5.さよなら人生

文字数 16,762文字

 あまり手入れが行き届いていなくて、草の丈がまばらな芝生の上。
 蒼白の顔をして横たわる彰人の身体を、みちるはゆすっていた。そんなことをしても無意味なのはわかっていた。だって、息をしていないのだ。心臓も動いていない。
 叫び声をあげて崩れ落ちた彼の腕が、赤い飛沫をとばしながら千切れ落ちた。瞬きをする間にその光景は過ぎ去り、彰人は糸が切れた操り人形のように倒れて動かなくなってしまった。
 血がYシャツを濡らしている。まだ制服から着替えていなかったんだ。どうでもいいことが頭に浮かぶ。
 二の腕から先は、無残に潰れていた。辛うじて皮と千切れそこなった筋肉だけで繋がっていて、赤い肉と砕けた骨がグロテスクな断面を晒している。千切れた時はあれほど噴出していた血が、もう止まっているのがかえって不気味だ。
 思わず吐き気がこみ上げてきて、みちるは息を飲み込んでそれを耐える。そんな場合じゃない、今は。
 ところどころ擦り傷ができた彼の肌は土気色になって、触ると生ぬるくて嫌な感触がする。
「彰人っっ!」
 ようやく公園に入ることを許された貴彦が駆け寄ってくる。
「た、たかひ、こぉ……」
 みちるは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、顔を上げる。
 こういう時はどうすればいいんだろう。心臓マッサージ? 人工呼吸? そんな普通の方法でどうにかできるの? ぐるぐると頭の中で駆け巡って、結局何もできずにひらすら幼なじみの身体にしがみついていることしかできない。
「貴彦、みちる、彰人を呼べ!」
 赤い糸を手に駆け寄ってきたミアカシが駆け寄ってくる。
「よ、呼ぶって?」
「そのままだ。名前を呼ぶだけでいい。親しき者が名前を呼ぶと、それは言霊となるだろう」
「ホントに、ただ呼ぶだけでいいの?」
「ああ。早くしろ」
 急かすようにそう言って、彼女は両手の指にかけた糸を取る。とたん、みちるの足元にあった、彰人の取れかけていた左腕がごろりと動き始めた。
「ひっ――!」
 思わず悲鳴を上げた彼女は、勝手に動いた腕が彼の傷口に戻り、肉と皮が繋がっていく様を目の当たりにする。はっきり言って気持ち悪い光景だ。
「こ、これ、ミアカシが治しているの!?
「無理矢理縫い合わせているんだ。少しでも油断したら、彰人の身体が千切れる。そうならないよう、さっさと彰人の魂を呼び戻せ!」
 話している間にもミアカシの指はとめどなく動き続けている。みちるや貴彦には見えない何かが、彰人をどうにかして繋ぎとめているんだろう。彼女がいたから、腕だけで済んでいるのかもしれない。
 みちると貴彦は顔を見合わせて、そして決意をこめて頷きあう。
 二人の親友の名前を、呼んだ。



「ちくしょう、何だこれ」
 赤い奔流は容赦なく彰人たちを押し流していく。流されている方向もわからない。沈んでいるのか、浮かぼうとしているのか、岸から遠ざかっているのか近づいているのか。
 窒息せずに済むのが救いだ。何せ呼吸をしていない。
 過去の幻影はもう襲ってこなかった。右も左も上も下も、とにかく一面が赤い水で埋まっている。そもそも、身体に触れる感触が水のように思えるだけで、この赤いものが本当に液体なのかも怪しかった。
 せめてどちらに行けばいいのかがわかれば、抗うなり流されるまま身を任せるなりできるものを。今の現状では、同じ位置に留まり続けることすら難しい。
「くそ、ミアカシ! 聞こえないのか!」
 こういう時の頼みの綱、紅い花咲く彼岸の主たる少女の名前を呼ぶ。しかし、答えはない。
 結局何もできないんだろうか。
 せっかくわかったのに。自分が何をしたいのか。自分の記憶に何を求めていたのか。
 見えない過去を恐れず、捕らわれずに生きていけると思ったのに。過去が戻ってくるのを受け入れられると思ったのに。
「みちるーっ! 貴彦ぉーっっ!」
 二人にも、まだまだ伝えたいことがたくさんあるのに。
 このまま死ぬしかないんだろうか。
 ――そうだ、糸……。
 ミアカシと繋がっているはずの糸が、見えないだろうか。水も糸も赤いから、視認することはできないけれど。空気の壁を突き破ったみたいに、この赤い深淵から抜け出すための力が備わっていないんだろうか。
《あっちだ》
 今まで気絶しているものとばかり思っていた『記憶』が、不意に呟いた。多分ここでは肉体はなく精神だけで存在しているのだ。現に肉体を持たない『記憶』とも、普通に触れ合えているわけで。放心することはあっても、気絶することはないのかもしれない。
「何であっちだと思う?」
《声が聞こえた気がする》
「よし、行こう」
 赤い水の中を『記憶』が指し示した方向に泳ぎ出す。
《疑わないのか?》
「この期に及んで?」
 嘘だとは思わなかった。生きるためにはまずここから脱出しなければならない。腹の底では何を思っていたとしても、二人で(というのもおかしいけど)協力しなければやっていられない。
《俺はお前を頼りないと思っている》
「っ! 人に助けてもらっておいて!」
《冷静に考えると何で助けてもらったのかと思うぞ。こんな自分と認めたくないヘタレに》
「川床に沈んでめそめそしてたお前が言うな!!
