2.タナバタヒメとフランケン

文字数 21,261文字

「何故呼び出した、この大うつけがぁぁぁ――――っっっ!!
 彼女は怒っていた。
 楽しみですらあったはずの彼との再会も、余韻を味わうことすらできなかった。
 自分と次に会う時、彼は困っているだろう。だからゆっくりとこうなった状況を説明して、安心させてやらねばならない。それが奇縁によって繋がった自分に課せられた役目なのだと、そう思っていたのに。
 ――何で、こんなことに?
 こちらのセリフだと言いたい。どれだけ苦労して縫い合わせたと思っているんだろう、この人間は。
 時間と言う概念のないあの彼岸では、こちら側でいうところのどれだけの時を使ったのかはさだかでないが、一朝一夕のものではないだろう。そんな彼女の努力の結晶が、自ら成果をめちゃくちゃにしてくれたわけだ。これが怒らずしてどうするのか。
「わけわかんないって! 何で僕は怒られているんだ!?
 彼女の怒りに対し、彼はひたすら困惑した様子であたふたとしている。横たわる友人二人を気にしつつも、彼女を無視するわけにはいかない感じだ。キョロキョロと互いを見回していて実に落ち着きがない。
 どうやら、本気で、全く、状況が飲み込めていない。
 彼女は自分が怒っているのがバカらしく思えてきた。もしかすると、彼には本気で呼び出すつもりはなくて、たまたま、何らかの形でアレを引き当ててしまったのだとしたら――こちらの見当違いで怒っていることになる。
「むぅ……。まぁ、いい。まずはそやつらを運べ。早くせんか」
「あ、ああ。そうする」
 怒りの矛先がひとまず収められたことに安堵したのか、ほっとした様子で彼は友人たちを運ぶ作業に没頭する。まずは女の方から、もたつきながらもどうにか背負いあげて階段を降り、少し広い部屋の長椅子に寝かせた。もう一人も同じようにして向かいの椅子へ。
 肉体労働に疲れ果てて座りこんだ彼を、叱咤する。
「お前が休んでどうする。私に供物を捧げるのが先であろう」
「く、くもつ……?」
 すごく嫌そうな顔をされた。収めた怒りがまたふつふつとこみ上げてくる。客人をもてなすことにも気が回らないとは、ずいぶんとのん気なものだ。
「そう、供物だ。お前、私に一度ならず二度までも命を救われておきながら、何の礼もせずにおるつもりか? 食事と飲み物くらい用意するところだろう」
 苛立ちながら放った言葉は、彼を神妙な顔にさせた。
「二度?」
「そう、二度もだ。私の棲みかにお前が落ちてきた。その時にも助けてやっただろう。ここにいられるのは誰のおかげだと思っている?」
 ますます神妙な顔になる。
「やっぱり、あの赤い花が咲いている河原にいたの、お前だよな」
「いかにも。私とお前はあちらで出会った」
「……飛行機事故にあった僕を助けたと?」
「そうだ。そして今さっきも、助けたな?」
「うん、やっぱ、そう、だよな」
 彼は自分に問いかけるように呟いて、頷く。立ち上がり、部屋の奥にひっこんだかと思うと、しばらくしてからお盆を持って戻ってきた。お盆に乗せられているのは、大皿に開けられた黄色くて薄い形をした菓子らしき物と、冷たいお茶だ。
 素直に供物を捧げる気になったらしい。彼女は差し出された物を覗き込む。
「こんなんでいいのか」
「こちらは麦の茶だな。これは何という食べ物だ」
「ポテトチップス。通称ポテチ。ちなみにコンソメ味」
「うむ。知っているぞ、イモの揚げ物だな。見るのは初めてだが」
 ポテトチップス。完全に彼女の意識は、初めて見るこちらの側の食べ物に向けられていた。思わず身を乗り出した拍子に、膝に硬いものが当たる。
 途端、部屋の角にあった長方体が光り、人間の姿と声を映し出す。
「ぬお!? 何だ、これは!?
「テレビだ。お前、リモコン踏んだだろ」
「おお、知っているぞ、視覚情報を映し出す箱だ。見るのは初めてだが」
 彼女の目は輝いていた。こちら側の世界の物は、刺激的だ。まずは供物をありがたくいただくことにする。
 パリパリとした食感に、香ばしいイモの香りが、口中に広がっていく。
「おお、なかなかに美味いな、このぽてちなる供物は!」
「気に入ったのか? 一応、他の味のもあるけど」
「全部よこせ!」
 彼は引きつった顔をした。しかし、有無を言わせぬ何かだけは感じ取れたのだろう。すごすごと奥までとりに行く。従順で大変良いことだ。
 新しく出てきたのは、梅味とにんにく醤油味だった。ためらいもなく両方の袋を開けさせる。順々に味わってみたが、どれも甲乙つけがたい。
 そして、テレビのなんと素晴らしいことか。まるでこの小さな箱の中に、世界を閉じ込めたかのようだ。
 ポテチとテレビに夢中になった彼女が本題に戻るのは、こちら側の時間で一時間ほど後のことである。



 記憶喪失のこと以外で、他の人よりも特別に違っているところなんて何もなかった。
 学校に通って、友達と話して日々を過ごす。それが日常だ。今日だって夜までは何も問題がなかった。貴彦がバカを言って、みちるが呆れて、自分がつっこんで、何だかんだでバカに付き合う。いつものことだった。日常と非日常の分かれ道が、あの『ドッペル様』の儀式だったことに間違いはない。
 時系列で頭の中を整理してみる。
 その一、正体不明の謎儀式で『もう一人の自分』の声を聞く方法を試みる。
 その二、声どころか自分そっくりの何かが床から湧いて出てくる。
 その三、今度は古代人風謎美少女がでてきて自分そっくりの何かを撃退。
 その四、その謎美少女に膝枕されたり罵倒されたりポテチを要求されたり。ちなみに今ここ。
 全然整理されない。むしろきちんと状況を把握するにつれて、カオス度が増していく。床から自分がもう一人出てくるとかありえないし、謎の美少女まで出てくるとかもっとありえないし。
 だけどこれは、どうしようもなく、現実だ。
「この稀なる美味の供物は、他にないのか?」
 よくわからないままに彰人をピンチから救ってくれたこの謎美少女は、お礼にと出したおやつのポテトチップスを偉く気に入ってしまったらしい。すでに三袋も平らげているわけだが。
「おま……まだ食う気か」
「何だ、食いたかったのか? やらんぞ?」
 思わずつっこむと、見当違いの答えが返ってきた。そういう問題じゃないだろう。みちるや貴彦がしょっちゅう家に遊びに来ることをわかっている叔母が、気を使って買いおいてくれたお菓子だったのに。まさか全部食べるとは。
「そもそもお前のために買ったポテチじゃない」
 思わずぼやきも漏れる。しかし少女は即座に、意地悪く言い返してくる。
「助けてやったのは誰だ?」
 彰人はうなり声を上げ、沈黙するしかなかった。彼女に助けられたのは紛れもない事実だ。
 調子付いた少女は明日はポテチを五袋出せと要求までしてきて、渋々彰人は条件を飲んだ。ポテチで済むならそれでいいのかもしれない。五袋も食べるところは想像したくないけれども。
 会話が途切れると、ため息が漏れた。
 後悔をしている。あんな怪しい儀式、やるんじゃなかった。少しでも嫌な予感がした時点で、止めておけばよかった。貴彦だって、ネタだと思ってやっていたんだるから、あそこで止めても文句は言わなかっただろう。
 みちると貴彦はまだ起きない。本当に病院に連れて行かなくていいのか、不安になってきた。自分が気絶していた数時間も含めると、結構な時間が経っている。
 記憶なんて、今の関係が変わらないなら、本当はどうでも良かった。何度も、くだらない方法で取り戻そうとして、それが友情だと思いたがっていたけれど。
 ――違う、僕がそうしないと怖かったんだ。
 記憶を取り戻すのを諦めることで、二人との関係が変わるのが嫌だった。失くした物を探す振りだけして、日常を守っていた。
 きっと、それがわかっていたから。貴彦は成功しそうにない奇策を練ったり、みちるは心配しながらもそれに付き合ってくれたりしたんじゃないのか? 本当は二人とも、彰人が「もうこんなことはやめよう」と言えば、笑って「そうだね」と答えてくれたんじゃないのか?
