった。
 ――ああ、あの夢だ。
 星空と紅い花畑と少女と。あの場面に行き着くまで、いつも暗闇の中で声を聞く。
 だけど、次に暗闇の中で聞こえたのは少女の声ではなく、両肩に存在を感じる二人の声でもなく。
《――レダ》
「……?」
 誰かの声が、聞こえた気がした。感情を置き忘れた機械みたいな声。だけど聞き覚えがあるような声。
《ダレ、ダ》
 今度は明確に、そう聞こえた。
 同時にず、と五円玉をおいた指が勝手に動き出す。こっくりさんによく似た用紙の、五十音のカナが書かれていた場所、五円玉の軌跡を追った二文字が、浮き上がって見えた。この、光がない部屋で。明滅しながらゆっくりと、『ダ』、『レ』、『ダ』、と。
《オマエハダレダ》
 声がそう言えば、後を追うように文字が明滅する。『オ』、『マ』……。
「彰人、おい、大丈夫か!?
「ねぇ、アキ!? 返事してよ!」
 右肩を強く揺さぶるのは、貴彦だ。涙声になりながら、不安そうに強くしがみつくのはみちるで。
 二人には見えていないんだろうか。文字が鈍く赤く光り、語りかける言葉が。
 彰人には、二人に答える術がなかった。上手く息ができない。声も出ない。のどに氷の塊を押し込まれたみたいだ。体は床に座り、右手の指先を五円玉に添えたままの姿勢で、ちっとも動けない。俗にいう金縛りというやつだろうか。全身から冷たい汗がふきだしてくる。
 文字は、鈍い光を発したまま、ぐにゃぐにゃと蜃気楼のようにゆらめく。
 彰人の意思とは関係なく、指が勝手に動き出す。五円玉で、言葉をなぞっていく。
《ドウシテ》
 文字が赤く、奇妙に揺らいで、赤い糸をつたって彰人の手に駆けよってくる。
『ドウシテドウシテドウシテドウシテドドウドウシシテテテテテ――』
 文字と声は重なり合い、不協和音を奏でて膨れ上がり、不気味な赤が躍る。
「――っっ!?
 声は出なかった。出ていたら叫んでいただろう。
 用紙の、針で繋ぎとめられた人型から、赤く光る文字が上り、糸を伝って、彰人の手に群がる。蟲のように這い登る。その赤がやがて寄り集まって形を作り始める。
 それは――『手』だった。
 血にまみれたように赤い人間の手が、彰人の手首をつかみとって、離さない。
《ここ、どこだ? 飛行機は?》
 聞こえてきた『誰か』の声は、いつのまにか人間らしい感情を持った自然な声に変わっていた。
 それと同時に、彰人の手首を掴んでいた手が、ずるりと腕まで現れる。うっすらと光るその腕から、血のような赤さが消え、人間らしい肌の色に変わっていくのがわかる。
《父さんたちは? 茜〔あかね〕は?》
 ごぽり、と湯が煮立つような音を立てて、もう片方の腕が、頭が、プールから這い上がるようにして、起き上がり。
《みんな、どこに、行ったん、だ?》
 呆然と『彼』は呟く。
 ごぶ、と泥沼から湧き出るあぶくのような粘着質な音にかわって、残りの体が出てくる。
 しっかりと、彰人の手首を掴んだまま、床に手足をついてたたずむ彼の眼が、こちらを向く。驚きと、嫌悪を含んだ眼差しで。
《――どうして?》
 どうして。彰人もそういいたかった。掴まれた手首を振り払うこともできず、いっそこのまま意識を失えたらどれだけ幸せだっただろう。こんなことは、ありえない。
 モノクロの写真と英字プリントが入ったTシャツに、半そでのパーカー、履きなれて少しくたびれたジーンズ。特にこれといって特徴のないその服装を、彰人はよく知っていた。
 それは、自分が発見された時に着ていた服装だから。
 三年前、事故から一ヶ月近くも経ってから保護された時、彰人は『彼』と同じ姿をしていた。
《どうして、俺が、そこにいるんだ? みちると貴彦も? ――どうして》
 『自分』が、呆然と呟く。彰人の両隣にいるはずの、二人の名を呼んで。
 彰人も同じことを叫びたかった。自分が二人いる。それこそ『ドッペルゲンガー』みたいに。
「どうなっているんだ!?
