第5話 昭和64年の浅草寺

文字数 2,621文字

 人が喋っていない。
 天皇陛下の快癒を願うという名目の自粛が一年近く続き、商店街につきものの有線放送も無い状態に、人々は慣れていた。
 「昭和」という時代は終わった。
 自分達は次の元号を冠する年で生活してゆく。
それは一人の老人が闘病の果てに亡くなったという事実にとどまらない。個人の「死」と全く別の意味を持って世界に知られていった。
 テレビでは、天皇の葬儀は国が「国事行為」として行うという。

 大正時代の終わりはどうだったのか、平田は知らない。
 大学でも習わなかったし、小中高を通じても「天皇」についてなど、全く学ばなかった。
 ただ、祝日としての「天皇誕生日」だけが、自分達の生活に直結していた。
 戦争を始めた、勝てなくなってもなかなか戦争を終わらせなかった、国民を犠牲にしてその地位が成り立っている、と言いながら、社会科教師が日本史の時間に激昂していた気がするが、それもどういう意味か分からない。
 今度の天皇の誕生日はいつだろう。祝日が移動するから、会社と下請け工場年間スケジュールも変わって来るだろう。
 自分たちは祝日と言っても休まない。去年しきりとテレビで連呼されたドリンクのキャッチコピー同様、24時間戦えますか、である。

 雷門通り、新仲見世通り、国際通りとふらついてはみたが、大抵の店は閉まっているし、映画館も同様だ。
 駅前で「天皇陛下御崩御」の号外が配られていたので受け取ったが、朝から何度も報じられている内容の焼き直しに過ぎなかった。
 真冬の夜は暮れるのが早い。
 ネオンサインや明るい電飾の看板、商店街を流れる有線なども、自粛という名目で全く灯らないから、陽が落ちると街は歓楽街・繁華街淺草とは思えない程の漆黒に包まれる。
 その中を黒いコートに身を包みんだ人達がざっざっと乾いた足音を立てて、浅草寺へと流れて行った。
 人の流れは次第に太い束になり、シャッターを下ろし街頭の灯りも薄暗い仲見世通りから、雷門へと続いていく。
 会社帰りと思しきサラリーマンたちは普通のスーツとビジネスコートにネクタイだけを黒に替え、地元の姐さんたちは黒の着物に黒い帯をしめ、黒の草履と羽織を着けて、また黒の喪服にコート姿で歩いている。
 向かう先は浅草寺境内の記帳所らしい。天皇に対するお悔やみの記帳とやらが受け付けられているのだ。

「記帳」自体はこの一年ですっかり身近になった言葉だ。
 この台東区内、浅草界隈でも何カ所もの『天皇陛下のご快癒を祈念して』の記帳所が設けられていたし、そのいずれも立ち寄って自分や係累の名前を書き記す人で溢れていた。

「この際だから、記念にやっていくか」

 今日は特別な日だ。時間のスポットに挟まったような、奇妙な日なのだ。
 一人暮らしのアパートに帰る前に、平田は持ち歩いている黒のネクタイに替え、記帳所の列に並んだ。

 参道の幅いっぱいに並んだ列は、静かに粛々と進んでいく。
 形だけ見ると新年のお参りのようだが、違うのはほぼ全員が黒や灰色という、弔意を表す無彩色の服装をしていることと、沈黙を守っていることだ。
 家族や友人、町内会と言った知り合いと一緒に並んでいる集団からは、時折ささやき交わす声が聞こえてくるが、他の人たちはみな寒そうに首をすくめ、肩パットの盛大に入ったコートの肩を丸めてじっと順番の来るのを待っている。
 ふと平田は、鼻先をよぎる美味しそうな香りに惹かれた。
 砂糖を燻したカラメルのような、きつね色のホットケーキの焦げ目にバターとはちみつを塗ってとろりと溶かしてかぶりつく、その鼻先をくすぐるような匂いだ。

 どうもその香りは、自分の脇に並んでいる黒衣の婦人から漂ってくるようだ。
 年のころは60代と見受けられる老女は、黒く染めた髪のところどころに深いモスグリーンのメッシュを入れ、顔の周りから肩の上まで緩やかに波打たせながらすっきりとまとめている。
 その色合いとくすんだ、若さに輝く艶のある髪とは程遠い風情が、成熟した深い森のように感じられた。
 黒真珠のピアスとネックレスは、程よく張りを失った柔かそうな皺のある頸と耳元に、一層の上品な寂しさを添えている。
 だが、漂ってくる美味しそうな香りは、いつも手作りお菓子を小さな子供のために作っている若いお母さんのような、甘やかさに満ちている。
 それが大層奇妙な調和を平田に感じさせた。

 ここに並んでいる人達はいわば弔問客だ。
 本来なら皇居の馬場崎門や坂下門まで出向いて、宮中への門の前にしつらえてある記帳台に署名し、主が死んでしまった皇居の様子を詣でて来るべきだが、地元の浅草寺で済まそうとしている。
 彼らの若干時代遅れの形の喪服や黒のカシミヤのコート、大仰な黒の不祝儀用の紋付礼装の和服も、長く風に当てていない、古めかしいよどんだ空気の匂いがした。
 だがこの隣の老婦人は違う。
 若くもなく、瑞々しくもなく、しっかりと人生の不幸と苦労と、ちょっぴりの甘さを味わって来た優しい悲しみが全身を覆っていた。
 平田は努めて神妙な顔で少しずつ列の中に歩みを進めながら、ちらちらと隣に目を走らせた。
 黒いカシミヤのコートとおそろいの黒手袋、黒いストッキングの脚はほっそりと長く、足首がキュッとしまっている。
 10センチヒールの似合うしなやかさのある脚だ。
 その手首にはちらちらと象牙の数珠が見えている。
 平田は自分が何も持たず、ただ会社帰りに立ち寄った風情でいるのを悔やんだ。

 列が進み、派手でダイナミックな色合いの宝蔵門を超えた。
 浅草寺の本堂前にずらりと並んでいる、白いクロスをかけた記帳台に、分厚い帳面が置いてある。
 セットされたペンで、平田は自分の名と住所を書いた。

 『平田成典』

 なにしろ大勢なので帳面の数も多く、記帳者同士の間隔が狭い。隣で記帳する婦人の手元が近くに見える。
 ややしおれた皺の入った小さな手に細い指、左指に指輪はない。
 代わりに右小指に小粒の真珠のピンキーリングをはめている。
 爪は長めで、珊瑚色に塗られている。
 その年季のいった手を控えめに彩る淡い艶に、平田は大人のたしなみを感じた気がした。

『昭島和子』

 達筆で書かれたその名を平田は喉の奥で呟いた。
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