 だとしたら、こんなことになったのは――自分のせいじゃないのか?
 ぐるぐると、不安と焦りばかりが脳内を駆け巡っていく。
 テレビの前に鎮座して、もうカスしか残っていないポテチの袋を未練がましく見つめていた彼女は、思い出したようにくるりと彰人の方を振り返った。
「悪いようにはせぬよ」
 彰人に指をつきつけ、彼女は軽やかな声で言う。
「大丈夫だ。私がお前を守ってやる。必ず平和な日常に帰してやるからな」
 根拠もないその言葉を、信じたくなるくらいの自信をみなぎらせて。思わず、頷いてしまう。本当はお礼の一つも言いたかったのに、なんだか言葉にならない。
 本当に、この少女はあの夢の中の彼女なのだ。
 必ずお前を元の世界に戻してやると、あの時も、自信たっぷりにそう言って笑った。
 多分あの紅い花が咲く川辺はこことは別の世界で、あの夢の出来事も全て現実に起こったことなのだ。
 単なるコスプレ好きの不法侵入者じゃない。そもそも、彼女は人間なんだろうか。彰人が「自分のいる世界に落ちてきた」というけれど。
「お前、結局何者なんだ?」
 真剣な彰人に反して、少女は「何だ、そんなことか」といいたげな様子で短く息を吐く。彼女は床に指で字を書きながら、説明をする。
「私はトコヨの者。トコヨとはこの国の言葉では常世、または常夜とも書く。ウツシヨでは……これは私から見たこちらの呼び名だが、要はトコヨとはこちらでいう『あの世』のことなのだ」
 あの世っていうのは、つまり、死んだら行く場所だ。天国とか地獄とか極楽とか涅槃とか。言われてみれば、河原に花畑なんて臨死体験のお約束じゃないか。
「トコヨでは全てが一つであり、一つが全て、私は情報体の一部分が具現化した存在にすぎぬ。こちらでいえば『神』が近いな」
「神様、か」
 それなら床からいきなり現れようが、不思議な力で悪霊退散しようが、何もおかしくない。鮮やかな紅い髪と古代人に似た衣装、神秘的な微笑は神様と言われて納得できる雰囲気だ。
 が、彰人の目は床に散乱した、空になった袋を見つけてしまう。供物を出せと偉そうに言われたので、ひとまず助けられたお礼にと出したポテトチップス。一口で気に入ったらしく、主に貴彦とみちるが遊びに来た時用に買いこんであった三袋を全て食べつくしてしまった。それどころか、明日は五袋用意しろと追加オーダーまでされた。どれだけ好きなんだ。
 ついさっきまで、彼女は初めて見るテレビに目を輝かせながら、ひたすらポテチをパリポリとやっていたのだ。
 神。ポテチを貪りテレビに興じる神。
「神という割には……」
「何か言ったか?」
 少女の目が鋭くなり、彰人は慌てて首を横に振りまくった。さすが神様、地獄耳だ。小さな呟きも聞き逃さない。
「いや、何でもないんだ! それよりも、名前を教えてくれよ。さっきから何て呼んでいいかわかんないんだ」
 彼女は釈然としない顔つきで、それでも彰人の話題そらしに上手く乗ってくれた。
「トコヨでは、名前など必要ない。一応、この世界で私にあたる部分を呼ぶ名前はいくつかある。この国ならば『棚機媛〔たなばたひめ〕』が妥当なところだな」
 タナバタというと、笹の葉に短冊のアレだろうか。年に一度しか恋人に会えない色ボケ気味なお姫様のアバンチュールは、もう半月以上前に終っているわけだが。
「七月七日のことではない。棚機媛は、糸を司る『神』だよ」
 なるほど。夢の中で彼女は、アヤトリをしていた。さっき『自分』を撃退していた時も、アヤトリに似たことをしていた。糸を司るというと、どちらかというと裁縫を思い出すけれども、アヤトリも糸を使っていることに違いはない。
「じゃあ、タナバタって呼べばいいのか?」
「それは困る。お前たちだって『おい、人間』と呼ばれたら嫌であろう?」
 タナバタヒメは種族名らしい。神様について知らなくてもいい豆知識を身につけてしまった。しかし、問題は全く解決していない。名前がないと、会話するのに困る。ずっとお前、とばかり呼ぶわけにもいかないし。
「自分で何か名前付けたらどうだろう」
「むぅ、そうだな。御灯紅糸花媛〔おみあかしなるあかいとのはなひめ〕だ」
「……は?」
「私の個体名を定義するとこうなる、と思う」
「…………へ?」
「ううむ、名乗るのが面倒だ。そうだな、適当に略して『ミアカシ』にしよう」
 最初からそう名乗って欲しかった。オミアカなんとかかんとか。何の呪文か早口言葉か。
 とはいえ、ひとまず自己紹介だ。手を差し出す。
「OK。ミアカシ、な。僕は、遊間彰人。記憶がないこと以外、特に特徴もない一般ピープルだよ」
「うむ、これは握手というやつだな。知っているぞ、やるのは初めてだが」
 はしゃいだ子供みたいな顔で、彼女は手を握り返してきた。ほんのり温かくて、すべすべしていて、柔らかい。普通の女の子の手だった。急に恥ずかしくなって、すぐに離してしまう。
 ミアカシはそんなことを気にしてはいないようで、離された手で彰人の額辺りを指さした。
「お前の記憶がないのは知っている。私がお前から記憶を切り離したのだから、間違いない」
 離した手を中空に泳がせたまま、彰人はしばらく固まった。今、彼女はなんと言っただろう。記憶を削ったと、言わなかったか? 