《誰がめそめそしていたって!?
 二人で闇雲に水をかきながら、自分と『自分』による自分ゲンカはしばらく続く。岸に上がるというと当初の目的を若干忘れ始めた頃、彰人の耳にもかすかに誰かの声が届いた。
「――っっ! 今!」
《あっちだ!》
 さっきまでしていたケンカを忘れて、二人は再び泳ぎ始める。やがて赤いばかりだった水は透明に澄んできて、ぼんやりと夜の濃紺に馴染んでいく。
「――と、あ――と、彰人!」
 声が、聞こえる。
 聞き間違えるはずはない。誰よりも親しい二人の声は、しっかりと彰人のもとに届いた。届くということは、やっぱりまだ自分は生きている。
 胸の中、きっと魂と呼べるものと繋がった糸が、赤く輝く。
「糸だ! ミアカシのところまで行けるぞ!」
 よく見ると、赤く輝く糸の他にもう二本の糸が伸びてきていた。白く淡い、優しい光をした糸が、彰人と『記憶』を包み込むように回る。
「「彰人」」
 その淡く光る糸から、聴きなれた声が伝わってくる。
 この糸の先には、人間に憧れた神様の少女がいる。帰りを待っている親友達がいる。
 戻れる。まだ、自分は生きていられる。
 身体が浮上していく。水面に顔が出る。岸まで夢中で泳いで這い上がる。紅い花の群れが、妙に眩しく感じた。
「行こう」
 先に上がって、岸辺から自分の十四年分の時間を持った『記憶』に手を差し出す。
 初めて会った時、ミアカシに遠くへと飛ばされてしまう寸前に、彼は手を伸ばした。自分の肉体を喪って、どうしようもなく助けを求めて手を伸ばしたのか。あるいは好きだった少女を、信じていた親友と繋がりたくて手を伸ばしたのか。
 どちらでもいい。どちらもそうなのかもしれない。
 過去の記憶が今の自分を塗り替えてしまうのが怖かったけど、今は不思議と、上手く折り合いがつけていけそうに思えた。手を差し出すことを恐れる理由は、忘れ去られてしまった。
 だけど――。
《みちると、貴彦によろしく》
 彼は笑った。三年分幼いけれども、自分と同じ顔で、自分と同じ声で。
 繋がろうとしていた手を、離してしまう。
「どうして!」
《このまま戻って、無事にいられる保障はない。死んだら意味ないだろ》
 記憶が戻って、誰も不幸にならないハッピーエンドがくる。戻ってきた十四年間も、今の彰人の持っている三年間も、溶け合って思い出の一部になる日が来る。
 つい数秒前まで、彰人は何の根拠もなくそう思っていた。
 根拠がなかったことに、たった今気がついた。だけど事実を認めたくなくて、追いすがる。
「だって、そんな……生きてるじゃないか!」
《それは二人のところに戻ってからじゃないとわからない。お前だけ戻れば大丈夫なんだろ。さっさと行けよ》
「何でお前がそんなこと知ってんだよ!」
 死んだという記憶が残っていたら、身体も死んでしまう。それは死の記憶を持たない今の彰人だけなら問題ないことだが、どうして『記憶』がそれを知っているんだろう。
 納得できずに声を荒げる彰人に、彼は呆れたような顔をした。
《見たくなくても見えたんだよ。お前も俺の記憶を見ただろ? 俺も俺がいなかった間の三年間が見えたんだ。ミアカシが来た後のことも、全部》
 ふと、彼は笑う。自分と同じ顔なのに、別人みたいな顔で。本来の遊間彰人の顔で。
《認めてやるよ、遊間彰人。お前が記憶がなくて苦しんだことも、それでも俺の親友を大切にしていたことも、これからもずっと、大切にしてくれるってことも》
 何だかもう言葉が見つからなかった。
 彰人はついさっき、死んだ時の状況がどんなものだったのかを知ったばかりだが、それはあくまでも第三者としての知識を得ただけだ。『死の体験』をしたわけではない。
 ここで『記憶』を無理に連れて行っても、リスクは知る前と変わらない。『死』の記憶をもちながら生きているという事実を身体が受け入れられなければ、あっという間にバラバラ死体になる。
 だから、ここで『記憶』を捨てて今の彰人だけが戻るのが、一番生き残るのに確かな方法だ。
 それが、名前を呼んでくれる友人たちを安心させてやれる方法だ。
 わかっている。心は納得しなくても、ちゃんと。
 ただ、空になった右手を握り締めて、立ち上がる。
「それじゃあ」
《ああ》
「いつかここに戻って来るから」
《早めだと、助かる》
「うん、またな」
《またな。みんなによろしく。さよなら》
 水面が揺れて、『記憶』が沈む。十四年分の遊間彰人の人生は、深淵に旅立つ。
 さよなら、とは返せなかった。
 その代わりに、星の満たされた天に、紅の花咲き乱れる地に、隅々まで響き渡るように叫ぶ。
「ミアカシ! 僕はここにいるぞ!」
 瞬く星が、何だか微笑んでいるように見えた。
 おかえりなさい、と。



 見渡せばそこに星空はなく、少しだけ日が傾いた夏の青空と、半泣きになっている貴彦の顔と、マジ泣きになっているみちるの顔が微妙なコントラスト。
 思考が目の前の光景を受け入れるのに追いつかず、彰人はぼんやりと何度か瞬きをした。身体に力が入らない。酷い貧血になったら、こんな風になるんだろうか。意識が朦朧としている。
「いいい、生き返ったぁああぁぁぁ」
 みちるが自分の胸に突っ伏してわんわん泣き出すのも、どこか他人事のように思えて仕方がなかった。
「うわああぁ、神様ありがとうっっ!!
