3.迷走するリビングデッド

文字数 19,869文字

 病院で目を覚ました時、自分のことは、本当に何ひとつわからなくなっていた。
 名前も、年齢も、住所も、家族のことも、友達のことも、嬉しかったことも悲しかったことも全て。初めから何もなかったかのように消え去っていた。
 まっさらな水だけ満たされた、ガラスコップみたいな気分といえばいいんだろうか。
 何を聞かれてもまともに答えられる質問なんてひとつもないし、身体に悪いところがないのに病院でじっとしていなきゃならないのも苦痛だった。検査やカウンセリングばかりで、神経ばかり磨り減っていく。
 身元が判明した時、心底ほっとした。だけどそれはすぐに、今までと同じ神経をすり減らす原因に変わってしまう。
 誰かに会う度に「自分がわかるか」と聞かれるのが怖くなった。「わからない」と答えて失望されるのも、思い出せることがないかとくいさがられるのも、その後の会話が続かないのも嫌だった。
 同じ事故で行方不明になった人の家族がやってきて、何か手がかりを思い出せ、どうして貴方だけがと責め立て始め、挙句マスコミまで取材にやって来た時には、病院側も困り果てていたくらいだ。
 もう、誰とも会いたくなかった。
 だから、幼なじみでとても仲が良い親友だったという二人が来た時も、顔をそらしてずっと窓の外を見ていた。早くこの時間が終ればいいのに。そればっかり考えていた。
 窓の外では、真夏を過ぎても衰えを知らない太陽がギラギラと照りつけている。空調の効いた病室にずっといるせいか、暑さは感じない。外に出たらうんざりするだろうな、とは思う。夏が暑いとか、もうすぐ秋が来て寒くなるとか、そういう世界の常識は覚えているのに。
 とりとめのない考えごとで目をそらし続けても、視界の端っこに映ってしまう二人分の人影は消えようとしなかった。
 少し緊張したように、大きく息を吸う音がした。
 ああ、また気が重い瞬間がやってくる。目を閉じて、心も一緒に閉じられたらいいのに。諦めに近い思いが、胸の中にわだかまる。
 ただ頑なに、顔はそらしたまま。
「えーと、その、忘れているんだと思うから、まず自己紹介から入るけど、あたしは月見里みちる。ヤマナシは月を見る里、って書いてヤマナシね。見たまんま、ツキミサトなんて呼ばないでよ? 彰人の隣の家に住んでいるから。これからよろしく」
「俺は広崎貴彦な。みちるも俺もお前の幼なじみ。もう顔見飽きたくらいの関係だ。これからも見飽きると思うから、よろしくな」
 振り向いてしまった。
 彼らは言わなかった。覚えているか、思い出せることはないのか。無理だと何度言ってもうんざりするほど聞かせられたその言葉を。
 その代わり、自己紹介以外は何も言わずに、笑っていた。本当は「そんなこと、とっくの昔に知っているよ」と言って欲しかったはずの二人が。
 手を差し出されたので、思わず自分も手を伸ばした。握り返されて、その手が温かいことに驚く。まだ暑さの残る外からやってきた二人の手が温かいなんて、考えてみれば当たり前のことなのにだ。
 何か言わないと。握った手が離れる前に、何を言おう。
 知っていることは、この身体が持っている名前だけ。
「えーと、はじめ、まして? っていうのも変かもしれないけど、遊間彰人……らしいです。よろしく」
 自分でも何を言っているんだろうと思った。
 すごい笑われた。何だかおかしくなって、自分も笑った。――笑うことが、できた。
 全てを忘れてしまった自分が、初めてここにいることを許された気がした。

 まだ暑い夏の終わり、空調が行き届いた病室の中。遊間彰人という名前が判明したばかりの少年は、自分がずっと寒くて凍えそうだったことを知る。



 うっすらと目を開けると、そこは白い天井だった。病院のと似ているけれども、すぐ隣にあるカーテンのしきりが、ここが保健室だということを思い出させる。
 ――どれくらい寝ていたんだろう?
 ホームルームが始まるよりも早く保健室の厄介になった彰人は、ベッドで休んでいた。余程疲れていたようで、横になってから眠りに落ちるまで、数分もかからなかった。
 半身を起こして軽くカーテンを開けると、書類をまとめている校医の後ろ姿と、壁掛け時計が見えた。昼の十二時三十分手前。四時間目が終わりそうな時間だ。ずいぶんと長く寝てしまった。
 ――なんか、えらく懐かしい夢を見たし。
 たった三年分しかない思い出の中でも、一番古いものだ。二人に、『初めて再会』した時のこと。
 何だか、責められている気分になる。
 今の自分が昔と比べて変わり果ててしまっているとして、それにあえて触れないでくれている二人に、一瞬でも騙されたような感覚を覚えてしまったことを。そして、記憶を失う前の、彼らの親友だった自分に戻れない、自分の情けなさを。
 不安を拭うためだけに記憶を取り戻そうとして、まるでそれを二人のためのように言い訳してきた自分が、すごくみじめでちっぽけな存在に思えて仕方がない。
 自分は、誰なんだろう。
 記憶に心〔人格〕が宿っていくのか、心〔人格〕に記憶が降り積もっていくのか。前者なら、自分はもう昔の遊間彰人と同一人物と言えない気がする。後者だとしても、別人も同然になるのは自然なことだ。
 いずれにしても――昔の自分は、少なくとも口調は今の自分と違っていた。二人が気を使って触れないようにしていただけで、本当はもっと違う部分がたくさんあるんだろう。
 みちるは、よく「そういうところは昔から変わらない」と言う。彰人はそれを「記憶を失くしても人はそんなに変わらない」という意味だと思ってきた。だけどもしかしたら、彼女は『記憶を失くして別人のようになっても、変わらないところがまだあるんだ』と安堵していたのかもしれない。昔の記憶を取り戻すのがしばらく無理だと知って、みちるは失望していた。貴彦だって彼女ほどじゃなくてもきっと、がっかりしたはずだ。
 今は『記憶』が彰人の命を危険に晒しているから庇ってくれているだけで、二人が求めていることが「昔の遊間彰人に戻ること」なのだとしたら、どうしたらいいんだろう。