「…………じゃあ、記憶喪失はお前のせいだと?」
「失礼な。そうしないとお前は死んでいたからだ。もっと感謝を知れ」
 悪態をつきながら、ミアカシがすっと両手を突き出す。開かれたその指に、うっすらと輝く紅い糸が現れる。アヤトリみたいに、指と指の間で複雑な模様を描いて。
 そのアヤトリの糸が彼女の着物の袖、手首の辺りからもう一本たれていた。そして、その糸は真っ直ぐに伸びて――彰人の胸の中に、吸い込まれるようにして消えている。引っ張っても、取れない。
 ――さっき見た夢と同じだ。
 あの紅い花畑で、自分の胸に糸が繋がっていて、その行き着く先を追っていったら目が覚めた。そこには彼女がいた。
「僕と繋がっている?」
「さよう。トコヨには、生きた人間はこられない。死んで肉体とを繋ぐ緒が切れた魂しか、行き着けぬ場所だ。私のトコヨでの役割は、緒が切れた魂を回収し、ウツシヨに生まれいく新しい肉体に再び縫いつけることだ。だけどな、大きな事故や災害で『歪み』が起きると、たまに魂の緒が切れていないのに、肉体ごと堕ちてくる奴がおる」
「それが、僕?」
「そうだ。私のところに落ちてきた時、お前の魂の緒は切れていなかったが身体はそれは酷い有様だった。そのまま返してもすぐに死ぬだろうから、私はお前の身体を元通りに『縫い合わせて』やった」
「……縫った、って?」
 何だか、気が遠くなる話だった。力が抜けて、床にへたり込む。
 飛行機事故で、彰人だけが生き残った。一ヶ月も時間をかけて、ほとんど無傷で戻ってきた。それを世間は『神隠し』などと言ったけれど、ある意味それは正解だったわけだ。彰人は死の寸前に身体ごとあの世に放り込まれて、神様に怪我を綺麗に治されてこの世に戻された。
 本当なら、あの事故で他の百数十人の乗客と共に死んでいたはずなのに。フランケンシュラインみたいに、身体を縫い合わせられて生きながらえた。
「僕が発見されたのは……、事故にあってからほとんど一ヵ月も後だった」
「私がお前の身体を治すのに、こちらではそれだけの時間が必要だったのだろうな」
「僕だけが、生き残った」
「他にも堕ちた人間はいたかもしれぬ。だが、私が見つけられたのはお前だけだ。堕ちてきたとしても、魂の緒が切れていれば助けることはできぬ」
「おまけに記憶までなくなって、わけがわかんなくて、大変だった」
「お前の身体は私が作り直したようなものだからな。ウツシヨに戻すには一度記憶を切り離して、穢れを落とさねばならなかった」
 そんなこと、僕のせいじゃないのに。
 口から出かけたその言葉を、彰人はすんでのところで飲み込んだ。
 事故にあったのも、自分だけ助かったのも、偶然だ。助けてくれたミアカシに、感謝もせず責めるなんて、単なる八つ当たりだ。
「すまないな。お前の身体がウツシヨに馴染んだ頃に、記憶は返しに来るつもりだった。この糸はな、その時にお前のところまで迷わずに行けるように繋いでおいたものだ。お前が『アレ』を呼び出せたのも、これのせいかもしれん、だからそこは私の落ち度だ」
 ミアカシが本当に申し訳なさそうに目を伏せるので、彰人はますますどうしていいかわからなくなる。彼女に謝ってもらうことなんて、何もない。自分が生きて戻ってきたのは、彼女のおかけだ。話の一番大事な部分はきちんと理解できているはずのに、何だか言葉にならなかった。
 さわ、と。柔らかく髪を撫でられる感触がする。
 ミアカシが、子供にでもするみたいに、彰人の頭を撫でている。はたから見たら、間抜けな光景だろう。高校生にもなって、見た目は自分よりも若そうな女の子にいい子いい子されているなんて。
 だけど、それを振り払うことができなかった。記憶喪失の真相があまりにも突飛でついていけなかったからかもしれない。それとも、自分だけが生き残った理由が、ほとんど偶然だったことに納得いかなかったからかもしれない。優しい手の感触に抗えず、彰人はされるがままになっていた。
 他の誰も、生き残れなかったのに。自分だけがたまたま生き残って、何もわからないのに喜ばれたり、時々は何でお前だけって責められたりした。どうして自分だけがって、何度も思った。
 日常は平穏になって、友達が何もかも忘れた自分でも変わらず一緒にいてくれて、だから大丈夫なんて、嘘だ。少し日常がぐらついただけで、こんなにも簡単にボロが出る。
「恐れるな。人は理解の及ばぬものを恐れる。ならば恐れがなくなるまで知ればよい」
 ミアカシが頭を撫でるのをやめて、代わりに紅い糸で繋がった彰人の胸を指す。
「お前の心に聞いてみろ。お前が恐れるのはなんだ。何を知りたいのか」
 心に問う。怖いものは、三年前からずっとただひとつだけだ。自分を自分でいさせてくれる日常を、根底から覆して奪うような『何か』だけ。
「アレ……僕の『何』なんだ?」
 自分が呼び出した、自分そっくりの『何か』の正体。もう、何となくわかってしまったけれど、彰人はあえてそれを聞く。
 ミアカシは、それに答える。少しだけ哀しそうに、目を伏せて。
「アレは、私が削り取ったお前の『記憶』だよ」
 ――お前、誰だ?
 三年前の『自分』にそう言われて、彰人はとっさに自分こそが遊間彰人だとは答えられなかった。
 失った全てのことを知っているあれが、正真正銘、紛れもなく自分の『記憶』なら、名前と身体と立場だけしか遊間彰人ではない今の自分は、一体誰なんだろう?