 若干錯乱した様子で貴彦が叫んだ辺りで、正確に理解した。
 戻ってきたんだ。
「……身体が、動かない」
「それは私が今必死に縫っている最中だからだな」
 声がした方向――寝転がっている彰人の頭上の方へ、頑張って首だけ動かして上目遣いで見ると、ぶすっとした表情でミアカシが糸を動かしていた。右の人差し指にかかった糸を、ピンと張る。
 途端、右足に激痛が走った。
「ひぎゃぁっ!」
「変な声を上げるな。神経を繋ぎなおしただけだ」
 淡々と答え、ミアカシは今度は右の薬指にかかった糸を引っ張る。今度は右腕に激痛が走って、また情けない悲鳴を上げる羽目になる。それを左足でも繰り返して、彰人はどうにか自分の身体が動くようになったことを知る。起き上がってまずやったことは、抗議だった。
「もっと他にやり方なかったのか!?
「ない。バラバラ死体にならずに済んでよかったな。お前は私をもっと崇めるべきところだ」
 妙に嫌みったらしい声音で、ミアカシが答える。
 泣きながらしがみついてくるみちるや、良かった良かったと呪文のように繰り返しながら背中を叩きまくる貴彦を前にすると、どうでもいいことに思えた。
 そういえば真っ先に千切れた腕も、見た目では全く問題なく繋がっている。目立つのはポルターガイストとの鬼ごっこでついた、中途半端な擦り傷ばかりだ。
 しかし、あくまで腕の見た目の話であって。Yシャツは自分の血しぶきで赤黒く染まっていて、大変にシュールでホラーなデザインになっている。その上。
「左腕が全然動かない」
 完全に麻痺していた。力が入らない。
「真っ先に取れたからな。まだ上辺だけしか直していないから、しばらく動かせないだろう」
「ふぇ、ひょういえば、アキのうで、しゅぐにちがとまっへた」
 みちるが顔を上げて、鼻をすすりながらそんなことを言う。全くろれつが回っていない。それでも、ミアカシにはちゃんと意味が通じているようだ。
「彰人の魂を呼び戻そうにも、腕があれでは戻ってくる前に失血死するであろう。だからまずは血が止まるように血管をふさいだ」
「地味にすごいことしてんな」
 さすが糸の神様。ブラック●ャックもびっくりのスーパー手術だ。
 ミアカシは得意げな様子で腕を組んだ。自分の能力を褒められて悪い気はしないのだろう。
「まぁ、お前の身体を維持するのにかかりきりだった分、魂の方は放置だったんだがな。自力である程度戻ってくれたようで何よりだ」
「放置って!」
「もう少し長く沈んでいたらそのまま死んでいたかもしれんな」
「あっさり言うな!」
 褒めて損した。こっちは必死だったのだというのに。途中で声が聞こえなければ、水面がどこかもわからなかった。
 『記憶』をあの場所に置き去りにしてきたのが、どれだけ辛かったのかわかっているんだろうか。
 ミアカシをにらみつけると――彼女は微笑んでいた。
 子供が何か素敵な物を見つけたみたいに、純粋な期待に満ちた笑顔。
「やっぱりお前は素晴らしいな。正直、もう無理かもしれんと思った。だけどお前はまた覆したんだぞ。死の運命を、自分の強い意思で。それは一種の生きる才能みたいなものだ。もっと誇っていい」
 そんなことを言われると、怒るに怒れなくなってしまう。悪態は喉の奥で、不完全燃焼のまま消えてしまった。
「まあ、良かったじゃないか、生きて戻ってこられたんだし」
 肩を叩く貴彦の手は力強くて。
「もう、ホント、心配したんだから!」
 ようやく涙をふいたみちるは、いつも通りに心配性みたいで。
 色んな思いがぐしゃぐしゃに混ざり合っていて、言葉になりそうにない。
 ――必ず、記憶を取り戻そう。
 今までとは少し違う理由で、彰人は決意した。いつになっても。確実に安全な方法なんて、あるのかすらわからなくても。
 この二人と、この二人と過ごした十四年間のために、自分はいつか思い出を取り戻すんだろう。神様すらも憧れさせる、生きていくことへの執念で。
「……って」
 『記憶』のことで思い出した。赤い水の中で見てしまった過去の断片を。主にこっぱずかしい好いた惚れたの甘酸っぱいメモリーを。
「? アキ、どうしたの?」
 ぼそりと声を漏らして、そのまま顔を赤くした彰人の顔を、みちるが覗き込む。
 まともに顔を合わせられなくなった彰人は、思わずのけぞり、右腕だけではとっさにバランスがとれず、芝生の上に転がった。
 訝しげな顔で、みちるが覗き込む。ミアカシまで、きょとんとした顔でそれに続き。
「どうかしたの?」
「いいいいいや、その、ぼ、僕は何も見てない!」
「何? 何のことなの? はっきり言ってよ!」
 みちるにずいっと詰め寄られて、彰人の頭の中はスパークした。
 まさか告白されたことを間接的に思い出してしまったなんて、バカ正直にいえるはずもなく。
「ち、違うんだ! 不可抗力というか!」
「だーかーらー! 何なのって言ってるの!」
「その、あの、事故の前の、その、いややっぱりいい!」
 事故の前というキーワードが、みちるの脳内であいまい検索されたらしい。数秒固まった後、彼女は彰人のそばから跳ねるようにして離れた。ゆでだこという表現がこれほどぴったりはまることはそうそうないだろう。それくらい、顔が真っ赤だった。
「ななななんでッ!? きき、記憶戻ったのぉ!?