 別人も同然なのに、遊間彰人を名乗っている、自分は。
 自分自身の『記憶』にさえ、全否定された、自分は――。
「お、やっと起きたな?」
 その声に、迷路をさまよっていた彰人の思考は、一気に現実に引き戻される。
 校医が、椅子のキャスターをくるりと回してこちらを向いた。白衣に銀縁眼鏡にポニーテール。きつめの顔立ちにサバサバとした口調のせいか、「女帝」なるあだ名を持つ養護教諭、前園智美〔まえぞの・ともみ〕だ。こんなあだ名だけれど、主にM気質の男子のハートを射止めているのか生徒には人気がある。
 彼女は不機嫌に、カーテンの隙間から覗いている彰人をにらみ付けていた。
「ベッドに入るなり一瞬で眠りこけやがって、あんたは学校に何しにきたんだ」
「あ、はい……すみません」
「死にそうな顔してなきゃ、教室に追い返してたところだ」
「そんな酷い顔色してました?」
「顔色というより、面構えが。屋上からコードレスバンジーされても困るからな」
 あまり笑えない冗談だ。女帝相手にツッコミを入れる勇気はなく、彰人は「そうですか」と気の抜けた返事をひとつだけ返した。
「気分よくなったなら、午後からは授業に戻れよー」
 軽い調子で言われ、彰人は引きつった笑みを漏らす。
 本音を言うとクラスに戻ってみちると貴彦に顔を合わせるのが辛い。さっき見た夢の内容が、なんともいえない後ろめたさとなって心に重くのしかかっている。バスでミアカシとおかしな会話をしていたあたりまではいつも通りに思えたのに、自分の軟弱な精神構造に嫌気がさしてきた。
 とはいえ、ただの寝不足と気疲れにも関わらず半日寝てしまった以上、選択肢は存在しない。むしろ叩き起こされなかっただけ、優しい対応だ。さすがに午後からは授業にでるつもりだった。
「そういや休み時間の度に様子見に来ていたあんたの彼女? 心配かけたんだからよーく謝っときな」
「か、彼女!?
「ほら、ふわふわ髪の女子だよ。休み時間の度に来るからさ。てっきり彼女だと思ったんだけど」
 それは確実にみちるだ。二階の教室から一階の保健室まではそれなりに距離があるわけで。わざわざ休みの度に来るなんて、どれだけ心配性なのか。
「……ただの、幼なじみ、です」
「ふうん、幼なじみねぇ」
 女帝はニヤニヤと笑いながら、それ以上はつっこまずにまた背を向ける。むしろつっこんでほしかった。心ゆくままに否定させて欲しかった。
 ――だって、みちるは、赤ちゃんの頃からのつきあいのはずで……。
 恋愛関係とか、考えたことがなかった。
 いや、考えようとしていなかった。
 記憶をリセットされてしまった彰人にとって、三年よりも昔の関係は他人から伝え聞いただけのものでしかない。少なくともみちるとの関係は、兄妹も同然に育ったと聞いていた。そういうものだと思っていたし、それ以上のことは考えなかった。
 与えられた情報からはみ出さないようにするのが、彰人にとって精一杯の「昔と変わらずにいること」で、聞かされていない、より深い場所には今までずっと触れないようにしてきたのだ。たとえば、みちると貴彦と自分、三人の関係が本当に『ただの幼なじみで親友』だったのかどうかということも――。
 キーンコーンカーン……。
 チャイムが鳴った。昼休みを告げる音だ。
「購買行くなら早めに戻りなよ。あそこは戦場だからな」
 女帝にあしらわれ、ついでに朝もろくに食べていなかった自分の腹の音にも追い立てられ、彰人は保健室を後にした。
 購買は保健室前の廊下を通り過ぎて、一階の最奥にある。授業が終わると共に駆け出したのであろう気の早い生徒が、すでにちらほらと姿を見せはじめていた。
 たとえば、黙っていればそこそこに格好いい外見なのに、口を開くと大変残念なキャラをしている、小学校以来の付き合いである(らしい)幼なじみとかが。
「あ、たかひ……こ?」
 声をかけようかと迷うヒマもなく、彼は彰人には目もくれず購買に向かって全力疾走で通り過ぎていく。保健室の扉が開き、顔を出した女帝が彰人の後ろで叫ぶ。
「廊下を走んな! 商品は逃げるが購買は逃げんわ!」
 商品が逃げるんじゃ走るのを止める理由にならないんじゃ。
 ぐるぐるとツッコミが頭の中を回る。廊下の果てでは、貴彦の後ろ姿が鮮やかな急カーブを描いて購買の方へと消えていく。何だったんだ。
「アキとあたしの分も頼んだの。今日、お弁当用意できなかったし」
「っうわぁっ!」
「……失礼な反応ね。寝ぼけているの?」
 いつの間にか横に立っていたみちるの姿に気づいて、彰人は小さな悲鳴を上げた。彼女はむすっとした顔で、肩にかかる柔らかい髪を指でもてあそぶ。そういえば、呆れた顔をしている時に、彼女はよく指で髪をいじっているな。そういうくせなんだな。どうでもいいことが気になったりもして。
 ダメだった。女帝が変なことを言うから、意識してしまう。
「何だ、やっぱり彼女なんじゃないか」
 その女帝が、真後ろでそんなことを言い。
「な!? まだいたんすか!?
「失礼だな」
「ま、前園先生!? ああ、あ、あたしたち、ただの幼なじみですよ!?
 何故かみちるまで過剰に反応する。何だか拠り所を失った気分であわあわしていると、突如超高速で飛来した茶色っぽく生温かい物体が顔にジャストミート。
「むが!? ……ん、あ」
 顔面キャッチしたその物体は、彰人の手の平の上に着地する。若干潰れ気味の焼きそばパンだった。パンのやってきた軌道上にいるのは、カツサンドとコロッケパンを小脇に抱えた貴彦。彼は投球を終えたピッチャーのポーズで立っていた。
 早っ。買ってくるの早っ。
「おお、ストライク! 俺スゲー!」
「すごくない! 廊下走るな、食い物投げるなボケ!」
 貴彦の自画自賛は、女帝によって一蹴された。むずがゆい空気は一瞬にして流れて、みちるの顔は赤面から貴彦への呆れに切り替わっている。へこへこと女帝に頭を下げながら近づいてきた彼から、彼女はコロッケパンを奪い取った。
「もー、いくらなんでも顔はないでしょ? アキはともかく、あたしに当たったらどうしてくれるの?」
「ぼ、僕には当たってもいいんだ!?