「あ、アキが二人いる!?
 今度は他の二人にも見えているらしい。三年前の『自分』が、自分の手首を掴んでいるこの気が狂いそうになる非現実が。
《お前、誰だ?》
 『自分』が問う声に、彰人は答えられなかった。それは声が出ないからではなくて――自分が何者なのか、一瞬でわからなくなったからだ。
 さっき目の前にいる『自分』が呼んだ『茜』という名前が、妹のものだと気づく。写真でしか顔を知らない妹。みちると貴彦の名も呼んだ。知っているのだ。
 まるで、記憶を失う前の彰人のように、自分こそが本物の遊間彰人であるかのように。
 もし彼が遊間彰人なら……自分は一体『誰』だ? 
「アキ……?」
 震える声であだ名を呼ぶみちるは、しがみつく腕に力をこめる。
「彰人、おい、何とか言えよ! 大丈夫なのか!?
 存在を確かめるように、貴彦は彰人の肩を揺すり続ける。
《みちる……貴彦……》
 『自分』が彼らの名前を呼ぶ。やり場のない怒りを押し込めたような、抑揚のない声で。
 ギシリ、と窓がなった。
《違う、それは俺じゃない》
 ギシ、ビキ、と軋む音。次第に強くなっていく。
《――どうして!》
 窓ガラスが文字通り弾けとんだ。
 台風の渦中に迷い込んだように、吹き込んだ暴虐な風が彰人の身体を床に叩きつけた。机の上に置かれていた辞書や電気スタンドなどを綿ぼこりのように吹き飛ばし、漫画ばかりが詰まっていた本棚が崩れ落ち、ベッドから剥がれ落ちた布団が八つ裂きになっても。
 文字の羅列が鈍く光る紙、針に心臓を刺し貫かれた人型、血を示すかのように赤い糸で結ばれた五円玉だけは、床に張り付いたようにびくともしない。それを掴む手首も、離れられない。
「きゃああぁぁぁっっ!!
 みちるの悲鳴が暗闇を引き裂く。左肩が軽くなる代わりに、後ろの方で重い物が落ちる鈍い音。彼女が弾き飛ばされたのだと気づいた瞬間、今度は右肩が軽くなる。
「みちるっっ!? っっうあぁあぁ!?
 貴彦の声が途中で悲鳴に変わった。ゴッ、とこちらははるか右のほうで鈍い音。
 両肩の支えを失い、逃げることも許されない。恐慌で、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
 どうかしている、こんなこと、現実的に起こるわけがない。自分がもう一人現れて、そして、こんな。
 ――これは夢だ。夢だ。……夢だ!
 悪夢が覚めない。醒めない。体が動かない、声も出ない。
 手元に視線を戻す。掴まれた手首の先は、まだ五円玉の上に添えられている。この手を離せば、悪夢は終るだろうか。日常に還られるだろうか。いつも通りになるだろうか。
《――離すな。私は行く。常夜〔トコヨ〕の彼岸より、遷世〔ウツシヨ〕に》
 聞こえたのは、貴彦の声でも、みちるの声でも、ましてや目の前にいる『自分』の声でもなかった。
 凛と澄み渡る、そしてどこかに懐かしさを感じる、年若い少女のような声。
 指先に灯ったのはひりつくような熱と闇を刺す光。人型留めの針と繋がれた御縁結びの赤糸が、輝き、踊り、指にまとわりつき、絡まって――。
 その赤はゆっくりと、よりて結びて形なして、掴み取られた手首を縛り上げる。
《……!?