「いや戻ってはいないんだけど、その、勝手に見えたんだから仕方がないだろ!?
「いやあぁぁぁっっ! 忘れてぇ! 今すぐ記憶喪失になってぇ!」
「無茶言うなぁ!」
 顔を赤くしてカバンを振り回すみちると、片腕でどうにか致命傷をさけつつも基本やられっぱなしの彰人。二人の様子をしげしげと観察し、ミアカシは小首を傾げる。
「貴彦よ、あれは何をしているのだ。私にはさっぱりわからん」
「えーと、甘酸っぱい青春の一ページが開かれてしまったワケっすよ」
 事情をそこはかとなく察した貴彦は、一人頷いて見せたわけだが。
「なるほど。何か過去に恥ずかしいことでもあったのか。すると貴彦の恥ずかしいことも、あやつは見ておるかもしれんな」
「……へ?」
 貴彦の余裕が崩れ落ちる。ミアカシは淡々と説明を続けた。
「私が先ほど使っていたトリコは、魂の落ちる場所をウツシヨに引き出すもの。『記憶』を封じるための場所だ。あのままだと彰人が死にそうだったから、ひとまず一緒に放り込んでみたんだが」
「えーと、ミアカシちゃん、状況がよくわからんのだけど」
「魂の落ちる場所は、魂を保護する場所でもある。トコヨ……こちらでいうあの世の代替品だよ」
「へえ。よくわからんけど、なんで俺の恥ずかしいことの話に繋がる?」
「同じところにつっこんだら、魂の情報が共有される。もちろん『記憶』もな。色々とまずいものを見たんだろうな」
 貴彦は無言でしばし考え込んでいた。彰人は過去の記憶を見た。記憶というのは、もちろん記憶喪失になる前の彰人自身のものに違いなく。とすると、みちるがあそこまで狼狽する記憶など『あのこと』以外にありえなく。あのことを見たなら、自分が彼女のことがアレだと言った辺りも知ってしまったとしても――。
 そこまで考えた彼は、彰人のそばに駆け寄った。そして、がっしりと両肩をホールド。
 その行動にいたる経緯を知らない彰人は、唐突な展開に驚きもがいた。しかし抜け出したくても、左腕が麻痺した状態ではどうにもならない。
「何すんだよ、貴彦」
「ことに、彰人君。キミは俺と事故前日に話した内容も見ちゃったりしたのかなぁー?」
「え、あ、その」
 口ごもる彰人に、彼はホールドする腕に力をこめた。
「今だみちる、その鞄で頭を殴れ。そして記憶を飛ばせ!」
「ちょ、バカヒコてめぇ裏切り者!」
「うるさい! 恥ずかしい記憶だけピンポイントで見てんじゃねえよ!」
「アキ、ごめん! これは世界の平和のためなの!」
 彰人は二人のただならぬ剣幕とに言葉を喪った。
 二人とも本気で記憶喪失になるくらい叩きのめすつもりはないはずだった。ないと思いたい。なんか目が据わっている気もするけど。多分大丈夫。こんなことで少なくとも三年分は確実にあったはずの友情が壊れてたまるか。
 鞄を振り上げたみちるを一瞥して、今まで呆れたような顔で静観していたミアカシがようやく重い腰をあげる。
「死なない程度ならば、何をしようがお前らの勝手だとは思うがな。周りの目は多少気にする方が良いと思うぞ。私と違って、お前らは姿が消せるわけでもないのだからな」
 三人で、恐る恐る、ゆっくりと公園の入り口を振り返った。
 道行く人々がちらちらとこちらを見て、そそくさと去っていく。散歩中のご老人が、しげしげと観察している。子供が指さすのを、母親が焦ったように連れ去っていく。
 特に彰人が一番注目されている。そういえば一見五体満足な彰人は、血みどろYシャツを着ているわけで。
「まるで見世物だな」
 にやりと笑ったミアカシをよそに、戦意喪失した三人はそそくさとその場を抜け出すことに没頭した。



 夏休みが三日後に迫った日。学生達の意識は完全に、学業から解放される日々に向いていて、浮き足立った空気は街中にまで満ちている。
 人がみっしりと詰まった真夏のバスも、不快感だけじゃない独特の高揚感があった。
「これ、もう外してもよくないか?」
「でもなぁ、昨日まで全く動かなかった腕が、今日いきなり動くのも変じゃね?」
「あと三日だし、休みに入るまで我慢すれば? 仮病だったと思われるわよ」
 貴彦、みちると小声で言い合い、骨折でもしたように三角巾で吊ってある左腕を一瞥して、彰人はため息をついた。あれからミアカシが頑張って治してくれたわけだが、何せ彰人にも学生としての本分があるわけで、一日中治療にかかりきりになるわけにもいかなかった。結果、腕の感覚を取り戻すまでは数日がかかり、その間こうやってけが人を装っていたのだ。転んで筋を痛めたとか、適当にいいわけして。
 そんな治療も昨晩で完了して、今は普通に感覚も戻ってきたし、多少の違和感はあるものの指先まできちんと動かせる。正直この夏場では三角巾で吊るのも暑苦しくて嫌なのだが、仮病疑惑をかけられるよりはマシか。バスには同じ学校に通う生徒もいるし、一応そこは自重を覚えておく。
 三人は、彰人の家に向かっていた。
 特別用事がなければ、学校が終わると同時にクラスメイトとの挨拶もそこそこに寄り集まって帰る。貴彦はたまにこうやってついてくる。いつものことだった。