「心配かけたんだから当然」
「だよなー」
 ふう、とため息をつくみちると、ははは、と笑う貴彦。顔を合わせ辛いと思っていたのに、そんな気分は砕けてしまった。心の整理がついたかと言えば嘘になるけれど、まじめになるのがアホくさい空気ではある。またすぐにシリアスな気持ちに戻るにしても、今はこれでいい気がした。
「ほらほら、保健室の前にいつまでもたまってんじゃない! 邪魔だ!」
「すみません、前園先生。ホラ行くよ、アキ、バカヒコ!」
「ちょ、みちる! 締まる! 締まるって!」
 女帝に追い払われ、みちるは貴彦のネクタイをぐいとひっぱりながら歩き出す。貴彦は大げさによろめきながら、それについていき、彰人は少しだけ迷って、結局彼らをおいかけた。
 ふと、昔の自分はどうだったんだろうと思う。二人の前を歩いていたのか、隣を歩いていたのか。多分、こうやって後ろからついていったわけではないんだろう。
 二人が先を歩いて作ってくれた日常を、自分は歩いている。
 胸の奥に抱いてしまった疑問は、薄れても簡単に払拭されることはない。
 記憶を失った自分に、遊間彰人でいる権利はあるんだろうか。
 遊間彰人の身体と、名前と、立場と、友人。その全てを無条件で手に入れてよかったんだろうか。
 あの夏の日に二人から差し伸べられた手を、握り返す権利が自分にあったんだろうか――?
「そういやえば、アキ。午前中いっぱい寝てたけど、本当に大丈夫なの?」
 みちるが振り返る。
 心配をするその理由を、勘ぐろうとしている自分を隠して、彰人は笑みを返した。
「大丈夫。少し疲れていただけだからさ」
 
 午後からの時間は、平穏そのものに過ぎ去っていった。
 平穏すぎて、不気味だった。ミアカシはどこに行っているのか、一向に姿を見せない。気安く姿を見せられたらもちろん困るわけだが、姿が見えないとそれはそれで不安だ。知識だけはもっているくせに、いまいち一般常識が備わっていない彼女が、見えないところで何をしているのか気になって仕方がない。
 高校が安全圏だといっても、この状況で授業に身が入るかと言われたら話は別だ。眠って多少思考能力が回復した分、焦りの方が強くなる。
 時間がものすごく長く感じた。公式の説明なんて、前々頭に入ってこない。苦手な数学だっていうのに、テスト前だったら終わっていた。気づけばノートが真っ白で、理解してもいないのに慌てて黒板の文字を丸写ししたりする。
 この授業が終われば、ホームルームだ。放課後になれば、さっさと学校を出てミアカシを呼び出すことができる。
「……ん?」
 ふいに、シャープペンが引っ張られるような感覚がして、指が止まった。手首から先が、金縛りにあったように動かない。
「何だこれ」
 彰人の右手首は、今度は本人の意思に関係なく動き始める。自動筆記状態だ。
『じゅんびかんりょう ぽてちわすれるな みあかしより』
 思わず吹いた。となりの席に座るみちるが、いぶかしげな顔でこちらを覗き込んで、そしてメッセージに気づいて「うわぁ」と小声で呟く。
 彰人は脱力した。こんなホラーばりの演出までして、伝えることはそれだけなのかと。指先が動くようになったのを確認して、返事を下に書きつける。
『了解。もう少しで終わる』
 また右手の自由がきかなくなって、更に下にミアカシの返事が書き込まれていく。
『あきひとだけでも いま はなせぬか』
『急ぎの話なのか?』
『いそいだほうがよいとおもう』
 彰人はため息をもらしてノートを閉じた。どうせ授業どころじゃなかったのだ。ここで残りの時間をサボっても、勉強の効率は大して変わらない。
「先生、頭が痛いので保健室に行ってきてもいいですか」
 いかつい顔の数学教師は良い顔をしなかった。が、午前中いっぱい寝込んでいたことを知っているクラスメイトの反応は「やっぱり具合が悪いのか」という感じだったので、あっさり授業を抜け出す許可は得られた。
 やりとりを見ていたみちるの心配そうな顔と、少し離れた席で状況がわからず顔に?を浮かべている貴彦を一瞥して、彰人は教室を出た。
 そのまま保健室に行くわけにはいかない。女帝がいるから、ミアカシとの会話ができないからだ。幸い、まだ授業中だ。授業中なら滅多に人が来ない、かつ保健室に行く前に立ち寄っても言い訳がきく場所がある。
 すわなち、トイレだ。
 トイレの個室にこもってふたを閉めたままの便器に座りこむと、狭い空間の目の前に赤い色が舞い降りる。
「といれにはついてくるなといいながら、あえてここに呼び出すとはお前、いい度胸だな」
「呼びつけたのはそっちだろ!? 話があるなら早くしろ。こっちにだって色々都合があるんだ」
 こっちだって、何が悲しくて便器に座りながら密談をしなければならないのかと。扉を背に至近距離で不服顔のミアカシは、こほんとわざとらしい咳払いをする。
「まず、お前の『記憶』を探すための作業だが、それはさっき言ったとおり、あらかた終った。お前の自宅や、お前の昔にかかわりがありそうな場所に私の『糸』で網を張っておいた。ひっかかればすぐにどこかわかる」
「へぇ、僕の昔かかわった場所なんてよくわかったな」
「みちると貴彦にきいた」
「さっきみたいなことをやってか?」
「無論そうだ」
 自動筆記状態の彰人を見て、みちるが「うわぁ」といっただけでさして驚いていなかったのは、自分もやられていたからなのか。休み時間に頻繁に様子を見に来たというのも、その辺のことがあったのかもしれない。
「それって別に僕を呼び出すほどのことじゃないよな?」
「無論。ひとまず、ことを成す前にお前の心を確認しにきた」
 大真面目な顔で彼女は、彰人の額に指を添える。真夏の外から来たはずなのに、何故か ひんやりとしている。神様に外気温は関係ないらしい。
 藍色の瞳と視線が絡み合った時、彼女は言葉をつむぎだした。
「なぁ、彰人。お前、生きているのは楽しいか?」
 それは、あまりに予想外で、そして心の奥底を見透かされたかのような問いかけ。
 彰人は上手く答えられなかった。いきなりのことに驚いたことももちろんある。それ以上に、自分の中に答えが存在していなかったからだ。
 みちるや貴彦といるのは楽しい。だけど、二人の方はどうだったんろうか。何も覚えていない親友と一緒にいて、苦しくなかっただろうか。そう思うと、今まで自分が楽しいと思ってきたことさえ、何だか後ろめたく感じてしまう。自分自身の気持ちをはかることさえ、二人を引き合いに出していることに気がついて、ひたすらに情けなくなった。
 悩んだ末に、一言だけで答える。
「わからない」
 ミアカシは彰人の微妙な表情に何を思ったんだろうか。少し考え込んで、そして質問を変えた。
「それじゃあ――死にたかったのか?」
「な、なん、だって!?
