第38話 おままごと生活

文字数 4,110文字

 次の日。
 夜更け過ぎまで図案書きに没頭していた平田は、いつもより寝坊をした。
 暖かい朝の日が瞼の裏に踊っているが、まだ起きたくない。
 でも飯をかっ込んで仕事にかからないと。
 それにつけても、着替えも洗顔も面倒だ。
 出来たら布団の中で腹ばいになって図案を書いていたい。

「布団? 」

 平田はパッと目を開けた。
 作業机に突っ伏して寝ていた自分に、薄い掛布団がかけてある。
 昨夜、転がり込んできた少女・昭島和子にかけてやったものだ。
 あの子は?
 視線を畳の上に走らせたが、きちんと布団は畳まれ少女の姿がない。
 気が付くと狭い台所から、しゅーしゅーお湯が沸く音や野菜を刻む音と共に、米の炊ける甘い匂いが漂ってきた。

「和子、そんなのしなくていいんだよ」
「いいのよ。させて。嬉しい事に身体が覚えてるわ」

 やや舌足らずの幼い話し方なのに、言葉だけが妙に大人っぽい。

「顔を洗って、朝ごはんにしましょう」

 振り返った和子はぶかぶかの男物のシャツを着て、裾を思いきりまくり上げたズボンをはき、古いベルトを締めていた。
 平田は成人男子でも極めて平均的な、いや、より痩せて細身だったが、それでも彼の服を着ると太ももやお尻はガバガバにだぶつき、和子の体は服の中で泳ぐようだった。


 ちゃぶ台には油揚げの味噌汁、炊きたてのご飯、納豆に庭でむしったアカザの葉の胡麻和えが並んだ。

「納豆は売りに来てくれたけど、めざしとか豆腐とはお店が分からないから困っちゃった」
「いいよ。ゆっくりこの街を知って行けば。俺だってずっと住んでいてもわからないところばかりだ。浅草はまるで迷宮さ」

 味噌汁を美味しそうに啜りながら、平田は答えた。

「それに、さすがに服も買わないと」
「でもお金かかるわ。それよりむしろ、平田さんの服がもう少し必要よ」
「そうかあ?」

 朝食の後、押入れの奥から掘り出した新品の男物浴衣を着て、絞りの兵児帯を締め、和子は大量の洗濯物に取り掛かった。
 まるで少年のような後ろ姿におさげ髪で、共同井戸から水をくみ、行きあうご近所さんに挨拶をする。
 その不思議な少女の姿に口さがない女衆は好奇の目を向けたが、和子は意に介さなかった。


 昭和12年初夏。25歳の平田と12歳の和子は、おままごとのような共同生活を始めた。
 朝食の準備から掃除、洗濯、繕い物。
 平田の男物の着物を思い切りおはしょりを取って着ていた。
 買い物だけは少々苦手だったが、籐で編んだかごを下げ、思い切って近所の八百屋や小間物屋に出かけた。
 そして魚屋に肉屋と、少しずつ慣れるようにした。
 独身のむさくるしい平田の家から出てくる、男着物を着た奇妙な少女を、近所では訝しがったが、商店の主人たちにはそんなことは関係ない。
 和子は野菜や魚の目利きの仕方、馴染みの肉屋での買い方も覚えてきた。
 そんなささやかな生活そのものが嬉しかった。

「平田さん、私ずっとこんな風に、二人で暮らしたかったのよ」

 煎餅布団に並んで寝ころびながら、和子は陽気につぶやいた。

「そうかあ?」
「そうよ」
「そういえば前は、二人で暮らし始める前に、空襲が来て駄目になっちゃったからね」
「平田さんは浅草にずっといるつもりなの?また燃えちゃうかもしれないのに」
「それは運だよ。たまたまだよ。それに、そんなことを言ったら東京のどこにも住めなくなる。同じことさ」

 そうかなあ。和子はまん丸い鼻を平田の背中にこすりつけ、頬を寄せながらふんわりあくびをした。

 書き上げた図案を納めに、街に出る平田の顔は、目に見えて明るくなっていた。
 和子がまめに洗濯してくれるので、着るものも清潔、和服の着付けもきちんとするようになったし、髭もそり髪も整えるようになった。
 仕事の帰りの買い物も、今までの決まった店で同じものを、というストイックな繰り返しではなくなった。
 必要に迫られて、和子のために女児用の下着や服も買う姿は、近所のうるさいおかみさん達を驚かせたし、子供が喜ぶ絵本やお菓子や、着せ替え人形や雑誌なんぞも買い込んで、意気揚々と並べて見せたりもした。
 彼の買ってくる服は感覚が大正時代で止まっているようで、決して最新流行ではなかったし、モダンというより素朴な田舎の少女めいていたが、それでも和子は嬉しかった。

「俺には女の洋装は分からん。和装の方がずっと分かりやすい」

 下着やズロースは微妙にサイズが合わず、少女特有の丸みのないぎすぎすした体つきに無理やり合わせていたが、そこまで要求するのは独身男性の平田には酷というものだろう。

「スカートもブラウスもありがとう。早速明日から着るわ」
「気に入らない時は無理しなくていいんだからな」
「ううん。有り難く着るわね。でもたまには平田さんも自分の着る物を買って頂戴ね。幾らなんでもつぎはぎだらけの服でお仕事には出させられないもの」