 『自分』が息をのんだ。
《とりこ糸とり虜〔とりこ〕呼び。赤子の背を守りし花よ》
 少女の声が、意味の良く判らない言葉を紡ぐ。次の瞬間、『自分』は部屋の対岸まで弾き飛ばされていた。開放された手首を見て、彰人は呆然とする。何が起こっているのか、さっき以上にわからない。ただ、暴君のようだった風がしんと静まり返っていた。
 人型からはまだ、赤い糸があふれている。放射状に、天に向かって幾重にも伸びる赤い糸は、何かににていた。幾重にも円を描き弧を描き、菊に似ている形の――夢の中で咲いていた花。
 花が咲き、散るのを一瞬で見るようだった。赤い糸が広がり、そして外側から順に消えていく。その度に光が零れ落ちて、その光は人の輪郭を取っていく。
 赤い光。手首を掴み取ったあの禍々しい光ではなく、燃え盛る炎のような、力に満ち溢れた鮮烈な紅の光が闇を焼き尽くす。
 光に灼かれた目が再び闇に慣れて視力を取り戻したとき――彰人は彼女の姿を見た。
 長い髪は鮮やかな紅に輝いて、組み紐と金色の飾りが涼しげな音を立てて揺れた。まるで神話から飛び出してきたみたいな装いで、彼女がふわりと舞い降りる。
 胸の前に掲げる彼女の両手には、赤い輝きをはらんだ糸が複雑な形をなしてからみあう。まるでアヤトリでもしているみたいに。
 彼女のことを知っていた。顔も見ていない、姿だって全てきちんと見ていたわけじゃない。声くらいしかまともに聞いていない。それでも――目の前に現れた彼女は、間違いない。
 赤い糸でアヤトリをしていた、彼岸にたたずむ少女。
 白い面に浮かぶ深い色をした瞳で、彼女は『自分』を見つめる。彼は思わぬ闖入者に驚き、目を見張る。
「私と共に彼岸に還るがよい」
 外見とは裏腹に、少女は妙に古めかしく大人びた口調と声で語りかける。
《……それは、俺じゃない》
「いや、これもお前の半身だ。今は眠るが良い。時が来たら全てが知れよう」
 突然どこからともなく現れた二人――三年前の自分(半透明)と夢の中の住人が対峙するさまは、冗談みたいだった。ひとまずわかるのは『自分』が敵で、『少女』が味方だということだけだ。
「退け!」
 突然振り返った、少女が叫ぶ。反射的に、横に転がった。さっきまで自分がへたり込んでいたはずのその場所に、激しい衝突音と共に、とがった何かが突き刺さる。一瞬遅れて、自分が動けるようになったことを知る。
 床を穿ったのがワイヤーラックの残骸だと気づいた時には、逆方向に転がらなければならなかった。つま先にかすったものの正体は、もう考えたくない。
《ソレは偽物だ!》
「違う、これもお前だといっておろうが!」
 少女とドッペルゲンガーは意味のわからない会話を続ける。
 髪に飾られた組紐をひとつとって、少女は自らの指に絡める。飾り結びは一瞬で解けて、それは細くて長い一本の糸の輪となった。
「私はお前を連れて還らねばならぬ」
 彼女は輪を両手の指に絡め、糸を次々にとって、形を作ってゆく。それはまるでアヤトリをしているようで、だけど淡く紅く光り形を変えていく糸は、万華鏡のようでもあり。
「とりこ糸とり虜〔とりこ〕呼び。暁の陽の闇追いし光」
 両手の指の間に現れたのは、左右二つの山の形に挟まれた円形。形が完成したその瞬間に、一筋の光が闇を貫いた。
 それは『自分』を輝きの中に消し去り――彰人の意識もまた、白い輝きの中に落ちる。
 視界と意識が白に飲まれる一瞬前、『自分』が何かに手を伸ばしているように見えたのは、気のせいだろうか?