 どうして、そんな。上手く言葉にできず口ごもった彰人の前で、彼女は淡々と続けていく。
「自分が何者かもわからず、過去がないことに怯え、過去が現在を殺すことを恐れ、しかも自分の知らぬ自分のことを知る者たちに惑わされる。そのような日々を過ごすくらいならば、死んだ方が良かったと思うか?」
 そんなことは、悩んでも仕方がないだと思っていた。家族の写真を見ても他人としか思えない自分が、子供の頃からの親友と思い出を共有できない自分が――あの事故でただ一人だけ生還したことを、無意味だと思いたくなかったからだ。
 深く考えることで自分の立場や存在意義を崩しかねないことは、徹底的に避け続けていた。それが彰人がたった三年の間に学んだ、心を守る唯一の方法だ。
「僕は、死にたくない」
 やっとの思いで、それだけ答える。生きている意味がわからなくて、だけど死にたくもなくて。自分がすごく中途半端な存在に思えて嫌になる。
 ミアカシは「ふむ」と真剣な顔つきのままで頷いた。
「ならひとつだけ、伝えておく。稀に神隠しなどにあって、トコヨに迷いこむ人間はいるが……彼らの全てがお前のような目にあうと思うか? 神隠しから戻った者、臨死体験から生還した者――誰もが記憶を失うわけではないだろう? 本当は記憶を削る必要などないからだ」
「ん? 記憶が戻ると死ぬ寸前に戻るからじゃないのか」
「単純に言えば、お前は死ぬ寸前だったのではなく、すでに死んでいたからだ」
「……は?」
 今、何と言っただろう。死んでいたって? 自分が?
 死ぬ直前にミアカシのところに落ちたから、だから助けることができたと彼女は言った。つまり、死んだ人間なら助けられないのではなかったのか。
「少なくとも私が見つけた時、お前は息をしていなかったし心臓も動いていなかった。もしかしたら、辛うじて脳はまだ生きていたのかもしれんな。魂がまだ完全に肉体を離れていなかったとはいえ、お前の『記憶』は自分が『死んだ』と認識していた」
 確かに、心肺停止ではなく脳死を完全な死とするなら、その時彰人はまだ生きていたといえなくもない。定義さえ変われば、もう死んでいたともいえる。
 考えれば当たり前のことだった。飛行機が落ちた。誰も生き残らないレベルの大事故だ。普通は即死だろう。実際、ミアカシは神の力を使っても、彰人の身体を治すのに一ヶ月もかかっているのだ。ショックというよりは、自分の楽観に呆れてしまった。
「自分が死んだという記憶が残っていると、私が無理やり縫い合わせたお前の身体は記憶に従ってより自然な形、つまり死体に戻る。だから、私はまずお前の記憶を奪わなければならなかった。お前の記憶から死んだ時のことを完全に消すことができねば、お前に記憶を返すわけにはいかなかったのだ」
「じゃあ、ただ怪我をしていただけなら、僕は記憶喪失にならずに済んだのか?」
「そういうことだな」
 とすると、この身体はフランケンというより、むしろリビングデッドなのか。あんまり知りたくなかった。
 しかし、だとすると納得いかない部分も出てくる。記憶を失う前の彰人が「自分が死んだ」と思っている、体を乗っ取られたなんて思わずに、自分が五体満足で生きていることにまずびっくりするんじゃないだろうか。
「僕の『記憶』は自分が死んだの覚えていないっぽいのはどうしてなんだ?」
「うむ、そこなのだ。『記憶』が自分の状況を正しく認識していない。無意識の防衛本能で意識をそらしているのか、それとも突然この世界に引き戻されて混乱しているのか――。昨晩は状況が状況だっただけに吹き飛ばしてしまったが、何かのきっかけで思い出されたらかなわぬからな。それで、お前の『記憶』が行きそうな場所に網をはったというわけだ」
「それ、かなりまずい状態なんじゃ?」
「その通り。家に戻ってくるならまだいい。隣にさえ感づかれなければ誰もいない。もしもそれ以外の場所で、昔なじみの人間に会って、事故のことを話されたらかなりまずい」
「つらっと言ってるけど、大ピンチなんじゃないか!? めちゃくちゃ死亡フラグ立ってるよ!」
 仮に中学校に行かれたとする。三年経っているから当時の生徒は残っていないが、教師の一部は残っているだろう。すれ違うことがあるかもしれない。何せ彰人は事故と記憶喪失の一件で、学校中に顔と名前を知られていたのだ。とっくの前に卒業していると知っていても、そっくりな姿の少年を見かけたら声をかける可能性はある。
 まずい状況だと把握している割に余裕綽々に見えるミアカシは、聞きなれない単語にこきりと首を傾けてみせた。
「シボウフラグとは何ぞや?」
「その状況になったら、死ぬのがほぼ確定みたいな感じ?」
「なるほど、理解した。そこまで確立が高くないから安心しろ。まだ五割くらいだ」
「いや全然安心できないし!?
「だから、この説明を早くしてやろうと思って呼び出した」
「生きたい死にたいの前にそこを早く教えろよ!?