 その会話に長屋のおかみさん連中が聞き耳を立てて、にやにやと下卑た笑みを浮かべるのだった。
 平田と和子は単調な毎日を送る貧しい住民たちの、格好の観察対象、話のタネになっていた。


「秋物の図案、追加で受けた分を持ってきました」
「おう、お疲れさん。浅草から遠かったろう。上がんな」

 平田の図案の納品先、染物工房の主人がたすき掛けの作業着に前掛け姿で顔を上げた。
 工房で修行中の小僧がすかさず出迎えて図案を受け取り、主人の作業机に持って行き、重しを載せて飛ばないように置いた。
 そこに下働きの少女が冷たい水を持ってくる。
 受け取って顔を見ると、家で待っている和子くらいの年頃だ。
 幼い顔の頬に産毛が生えている。
 今まで何度となくこの工房には通っているし、そのたびにこの子のもてなしを受けたはずだが、全く気にも留めなかった。
 思春期の「和子」が家に来て初めて、彼は周囲のものが今までよりはっきりと見える気がした。

「ありがとう。お前歳はいくつだ?」

 無口な変人と言われている男に思いがけず話しかけられ、下働きの少女は盆を取り落としそうになった。

「11です……」

 それだけ言うと、大急ぎで奥の台所に走って行った。

『あの子と同じくらいか……』

 一緒に暮らしていると気づかなかったが、世の中の11・12歳の少女というのは、大層儚げで弱々しいが、アンバランスなエネルギーにも満ちた生物なのだ。
 平田はか細くいたいけな体つきの和子が、大人の口をきく様子を思い出し、胸の奥が波立つのを感じた。

「どうしたお前。今まであの子なんか目にも留めなかったくせに、話しかけるとは」

 工房の親方が面白そうに聞いた。
 その目が好奇心で輝いている。
 平田の最近の変化が耳に入っているに違いない。

「何でもねえです。用事が済んだんで帰ります」

 新たな図案の注文書を受け取ると、平田は腰を上げた。
 そのいかにも急いだ様子に親方はまた笑った。

「随分急ぎだな。ここに来た時から一刻も早く帰りたくて、もう腰が浮きまくった様子だったぞ」
「そんな事ありません。帰りに用事があって……失礼します」

 平田は和子が洗濯し畳んでくれたパリッとした服に下駄をつっかけ、出ようと急いだ。

「お前最近、女と一緒に住んでるっていうじゃねえか。しかもとびっきり若い、若すぎる女とよ」

 工房玄関を一歩出た平田は、ビクンと足を止めた。

「はい。田舎から出てきた姪っ子と一緒に住んでいます」
「まだおぼこだって聞いたぞ。でも口の利き方は大人の女で、夫婦同然に暮らしているって」
「そんなことはありません」

 平田は怒って玄関を後ろ手に閉めた。
 勢い余って跳ね返ってきた引き戸には、下三寸と呼ばれる隙間が空いてしまった。

「お前の女の趣味は分からねえが、子供相手に間違いだけはまずいからな。そこだけは気を付けろ。年端のいかない女の色香に惑わされるんじゃねえぞ」

 平田は背後から親方の声を聴くと、憤然と帰途に就いた。


 神田川の流れる江戸川橋から、市電に乗って浅草に帰ると、浅草寺の前と言わず後ろと言わず、町中祭りの準備だった。

「そうか、もうすぐホオズキ市か……」

 食べ物や怪しい古道具の店に交じって、古着や吊るしの着物、髪飾り、櫛。女の喜びそうな露店も通常の月例祭以上に立ち、賑やかだ。

「そうだ、あの子に夜市でも見せてやるか」

 ふと思いついた平田は、自分が買ってくる野暮ったい服と、男物を丈詰めした着物しか着ていない和子の姿を思い出した。
 すくすくと若枝のように成長する、健やかに美しい盛りなのに、いつも頓珍漢な『なり』をさせているのではないか。

「主人、浴衣をくれ。姪っ子のだ」

 平田は和子の浴衣を買いに、吊るしの呉服屋へ入った。
 きちんとした呉服屋だと反物から買って、仕立てさせないといけない。
 それでは時間がかかる。祭りに間に合わないのは良くない。

「お兄さん、丁度良かった。今朝程度のいい古着がたくさん入ったんですよ。どれも新品と大差ないもんですよ」
「そりゃよかった。大体年のころは12で、身の丈は俺の腹くらい。半幅帯も下駄も頼むよ」

 平田は抱き着いて来た時の和子の背丈と、そのぎゅっと自分の腰に回した手の力を思い出し、また胸の奥が波立つのを感じた。
 体の芯は冷えているのに、顔が熱くなっていく。
 平田はごまかすように、手でパタパタと顔を仰いだ。


 白地に水色とやわらかな桃色でなでしこが描かれた、肩揚げを解いた少女用の浴衣。
 それに鮮やかな紅色の半幅帯と朱塗りの下駄。
 それらを平田は買って帰った。

「真赤っかじゃないの」

と和子の嬉しそうな呆れ声に迎えられながら。
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