第7話 昭和最後の日の浅草地下街

文字数 3,580文字

「すみません、こういう所で」
「こういう所ってどういう所よ。こんな日じゃなかったら、もっといい所へ彼女さんをお連れしなさい」

 むき出しの配管やケーブルが、低い天井に何本も這いまわっている地下街。
 瓶ビールケースや生ビールタンクが無造作に足元に置かれたテーブルで、平田はぺこりと頭を下げた。
 カウンターに13席、テーブル席に6席の小さな狭い焼きそば屋は、昭和40年から営業している、浅草地下街の中では古株の店だ。
 運ばれてきたソース焼きそばは350円。
 トッピングで目玉焼きを載せると450円になる。

「ありがとう。美味しいお店を教えてくれて。あまり地下街に来ないから知らなかった。今日は得しちゃったわ」

 カシミヤのコートと手袋を脱ぎ、脇の椅子に置きながら、老婦人は笑顔を見せた。

「私も牛スジ焼きそばと、餃子をいただこうかな。食べきれなかったら、あなた手伝ってくださるでしょう?」
「勿論です」

 ビールは生も瓶も同じ400円だから、乾杯用にまずは生ビールのジョッキ。寒い日でも冷えたジョッキ。
 雨漏り防止のブルーシートや、滴を受けるためビニール傘を逆さにつりさげた天井は賑やかで、さすが東京で二番目だか三番目に古い現役地下商店街である。
 平田も会社の先輩から『激渋な店を教えてやるよ』と連れられてくるまでは、こんな、戦後すぐの映画に出てくるような古式ゆかしい地下街が、レトロでお洒落な松屋デパートに直結しているとは思わなかった。

「私も銀座線は使うけど、改札を出てこちらに来ることはなかったなあ。これで覚えたから、これからは一人でも来れるわね」
「あ、あの、その時は僕も……」

 思わず強く握った手の中で、平田の割りばしがばきんと折れた。

「そう焦らないんだよお兄さん。で、ごめんねお姉さん、今日お店を開けるかどうか迷っていたから煮込み系のメニューはないのよ」
「あらそうなの?」
「そうなの。こんな日だから、店なんか開けたら不謹慎だって嫌がらせ来るかも、なあんて家族と店の者が心配してね。でもそんな心配ないかった。代わりにに客足もさっぱりだけどね」
「んなことねえじゃん。たとえ公営ギャンブルはお休みでも俺らは来るよ」

 カウンターの奥で、もう出来上がっている、どこから見ても馬券を買いに来た労働者という屈強な親父二人が、酒焼けしたガラガラ声を張り上げた。

「アンタたちはこれが仕事みたいなもんでしょ。皆勤賞は更新だよね」

 それじゃ何を追加で頼もうかな、と昭島さんは店の奥のカウンターを振り向いて、壁に所狭しと貼られたお品書きを見渡した。
 その美しい顔にカウンターの親父たちはほう、という顔をした。
 あの兄ちゃん年増好みか。いい趣味してるな。たくさんお勉強させてもらえや。
 そう笑ってビールをお替りしている。
 平田は聞こえないふりをした。

「あなたと同じじゃ芸がないから、カレー焼きそば。牛スジ食べて、少しでもしわ伸ばしのコラーゲンを補充しようと思ったのに、無いなんて残念だわ」
「いいえ。昭島さんにしわ伸ばしなんて必要ありません。そのしわも、せっかくお綺麗なのに」
「あなた、恥ずかしくなるようなことをサラッというわねえ」

 軽く呆れたような表情も可愛らしい老婦人の前に、カレーをかけた焼きそばと焼き餃子が並び、平田と昭島さんはジョッキを合わせた。乾杯。
 本当に綺麗ですから、会社にいる若い受付嬢よりずっと、見惚れちゃいますから。
 あまりに歯の浮くような言葉を続けると嫌われそうで、平田は言葉を慎みながらビールを飲み干した。
 ポークソーセージ。じゃがいもと玉ねぎの土佐炒め、小松菜と油揚げの煮びたし。
 昭島さんは

「若いんだからもっと食べなさいよ」

 と次々と注文してくれるが、頼むものは野菜たっぷりのヘルシーの惣菜系だ。
 普段の平田だったら絶対にもの足りないが、知り合ったばかりの不思議な魅力の美老女と対面で飲んでいる今は、正直胸がいっぱいで、言われるままに次々胃に入れるのがやっとだ。