 この身体の特徴と、この立場が持つ人間関係で『彰人』だと証明されていた自分は、何だというんだろう。
「お前は遊間彰人だ。アレも遊間彰人には違いないがな。どちらも本物だ」
「だけど、記憶を持っているのがあっちなら……」
 今の自分は、失った十四年分の記憶が作り上げた人間関係に浸って生活している、事故さえなければ存在しなかったはずの『彰人』で。それは、本物と言えるんだろうか。『自分』は何度も言ったじゃないか。お前は遊間彰人じゃないって――。
「迷うな。どの道、お前に選択肢はない。よく聞くがいい。お前の身体は、私が縫い合わせた糸でどうにか繋がっている。完全に馴染むにはまだ時間がかかる。『記憶』が戻れば――アレがお前の身体を取り戻せば、身体は『記憶』している最後の形に戻ろうとするだろう」
 それは、つまり。
「記憶が戻れば、お前は死ぬ。私の縫った糸がほどけて、な」
 縫い目だらけのフランケンシュタインは、糸が切れたらバラバラになってしまう。
 頭の中が真っ白になった。
 自分が何者か? そんなことで迷っている場合じゃない。
 たとえ自分が『偽物』だとしても、あっちが『本物』だとしても、関係ない。
 『記憶』がこの身体に戻ったら、その時点でゲームオーバー確定なんだから――。



 身体には冷たくて硬い床の感触。頬には柔らかくて温かい感触がする。それと、何だかほのかに花のような匂いが鼻をかすめる。
 ――あれ? いつの間に寝ていたんだろう?
 正直、凡人には理解が追いつかないことばかりで、放心している内に疲れて眠り込んでしまったんだろう。再び眠りの世界に飛び込みたい誘惑を振り切って、目を開ける。さらりと流れる紅い色の髪の毛が頬をかすめた。
「おはよう、彰人」
 ミアカシが、彰人の顔を真上から覗き込んでいる。
 この体勢、この状況。
「ま、また」
 美少女膝枕再びだ。なぜ、どうして。
 慌てて飛び起きようとした彰人の肩を、ミアカシは押さえつけた。柔らかい太ももに頬が当たって、気が気ではない。いかに相手がポテチ強請り屋の自称神様でも、美少女であることは揺るぎない事実だ。
「いいからもう少し寝ておれ。疲れているんだろう」
「いや、そうだけど、何で僕は膝枕されてるんだ!?
「お前が疲れているようだったから、眠らせてやったのだ。長椅子は埋まっておるし、お前の部屋はめちゃくちゃだし、他の部屋は使っていいのかよくわからん。そのまま床に転がしておくのも哀れだから、膝を貸したまでのこと」
 胸をはってそんなことを言われると、どう反論していいかわからない。膝枕自体は嫌ではないというか、むしろ大歓迎というか、だからといってその状況に流されて太ももの感触を楽しんでいいかどうかはまた別問題なわけで。
 誘惑に抗って跳ね起きた。ミアカシは不満そうな顔をしたが、この状態では疲れていても落ち着いて眠れるわけがない。
「と、とにかく膝枕は、き、禁止で」
「変なことをいう奴だな、お前。まあよい」
 女の子の膝枕が思春期の少年にとってどれだけ重大なイベントか、神様にはわからないらしい。この世界の言葉や習慣を知識として知っていても、どこまでが常識かとなると別問題なのか。行動の端々から世間知らず臭がにじみ出ている。自分がものすごく魅力的な外見の女の子だってことにも、まるで無頓着に違いない。
「うー……ん」
 小さな唸り声が聞こえてくる。
 みちるだった。ソファの上で軽く寝返りを打った彼女は、家のベッドじゃないことに気がついたのか、ぼんやりと目を開くと、きょとんとした顔になる。
「あ、れ? アキん家だぁ……、あ、いたた」
 弾き飛ばされた時に打ったのか、肩の辺りをさすりながら寝ぼけ眼で辺りを見回す。
 まずは彰人と見て、その隣に腕を組みながらえらそうに立っている見知らぬ紅髪古代人風美少女――つまりミアカシを見て。
 こきり、と首を傾げた。
「……誰?」
「あー、その、話すと長いことになるんだけど」
 口ごもる彰人の傍らで、ミアカシは妙に張り切って右手を差し出す。
「ミアカシという。よろしく頼む」
「あー、えーと、月見里みちる、です。よろしくお願いします」
 どことなく寝ぼけた顔のままで、みちるも流されて右手を差し出す。ミアカシがやたらと嬉しそうに握手した手を上下にぶんぶんと振った。もしかすると、握手をやってみたくて仕方がなかったんだろうか。挨拶を覚えたての幼児みたいに。
 寝ぼけモードから脱していくにつれて、みちるの視線が彰人に突き刺ささるようになる。
「で、この人、誰?」
 心なしかさっきよりも、言葉と視線にただならぬ気配がこもっているのは気のせいだろうか。
「名前ならさっき言っただろう」
「ミアカシ、頼むからややこしくすんな!」
 さて、どこから説明したらこの状況を納得させられるのか。背中にじっとりと冷や汗がにじみ始めた時、今度はもうひとつのソファで眠っていた貴彦が、もぞもぞと動き出した。
「んー、あ?」
 みちると違って起きが良い貴彦は、二、三回目を瞬くと、がばりと起き上がった。あせった様子で辺りを見回す。
「あ、彰人、みちる、無事かっっ!?
