第16話 羅村吾朗の憂愁

文字数 2,640文字

 京子が急にラゴスの事務所に現れた。
 吾朗は外出しており、事務員の宮樋さんしか事務所にいなかった。
「お急ぎですか」との宮樋さんの問いかけに、京子は首を振った。
「別に急いでいないの。帰るまで待つわ」
と言って、事務所の中を慈しむように歩き回った。宮樋さんは、気を利かせるて、吾朗の携帯に電話したが、あいにく吾朗が出なかった。そこで、宮樋さんはメッセージを送っておいた。
「京子さんが来られています。何か話があるようです」
 返信があるかもと考え、宮樋さんは自分の携帯をデスクに出しておいた。
 京子は、事務所の中をそぞろ歩きしている。
「お茶でもどうぞ」と、宮樋さんは応接テーブルにお茶と茶菓子を出した。
 京子は「ありがとう」と言ったが、心ここに在らずという感じだった。

 一方、吾朗は、その頃久しぶりにカフェ・ラマンにいた。井深と駄弁っていた。だから、宮樋さんの連絡に気づかなかった。
 井深は吾朗が起業し、新たな仕事を始めたことは知っていたが、京子こと三沢春子と一緒に起業したことは知らなかった。吾朗は話していなかった。吾朗と京子は時を隔てて出会っているので、話しても井深は信じないと吾朗は思っていた。
 
 京子はじっと座っていることができない様子で、ソファに座ったかと思うとお茶も飲まずまた立ち上がって外を見たり、ラゴスの事務所の中を歩き回りながら、宮樋さんに話しかけたりしている。
「携帯を鳴らしているんですけど、出ませんね」と宮樋さんもお手上げ気味。
「迎えに行こうかしら」
 京子は呟いた。
「それなら、吾朗さんはよくカフェ・ラマンに寄りますから、行ってみると会えるかもしれません」
 宮樋さんはそう返した。
 京子は宮樋さんに「ありがとう」と言うと、そのまま事務所を出た。
 その後で、宮樋さんの携帯が鳴った。吾朗からの折り返しだった。
「何かあった?」
「メッセージも送っていたんですけど、高辻京子さんが来られてました。何か話がるようでしたよ」
「今、いるの」
「いいえ。先ほど吾朗さんを迎えに行くと言って出て行かれました」
と言いつつ、宮樋さんは携帯を耳に当てたまま、外に出てみた。もう、京子の姿はどこにもなかった。
「カフェ・ラマンにいるかもって、お伝えしたんで、行かれるかもしれません」
「そう。ちょうどカフェ・ラマンにいるから、外に出てみるよ」
 そう言って、吾朗は電話を切った。

 吾朗は井深が他の客の注文で忙しくなったのを見て、宮樋さんに電話していた。京子の話を聞いて気になったので、カウンターにコーヒーチケットを置くと、そのまま店を出た。
 左右の路地を見回しても、まだ京子の姿はない。吾朗はラゴスの事務所の方に向かって、ゆっくりと歩いて行った。カフェ・ラマンからラゴスに行く途中には神田明神がある。急いで行こうとすると、どうしても神田明神の近くを通ってしまう。
 吾朗は、そのことが気になった。京子が知らずに神田明神の境内に入り込んでしまうと、過去に引き戻されてしまうかもしれないと考えた。慎重に道を選びつつ、事務所を目指した。
 少し靄のようなものがかかり始めたことも気になった。
 今は道も広くなり、車が走っている。しかし、地元の人間でさえ使わなくなった狭道もいくつか残っている。まさか、そんなところを通ることはないだろうと思っていたら、狭い坂道から京子が現れた。
「びっくりですね」と吾朗は思わず口に出した。
 京子は吾朗の姿を見てホッとした様子。
「明神坂って木の看板があったわ」
と坂下を指差した。まさかと思い、吾朗は京子の手を取ったまま、その方を見下ろした。
 薮ばかりで、道も石段もない。
「ない」と京子も驚いている。
 京子も強く吾朗の手を握りしめてきた。吾朗には、その手がとても冷たく感じられた。
 手首を隠すほど長い手袋をはめているのに、京子の手は真冬に素手でいるかのように冷たかった。
「寒くないですか」と吾朗が聞いた。
 京子は、なぜそんなことを聞くのとでも言いたげな表情になったが、すぐに遠くの方に目をやった。
「遠くで、祭囃子が聞こえる」
「どこ」
「あっち」
 しかし、吾朗には何も聞こえていなかった。
「聞こえないよ」
「・・・近づいて来てる」
「それは、幼い頃に聞いたものに似てるの」
「ええ。懐かしいわ」
 吾朗は嫌な気がした。道成が言っていたことを思い出した。懐かしいと感じるものから離れていることと、道成は言ったのだ。
「ここを離れよう」
 吾朗は京子の手を引いて、足早に歩き出した。
「今度はこっちから聞こえるわ」
 京子はまさに吾朗が向かおうとした方句を指差した。
「じゃあ、反対方向だ」
 しかし、しばらく行くと、京子は先ほどと同じように、正面から祭囃子が聞こえると言う。しかも、もっと近づいて来ていた。白い霧のようなものも見えると言う。
 吾朗には、全く見えてなかった。そのことが吾朗を不安にさせた。
 吾朗が立ち往生しているのを見て、京子は吾朗の手を外すと、
「やっぱり、もう限界のようね」と言った。
 京子は手袋を外して、吾朗に自分の両手を見せた。七十過ぎの老人のような手だ。
「顔だって、そうよ。化粧で誤魔化しているけど・・・」
「だから、隠していたのか」
「このところ、だんだんひどくなっているの。どんどん歳をとっているみたい」
 そう言うと、京子は寂しそうに笑った。
「生きていれば、わたしはもう百十一歳なのよね」
「そんなことはない。神田明神で出会ってから、まだ一年も経ってない」
「世界って、どこかで辻褄を合わせようとするんじゃないかしら。だから、もう限界」
「ダメだ。行くな」
「でも、戻らないと、このままお婆ちゃんになって、早く死んでしまうのよ」
「それでも、ここにいてくれ。僕は最後まで一緒にいたいんだ」
「我儘ね」
 京子は今度は明るく笑った。
「さようなら・・・そして、ありがとう」
 周りには白い霧が立ち込め、吾朗の耳にも祭囃子が聞こえてきた。
 京子は少しずつ後ずさりして、向きを変えると祭囃子の聞こえる方に歩き出した。
「待て。僕も、一緒に行く」
 吾朗は追いかけた。空気が肌にピリピリとしてきて、激しい振動も伝わってきた。
「あなたは、ダメ。ここで生きて」
 吾朗はまだ起きかけようとすると、熱風は襲い、激しい地響きに足を取られた。
「わたしは、もうこの世にいないのよ」
 炎と煙の向こうから、京子の声が聞こえた。同時に、爆発音が聞こえたような気がした。
 それが、最後だった。
 吾朗はどうしようもない虚しさと哀しさに襲われた。
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