 哲学的な質問に頭を悩ませている場合じゃなかった。下手をすると安全圏で安心していたら、突然わけもわからないうちにバラバラ死体になってバッドエンドなんてことになりかねない。
「何とかできないのか?」
「そこであの二人にはあまり聞かれたくない相談なのだよ」
 ミアカシは、二人きりしかいないのに声をひそめ、顔を近づける。こんな狭い密室で、まがりなりにも美少女に迫られた彰人は内心あせったが、話の続きを聞くと、そんな気持ちは綺麗に消し飛んだ。
「記憶を封じるのではなく『殺す』こともできるぞ。当然、記憶は二度と戻らぬが、そこさえ諦めるならお前を脅かすものが消えて安全になる。私も加減をしなくて済むからやりやすいし、お前はただ待っているだけでいい。あの二人には、やむなくそうするしなかったと言ってやろう」
 ここがトイレの中だということを忘れていた。頭の中が真っ白だった。
 世界中に自分と彼女しかいないような、そんな感覚に囚われる。
 安全で、日常に戻れて、何も変わることはない。たとえ記憶が一生戻らなくとも、非日常は遠ざかり、いつしか空っぽになった十四年分の記憶を多い尽くすくらいの日常が降り積もっていくだろう。
 それは誰もが望むハッピーエンドじゃなくても、確実に傷つく人が少ない幸せな結末じゃないだろうか。
「お前が死にたくないなら――生きていたいというなら、それが一番確実にお前が日常に帰ることができる方法だ。どうだ……?」
 彰人は、頷くことができなかった。首を横に振ることもできなかった。
 『記憶』がただの情報ならば、ここまで悩まなかったかもしれない。消すことにも、取り戻すことにも。
 だけど彰人は知っている。『記憶』の中には、かつての自分が積み上げてきた感情も含まれている。『記憶』という言葉だけでは表せない、『人格』と呼ぶべき存在だということを。
 遠く、チャイムが聞こえる。授業の終わりを告げる音。
「返事は後でもいいぞ?」
 ミアカシに促されて、彰人はのろのろと立ち上がる。目の前から赤い髪と衣の少女は消え去り、チャイムの余韻が響くトイレで彰人は一人で呆然としていた。
 心が爆発寸前だ。何でもいいから叫びたい。もうどうすればいいのかわからない。
 死んだはずの遊間彰人は、ほとんど別人のようになって戻ってきた。本来の遊間彰人は自分の体を失って、死の影を引き連れながらさまよっている。
 まるで自分の方が、体を不法占拠して使っている悪者みたいだ。実際、悪者になろうと思えばなれる。本物の遊間彰人を殺して、自分が本物に成り代わる方法をさっき聞いたばかりだから。
 わかっている。本物とか偽者とか、そういう問題じゃないっってことも。
 だけど、今はとりあえず『記憶』を取り戻さずに封印してしまっても、いつかミアカシが死の記憶を削りとることに成功して返しにきた時、自分はそれを受け取れるだろうか。記憶を取り戻したら、恐らく記憶を失くす前とは大きく変わってしまった自分は、どうなるんだろう。
 記憶を失くす前とは別の人格になってしまった自分と、十四年分の積み重ねでできた自分。
 溶け合って、自然になじんでいくのか。そちらかが勝って片方は消えていくのか。それとも、相反したまま同居を続けることになるのか――わからない。何もかも、全て。
「ちくしょう、なんなんだ」
 昨日までの平穏は、幻だったんだろう。みちると貴彦が取り繕ってくれた、温かい虚構。
 ミアカシがわざわざ死体をよみがえらせてまで、この世界に彰人を帰した。そこから始まった、とても長くて優しい嘘。
 嘘を現実に変える方法が、かつての自分を殺すことだなんて、皮肉にもならない。
「本当に、どうしろっていうんだよ……」
 呟きは誰にもきかれることがなかった。
 独り彰人は考え続ける。自分がここに存在していることの意味を、ただ漫然と。



 斎宮高校から徒歩十五分のところに、貴彦の家はある。小奇麗な住宅街の中でも、バス停や駅に近いなかなかいい立地のマンションだ。彰人は予定通りに彼の家に泊めてもらうため、いつもとは違う下校ルートをたどっている。
 みちるはやたらと心配していたものの、貴彦になだめすかされて路線の違うバスに乗っていった。友人の家に泊めてもらう約束をとりつけたそうだ。
 コンビニでミアカシへの供物を買って、二人で分けて持った。ポテチを五袋も食べるなんて、想像するだけで気持ち悪い。一袋で充分なのに、神様の考えることはよくわからない。
 真夏の太陽は真上を過ぎてもジリジリと暑く、歩くたびにだるさが身体に蓄積されていく。さっきミアカシがした話のこともあって、彰人の気分は最悪だった。
 隣で貴彦が、やっぱり気だるそうにうなだれながら歩いていた。寝不足の男二人組みの足取りは重く、寄り道込みでも徒歩二十分の道のりは三十分に延長された。
 ようやくたどりついたマンションのエントランスで、シャツの胸元を広げてどうにか熱気を逃がそうとしながら、貴彦はこちらを振り向いた。
「そういや授業中に抜け出したの、ミアカシちゃんに呼び出されたからだって?」
「うん、まあ」
「何かあったのか?」
「さっきも言っただろ? 僕の『記憶』の居場所がわかるようにした、っていう」
 そんなことを、何度も確認する意味はあるんだろうか。
 半ば停止しかけている思考回路でぼんやりと考えた。頭の中に綿が詰まっているみたいだ。貴彦の声も、真夏の熱気も、どこか遠い世界のできごとみたいに感じる。
 自分の存在が、嘘になったみたいだ。
 ごつ、と後頭部に軽い衝撃と冷たい感触。
 コンビニ袋からジュースのペットボトルを取り出した貴彦が、彰人の後頭部を軽く叩いたのだ。
「彰人、今のお前がやっていることは生返事っつーんだぞ」
「冷たい……」
「頭冷やせ。さっきからずっと、俺が一人で頑張ってしゃべってて、虚しいったらないぞ」
 ほら、と突き出されたコーラのペットボトルを受け取る。後頭部に当てられた時には冷たく感じたのに、手にとってみると案外ぬるかった。真夏の日差しはあなどれない。