「見ての通り。僕もみちるも大丈夫。アザを作ったくらいだよ」
「え、あ、だって、その、お前がもう一人出てきて、何かすごいことになってて……アレ?」
 そこでようやくリビングだと気がついたらしい。貴彦は明るい部屋をもう一度見直して、ソファにへたり込む。目覚めが良いと見せかけて、彼なりに寝ぼけていたらしい。気絶した時の状況を考えれば仕方ないことかもしれない。
「事情は今から話そう。それよりもまずは握手だ。私はミアカシという」
「あ、俺は、広崎貴彦です。ども」
 にこにこと近づいたミアカシに右手を差し出され、貴彦はへこへこと頭を下げながら握手をする。そして、彰人のほうを見る。その目は「この人誰っすか?」という疑問を訴えかけかけている。
 どことなく険悪ムードのみちると、状況が飲み込めず顔中疑問符でいっぱいの貴彦と、それぞれにじっと見つめられて。
 彰人はため息をつき、まずは二人に気絶する前のことをどこまで覚えているか聞くことから始める。

 妙な呪術で呼び出したのは、三年前に失ったはずの『記憶』でした。
 突然現れて助けてくれた美少女ミアカシは、なんとあの世からやってきた神様だったのです。
 もちろん、そんな説明で二人を納得させることなんてできやしなかった。みちるは彰人が今になって事故の後遺症が出たのかと心配しはじめるし、ノリがいい貴彦ですらどこか打ったのかと効いてくる始末だ。
 だけど大荒れに荒れまくった彰人の部屋を見ると、二人の態度はみるみる真剣になった。
 彰人だって、自分が当事者じゃなければこんなことは信じない。悪夢か何かだと思っただろう。だけど三人そろって同じ内容の悪夢を見るなんてありえないし、何より身体中あちこちが青アザだらけだ。物理的な証拠が残っていると、人は案外突拍子のないことでもすんなり受け入れられる。
 腕や足のアザを見比べながら、三人で一様にため息をつく。
「その程度で済んだのだから、もっと喜べ」
 ミアカシは彰人の部屋から持ってきた、例の呪い本を読みふけっていた。あの全てがズタズタに引き裂かれた部屋で、奇跡なのか呪いなのか、ほぼ無傷で転がっていたのだ。
 それをみちるがちらりと横目で見る。
「ミアカシさん、今日だけじゃなくて、事故の時も彰人を助けてくれたのよね?」
 みちるはどうにもミアカシが信用しきれないようで、尋ねる声にも隠し切れない不信感がにじみ出ている。
「ミアカシで良い。私もお前を名で呼ぶ。彰人を助けたことに関しては、さっき言ったとおりだ。こやつが記憶を失くした理由もな」
「記憶をなくさせる必要って、本当にあったの? それに、助けたってどうやって?」
 ミアカシは、彰人にしたのよりもだいぶ端折って、彰人との関係を説明していた。事故にあって怪我をした彰人を、ミアカシが治して帰した。その時にどうしても記憶を消す必要があった。今はまだ彰人に記憶を戻すのはまずい時期だったので、ミアカシが記憶を追いかけてきたということだけだ。
 もちろんというか、みちるはそれだけでは納得できないようだ。全てを素直に信じろというのは無理だろう。紅い花が咲く河原の夢との繋がりも、彰人にしかわからない。ただでさえ現実離れした話なのに、唐突に出てきた自称神様が解決してくれました、なんて冗談みたいだ。
 ミアカシは本を閉じ、やれやれといった様子で首を振る。
「まずは、これを見よ」
 ミアカシがすっと両手を上げ、胸の前で指を開く。指の間に現れる幾何学模様を描く糸は、少し指を動かすだけで次々に形を変える。
「とりこ糸とり虜呼び。迎え送りに捧げる花よ」
 彼女がそう告げると同時に、糸の形は放射状に広がり、花のような形を作り出す。それと同時に。
「う……わぁ」
 さっきまでの不信感を置き去りにして、みちるは感激の声を漏らした。
 花が咲いた。土も水もないフローリングに、大輪を掲げた菊の花が咲き乱れる。部屋中に花の匂いがむせるほどにあふれ返って。
 ミアカシは手の平に落とした花の形を、指であっさりと解く。すると、床を埋めていた菊の花は一瞬で空気に溶けて消え、部屋を満たす香りも風に吹き飛ばされたかのように消えてしまう。夢か幻か、本当にあっという間のできごとだった。
「そのアヤトリみたいなの、僕を助けた時に使ったヤツだな?」
 わざわざ実演してみせたのは、言葉で説明するよりも見せた方が早いと思ったからだろう、ミアカシはうなずき、もう一度両手に赤い糸の線を浮かび上がらせる。
「さよう。私は糸を介してトコヨの力を呼べる。トリコで組んだ糸の形を媒介にして、トコヨの力にも形を与える。先ほどのは『菊の花』、お前の『記憶』を遠くに飛ばした時に作った形は『山間の日の出』だ。暗闇を破る光には、強い力がある」
「……要するに、そのアヤトリで作った形に似た物がバーンと出てくるビックリ必殺技ってことでオッケー?」
「アヤトリではなくトリコだというに。まぁ、その認識でもかまわん。ひとまず、人ならざる力を持つものだと信じただろう?」
 さして大きくない胸を張り、ミアカシは得意げに鼻を鳴らした。実際に不思議な力を目の当たりにすると、さすがにみちるも反論はしない。難しい顔で「むー」とうなり声を上げている。
「こやつの記憶を削りとったことは、古くからの付き合いだというお前たちには納得いかないことかもしれぬ。彰人もそれでだいぶ苦労もしたようだし、責めるなとは言えぬよ。ただ、私もこやつをきちんとした形でこの世界に帰してやりたかったのでな。そこは信用してもらえぬか?」
 少しだけ困惑したような顔で、みちるはうなずく。理屈で納得しても気持ちが追いつくとは限らない。彰人だって少しは思うところがある。
 今まで何ひとつ口を挟まず、柄にもなく黙りこんだまま話を聞いていた貴彦が、不意に彰人のほうを振り向いた。そして、がばりと土下座。
「俺のせいでこんなことになっちまって、すまん」
「いや、何やってんだよ、貴彦。これはお前のせいじゃないって」
「ネタのつもりだったって言っても、俺がこんな怪しい本を持ってこなきゃ、危ないことになんなかったんだろ?」
「それを言うなら止めなかったあたし達も同罪でしょ。こんなことになるなんて、誰も思わないわよ」
 みちるがフォローを入れても、貴彦は顔を上げようとしない。
 普段の言動はバカっぽいが、貴彦はこれで意外と律儀だし責任感も強いほうだ。やっぱりというか、ドッペル様の言い出しっぺであることに、責任を感じているらしい。
 彰人は彼が悪いとは思わない。貴彦が変な記憶喪失治療法を持ってくるなんて、日常茶飯事だ。
みちるが言うとおり、こんな異常事態が起こるなんてわかるはずがない。
 ミアカシがため息をついた。土下座したまま動かない貴彦の前に座り、すこん、と後頭部に軽くチョップを入れる。思わず顔を上げかけた貴彦の両肩を手で掴むと、ちゃぶ台返しの要領で彼の半身を起こした。