 とはいえ、何もかも元通りの日常かと言われると違う気がする。
 成り行きで知ってしまった過去の三角関係のことは、確実に微妙な空気をもたらしている。
 偶然手が触れ合うとみちるが何やらもじもじとしたり、彰人はそんなことがある度にどうしていいかわからずもやもやとしたり、貴彦は痒いところに手が届かないような何とも言えない表情でそれを見ていたりたりする。
 だからといって誰も、失くした記憶の中にあった出来事に白黒つけようとはしなかった。
 過去に何があっても、まだ彰人の中ではみちるは仲の良い異性の友達だ。『記憶』のことは、どこか他人事みたいな感じがぬぐえない。過去を知っていきなり彼女を異性として意識するのも、失礼だとも思った。
 みちるにとっても、そうなんじゃないかと思う。彼女が恋していたのは記憶をなくす前の彰人だ。今の彰人に対して持っている感情は、どちらかというと友情に近いものだろう。今の彰人と昔の彰人と、恋愛感情と友情の折り合いをつけられないからこそ、彼女は一線の引きどころを迷っている。これはもう、彼女が自分で納得の行く落とし所を見つけるしかない。
 貴彦はそんな彼女の様子を見て、何だか困ったようにため息をついたりする。彼は彼で、色々と腹の内に抱えているものがあるんだろう。彰人があの時見た記憶の断片から考えると、彼は一時的にでも、みちるに恋愛感情を抱いていたようだから。今でも、そうなのかもしれないけど。
 とにかく、三人の中で彰人が『記憶』の中で見た過去のことは、触れてはならないパンドラの箱みたいな扱いだった。
 それぞれがほんの少しの変化をその身に宿して、だけど日常は元の姿を取り戻す。違和感も、その内時間が溶かしてくれるだろう。多少はぎくしゃくしても、最終的には三人とも、この日常が一番心地いいことを知っている。それぞれの感情にどういう決着がついても、ここに戻ってくるんだと確信できる。
 ――いずれは戻ってくるかもしれない、僕の『記憶』のためにも。
 彰人の腕を直し、暴れまわっていた『記憶』も眠りについた。
 自分の身体を、記憶がないままに不安の中で生きてきた彰人を、死なせないために。
 三人が示し合わせたかのように過去に触れないことにしたのは、自ら眠ることを選んだ『記憶』に対しての、誓いのようなものかもしれない。必ず、過去を取り戻す。だからそれまでは、過去のことは触れてはいけないところに大切にとっておくんだと、そんな意識が根底にある気がする。
 そう思えるだけの根拠はあった。これは彰人にだけにわかることで、二人にもまだ秘密にしていることだ。
 ちらと自分の胸の辺りを見下ろすと、糸が見える。
 ――何か、『見える』ようになっちゃったんだよなぁ。
 人と人の間を繋ぐ、糸が。
 ミアカシと繋がっている紅い糸だけではなく、二人に名前を呼ばれた時に見えた白く光っていた細い糸も。あの日、深淵から戻ってくる時に見えた糸が、今でも見えている。
 これ以上みちるたちの心配のタネを増やすのもどうかと思ったので、ミアカシにだけ相談した。一連の出来事で異質な力に直で触れまくったから、霊感が強まっているのだろうというのが彼女の見解。
 今も貴彦とみちるの身体から、彰人に向かって伸びている。その糸が二本ずつあるのも、きちんと見えている。彰人も昔の『彰人』も、それぞれ別の形で彼らと繋がっているということなんだろう。
 その二本の糸が重なることはあっても、片方が消えることはない。そんなことにはならないようにするつもりだ。
 自分と繋がる糸を見つめて、彰人はひそかに決意をしている。
「そういや、ミアカシちゃんへのおみやげ、マジで全部ポテチでよかったのか」
 貴彦がスーパーのポリ袋を二つ掲げた。彰人は意識を現実に引き戻す。彼が掲げた袋の中身は色とりどりの袋菓子。味は違えど、全てポテトチップスだ。
「ああ、めちゃくちゃ喜ぶよ、あいつ。本当にポテチしか食わないからな」
「……見るだけで胸焼けしそうね」
「まあまあ、ミアカシちゃんもこれが最後のポテチなんだからさ」
 そうなのだ。今晩、彼女はトコヨに帰る。
 『記憶』の問題があらかた片付いたので、ミアカシがウツシヨに留まる理由はなくなってしまった。『記憶』を安全に取り戻す方法がわかれば、どうにかしてまたこちらの世界に来るかもしれないとは言うものの、いつになるかわからない。
 別れる前に、彼女の大好物であるポテトチップスを、スーパーで予算が許す限り全ての種類を一袋ずつ買ってきた。棚の端から端まで総なめだ。出資は彰人と、二人とで半々。
 やがてバスは遊間家と月見里家の最寄バス停に停まって、三人は熱気の中を足早に歩いていく。途中で月見里家に立ち寄ってみちるが鞄を置き、それから彰人の家に上がりこんだ。
 テレビの音が聞こえてくる。大方、どこかの神様が見ているのだろう。
 案の定。
「お、おひゃえひ、あひひほ。みひるほははひひょほよふひはにゃ」
「何言ってんのかわかんねーよ! っていうか、予想以上のくつろぎっぷりだなオイ!」