「色々あって混乱してんのは俺も同じなんだからさ。俺だけピエロってもしゃあないだろが」
 ため息まじりに貴彦は言い、オートロックの解除にとりかかる。彰人は返事をせずに、生ぬるいコーラを飲む。炭酸が乾いた喉に痛い。
 ロックがあいて、エレベータに乗って貴彦の家がある五階に。両親共働きの彼の家には、誰もいなかった。妹も部活でまだ帰ってきていないらしい。
「コーラ貸せ」
 彰人の手からペットボトルを奪い取った貴彦は、氷を入れたグラスに中身を移し変えた。こういうところで妙に気が利くのが、彼の良いところだ。アホっぽいのは上辺だけで、なんだかんだ言って自分よりもずっと人間ができていると思う。
 リビングのテーブルに二人分のジュースを置いて、彼はあぐらをかいて座った。ずっとつっ立っているわけにもいかず、彰人も彼の向かいに腰を下ろす。
 しばらく、気まずい沈黙のまま。
 時計の音がいやに大きく感じた。それからどれくらい黙り込んでいたんだろうか。ミアカシは、要所に張り巡らせているという『糸』の様子を見に行っているのか、それとも気を利かせているつもりなのか、こんな時に限っていっこうに出てくる様子がない。
「で、お前は何をどうしたいんだ。そこをまずはっきりさせてくれ」
 長い沈黙を破ったのは、案の定、貴彦のほうだった。
 どうしたい、と。そんなことを聞かれても困る。
 今、迷って『記憶』を捕まえられなかったら、いつか突然自分の身体がバラバラになって死んでしまうかもしれない。そんなのはごめんだ。
 だけど自分の『記憶』を殺して安全な日々を得ても、多分絶対に後悔する。貴彦やみちるに顔向けができない。
 『記憶』を封じてしまったとしても、いつかそれを取り戻せるようになった時に、迷わず受け入れられるのかもわからない。それはある意味、今の自分の心を殺すかもしれないのに。
 どんな未来も選ぶ勇気がなくて思考停止している。自分が情けなくて、みじめで仕方がなかった。
「俺も男だ。ほーら、お兄さんが聞いてやるからドーンと大船に乗って、本音をぶちまけちまえって。タカヒコうぜーとかそういうのでもいい……とはいわないけど、まぁ、ちょっと傷つくけど、オッケーだから!」
 お兄さんと言うが、実は彼はまだ十六歳で、すでに十七歳になっている彰人からすると厳密には年下なわけだが。
 でも、彼の言い分はもっともだ。半日前まで仲良く話していた友人がいきなり無表情で沈黙したままになったら、彰人だって心配するし何かまずいことが起きたと思うだろう。
 結局、今の状況に怯えて、悩んで、迷っているのは、彰人一人だけだ。エスパーじゃないんだから、貴彦に――もちろん、みちるにだって、彰人の悩みの本質が見抜けるはずがない。
「言いにくいようなことなら遠まわしでいいから、な」
 貴彦は、ミアカシが出てくる前にこの話を終わらせておきたいのか、ちょっと必死になっている。
 彰人は――、
「昔の僕は、どんな感じだったんだ?」
 今までこんなことがなくてもずっと聞きたくて、だけど怖くて聞けずにいたことが、ふと口をついて出た。
 貴彦は口を開きかけた状態で、ぽかんと固まっている。構わず、彰人は続けた。というか、止まれなかった。今までに溜め込んでいたものが、決壊して溢れ出している。
「話し方とか、性格とか、多分……いや、絶対今の僕とは全然違っていただろ? それなのに、貴彦も、みちるも、昔と変わらずに友達でいてくれる」
「は? え? 彰人、いきなり何を」
 こんな展開は予想していなかったのか、貴彦は目に見えて慌てだす。
「僕は……本当に、遊間彰人として生きてていいのか?」
「ちょっと待て。落ち着け、な?」
「昔の僕と全然違うなら、どうして友達でいられるんだ?」
 別人のように変わってしまったのに、昔のままの彰人を目の前にしても、それでも変わらず友達でいてくれる。
 彰人には、それがわからない。
 自分にそこまでしてもらえる価値があるのか、わからない。
「ちょっと、ストップ! ストップだ、彰人っ!」
 バン、と両手で強くテーブルを叩いて、貴彦は叫んだ。
 思わず気おされて黙り込んだ彰人に、彼は人差し指をつきつける。
「あのさ、すごくぶっちゃけたことを言うけど」
「うん」
「何でお前が昔と違って変わったから友達じゃなくなんの?」
「……え?」
「記憶喪失とか関係なく、俺は今の彰人と普通に友達なんだから、それでOKじゃねぇの?」
「…………はい?」
「今までの記憶なくしたらそりゃ人が変わったようになるっていうか、むしろ変わらない方がおかしいし。それでいいじゃん? ダメなわけ?」
「………………」
 ミアカシに例のことを言われた時とは別の意味で、頭が真っ白に消し飛んだ。
 あれ、何をどう悩んでいたっけ。もしかしたら、すごくバカらしいことを考えていたんじゃないだろうか。
「あのさぁ、彰人」
 呆然としている彰人に、貴彦がぽつりと呟く。
「別に、記憶が戻らなくってもさ、いいんと思うんだよな。お前が俺らのために無理してんなら、いっそやめちまえばいいんじゃないか」
 彰人は親友の顔をまじまじと見る。軽い気持ちで言ってるわけじゃない。彼の目は真剣だ。
「だって、割に合わないじゃねぇか。そりゃ俺も記憶を戻すためにとか言って色々アホなことはやったけどさ。危ない目にあってまで、やることじゃないだろ? だからさ、ミアカシちゃんに任せてすぐに済むんなら、お前が無理するようなことじゃないし、俺だって別にそれでいいし……それで、えーと」
 それきり言葉が続かなくなって、「うー」とか「あー」とか奇声を上げながら頭を抱えて悶絶した彼は、やがて「すまん」と言ってうなだれた。
「何で謝る?」
「ここで決めればカッコイイのに、尻切れトンボで終わるむなしさといったらな?」
「その……尻切れトンボでも割りとかっこよかったと思うぞ?」
「マジで? 俺、ちょっとオトコマエだった?」