「時間の無駄だ。責任の所在などどうでも良い」
 きっぱりと言い切って、ミアカシは例の呪い本を開き、『ドッペル様』のページを全員に見えるように床に置く。
「お前たちが行ったこの術は、トコヨとの門を開く神卸しの呪法だ。このやり方なら、よほど霊感が強い者でなければ、せいぜい祖霊の声を聞ける程度の効力しかない。しかし、彰人の場合私が切り離した『記憶』がトコヨに残されていた。そして、この私を通して糸で繋がっていた」
 ミアカシは本の上に糸のついた五円玉と紙人形を置く。儀式に使ったものだ。
「形代〔カタシロ〕――儀式において自分の身代わりとなるものだ。これに使われた糸が、私とお前の記憶とを繋げている糸に、同化した」
「それで、僕が『記憶』を引っ張り出してしまった、と」
「その通り。もし私が糸を司る神でなければ、もしくはこの呪法が糸を使わぬ形式のものであったら、記憶を引き出すところまではいかなかったかもしれん。だから責任の在りかなど無意味だといっただろう」
 形代を挟み込んだまま本を閉じて、ミアカシは三人の顔を見回した。
「私はアレをできるだけ遠くに飛ばしたが、魂は強い思い入れのある場所に戻る習性がある。遅くとも今晩には、ここに戻ってくるやもしれぬ。それまでに、まずは彰人を安全な場所に連れていかねばならぬ。『記憶』は知らず、今の彰人だけが知る場所が最適だ」
 三年前、『トコヨ』に落ちた時に切り離された自分の『記憶』は、事故にあった時そのままの服装をしていた。『記憶』はあの日のままで止まっている。つまり、記憶を失った後のことは向こうにはわからないわけだ。考えてみれば当たり前のことだった。
「それじゃ、高校には行った方がいいのか」
 この状態じゃ、今日は学校を休むしかないと思っていた。だけどこの状況なら、むしろ高校は安全圏ということになる。
「俺の家も安全だな」
 貴彦が軽く手を上げた。彼は三年前の時点では彰人たちの家の近所に住んでいた。高校進学と同時に、学校に近い場所に引っ越している。むしろ、引っ越すことを前提で近い高校を進学先に選んでいた。彰人とみちるは、何となくそれに合わせて少し遠めながら同じ高校に行ったのだ。少し遠いくらいの方が、中学までの知り合いが少なくて、彰人にとってはやりやすかったというのもある。
「ならば、少しの間、高校とお前の家で彰人を匿ってやれるか。私はその間に、アレを上手く封じる手はずを整えよう」
「あ、ああ、わかった」
 頷く貴彦の傍らで、みちるが所在なさげな顔でうつむいている。さっきまでの、ミアカシに対する不信感や敵対心とは少し違う、何かを言いたいけども必死に我慢しているような。いつもハキハキとした彼女らしくもない。
「みちる、何か気になること、あるのか?」
「あ……! いや、そんなことないよ!」
「あるんだろ? 言ってくれよ。みちるまで貴彦の家に来るわけにいかないだろ? 心配なんだ」
 心配、と言ったところでうつむいたみちるがぴくりと反応した。上目遣いで、少しだけ拗ねたような顔をする。そして何故か腰に手をやって挑戦的に胸をそらした。
「あたしだって、アキのこと、心配しているんだからね!」
「俺のことは無視か」
「あ、一応貴彦も心配してるけど」
「ついでにか」
「うん、ついで」
 本気の顔でそんなことを言われ、貴彦ががっくりとうなだれた。いつもの調子を取り戻したのか、みちるは少しだけ苦笑いをした。
「ちょっと、思っただけ。あたしたち、元はと言えばアキの記憶を取り戻したくてやったわけじゃない? 本当に記憶を引っ張り出して、しかもこんなことになるなんて思わなかったけどね。何とかならないのかなぁ? せっかく記憶があるってわかったのに、封じるのって、もったいないんじゃないかな……ってね?」
 ミアカシの方をちらちらと見ながら、彼女は希望的観測を話す。
 彰人は黙って首を横に振った。記憶が戻ることが死とイコールになっているなんて、できれば言いたくない。貴彦はまた責任を感じて落ち込むだろうし、みちるも怖がらせてしまう。
「やめておけ。今のアレの状態は、悪霊に近い。彰人を、自分の身体と友人を奪った敵だと思っている。記憶を戻しても、彰人に悪い影響しかないぞ」
 ミアカシもその辺は気を利かせたのか、単に貴彦やみちるにまで真実を告げる必要がないと思ったのか、だいぶぼかして答える。
 みちるは明らかにがっかりとした様子で、だけどそれ以上は引っ張らなかった。
「そっか。そうだよね、できるんだったらとっくにそうしているよね」
 ははは、と笑う彼女の姿に、彰人は違和感に似たものを抱く。何か、歯車がずれかけているような気がする。ずれて、軋んで、おかしくなる。
 何故だろう。みちるが自分の記憶が戻ることを望んでいるなんて、ずっと前からわかりきっていたのに。
「そういえばアキ、貴彦のところに行くのはいいけど、美紀恵さんにはどう説明するの」
 だけど不穏な予感は、みちるが話題を変えたことで立ち消えてしまった。もっと重要な問題が目の前に飛び出してきたからだ。
「叔母さんにどう説明しようかな」
 貴彦の家に泊まりに行くこと自体は、叔母は普通に許可してくれるだろう。彼が記憶喪失になる以前からの、無二の親友なのは彼女も知っている。貴彦に関しては、泊まるのも泊まりにいくのも伝言ひとつでOKがもらえるはずだ。
 ただ、いくら家にいることの方が珍しい叔母といえども、仮にも彰人の保護者だ。何かの用事で彰人の部屋に入ることがあるかもしれない。その時、あの惨状をどう説明できるっていうのか。
「そんなもの、正直に説明するよりあるまい」
 さも当然のように言うミアカシに、彰人たちは三人揃って首を横に振った。ありえない。この状況をやすやすと受け入れられるファンタジックな思考回路持ち主は、現代日本では絶滅危惧種レベルの天然さんかアブナイ人かの二択だろう。当事者ですら、大困惑だというのに。
 そんな時、玄関先からガチャガチャと鍵を開ける音がしてくる。
 今は午前五時。こんな時間に鍵を開けるのは、確実に貫徹残業帰りの叔母だ。いつもの彰人だったら絶対に寝ている時刻。そんな時間に起きていて、しかもみちると貴彦どころか、見知らぬ奇天烈な格好の女の子が一人加わっている。
「こんな時に限って朝帰りコースかよ!?
 何というタイミングだろう。対策を考え始めた矢先に、当人が帰ってくるなんて。
「と、とりあえず隠れろ、ミアカシっっ!」
「あら、起きているなんて珍しいわね、彰人」
 彰人が叫ぶのと、叔母がリビングのドアを開けて目を点にするのとは、ほとんど同時だった。
「あれ、みちるちゃんに、貴彦君? この子は、どちらの子かしら? ……すごく個性的な格好だけど」
「えーと、彼女はその、友達というか、その!」
 こんな早朝に家に上がりこむ古代人風味仮装美少女の友達なんているか!