 テレビの前でクッションを用意して寝そべり、おぼんの上に麦茶とポテトチップスの袋を用意してぼりぼりと貪り続ける、まるで子育てのヤマを過ぎてスローライフ期間に突入した主婦のようになっている美少女(神様)。
 ミアカシは口の中いっぱいにほお張っていたポテトチップス(牛タンわさび味)を、麦茶で喉の奥へと流し込んだ。そして、きりっと澄ました表情で座りなおし。
「おかえり、彰人。みちると貴彦もよく来たな」
「今更しきり直してもお前の口元にはしっかりとポテチの食べかすが残っていわけでな……」
「細かいことは気にするな。将来ハゲるぞ」
「気にしろよ! それと、お前がツッコませるようなことしなけりゃハゲないよ!」
「今日で帰るのだから大目に見る気はないのか」
 そういわれてしまうと、彰人もツッコミの手を緩めざるを得ない。まがりなりにも彼女は命の恩人で、今日は別れの日なのだから。
「ほら、ミアカシちゃん。お土産のポテチを買ってきたぞー。向こうに帰る前に、たんまり食べていきなー」
 スーパーのポリ袋二つ分のポテチを見て、ミアカシは目を輝かせた。神様の威厳などもっても三十秒だ。
「ちゃんと全て別の味を買ってきたのであろうな!」
「おう、見渡す限り全種類を買ってきたぜ。ピザ味、サワークリームオニオン味、明太子味、カレー味……」
「御託は良い。全てよこせ。さっさとよこせ。彰人は茶を用意しろ」
 最後の日だというのに、しんみりもできない。何だかとても疲れた気分になって、彰人は冷蔵庫で冷やされている麦茶を人数分ついでいく。部屋がそこはかとなくポテト臭いのが微妙に嫌だ。
「……平和だ」
 ミアカシがいなくなれば、もっと平穏になるだろう。そして少し、退屈で寂しくなる。
 リビングに戻ると、三人がそれぞれに思い思いの表情をしている。二、三袋を一気に開いては美味しそうに食べ比べているミアカシ。自分もポテチをつまもうとして、ミアカシから手痛く追い払われる貴彦。充満するポテトの匂いに辟易として、彰人の持ってきた麦茶を救世主が来たかのように見つめるみちる。
 こんな風景も、見納めだ。
 ひとまず、充満したイモ臭をどうにかしようと、窓を開放する。熱気と一緒に、庭木の青い匂いも入り込んできた、もうすっかり真夏だ。
 もう少しで、全てを喪ってから三年目の日がやってくる。



 窓の外は既に暗く、刻々と夜は更けていく。
 例の本を広げ、ちょっと不気味な紙の人型と五円玉、赤い糸を用意した。
 貴彦は黙々と、白い紙に五十音の文字を書きつけている最中だ。
 『記憶』をこちら側の世界に引っ張り出してしまったあの夜と、全く同じ装備だ。唯一違うのは、新月ではないところだろうか。
「月の満ち欠けって実はあんまり関係ないのか」
「いや、関係はある。新月の方が……トコヨと繋がりやすい。だが、満月の日であっても……繋ごうと思えば繋げないことは、ない」
 トコヨからこちらに来るのよりも、こちらからトコヨに戻る方が簡単だとミアカシは言う。二つの世界の間には流れがあり、通常はこの世界――ウツシヨから、トコヨに向かって流れていく。トコヨからこちらに来るには、流れを遡らねばならないだけに少しの隙間ではなかなか通り抜けられない。だから、ウツシヨ側に繋がりがなければ簡単にはこられないのだという。だが、こちらから戻る分には、要するにミアカシ一人が通り抜けられる穴が空けば後は流されるだけでいいわけだ。
 最後のひと袋となったポテチをパリポリとやりながら、ミアカシが説明をしてくれた。話しながらも食べる手と口は止めないので、所々不自然に言葉が途切れた。
「あたしにしてみれば、そんなことよりも何でそんなにポテチばっかり食べられるのかってことの方が謎よ」
 みちるが麦茶を飲みながらしみじみと呟く。
 確かにトータルで七袋あったはずのポテトチップスが、もう食べつくされようとしていることはある種の戦慄を感じる謎だった。どんだけ好きなんだ。この神様はどういう胃腸構造をしているんだ。
「供物はいくらあってもかまわんぞ。渡されたら渡された分だけ食べるものだ。さすがに腐っているものは食いとうないが」
 ミアカシは、若干ピントのずれた返事をする。そういう問題ではないというのに。
「おお、そうだ。彰人、トコヨに帰る前にお前に渡さねばならぬ物があった」
 今の会話で何やら思い出したらしい。指についた粉をぺろりとなめて、彼女は懐をごそごそとやりはじめた。手を洗わないのかよ。
「彰人、これはお前が持っていると良い」
 それは大きめのビー玉みたいな珠だった。ミアカシの髪と同じ鮮やかな紅で、透き通ってはいない。何かの宝石のようにも見える。
 これがただの石ころでないことだけはすぐにわかった。糸が伸びているのだ。この珠から、自分に向かって、そしてミアカシに向けて、二本の赤い糸が出ている。ミアカシからも珠に向かって糸が伸びているので、彰人と珠とミアカシの間で紅い糸の三角形が出来上がっていた。
「何だコレ」
「それはお前の『記憶』だよ」
 渡された珠を指でつまんでしげしげと観察していた彰人は、驚いて取り落としかけた。すんでのところで何とか受け止める。
「ちょ、その、何!? これが『記憶』だって!?