「美味しいね」
「はい。美味いです」

 昭島さんは白い割りばしに口紅をつけないように、実に上手に食べ物を口に入れる。
 淡いローズ色の唇から覗く歯は真っ白で、入れ歯も差し歯もないようだ。

「お酒のお替り、一緒にいかない?」
「いきますいきます。ご一緒させて頂きます」

 ビールから始まってホッピー、「お酒」としか書かれていない日本酒。地下街に冷たい風が入ってきたので、さすがに熱めの燗で。餃子を頬張りながら呑むのは熱々の焼酎のお湯割り。
 また戻って日本酒、カップの大関。

「あなたにとって昭和って何? とか聞かれても分からないわよねえ。色々あり過ぎて、あんな取材の兄ちゃん相手に何を言ったらいいかなんて、とっさにわかるもんですか」
「あれは失礼ですよねえ。分かります。俺だって聞かれても答えられませんもん」
「自分の育った時代を語ればいいんじゃないの?あなたは」

 昭島さんは気のせいかとろりとした目の淵を赤くして平田を見詰める。
 その華奢な掌の中のカップ酒は、さっきより減るペースが早いようだ。

「俺、語るような事は何もないんですよ。生まれてからずっと普通で、学校も友人も、遊びも勉強も、褒められもせず特別叱られもせず」
「普通が一番いいのよ。本当。私達なんか、体からも心からも、普通が全部もぎ取られてっちゃったんだから」

 すっと遠くを見るように細めた昭島さんの、長いまつ毛に覆われた目元に細かいしわが刻まれた。
 でもその皺までが美しいと平田は感じた。目元の皺一本一本にキスしたい。

「普通であるって事は、全然当たり前じゃないから。もの凄い数のラッキーを踏み台にして、のんびりと過ごせているだけ」

 昭島さんはいきなりぐっと顔を寄せて、平田の目の奥を覗きこんだ。
 何を考えているのか探ろうとでもいうのか、澄んだ白目と黒目のくっきりとした瞳で、じっと彼を見つめ続ける。
 平田は時間が止まったような気がした。
 自分が何を考えているのかと言えば、このまま彼女の細い肩を、雷門の信号前で支えたように抱きしめ、連れて行きたいと思っている。
 でも指一本すら動かせない。彼はこの甘い拷問が永遠に続けばいいと思った。

「あんたは真面目ねえ。いい男になっていくでしょうね」

 昭島さんはふんわりと笑って、平田から視線を外し、解放した。

「私達の若い頃は普通の青春なんてなかったものねえ、ねえお姐さん」

 彼女が声をかけると、キッチンの中から女将さんが顔を出して答えた。

「ほんとだよ。毎日が勤労奉仕で建物疎開や工場勤務、銃後の守りって竹槍やバケツリレーの消火訓練でさ。でもその中でもちょっぴりいい事もあったのよ。教練や工場の監督に来ていた若い兵隊さんと気付かれないように顔を見合わせて、アイコンタクトしてみたりとか、上官のいないところで挨拶してみたりとか」
「あらお姐さんスリリング」
「どんな時でも楽しみって見つけて来たわねえ。本当に打ちのめされたのは、戦争が終わってアメリカーが大勢乗り込んできた後よ」

 匂うかしら、と呟きながらニンニクラーメン500円を頼んだ大胆な昭島さんに

「僕も頂くわけですから同じです。おあいこです」

 と答えて、平田は後悔した。
 何を言っているんだ俺は。
 向かい合ってラーメンを啜っていても、何となくおかしくて顔を見合わせては笑ってしまう。
 箸が転げても笑う年ごろというのは中高時代を言うのだろうが、昭島さんと平田は無限にいないいないばあをして笑う赤ん坊の様に、ラーメンずるずる、大きな口を開けてハハハを繰り返していた。

 全部食べ終えて店を出た後(不様な事に割り勘にされた)せっかく営団浅草駅の改札前なのに、二人は地下鉄に乗らず地上に出た。
 昭島さんがどの路線の電車に乗って、どこに住んでいるのか知らない。
 雷門から離れた浅草寺脇の花川戸方面。
 人気も少ない静かな歩道をふらふらと可愛らしく歩きながら、彼女は後ろからついてくる平田を振り返った。

「遅いですよ。私先に行っちゃいますよ」
「行くってどこにですか?」
「酔っ払いだから酔い覚ましに、風に吹かれに行きたいの。言問橋の上から川面を見たい」
「お供します、マドモワゼル」

 素面だったら蕁麻疹が出そうなセリフも、酔っぱらいの今ならすんなりと言える。
 平田はおどけてついていきながら、結局は酒の力かよ、とちょっぴり己が情けなくなった。
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