 激しく自己ツッコミをいれながらしどろもどろに説明する彰人を尻目に、当のミアカシは平然とした顔で叔母の前に立つ。
 パン、と胸の前で両手を打ち合わせ、開くと同時に紅い糸が指に出現した。
「とりこ糸とり虜呼び」
 例の口上を詠み上げながら、彼女の指はその糸の形を崩し、一本の糸の輪にする。それを、呆然としている叔母に引っ掛けると、糸はすっと姿を消していた。
 ミアカシは微笑む。
「何を言う。私は彰人の従妹だ。昨日からここに住むことになった貴方の姪ではないか。聞いておらぬのか?」
 呆然としていた叔母は、はっとしたように目を見開いて、知り合いの子を見る顔つきに変わった。
「……あ、そうだったわ。私ったら、仕事疲れかしら。姪の顔をすっかり忘れているなんてね。ごめんね、昨日は帰られなかったから、せっかく来たのに部屋の用意もできなかったわね」
「それは構わない。彰人に聞いた」
「そう。その服装、演劇か何かの?」
「そのようなものだ。疲れているのだろう。早く寝るがいいぞ」
「そうするわ。構えなくてごめんね」
 スーツの上着を脱ぎつつ、叔母は自室に戻っていく。その様子を、彰人は(多分みちると貴彦も)呆気にとられて見送った。
「こちらの世界で使うと、糸をとる時間を食うのが難点だな。とりあえず彰人の部屋に行かぬよう暗示をかけておいた。しばらくはこれで大丈夫だろう」
 得意そうな笑みを浮かべているミアカシに、彰人は素直な感想をこぼす。
「……便利だな、その能力」

 当面の問題は、ミアカシの能力で大体解決できることだった。
 部屋にあった、彰人と貴彦の制服までボロボロになっていたりとか。これは簡単に解決した。ミアカシは『縫える物』ならば大体の物は、例のトリコなるアヤトリ超能力で修復できるらしい。制服の他に、被害にあった衣類や布団、カーテンなどは大体、元通りになった。
 あとは、彰人が避難している最中、ミアカシはどこにいるのかだ。これもあっさりと解決した。ミアカシは他の人間からは姿を見えなくすることができたからだ。
 そんな特技があるならば、叔母が現れた時点でさっさと使ってほしかった。
「私がずっとそばにいなければ、誰がお前を助けてやるのだ?」
 当然のようにそんなことを言う。
 何故かみちるが果てしなく不機嫌になった。どうしてかは、怖くて聞けないでいる。ミアカシと顔を合わせてから、どうにも彼女は虫の居所が悪い。
「もう……眠いし、痛いし、青アザ見えちゃう」
 むすっとした顔をしたまま、みちるはブラウスの裾からかすかに見える腕の青アザを恨めしげに見るめていた。彰人と貴彦も、むき出しの腕からところどころすりきずやアザを覗かせている。
 三人並んで寝不足と打ち身に悲鳴を上げながら、満員バスに揺られていた。
「彰人は貴彦のところに行けばいいからともかく、あたしはどうすればいいのかしら」
「高校に入ってからの友達で、泊めてくれそうな奴、いないのか?」
「いきなりっていうのはねぇ……。彰人のところだって、大変だったのよ。今日、着替えに一度帰ったら、色々と詮索されて」
 いくら隣家とはいえ、男の子の家に行って朝帰りはまずかったようだ。しかも青アザまで作っている。下手をすると「娘に何をした!」と殴りこまれかねない。
 ……そうならなかったのは、信用されているのか、それとも月見里家にとっては彰人は男にカウントされない存在なのか。後者の気がしてならない。
「結局、何て説明したんだ?」
「貴彦が開発した記憶回復ヨガ体操に付き合っていたら、無茶な体勢過ぎて転んで気絶していたって言っておいたわ。普通に納得してた」
「みちるー、お前、俺をどういうキャラにしたいんだ」
「んー、バカ?」
「というか、実際バカだよな。みちるの親にまで、そんなアホな嘘を真実だと思われる程度に」
「ひでぇ、せめてこう、ソフトにおバカさんとかでな!?
 バカとおバカさんの間にどれほどの差があるというのか。貴彦も妙なところにこだわる。
 こうしていると、まるで昨日と変わりなく一日が始まっている気がする。あんな非現実的なことがあったばかりなのに、まるでいつも通りの会話をしているのが、何だか不気味だった。日常と変わらないことを、居心地悪く感じる時が来るとは。
 非現実が続いてくれた方が、考えなくて済んで楽だったかもしれない。次から次へと対処に追われて、不安すらも押し流してくれる。
 叔母が来たことでうやむやになった、どこかがズレていくような感覚。日常的な景色が戻るに連れて考える余裕が出てきたのに、増していくのは安堵よりも違和感ばかりだ。
 ――疲れてんのかな。
 考えることはたくさんあって、だけど考える以外のことはろくにできそうにない。
 ため息ひとつこぼして、彰人はぼんやりと、何となく思ったことを口にする。
「家に置いてきちゃったけど、ミアカシってどうしているんだろうな?」
 まさかついてきてはいないだろう。満員バスとはいえあの紅髪を見たらさすがに気づくし、誰もが注目するはずだ。念のため。彰人は首だけを回して辺りを探す。純日本人らしい黒髪と、天然物ではない茶髪、少々の白や灰色がちらほらといるだけだった。
 諦めて前を向いたところで。
「呼んだか?」
「うわっっ!?
 ぬっと、紅髪が現れる。思わずもらした悲鳴で注目を浴びて、彰人は慌てて声を聞こえるギリギリまで落とした。
「イキナリ出てくんな」
「何が哀しくてお前らはこんな場所でおしくらまんじゅうをしているのだ。知っているぞ、これはバスという乗り物だろう。目的地まで乗せてくれる車だ。あっちにも走っているぞ。わざわざこんな混み合ったのに乗らんでもよかろう」
 窓際にいた三人から見ると、ミアカシは丁度窓から首だけにゅっと突き出している状態だ。窓の外にあるからだの、腕の部分が交差点を曲がっていくバスを示す。
「……ミアカシ、バスは路線によって行き先が違うものなのよ?」
 みちるがかわいそうな子を見るような目をして、淡々とツッコミを入れた。
「何だと!? あれもこれも、全部行き先が違うのか!? あんなに走っているのにか!?
「当たり前でしょ? それと、今の時間はどのバスも満員よ」
「まさか! こんなぎゅうぎゅうに詰まって行かねばならん場所が、いくつも存在すると!?