「マジで。漢字のカンって字でオトコって読んだ」
「すげー! 俺すげー!」
 何だこの会話。
「貴彦、お前ってかっこいいバカだよなぁ」
「彰人は真人間と見せかけて結構バカだなぁ」
 真顔でそんなことを言い合って、二人はどちらともなく笑い出した。
 しばらくそうやって笑っていて、グラスに入れたコーラの氷が溶けた頃になってふと貴彦は真顔に戻った。ばつが悪そうに頭をかきながら、ごにょごにょと歯切れが悪く呟く。
「あー、でもみちるは俺みたいには割り切れないかもな。まぁ、もし手っ取り早くどうにかする方法があるってんなら、俺が何とか説得するよ」
「……その、話なんだけどさ」
 今言わなければ、ずっと隠していかなければいけないだろう。
 彰人は、ミアカシに聞かされた『記憶を殺す』方法について、正直に打ち明けることにする。もちろん、自分が実はすでに死んでいたというところはさすがに話す気にはなれなかったけれども。『記憶』を本当の意味で消してしまうことが、一番安全な日常への回帰方法だということは伝えておこうと思った。
 話が核心に触れるに連れて、貴彦の顔が難しく歪んでいく。そりゃそうだろう。昔の彰人もまた、彼の親友であるのには変わりない。最終的に額に手をあてたままうなだれた彼の肩を彰人は叩いた。
「安心しろ。僕は覚えていなくても、貴彦やみちるにとっては大切な思い出なんだから、殺したりなんかしない。ただ、後になって何で言わなかったとかもめるのは嫌だな、って思ってさ」
「そうは言うけどなぁ」
「正直言うと迷ったよ。でも、何か貴彦の話を聞いていたら、やっぱダメだって思った。記憶を殺して平穏になっても、僕がお前らと親友でいられなくなるんじゃ意味ない」
 後悔するような平穏を手に入れても仕方がない。彰人が欲しいのはそんなものじゃない。自分が彼らの友人であることを誇れるような、彼らに友人でいることを誇ってもらえるような、そんな関係だ。
「もし僕の記憶を前にして、みちるや貴彦が色々と迷ってしまっても、それは責められないと思うよ。だけど、僕は自分の命が大事だから、記憶にはもう少し眠っていてもらう。もし次に記憶のことを考える時が来たら……その時はその時だ」
 時間さえあれば、選べる選択肢が他にももっと見つかるかもしれない。ミアカシが伝えてくれたことだけが真実とは限らないし、すぐ諦めて上辺だけ何ごともない日常を過ごすのは成長する気がないのと同じだ。
 周りの優しさによりかかって、甘え続けるのはもうやめにしなければ。
「話合いは終わったか」
 突然背後から声が聞こえてきた。
 本当に気を利かせて待っていたんだろうか。振り返ると案の定、紅い髪の古代人風少女が立っていた。
「結論は出たようだな」
「ああ、答えを待たせてごめんな」
「構わぬ。お前ならあの方法は選ばぬだろうと、ちゃんとわかっていたぞ。この私が縫い合わせただけあるな!」
「お前が縫ったら人間レベルが上がるのか?」
「私の愛着が増す」
「愛着かよ!」
 時折びっくりするほど大人びていたり、どきりとさせるような表情をするくせに、やっぱりいうことがどこかズレている。それでも自信満々に言い切られると、うっかり納得しかけてしまうから不思議だ。
「あ、愛着があるからといって、ポテチ五袋奉納の義務を見逃してやるわけではないぞ」
「おー、ミアカシちゃん。クモツのポテチはここにいっぱいあるぞー」
 陽気にコンビニの袋を差し出す貴彦に、一瞬にして彼女は至上の喜びに満ちた顔になった。
 ミアカシの愛着は、自分よりもむしろポテトチップスに向いているようだ。彼女らしいというかなんというか。軽くポテチに嫉妬を覚えるのは何でだろう。
 さっそくフレンチビネガー味に手を伸ばした彼女に、彰人は苦笑交じり語りかける。
「お前も、どうして僕なんか助けたんだかな」
 こんな情けない中途半端な凡人を。あるいは、記憶を失う前の自分はそれなりに格好いい奴だったのかもしれないけど。
 ポテチを一枚ポリポリと食べ始めたミアカシは、何を今更とでも言いたげな顔つきで首を傾げた。
「トコヨに時間や生命の概念がない。全てが永遠で、混沌としたまま停滞している。それがトコヨという場所だ」
 急に何だか難しいことを言われた。おまけに多分、答えになっていない。
 貴彦と二人で顔を見合わせると、彼女はからかうようにけらけら笑った。弾むような足取りでくるりと回り、いぶかしげな顔になった彰人の額を人差し指で軽く小突く。
「トコヨの存在――神は、ウツシヨに憧れる。混沌も停滞もなく、法則に従って美しく流れるこの世界に、限りある時を駆け抜ける命に憧れるのだ。私がお前を助けたのは、お前が生きたいと強く、強く望んでいたからだ。私はお前の、法則さえも振り切ろうとする生への渇望に、憧れたのだ。これはすごいことだぞ! 誇りに思うがいい」
 憧れ。思いもしなかった答えに、彰人は息を飲んだ。嬉しいというか、こそばゆいというか。反応に困る。
「そ、それで、愛着があるとか?」
「うむ。私の愛着はすごいぞ。ただの人間一人を生き返らせ、その上あらゆる危険からも守り通してやろうというのだからな!」
 ふふん、と鼻で笑いながらない胸を張る彼女を見ていると、何だか本当に悩んでいた自分はバカだったんだと、改めて思った。
 据わりなおして再びポテチに手を伸ばしたミアカシは、突然、思いついたように手を打つ。
「それにしてもお前は、何をそんなにこの世界に執着していたのだろうな。若干、興味がないこともないぞ」
 そういって彼女は、首をかしげだす。
「大体の人間は、突然死んだら未練たらたらなんじゃねぇの?」
「違う。それならこの世界はもっと幽霊とか、そういうものであふれているはずだ。だから、死に瀕した人間が肉体に、命ある世界に留まり続けるのには、かなりの強い願いや執着があるはずだ」