「うむ。耳元で振ってみろ」
 言われたとおり、彰人はその珠を耳元で数回振って見る。かすかにだが、チャプン、と水の揺らめく音がした。
「それには、お前がこの前死にかけた時に行った場所が内包されている」
 この前、というとそれは当然『記憶』を赤い水の底に封じ込めたあの日のことであるはずで。彰人は首を傾げた。
「あそこ、トコヨじゃなかったのか?」
「本当にトコヨに行っていたのなら、多分お前は死んでおるぞ。トコヨに似せた封印の場所だよ」
「臨死体験みたいなものかと思っていた」
「その認識も間違ってはいないが。まぁ、要するに、その中にはお前の『記憶』が眠っている。そこさえわかっていれば良い。もう『記憶』が勝手に暴れまわることもないだろうし、自分で持っていた方が安心できるだろう?」
 彰人は、手の平に納まる紅い珠を握り締める。十四年分の記憶。事故に遭うまでの、遊間彰人という少年の人生そのもの。それが、こんな小さな珠の中に詰まっている。
「その珠は私の糸を丸めて作ったものだ。だからお前がそれを持っていれば、私は『お前たち』の元に戻ってこられる」
 その『お前たち』がこの三人のことを指しているのか、それとも自分と『自分』のことを指しているのか。どちらでも、そう悪い気分じゃない。
 いつかまた未来に会えるなら。これで永遠の別れでないというなら。
 何だかんだ言って、彰人はこのポテチが好きで、アヤトリみたいな不思議な術を使って、知識はあるくせに世間知らずで、人間に憧れていて、とんでもなくお人よしな神様のことが気に入っているのだ。
「別に用事がなくたって、遊びに来いよ。ポテチを買って待ってるよ」
「そういうわけにはいかぬよ。お前の記憶をどうにかする方法を、探してくる。何せトコヨには全ての過去と未来が詰まっているからな。探せばどこかに方法も転がっているだろうさ」
 そこまで言ってから、しばらく考え込み。
「たまに私のことを思い出して、ポテチを供えてくれると嬉しい」
「どこに供えるんだ」
「どこにでも良い。神とは信じる者と繋がるものだからな」
 彰人はちらと、自分と彼女の手の平の中にある紅い珠との間で繋がりあう糸を見る。
 案外、そんなものなのだろう。どんな神様にも、願いや思いは簡単に届いている。あっさりと繋がることができる。
 神様は人間が思っているほど万能じゃなくって、しかも人間が思っているほど自由でもない。人間と同じように、繋がった誰かを必死に守ったり、救ったり、守られたり救われたり、するんだろう。きっと。
 これだけ科学が発展してもまだ、人間が神様の存在を捨て切れないのは、案外神様が全知全能じゃないからこそなのかもしれない。どんな願いも叶えられる存在が支える世界なんて、きっとつまらない。神様ができないことは人間がやって、人間ができないことを神様がやる。神様と人間の利害が一致した時に起こる運命の変革には、奇跡なんて呼ばれたりする。そんなバランスで、世界はきっと回っているんだ。
「おっし、こっちの準備は完了だ」
 貴彦が出来上がった用紙をセッティングする。
 少しだけ緊張しながら、彰人は針に赤い糸を通す。糸の端には五円玉をくくりつけ、紙の人型の心臓辺りを、針で指して用紙に繋ぎとめる。
「もうそろそろ時間ね」
 みちるが腕時計を見ながら呟く。
 最後のポテチをしっかりと完食したミアカシは、五円玉に指を添えた彰人の手もとに座った。指先に、彼女の手が重なる。
「また会おうな」
「ああ、元気で」
 貴彦とみちるが、右と左で手を彰人の肩に添える。
 息を吸って、吐いて。目を閉じて、開いて。
「彼方にありて、此方に呼ぶ。我が御霊の欠片呼ぶ」
 運命の言葉を、呟いた。
 思えばこれが始まりだ。ずいぶん色んなことがあった。たった数日のできごとなのに、何だかもの凄く長い時間を旅したような気分だった。
 ぼんやりと、淡く字が光を放つ。ミアカシの身体も、ぼんやりと光を帯びて――。
 不意に、彼女の顔が彰人の顔の間近に近づいた。紅い髪がさらりと揺れて、藍色の瞳が吸い込みそうなくらいにまっすぐ、自分を見つめて。
「てれびで覚えた。人間同士の親愛の挨拶は、こうであったな」
 頬に温かくて柔らかい唇の感触がして、それと同時に赤い光が視界を焼いた。
 思考回路も焼き切れるかと思った。今のは、いわゆるその、キスというやつではないのかと。
 その光の中で、彰人は声を聞く。それは、自分に良く似た、だけど自分よりは少しだけ幼く聞こえる声。
《さよなら、って言ったそばからこれかぁ》
 どこか呆れたような、だけど少しだけ嬉しそうな、呟き。
 そして、戸惑いに満ちた少女の声。
「…………あれ?」


《エピローグ》

 帰り損ねた。
 ミアカシは、実にあっさりとこう呟いた。
「向こうに行く穴が開きかけたんだがな、通り抜けるには足りなかったようだな」
「いや、普通に言ってるけどそれ、まずいんじゃないのか!?