 窓の外にあるミアカシの両腕が、驚きのあまりバタバタと大げさに振り回される。首がはまって取れなくなってもがいているみたい。実にシュールな光景だ。
「ミアカシちゃん、バスはなー、装甲車両とタンクローリーと合体することによって巨大ロボットに変身するんだぞー」
「何だと!? ウツシヨの技術はそこまで発展しているのか!? 質量保存の法則すら捻じ曲げるとは!」
「貴彦……遊ぶな。ミアカシも、信じるな」
 首だけだしたミアカシとの聞こえるか聞こえないかのやりとりは、結局三人がバスを降りるまで続く。気を紛らわすには良かったかもしれない。
「お前、その調子で授業にもふっついてくるつもりか?」
 バス停から高校までの徒歩五分。どうやら三人だけに姿が見えるようにしているらしいミアカシに、彰人は小声で話しかけた。会話の内容さえ聞かれなければ、普通に三人で話して歩いているように見えるだろう。
 ミアカシは、何が面白いのかあっちこっちを興味深げに見回しまくってから、ようやくこちらを振り返る。
「ダメなのか?」
「まぁ、他人に姿さえ見せなきゃいてもいいけど。学校ではずっと黙っていてくれるとありがたい。あと、トイレには絶対ついてくんな」
「バカにするでない。トイレがぷらいべーとぞーんであることくらい、知っておるわ!」
 むっとした顔で言い返すミアカシ。その割には、貴彦の嘘にあっさり騙されていた。水洗トイレが異世界への入口だといわれたら、信じて流されてみるんじゃないだろうか。みちるなんて、敵対心が哀れみに変わったのか、幼児の主張を聞き流す保母さんみたいな顔になっている。
「ミアカシちゃんには授業が終わるまでまってもらうとして、みちるはどうすんだ?」
「うーん、一応、泊めてもらえそうな友達のところ当たってみるけど、何日もは無理かなぁ」
「まぁ、とりあえず今日だけでもさ。さすがに俺んちは無理だしな」
「そうする」
 みちると貴彦がこの後の計画を話す間に、ミアカシは彰人の顔を覗き込む。
「そう浮かない顔をするな」
「……? そんな浮かない顔してるか?」
「している。ここは安全なんだろう? もっと肩の力を抜いておけ。私はお前らのじゅぎょーが終わるまで待っているからな」
 ふっとミアカシの姿が消え去り、彰人は置き去りにされた気分になる。どっちかというと逆の立場のはずなのに。
「アキ、急がないと遅刻だよー」
 みちるに呼ばれて、止まりかけた足を速めた。ミアカシは、さっきみたいに呼べばすぐに出てくるだろう。
 朝の教室は、夏休み前の微妙にだらけた空気に満ちていた。期末テストも終わった今は、授業の進行も駆け足かのんびりだ。宿題もそう大量にあるわけじゃない。
 鞄を机の横にひっかけると、みちるはさっそく仲がいい女子のグループに駆け寄っていった。特に仲が良い吉嶺奈津子〔よしみね・なつこ〕に話しかける。
「おはよう、なっちゃん」
「みちるん、どうしたのそのアザ!」
「これ? 階段から落ちちゃってね」
「え、ウソ、大丈夫なの!?
「うん、平気。アザできたの、顔じゃなくって良かったぁ。でさ、なっちゃん、突然なんだけど――」
 みちるは放っておいても自分で何とかしてくれそうな空気だ。
 みちると貴彦以外には付き合いが淡白な彰人とは違って、彼女には男女問わず友達が多い。そういえば、貴彦も持ち前の明るいバカ精神ゆえか、割と友達は多い方だ。
 要するに、自分だけ人付き合いが悪いのだ。理由はいくつかある。まず、記憶喪失のことで色々と詮索されるのが嫌だ。過去の話ができないことで、居心地の悪い思いをしたりさせたりするのも勘弁して欲しい。
 みちると貴彦がいなければ、孤立していたかもしれない。彰人の日常は二人に守ってもらっていたようなものだった。
 急に、みちるの言葉を思い出す。
 ――何とかならないの? せっかく記憶が戻りそうなわけでしょ?
 ここまで、二人が自分を庇ってくれるのは、記憶を失くす前の自分が彼らの親友だったから。三年前の遊間彰人を知っているから。
 ――ソレは偽物だ!
 あの時、『自分』が言った言葉も蘇ってくる。
 本当に自分はここにいていいのか。本当に自分は自分でいいのか。
 昔の遊間彰人は、本当に自分と『同じ』なのか――?
 考えていると、息苦しくなる。こんな気分になったのは、久し振りだった。多分、コレがさっき話している時に感じた『ズレ』の正体だ。
 記憶を失ったばかりの頃に感じていた、息をするたびに心臓の裏側を針でチクチク刺されているような、そんな感覚。とても高いビルの屋上から下を覗き込んだ時とか、ぐらぐらと揺れる台に立たされた時に感じるのと同じ、緊張と不安の連鎖反応。
 みちるも、貴彦も、自分に気を使ってくれる。助けようとしてくれる。
 それは、親友の失った記憶が、いつか戻ると信じているから。戻らなくても、遊間彰人はただ一人しかいなかったから。
 じゃあ、完全な記憶を持った、別の遊間彰人がいたとしたら――?
 三年前の『自分』の姿が、瞼の裏に張り付いているみたいだ。
「――い。おい、彰人!」
 肩をゆすられて、我に返った。柄にもなく難しい顔をした貴彦の姿が、目の前にある。
「あ、貴彦、どうした?」
「どうした、じゃねえよ。具合悪いなら保健室行ってこい」
 周りには聞こえないように声を潜めて、貴彦は「お前、ほとんど寝てないんだろ?」と付け加える。
 ホームルームが始まる前の喧騒が、妙に遠く感じた。確かに、あまり寝ていない。自覚すると、眠気と共に泥のような疲労感が襲ってくる。
「あー、そうだな。行って、くるかな」
「そうしろって、顔色悪ぃよ」
 きっと、寝不足のせいだ。
 この三年間が全く無意味だったわけじゃない。全てを忘れた今でもまだ、二人が親友でいてくれる理由は、失くした記憶のためだけじゃない。ずっと、信じていた。
 変わったことなんてない。友情は、日常は、簡単に壊れたりしない。
 そう思って生きてきたのに、どうして気づいてしまったんだろう。
 ――それは、『俺』じゃない。
 『自分』の声が耳の奥に響いている。
 ――『僕』は、何を信じたいんだろう。
 馬鹿げている。少し口調や言い回しが変わるくらい、誰にでもあることだ。
 二人を信じたいに決まっている。それなのに。
 もしも、今の彰人が、三年前の自分と似ても似つかない存在だとしたら?
 みちるも貴彦も、いつか昔の遊間彰人に戻ることを信じて、変わり果てた自分に付き合ってくれているのだとしたら――『記憶』を前にして、彼らは迷わずにいられるだろうか。
「ちょっと、アキ、ホントに大丈夫なの? 保健室連れてってあげよっか?」
 様子がおかしいことに気づいたみちるが、駆け足で戻ってくる。
 二人とも、心配してくれている。それは、本当だ。間違いない。
 それなのに、どうして。
「いい……。大丈夫、一人で行ける」
 視界がぐらぐらとした。自分の信じていた世界も、ぐらついている気がした。
 本当に馬鹿げている。何をやっているんだろう。そう、思う。
 だけど彰人は、みちるの顔も貴彦の顔も、直視できなかった。
 ひとかけらでも。彼らの友情を疑っている自分が、浅ましくて恥ずかしい愚か者に思えてならなかったから。
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