 満天の星。不夜の都会には程遠く、それでも田舎と呼ぶには明るすぎるこの街では、決して見られないだろう星のぎっしり詰まった夜空。
 そして紅い花。細長い花弁を揺らす、河原に咲く花の群れ。
 彰人はそこにぼうっと突っ立っていた。いつもの夢と同じ場所だとすぐにわかった。違うのは、傍らにあの少女がいないことくらいだ。
「何だ、これ?」
 自分の胸から、一筋の赤い糸が伸びていることに気がつく。あの、妙な儀式に使った紙人形のように、心臓のあたりから細く長い糸が伸びている。引っ張ってもはずれない。
 彰人は糸の先を求めて歩き出す。何となくこの糸をたどった先に、あの少女がいる気がして。
 歩く。河原にたどり着く。対岸がかすむほどに広い川の流れの中に、糸は消えていた。
「戻ってきたな」
 彼女の声が、聞こえた。

 目を開く。暗い部屋に、見慣れた天井。見慣れていないのは、蛍光灯が割れてなくなっていることくらいだ。
 風が入ってくると思ったら、窓ガラスがなくなっていた。生ぬるい夜風が、引きちぎれたカーテンの残骸を揺らす。部屋をうっすらと照らしているのは、ちょうど窓の向こうに見える位置に来た満月の光だ。
 ぐるりと部屋を見回すと酷い有様だった。人間の住む場所じゃない。原型をとどめているものの方が少ないくらいだった。
 ――夢だ。
 場所が大荒れになった自分の部屋になっただけで、これはやっぱり夢だったんだ。
 体のあちこちが痛かった。そして、細い指に赤い糸をかけて、少女がアヤトリをしている。彰人は彼女に膝枕をされて、横たわっていた。
「目が覚めたか? 半身を弾き飛ばしたからな、お前まで割を食ったようだ」
 少女は彰人の顔を覗き込む。初めてまともに顔が見えた。綺麗な子だ。顔を近づけられて、呼吸を忘れそうになる。人形のように整っているのに、作り物っぽさがなく不思議な生気に満ち溢れている、神秘的な美貌だった。
「お前、まだ寝ぼけておるだろう」
 くすりと笑うその声も、鈴の音のように軽やかだ。
 何もかも夢だ。美少女に膝枕されているなんて夢以外にあるか。きっと自分も貴彦も、夜が更けるのを待っているうちに眠ってしまったのだ。
 もう一人の自分が現れたり、それに襲われたりとか、そんなことが現実になるわけない。
「いい加減、目を覚まさぬか」
 少女が突然立ち上がったので、彰人の頭は床に転がって鈍い音を立てた。地味に痛い。
「これは夢ではない。現実だ。ここではまともに話もできん、起きたのならまずはあれを運べ!」
 あれと少女が指差したのは、部屋の片隅に横たわっている二人の人間――貴彦とみちるだった。一瞬思考が止まって、そしてついさっきまでのことが急に実感を持って襲ってくる。そうだ、二人とも巻き込まれて一緒に襲われたんだ。
 本当に――夢、じゃない?
「っっ! 大丈夫か!」
 弾かれるように駆け寄った。二人とも息はきちんとしているし、目立った怪我もない。多少、擦り傷や切り傷があるくらいだ。
「心配するな、どちらも大事ではない。ただ気を失っているだけだ」
 少女が彰人の肩に手を置く。さっきまでは、目の前にいる二人が支えていてくれた肩を。少しだけほっとして、彰人はその場にへたりこんだ。
 頭の中はすっかりぐちゃぐちゃだ。夢じゃないって? こんなことが?
「……何で、こんなことに?」
 思わず呟いた。わけがわからない。
 だけど彼女は――この非日常の中でもとびきりの非現実的存在は、その独り言が気に入らなかったらしい。肩に置かれた手が離れる。
 気温が下がった、ような気がした。
「なんで、だと? お前、自分のなしたことをわからぬと?」
 少しばかりドスの効いた声に、彰人はおそるおそる少女を振り返る。
 彼女はこぶしを振るわせ、壮絶な面持ちで彰人は睨み付けている。瞳に込められたのは怒りと――微かに宿る悲しみ。
「え、ちょっと待って、僕は何もしてないぞ! してないよな!?
「何もしていなくて、このようなことになるかっ!」
 少女はますます怒りを強める。
 理不尽だ。この少女の存在込みで、あまりにも意味不明で、最高潮にどうかしている。遊間彰人は記憶喪失ということ以外は何の特徴もない、十人並みの一般市民だったはずだ。もう泣きたい。
 だけど、感情の臨界点を突破するのは、少女の方が先だった。ほの暗いこの部屋でもわかるくらい、瞳いっぱいの涙をためて。
「私がせっかくこちらの世に帰してやったというのにお前は……」
 神秘も美も台無しになるくらい、思いっきり顔を歪め、彼女は叫んだ。
「何故呼び出した、この大うつけがぁぁぁ――――っっっ!!

 満月の晩、真夏の夜。
 こっくりさん(もどき)で呼び出したのは、もう一人の自分と夢の中の住人。
 後悔するもすでに遅く、日常はすでに根底から崩壊済みで。
 悪い冗談みたいな非現実は、彰人の都合などお構いなしに回る。
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