「まずいかもしれない」
 そんなことを言われてもどうしたものかと。
 原因は二つ考えられるという。最初の儀式で彰人がトコヨと繋がれたのは、あくまで向こう側に『記憶』とミアカシがいたからだという説。その二つの要因がこちら側にいる今は、儀式を使っても効果が薄い。もしくはすぐそばにいるミアカシの方に力を引っ張られてしまうのではないかということだ。鍵を部屋に置いたまま出たらオートロックをかかって締め出された、ホテルの宿泊客みたいだ。
 もう一つは、トコヨかウツシヨか、どちらかに行き来を阻害する力が働いているという説。これが原因ならば、まずは偶発的なものなのか意図的なものかを判別する必要があるとのこと。
「いずれにしても、帰れないものは仕方ない。帰られるようになるまで、お前の家に厄介になることにする」
 ミアカシはつらっとした顔で言ってのける。そこに、みちるが諸手を挙げて抗議を始めた。
「ちょっと待って、冷静に考えて! 今までは少しの間だしと思ってたからあえて言わなかったけどね。美智代さんって仕事でいないこと多いでしょ!? ということはつまり、その、アキとミアカシは二人きりで、その……健全な青少年としていけないでしょ!?
「何を焦っているのだ、みちるよ」
「いいいいや、ああ、焦ってなんかいないからね! 勘違いしないでね! ちょっと世間的に、その、心配しているの私はっっ!!
 彰人の肩をがくがくとゆする彼女の顔は、真っ赤になっている。
「や、やめろみちる、目が……回る! 大丈夫だって、ミアカシ、イトコってことになっているしぃいいいぃ!?
 フォローを入れたつもりが、全力で(若干の怨念さえ感じるイキオイで)みちるは彰人をぐわんぐわんと揺らしまくった。
「何言うのこの口は! この口はっ!? そ、そういえば、さっき、光っててよく見えなかったけど、ミアカシが顔近づけてたけど! 何を、してたのかなぁっ!?
 頬にされたキスのことを思い出して、顔を赤くした彰人を、みちるは更に追いつめるべく首を絞め始めた。本気ではないのだろうが、怖い。威圧感が半端ない。
「ぐぇ、ちょ、タンマ、みちる! な、何で、怒って! た、貴彦も、助けろぉ!?
 貴彦はニヤニヤと笑いながら彰人の訴えを無視して、お土産のポテトチップスを袋から取り出した。
「さぁ、ミアカシちゃん、俺と一緒にポテチ食おうかー」
「お前にはやらん」
「そんなぁ、固いこと言わず」
「やらん。ぽてちは私のものだ」
「た、す、け、ろぉぉぉ!」
「反省しなさーい!」
 混沌が遊間家のリビングを賑わせる。
 事態に収集がついたのは、貴彦がミアカシに絡むのを諦め、ミアカシがポテチに没頭し、彰人がみちるの猛攻にダウンし、みちるが彰人に八つ当たりするのに疲れた頃だった。
「まあ、私が自力で帰る方法がないわけではない。霊力を溜めれば何とかなる」
「……最初にそれを言えよ」
 カーペットの床にぐったりと伸びながら彰人は呟く。ミアカシは不満げにポテチを咥えた口を尖らせた。器用なことをする。
「問題は、どうやってそれを成すかだ」
「振り出しに戻った……」
「まあ、何とかなる。方法はいくらでも探せるさ」
 ずいぶんと適当なことを言う。というか、むしろ若干楽しそうだ。
「まあ、いいよ。今までのことのお礼もしたいし、ミアカシが元の世界に戻る方法を探すの、手伝う」
「本当か!?
 ミアカシの顔がぱっと輝いた。
「そうそう、水臭いこと言わない言わない。俺たちがついてるからさぁ」
「まぁ、このままずっと同棲とかアキの情操教育にどうかと思うし、借りもあるから手伝いくらいするわ」
 貴彦が、みちるが、それぞれに言う。
 彰人は二人と顔を見合わせた。苦笑して、肩をすくめる。こうなってしまったんだから仕方ない。何とかなる。
「もうしばらく、よろしく頼むな」
 子供みたいに純真な笑顔で、彼女は手を差し出す。
 彰人も、この人間三人と神様一人の繋がりをもう少しだけ引き伸ばすために、手を伸ばした。
「よろしく、な」
 糸と手が繋いでいるものには、多分『絆』という名前がついている。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み