 つまり、ミアカシに助けられなかったら自分は幽霊になっていたということか。またひとつ知らなくてもいい事実を知り、彰人は微妙な気分になる。とはいえ、記憶がないのに彼女の疑問に答えられるはずもない。今度は彰人が貴彦を見る。彼は心当たりがあるのかないのか、難しい顔で黙り込んでしまった。
 昔の彰人が、事故に会う前何を思い、何をしようとしていたのか。そういえば、今まで深く考えたことがなかった。
 飛行機に乗ったのは、身内の葬儀に出るためだったという。それは割と突発的な事態のはずで、行き先だった北海道に何かがあったとは思えなかった。とすると事故の前に、強烈な未練を残すようなできごとがあったのかもしれない。
「あ、そういえば……」
 昨晩、気絶する寸前に、かすかな違和感を覚えたことを思い出した。
「ミアカシが僕の『記憶』を弾き飛ばした時さ、なんかあいつが手を伸ばしていたんだよな。こう……」
 彰人は手を開いて前に突き出す。
 助けを求めるような。もしくは、助けようともがいているような。彼は誰にむかって手を伸ばしたんだろうか? 単なる条件反射なら、むしろ自分を庇うように腕を持ってくるのが普通だ。何かを言おうとしていた気もする。
「むぅ。そういえば、あやつは貴彦とみちるは認識できていたな。……ところで貴彦、お前何か知っていそうだな」
 ずっと黙り込んでいた貴彦は、ミアカシに話を振られてビクゥとあからさまに反応する。
「貴彦……、ほーらお兄さんが聞いてやるからドーンと大船に乗ったつもりで」
 彰人がさっき彼に言われたとおりのこと棒読みでくり返すと、貴彦はさらにビクリとする。二人分のうろんな視線を受け止め、彼はついに白旗を上げた。
「いやその、それはちょっと、俺の空想の域を出ないし、プライバシーに関わることだし!」
「うむ、貴彦よ。御託は良い。わかりやすく言え」
 にっこりと笑って貴彦の両肩に手を添えるミアカシに、彼はぶんぶんと頭を横に振りまくった。
「言ったのバレたらマジ殺される! マジ勘弁!」
「では聞くが、それは昔の彰人が『絶対に死にたくない』と思わせるに充分なことなのか?」
「へ? あ、まぁ、多分……」
「お前やみちるに関係しているか?」
「ああ、主にみちるに関係しているな」
 みちるに関係していて、プライバシーの気になる問題で、言ったら貴彦が酷い目にあうようなできごと。
 ――あんたの彼女?
 不意に女帝・前園先生の声がよみがえってきて、彰人は一人慌ててぶんぶんと顔を横に振りまくる。
 貴彦は「ヤベェ、気づかれた」という感じで青くなり、ミアカシはそんな二人の様子を不審なものでも見るような目をして観察し。
 ――いや、まさか、そんなバカなこと!
 彰人は心の中で否定の言葉を繰り返しながら、だけど心の奥底では納得しつつあった。
 みちるとは兄妹同然で、そういう関係にはなれない。そう考えていたのは、あくまで与えられた客観的な情報での彰人の独断だ。実際三年前、彰人とみちるがどういう仲だったかなんて、本人たちと――恐らく一番近い友人である貴彦くらいしかわからない。
 たとえば、家族的な幼なじみへの感情が、思春期にはいると共に恋愛的な意味を帯びてきたとしても、決して不自然なことではないはずで……。通い妻と何となく言ってみた時の、そいて女帝に彼女かとからかわれた時の、みちるのあからさまな反応も納得がいく。今までに、ああいう反応をしたことが皆無だったわけじゃない。むしろ、心当たりがどんどんとつみあがってしまう。
 赤くなる彰人と青くなる貴彦と、男二人の混乱をよそに。
「……失敗した」
 ミアカシは呟いた。
「みちるを別行動させてしまった」
 彼女は床に手をついてがっくりとうなだれていた。
 どうしたものか。彰人と貴彦は、我に返って顔を見合わせる。やがて起き上がった彼女は、両手の間に紅い糸で幾何学図形を描きながら、悶々とした様子でため息をついた。
「彰人の『記憶』は、昔の自分がよく行動していた場所に引き寄せられる話をしたな」
「ああ」
「正確には少し違う。『記憶』は自分の思いいれが深い場所だけではなく、物にや人物にも引かれるのだ。『記憶』の中にない場所に行くことで、引かれる力を弱めることができることに嘘はないのだが……」
「なら、大丈夫だろう。みちるは、高校になってからの友達の家に泊まるって言ってたから」
「いや、もし『記憶』が数度でも行ったことがある場所の近くだったら、まずい」
「どうしてだ?」
「全く知らない場所ではなく、なおかつ彰人の魂をウツシヨに執着させるくらいの理由がみちるにあるのなら『記憶』は場所ではなくみちるの気配に引かれるかもしれん。みちるのことを信用せぬわけではないが、運悪く『記憶』と出くわしたらどうなるかは保障ができんぞ」
 みちるは心配性で、今日だって別れ際しつこいくらいに彰人の様子を気にしていた。命がかかっていると知っていて、あえて『記憶』と接触を図ろうとはしないだろう。
 だけど、それは『記憶』と『偶然出会う』というイレギュラーな事態を想定しない場合のことだ。
 もし彼女が意図せず、それでも『記憶』に遭遇してしまったとしたら。
 今の彰人と同じ、あるいは今以上に近しい関係だった『昔の遊間彰人』に出会ってしまったら――?
 彼女はどう思うだろう。心に迷いがでるだろうか。もしかしたら、『記憶』を説得しようとするかもしれない。
 それで、何かのきっかけで『記憶』が自分が死んだという事実を認識してしまったとしたら。
 ミアカシは難しい顔で、アヤトリの糸を繰り続ける。紅く細い線が花の形を作り、散らし、今度は波の形を作っては解けて。
 ピタリと彼女の指が止まった。
 彰人と貴彦は、息を呑んで様子を見守る。
 数秒の後、重々しく吐き出した彼女が呟いた言葉は。
「すまん、後手に回った」

 ――五〇%だったはずの死亡フラグは、今確実にそのパーセンテージを上げつつある。
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